第11代垂仁天皇

 垂仁天皇の在位期間

 垂仁天皇在位期の年表

西暦 和暦 中国干支 半年一年干支 換算干支 日本書紀 推定修正 半島暦 朝鮮半島 中国
271 崇神54 55 辛卯 丁丑 戊寅 壬戌 癸亥 197
272 56 57 壬辰 己卯 庚辰 甲子 乙丑 199
273 58 59 癸巳 辛巳 壬午 丙寅 丁卯 201 伽耶が和を乞う(新羅本紀)
274 60 61 甲午 癸未 甲申 戊辰 己巳 出雲振根の乱(60年) 203 新羅の腰車城を攻め落とした。(百済本紀、肖古王39年)
275 62 63 乙未 乙酉 丙戌 庚午 辛未 池や溝を掘る(62年) 205
276 64 65 丙申 丁亥 戊子 壬申 癸酉 任耶国朝貢してくる(65年) 207 倭人が侵入(新羅本紀)
277 66 67 丁酉 己丑 庚寅 甲戌 乙亥 209 浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)に攻め込まれた加羅(金官伽耶)が新羅に対して救援を求めてきたので、太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出した(新羅本紀)
278 68 垂仁1 戊戌 辛卯 壬辰 丙子 丁丑 崇神天皇崩(辛卯)
垂仁天皇即位(壬辰)
211 伽耶皇子を人質とする
279 2 3 己亥 癸巳 甲午 戊寅 己卯 赤絹を任那王に送ろうとしたが、新羅がこれを奪う。以降新羅との争いが始まる。(3年) 213 新羅・百済の戦い
280 4 5 庚子 乙未 丙申 庚辰 辛巳 狭穂王の乱(5年) 215 満州の狩猟民族、粛慎が侵攻してきて辺境の住民を殺害したので、西川王は群臣に諮って王弟の達賈を派遣して討伐させた。(高句麗本紀)
281 6 7 辛丑 丁酉 戊戌 壬午 癸未 217
282 8 9 壬寅 己亥 庚子 甲申 乙酉 219
283 10 11 癸卯 辛丑 壬寅 丙戌 丁亥 221 新羅・百済の戦い
284 12 13 甲辰 癸卯 甲辰 戊子 己丑 223 新羅・百済の戦い
285 14 15 乙巳 乙巳 丙午 庚寅 辛卯 皇后決定(15年) 225
286 16 17 丙午 丁未 戊申 壬辰 癸巳 227 西川王の弟の逸友・素勃らが謀反を企てたので、誅した。(高句麗本紀) 慕容カイは遼東を侵略する。
287 18 19 丁未 己酉 庚戌 甲午 乙未 229 第11代新羅王助賁即位
288 20 21 戊申 辛亥 壬子 丙申 丁酉 日本武尊生誕(壬子)
倭国軍は新羅国の中まで押し寄せた。新羅王宇留助富利智干(うるそほりちかん=干老)は、以降朝貢すると答えた。(神功紀)
231 干老は大将軍となり、甘文国(慶尚北道金泉市)の討伐を行い領地を併せた。(前半)
夏四月に倭人が金城を包囲。(新羅本紀・後半)
289 22 23 己酉 癸丑 甲寅 戊戌 己亥 鳥取部定める(23年) 233 五月に倭兵が新羅の東辺を侵し、七月には于老が倭人と沙道(慶尚北道浦項市)で戦い、敵船を焼いて倭人を壊滅させる勝利をあげた(新羅本紀)
第8代百済王古爾即位(百済本紀)
290 24 25 庚戌 乙卯 丙辰 庚子 辛丑 伊勢に天照大神を祀る(25年) 石上神社に宝物を納める(39年) 235 武帝崩、恵、第二代晋皇帝となる。
291 26 27 辛亥 丁巳 戊午 壬寅 癸卯 武器を方々の神社に納める(27年) 物部連が石上神社の神宝を治める(87年) 237
292 28 29 壬子 己未 庚申 甲辰 乙巳 殉死の禁止(28年) 天日槍命のひ孫清彦八坂瓊勾玉を献上(88年) 239 第14代高句麗王烽上即位(高句麗本紀)
293 30 31 癸丑 辛酉 壬戌 丙午 丁未 田道間守を常世国に派遣(90年) 241 鮮卑族慕容部の慕容?、高句麗を攻めるも撃退される。(高句麗本紀)
294 32 33 甲寅 癸亥 甲子 戊申 己酉 埴輪の考案(32年) 243
295 34 35 乙卯 乙丑 丙寅 庚戌 辛亥 山城巡回(34年)
池を作る(35年)
245
296 36 37 丙辰 丁卯 戊辰 壬子 癸丑 大足彦命を皇太子と決定(37年) 247 慕容カイ、再び高句麗を攻撃するも、再び撃退される。(高句麗本紀)
第12代新羅王沾解即位
297 38 39 丁巳 己巳 庚午 甲寅 乙卯 田道間守常世国から帰還(99年)
垂仁天皇崩(99年)(庚午)
249 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。(新羅本紀)
298 景行1 2 戊午 辛未 壬申 丙辰 丁巳 景行天皇即位(辛未) 251

