仲哀天皇

 仲哀天皇は壬申に即位している。半年1年暦で328年後半が壬申である。この年に即位したと思われる。

仲哀天皇は即位後、群臣に詔して、「自分はまだ二十歳にならぬとき、父の王はすでになくなっていた。」と言ったと日本書紀に記録されている。仲哀天皇は仲哀9年に52歳(現年齢26歳)で亡くなっている。即位時44歳(現年齢22歳)となり、古代史の復元では景行天皇18年(307年後半)誕生となる。父日本武尊が亡くなったのは景行43年(312年前半)であり、この時10歳(現年齢5歳)であった。古代史の復元における計算通りである。

 仲哀天皇関連地図

 日本書紀の記述(概略)

元年(328年後半) 天皇の異母弟である蒲見別王を殺害。

2年(329年前半) 気長足姫尊を皇后とされた。これより先に大中媛との間に香坂皇子・忍熊皇子を生んだ。
 2月6日、敦賀に笥飯宮を立てて住んだ。その月に淡路屯倉を定めた。
3月15日、天皇は南海道を巡幸した。そのとき皇后を留めて、紀伊国に徳勒津宮に行った。このとき熊襲が叛いたので、天皇はそこで熊襲を討とうとして、船で穴門(山口県)に行った。その日使いを敦賀に送り、皇后に穴門に来るように伝えた。
6月10日、天皇は豊浦津(山口県豊浦)に泊まられた。皇后は敦賀から出発して、渟田門(福井県)に至り、船上で食事をされた。
7月5日、皇后は豊浦津に泊った。
9月、宮室を穴門にたてて住んだ。これを穴門豊浦宮という。

8年(332年前半)1月4日、筑紫に行った。岡県主の先祖の熊鰐が、周芳の沙麼(山口県佐波)の浦にお迎えした。
 海路の案内をして、山鹿岬からめぐて岡浦に入った。
 皇后は別の船に乗って、洞海より入ったが、潮がひいて動くことができなかった。熊鰐は洞海から皇后をお迎えしようとしたが、潮が満ちて岡津に泊った。
 筑紫の伊都県主の先祖、五十迹手が、穴門の引島(彦島)に迎えた。
21日、儺県におつきになり、橿日宮(香椎宮)に居られた。
熊襲を討たれたが、勝てないで帰った。

9年(332年後半)2月5日、天皇は急に病気になり、翌日はもう亡くなった。時に、年五十二。すなわち、神のお言葉を採用しなかったので早く亡くなったことがうかがわれる。

 神社伝承による解明

 仲哀天皇の業績を伝える神社は次の通り(平成祭データより)

 1 即位時

高穴穂神社 大津市穴太1丁目3-1 第12代景行天皇が、晩年(即位58年の春)はじめてこの地に遷都遊ばされ、第13代成務天皇を経て、第14代仲哀天皇に至る3代76年間のわたって皇居のあった、きわめて深い由緒と古い歴史のある聖地であります。
高座神社 氷上郡青垣町東芦田2283 仲哀天皇穴門行幸の前年民の疾苦を憐み式内大臣を隨へ當國巡狩の際當地に滞留せられ當社を創立せられ高座神社と稱し給ふ
気比神宮 福井県敦賀市曙町 笥飯宮跡として伝えられている。

 仲哀天皇は328年後半に即位し、現在の大津市の高穴穂神社の地を宮として暫らく生活されていたようである。そして、この年、周辺を巡幸していたと思われる。次の年329年前半に現在の気比神宮の地に笥飯宮を立てている。

 2 南海道巡幸時

飯積神社 西条市下島山甲1883 第十四代仲哀天皇とその皇后神功皇后とが、この岡に留られ、櫟で笏をお作りになったと伝えられている。
護運玉甲々賀益八幡神社 東予市上市甲460 仲哀天皇、神功皇后、紀伊国より南海道に巡行のとき行宮をこの地に作り給いし夜、夢裏の示現により天皇この山に登り、諸神をれいてんした。
喜佐波神社 坂出市王越町木沢1621 仲哀天皇が神功皇后と共に征西の途中この木沢の浦に軍船を泊し、現在の地に至って天神地祗を祀り、殊に天照大神を招請し賊徒征服海上平安を祈られた。
豊浦神社 北牟婁郡紀伊長島町三浦1 仲哀帝は、英雄日本武尊の御子ながら、御性質頗る優しい方であらせられた。政治を神功皇后に委ねられ、近臣を伴い南海巡幸の旅に出られた。(六国史)その際我が浦にも立寄られ、素晴らしい風光と、敦厚な民情を喜ばれ、暫く滞留されたと先人の謂い伝えてきたところである。豊浦の地名も、仲哀帝が行宮を置かれた周防豊浦にちなみ、命名されたと謂う。九州熊曽の反乱に際し、神功皇后と共に征戦された仲哀帝は、戦いの最中に崩御された。
泉井上神社 和泉市府中町6-2-38 神功皇后は仲哀天皇の御即位2年(200)4月に行啓なさった時に急に泉ができ清い水がこんこんと湧き出したので瑞祥として喜ばれ、この水を霊泉といい、宮としておまつりなさいました。
徳勒津之宮址 和歌山県四箇郷荘新在家 徳勒津の官であろうという。

 329年前半に笥飯宮を立ち、南海道巡幸に出発した。和泉より瀬戸内海沿岸を伊予国まで進み、戻ってきた。その後、皇后は笥飯宮に戻り、天皇は伊勢湾岸を巡幸後、紀ノ川河口付近に徳勒津官を立て住んだ。

 この時、熊襲が叛いたとの情報が入り、穴門(下関)に下向することになった。

 3 穴門下向時

平原八幡宮 宇部市大字際波1757 仲哀天皇、筑紫に熊襲征伐のため御船にて行幸なし給いしに、西風烈しく吹きて、御船豊浦の津に到り難く、此所に繋船し、三筒男神を祀り、順風を祈り給うに、俄に順風に変りければ、天皇曰く「はや波は和波になりて来るぞ。」と歓び給いしより、此所を来和波という。関係地名、洗川(垢離をなし給う所)、岸の旗(供奉の御船の旗などを建て並べし所)、鏡ヶ窪(鏡を磨き清め給いし所)。
松郷八幡宮 宇部市大字東須恵1206 仲哀天皇が、三韓征伐のためご西下の際、穴門国(長門国厚狭郡)で伐採材木で軍船を整え、御神託によって住吉大神を祀り、海上平安を祈って幣を残して去られた。里の人々はこれを敬い祠を建てて幣を納めて奉斎した。その所が東須恵岡の原(厚南区岡田屋)である。
阿内八幡宮 下関市大字阿内字宮添 仲哀天皇の禊の地としての伝説あり
忌宮神社 下関市長府宮ノ内町1-18 第十四代仲哀天皇が九州の熊襲(くまそ)ご平定のためご西下、穴門(長門)豊浦宮(とよらのみや)を興して7年間政務をとられた旧趾
「祭礼数方庭の起源」
 第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪(じんりん)が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。
佐波神社 防府市惣社町6-2  第十四代仲哀天皇の御代筑紫の熊襲反して貢奉らず八年春正月天皇自ら熊襲を征めんとして筑紫に行幸の時に岡の縣主祖熊鰐此由を聞きて当国佐波浦(今の惣社町)に参迎して帰順の印に参種の宝物又魚塩地を献る。是を以て天皇謂わく是れ賊を平定の吉祥なりと此所に天照皇大神を主神とし祀る。
劔神社 防府市大字高井1154-1 4世紀頃、九州の熊襲という豪族が、大和にあった朝廷にそむきました。仲哀天皇は、これを治めるために九州へくだられる途中、この右田の地に立ち寄られ、「八握の剣」という立派な剣を神の霊として、八岐大蛇を退治された武勇の神と敬まわれている「すさのうのみこと」を祀り、戦いに勝つようにお祈りされた

 仲哀天皇は防府・宇部に寄りながら下関につき、豊浦宮を造り、そこを本拠地とし、7年間ここに住んでいたようである。

熊襲とは何者か

 仲哀天皇関連記事の中には熊襲が何者かが記録されていないが、仲哀天皇崩御後神功皇后が仇打ちをしている。その相手が羽白熊鷲と田油津媛である。羽白熊鷲は福岡県小郡市周辺で仲哀天皇を殺害し、福岡県朝倉市周辺で神功皇后と戦って敗れているので福岡県朝倉市一帯を支配していた豪族と思われる。一方田油津媛は福岡県みやま市周辺で神功皇后と戦っているが、その背後に兄がいたようであり、田油津媛の敗戦を知って逃げている。田油津媛の本拠地はみやま市の南側となる。そこには球磨国の本拠地と考えられる熊本県菊池市(茂賀の浦)がある。

 また、熊本県八代市の印鑰神社には仲哀天皇の時代、武内宿禰の第三子である石川宿禰がこの地で賊を平定中に戦死したと伝えられている。仲哀天皇の在世中の出来事のようであり、熊襲の勢力がこの地にもあったことを意味している。