 第11代垂仁天皇の治世は99年である。非常に長い治世である。当時は干支で出来事を記録していたようで、同じ干支で別の年に記録されている例が日本書紀にはいくつかある。神功皇后関連記事の多くは120年遡らせている。このことは、崇神天皇から仲哀天皇までに干支2回り分追加されていることを意味している。垂仁天皇の記事は39年までが多く、それ以降は少ない。これは、実際の垂仁天皇の在位は39年でその後の60年は干支1回り分追加されていることを意味している。

 日本書紀によると垂仁天皇元年は壬辰である。これは半年1年暦で修正すると、278年後半となる。39年より後の年を同じ干支の年として60年遡らせると、内容がよく似ていることに気づく。垂仁25年~27年に敬神関連記事が並んでいるが60年後の垂仁87年、88年も同様の記事である。

 垂仁天皇の在位はAD278年後半からAD298年後半までの20年間と考えられる。

 新羅、金官加耶国に手を出す

 AD272年金官加耶国首露王が死去した。享年79歳(現年齢)であった。首露王は生まれながらにして国王であり、金官加耶国をまとめていたのでカリスマ性も強く、伽耶諸国が彼を中心としてまとまっていた。しかし、彼が亡くなることによって伽耶諸国が分裂を始めたのである。おそらく第二代居登王が即位するのに他の伽耶諸国が反対したのではあるまいか。

 新羅本紀によるとAD273年(奈解王6年)「伽耶が和を乞うた」と記録されている。他の伽耶諸国から総すかんを食った金官加耶国第二代居登王が新羅に救援を求めたのであろう。

 新羅国と金官加耶国が協調体制になったために、AD276年後半(崇神65年)他の伽耶諸国の王が連盟して朝廷に援助を要請した。早速朝廷では新羅国に侵入し金官加耶国と協調しないように要請したのであろう。

 AD277年(奈解王14年・崇神66年)、金官加耶国が朝廷の指示に従わず新羅と協調関係にあることに我慢が出来なくなった浦上八国(慶尚南道南西域の伽耶諸国)は金官加耶国に攻め込んだ。金官伽耶国は新羅に対して救援を求めた。新羅では太子の位にあった昔于老が、伊伐の利音とともに加羅の救援にいき、浦上八国の将軍を討って捕虜六千を救出した。

 AD278年(崇神68年)崇神天皇が崩御し、第11代垂仁天皇が即位した。天皇の代替わりにより、大和朝廷の金官加耶国に対する対する圧力が強くなると思った新羅国は金官加耶国を引きとめようと、金官加耶国に人質を差し出すように要求した。伽耶国はいわれるままに皇子を人質に差し出した。

 金官加耶国の動きに危機感を持った伽耶国の皇子都怒我阿羅斯等は、船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着。AD279年(垂仁3年)、垂仁天皇は赤絹と共に任那王を牽制しようと使者を送ったが、その情報を得て金官加耶国と朝廷の仲たがいを願っている新羅がこれを奪った。

 この情報を得た垂仁天皇は怒り、以降新羅に対して直接攻撃が始まるのである。

 倭、新羅に攻め込む

 おそらく、この後数年間、金官加耶国は新羅に支配された状況が続いたのであろう。垂仁天皇も新羅と交渉し金官加耶国を返すように交渉していたのであろうが、新羅は返さなかった。

 新羅は、金官加耶国を返すどころか、逆に同じく伽耶諸国に属する甘文国(慶尚北道金泉市)を288年(垂仁20年)に併合してしまったのである。新羅と交渉したのでは解決にならないと思った垂仁天皇は倭国軍を新羅に派遣することを決意した。

 垂仁21年(288年後半)、垂仁天皇は倭国軍を新羅に派遣した。倭国軍は新羅国奥深くまで侵入し、遂に首都の金城を包囲したのである。この進撃で、新羅は金官加耶国、甘文国の支配を解くことを約束し、以降倭国に対して朝貢することを約束したので倭国軍は退却したのであろう。

 日本書紀神功紀に記録されている新羅王宇留助富利智干(うるそほりちかん)はこの時の新羅の将軍干老と思われる。干老は新羅王ではないが、287年に奈解尼師今が死去したときに于老は太子の位にあったが王位を継がず、従兄にあたる助賁が第11代新羅王として即位しているので、新羅王と間違えられても不思議はない程の人物である。
 日本書紀の神功紀の記事は垂仁天皇の時代の出来事に該当している。この時の新羅侵攻を神功紀に記録したものであろう。

 しかしながら、新羅はその約束を実行しなかったので次の垂仁22年(289年)に再び倭国軍を派遣し、今度は東側の浦項市周辺に上陸し、そこで、干老軍と戦ったのである。新羅本紀では倭国軍が破れたことになっているが後の時代の出来事から判断して事実は逆であろう。新羅はこの年以降倭に朝貢することになったのである。倭は再び伽耶諸国の支配権を確保した。

 祭祀

 新羅との戦いが終わった垂仁天皇25年(290年)、豊鍬入姫が祭っていた天照大神を、倭姫に託した。倭姫は大神が鎮座するところを探して、宇陀→近江→美濃→伊勢と変遷し、最終的に伊勢国に落ち着いた。今の伊勢神宮である。

 第10代崇神天皇の時代に、神を祀った以降、世の中が落ち着いてきたが、垂仁天皇はこの時までに祭祀を強く行ってはいなかった。垂仁天皇は、朝鮮半島において新羅に付け込まれたのは、神を祀っていなかったからだと思ったのであろう。 日本書紀ではこれ以降祭祀関連の記事が続くことになる。

日本書紀 垂仁26年の記事

 出雲にたびたび使者を遣わして神宝のことを検めさせていたが判然としないため、物部十千根大連を遣わす。十千根大連はよく調べてはっきりと報告したため、神宝のことを掌らされることになった。

ここの登場する物部十千根大連は垂仁天皇と同世代と考えられるので、垂仁天皇時代の記事であろう。崇神60年に出雲神宝の検校を行っているが垂仁26年でも同じように検校を行っている。朝廷では鏡作りの青銅が不足しており、出雲にさらに隠されている青銅器を没収しようと調べさせたのであろう。この時もいくらかの青銅器を没収したものと考えられる。

 太道間守の常世国訪問

 太道間守の系図


                              ┏━成務天皇
           ┏崇神天皇━━━垂仁天皇━━景行天皇━┫
           ┃                  ┗━日本武尊━━仲哀天皇┓
孝元天皇━開化天皇━━┫                              ┃
           ┗日子坐王━━大筒木真若王━迦邇米雷王━息長宿禰王━┓    ┣応神天皇
                                     ┣神功皇后┛
                      ┏━多遅摩比多訶━葛城高額媛━┛
天日槍命━但馬諸助━━但馬日楢杵━━━━清彦┫
                      ┗━多遅摩毛理(太道間守)

 系図をみると太道間守は景行天皇と同世代とわかる。垂仁天皇の末期は太道間守の若いころに該当すると思われる。

 天日槍命は第4代新羅王脱解の子である。日本書紀では垂仁天皇3年に来朝したことになっているが、同じ天皇の時代に4世後の太道間守が活躍することはあり得ないので、天日槍命の来朝は同じ干支の別の年となる。垂仁天皇3年は甲午なので、開化天皇11年(218年後半)が該当する。

 太道間守は垂仁90年に(293年)常世国に渡り、垂仁99年(297年)、垂仁天皇崩御直後に柑橘類の橘を持ちかえっている。常世国はどこであろうか。

 垂仁天皇は太道間守を常世国に派遣した直後より、「垂仁32年(294年前半)埴輪を作る。垂仁34年(295年前半)山城国巡回、垂仁35年(295年後半)各地に池や溝を800程作る。」など、農業に関する技術開発に専念している。この頃垂仁天皇は技術開発に気持が向いていたようで、太道間守の常世国派遣は先進技術を学びに行ったものと解釈できる。

 この当時農業先進技術を学ぶとなれば、中国の晋であろう。常世国は晋と解釈できる。

 垂仁天皇は垂仁25年~29年にかけて神を祀った後、民を安らかにさせるための農業技術の振興に尽力するようになっている。当時の中国晋に農業技術を学びに太道間守を派遣し、国内では池や溝を数多く作らせているのである。この施策によって民は安らかになったのである。しかしながら太道間守の帰還は垂仁天皇の在世中には叶わなかったのである。