 熊襲の本拠地の反対側に石川宿禰が進出していることは仲哀天皇の戦略ではあるまいか。仲哀天皇は熊襲の本拠地を孤立させて平定するつもりであったのであろう。

 これらの伝承を総合して判断すると、新羅の友好国である球磨国が新羅の援護を受けて朝倉の羽白熊鷲を味方につけ朝廷には向かったということが考えられる。

熊襲謀反の理由

 球磨国は卑弥呼の時代、景行天皇の時代に平定されている。大和朝廷への反抗は3度目である。熊襲はなぜ、この時代に謀反したのであろうか。

 この地域(筑紫国)は、成務天皇の時代に国造が任命されている。初代国造は大彦命の五世孫である日道命である。筑紫国は朝鮮半島の玄関口であり、倭国からの独立を狙っている新羅にとっても重要な地域である。その役所はおそらく大宰府であろう。仲哀天皇自身が訪れるということは国造では処理できない程の謀叛だったことを意味している。

 伝承にある通りその背後には新羅がいたと思われる。新羅は大和朝廷から独立したいという気持ちを強く持っていた。しかし、歴代の天皇はそれを許さなかったのである。そのために、何か事あるごとに裏工作を仕掛けて朝廷を混乱させようとしていた。

 景行天皇以降朝廷が地方統治を強化し、朝廷の意向に沿った国造が任命されるようになり、新羅としては、地方豪族を味方につけて朝廷を混乱させるという手法が使いにくくなってきた。

 筑紫国に国造が任命されたのが成務天皇の時代であり、国造の日道命は着任後数年と立っていない時期であったと思われる。肥後国には崇神朝に国造が任命されている。国庁は熊本市国府2丁目周辺と考えられる。球磨国への牽制のためであろう。

 景行天皇以降の天皇が国造に朝廷関係の人物を任命するようになってしまえば、倭国が一枚岩になってしまい、新羅の得意な策略がやりにくくなる。体制ができる前に、妨害工作を行おうと策略を練ったのではあるまいか。

 筑紫国に国造が任命されたことに不満を持っていたのが羽白熊鷲ではあるまいか。羽白熊鷲は筑後平野一帯を支配していたようで、国造として日道命が任命されるまで、筑紫国の国造であったのではあるまいか。羽白熊鷲は自らが国造からはずされたのを恨んでいた。そこへ、新羅と球磨国から誘惑があり、彼らの同調して朝廷に対して反逆をすることになったのであろう。 仲哀天皇はその情報を得て、これら豪族と話し合うために長門の豊浦宮にやってきたのである。

 この7年間はおそらく、この地を拠点として新羅や熊襲と交渉をしていたと思われる。即位後から地方巡幸を繰り返しており、紀伊長嶋の豊浦神社に「仲哀帝は、英雄日本武尊の御子ながら、御性質頗る優しい方であらせられた。」と記録されているように、やさしい性格の人だったと思われる。熊襲征伐の伝承から性格が激しいと思われがちであるが、この点を踏まえないと仲哀天皇の事績の復元はできない。

 豊浦宮に7年間も滞在していたのは、新羅や熊襲と交渉をしていたのではあるまいか。しかし、交渉はなかなか進展せず、仲哀7年(331年後半)、熊襲は協力関係にあった新羅の協力を得て、豊浦宮の仲哀天皇を襲ったのであろう。新羅が海を渡って直接豊浦宮に軍を送るとは考えにくく、新羅から派遣された将軍の指示のもと熊襲が行動を起こしたものであろう。苦戦の末に平定した。仲哀天皇はこれを機に話し合いでは解決しないと思ったのであろう。

 早速宇部の松郷八幡宮の地に赴き、そこの木材を使って軍船を作らせた。同時に防府や佐波を訪問し神を祀り戦勝祈願をした。そして、下関の阿内神社の地で禊をして筑紫に出港することになった。

 ここで、神功皇后と意見の相違があったようである。神功皇后は、仲哀7年の豊浦宮襲撃は新羅国が背後にいるので新羅を征伐する必要があるという主張をしたが、仲哀天皇は熊襲を平定してしまえば新羅は何もできないので、熊襲を抑えるべきだと主張した。

 結局、仲哀天皇の主張が優先され、岡の県主熊鰐の案内のもと、防府の佐波を出港した。皇后は北九州の洞海湾に進み、天皇は彦島に迎えに来た五十迹手の案内で、那の津の香椎宮の地に拠点を作った。