 石上神宮神宝奉納について

 このように垂仁天皇の在世中は垂仁39年より後を同じ干支の60年前の記事とするときれいに、3期に分かれる。

 第一期  垂仁元年~23年  新羅との戦いの時期
 第二期  垂仁25年~29年  祭祀に専念する時期
 第三期  垂仁32年~39年  農業技術開発に専念する時期

 この中で、唯一時期が合わないのが垂仁39年の記事である。
五十瓊敷命(景行天皇の兄)は茅渟の菟砥川上宮で、剣千口を造り、石上神宮に納めた。
垂仁87年(27年)にこれを受けて、物部連に石上神宮の神宝を護らせた。

 明らかに垂仁39年の記事は垂仁27年より以前でなければならない。垂仁39年の記事は15年前の垂仁24年の記事と推定する。

 垂仁24年はその前年の垂仁23年に、新羅との戦いが勝利して終わっている。その戦勝を祝った祭祀であるともとれる。垂仁27年に方々の神社に武器を奉納しているので、その最初の事例との考えられ、全体の流れがスムーズにつながるのである。

 垂仁39年の記事を15年遡らせるのは、換算干支によるものである。垂仁39年は換算干支乙卯であり、これと同じ干支となる半年一年暦の干支は垂仁24年である。

 換算干支については景行天皇の条で詳説する。

 垂仁天皇の生誕と享年

 垂仁天皇は日本書紀で享年139歳、古事記で153歳である。60年の加算を除けば、日本書紀で79歳(現年齢40歳))、古事記で93歳(現年齢47歳)となる。生誕念を計算すると、日本書紀で崇神29年(AD258年後半)、古事記で、崇神15年(AD251年後半)である。景行天皇の項で景行天皇生誕を崇神55年としている。景行天皇生誕時の年齢は日本書紀で27歳(現年齢14歳)、古事記で、41歳(現年齢21歳)、日本書紀の年齢は若すぎるようである。日本書紀と古事記の年齢差は14年である。これは換算干支と半年一年干支のずれの15年と一年違いである。垂仁天皇の生誕年も15年ずれがあるのではないかと考えられる。古事記ではそれが、一年ずれて記録されたのではないかと考えられる。

 よって、垂仁天皇の生誕年は崇神14年(AD251年前半)、景行天皇生誕時42歳(現行21歳)、享年94歳(現行47歳)となる。

 

垂仁天皇関連系図
                ┏大禰命
                ┃
饒速日命━宇摩志麻治命━彦湯支命╋出雲醜大臣命  
                ┃        ┏大水口宿禰  ┏━欝色雄命
                ┗出石心大臣命━━┫       ┃              ┏━武渟川別
                         ┗大矢口宿禰━━╋━欝色謎━━┓┏大彦━━━━┫ (東海派遣)
                                 ┃      ┣┫(北陸派遣)┗━御間城姫┓
                                 ┃      ┃┃            ┣━垂仁天皇━┳━━━┓
                                 ┃      ┃┗開化天皇━┳┓┏崇神天皇┛      ┃   ┃
                                 ┃      ┃      ┃┣┫           ┃   ┃
                                 ┃      ┃      ┃┃┗御真津姫       ┣━━━━誉津別命
           ┏神八井耳━━━武宇都彦━━━武速前━━━━━孝元天皇━━┻━━━━━━━━┓           ┃   ┃
           ┃                     ┃             ┃┃┣武埴安彦       ┃   ┣景行天皇
           ┃                     ┃      ┏━伊香色謎━━┻┛           ┃   ┃
       神武天皇┫                     ┗大綜杵命━━┫      ┃      ┏━狭穂姫━━┛   ┃
           ┃                            ┗━伊香色雄 ┃      ┃          ┃
           ┃                                   ┣━━彦坐王━┻━丹波道主━日葉酢姫┛
           ┃                            ┏彦国姥津命 ┃       (丹波派遣)
           ┃           ┏天足彦国押人命━━和邇日子押人命┫      ┃
           ┗綏靖天皇━━孝昭天皇━┫                ┗姥津媛━━━┛
                       ┃
                       ┃                ┏倭迹迹日百襲媛命
                       ┗孝安天皇━━━━━━孝霊天皇━━┫ (卑弥呼)
                                        ┗━━━━━━━━━五十狭芹彦
                                                  (西道派遣)
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