 4 九州上陸後

高倉神社 遠賀郡岡垣町大字高倉1113 仲哀天皇が九州に行幸されたとき、岡の県主熊鰐は九寿の船をしつらえ周防国沙沙磨の浦までお出迎えをし、海路を導き山鹿岬より岡浦に入る。ところが水門に着くと御船は一歩も進まなくなる。「この浦の先に男女二柱の神、男神を大倉主命、女神をウブラヒメ命に挨拶をされるよう」熊鰐が進言する。そこで天皇は大和の国ウ田の伊賀彦を祝部にして祈願をされたら御船は進むことができた。仲哀天皇がなくなられて後は神功皇后が代わって采配をふるわれたが、西征に当たっては各所で祈願をされた。それで各所で神異があり神助も深く無事凱旋されたので、皇后は摂政の2年勅を下してこの高倉にも神社を建て祭りをされた。
埴生神社 中間市大字垣生字八広426 仲哀天皇神功皇后の旧跡にて往古よりの鎮座である。古、仲哀天皇神功皇后岡の湊より遷幸の時、船の着きし所を船津という。神功皇后この所に船魂の神を祭り給はり、古くは2月8月この船津の頓宮に本社八幡宮(埴生神社)より御神幸があっていた。
若松恵比須神社 北九州市若松区浜町1-2-37 仲哀天皇の熊襲親征に従われて、この地に皇后が行啓された折、お出迎えした岡県主熊鰐が「天皇は外海をお進み下さい、皇后は波静かな内海をお進み下さい」と奏上したことを受けられ、皇后のお船が内海の洞海湾を進まれた時、随行の武内宿禰が漁夫に命じ海底を調べさせたところ、漁夫は海底からいとも清らかに神々しく光り輝く玉の石を抱きあげて来ました。この石こそ海神が皇后の聖旅を守られるみしるしの霊石であると畏み勅命を奉じて波がきらめき鳥が遊ぶ白砂青松の海辺にいつきまった祠が当神社のご鎮座のはじめである。

 仲哀天皇は筑紫上陸後暫らくして急死するのである。

 仲哀天皇崩御

 この当時朝廷が任命した国造が支配していた地は、福岡県大宰府一帯、熊本市周辺、阿蘇盆地一帯、天草・島原一帯である。逆に考えると、熊襲勢力の支配領域が筑後川流域(羽白熊鷲)、菊池川流域(球磨国・田油津媛兄)、八代平野一帯となる。

 仲哀8年1月21日香椎宮の地に着いた。仲哀天皇は最初は交渉を行ったと思われるが、熊襲は朝廷に服さず、球磨国へ攻撃を仕掛けたることとなった。しかし、球磨国の勢力は強く、勝てずに引き返した。 

 この時、石川宿禰を八代平野の熊襲平定に向けたが、石川宿禰はその地で戦死してしまった。

 翌仲哀9年2月、体制を整えて再び熊襲に赴いた。国庁のあった大宰府を抜け、筑後川流域に出たところで羽白熊鷲の軍の待ち伏せにあった。2月5日宝満川を挟んで矢の射掛けあいとなり、羽白熊鷲軍の射た矢が、仲哀天皇自身に命中した。翌日仲哀天皇はその矢傷がもとで崩御したのである。

 朝廷軍は仲哀天皇の崩御を伏して、仲哀天皇の遺骸を香椎宮まで戻した。

 仲哀天皇は九州での戦いに敗戦続きである。朝廷の大軍を向ければすぐに平定できたと思われるが、どうして敗戦続きとなるのであろうか。仲哀天皇の死後神功皇后があっさりと平定しているので、熊襲がそこまで強かったとは思われない。

 仲哀天皇は戦いに赴いたのではなく、直接交渉に出向いたのではないかと考えている。仲哀天皇はやさしい性格であり、熊襲も使者を送るのではなく天皇自身が直接話し合えば、必ず朝廷に従ってくれると思いこんでいたのではないだろうか。そのために護衛の戦力をほとんど引き連れず、熊襲の本拠地に向かったのではないかと考えられる。

 そのような状態だったので羽白熊鷲軍も追い返すつもりで矢を射たのではあるまいか。それが運悪く、仲哀天皇に命中してしまったのであろう。 

 おそらく八代で石川宿禰が戦死したのも同様な状況ではあるまいか。

                        ┏御鋤友耳建彦━━吉備武彦
孝霊天皇━━━━━━━五十狭芹彦━━稚武吉備津彦┫
                        ┗伊那毘若郎女┓
                               ┣彦人大兄命━━━大中姫━━┓
                               ┃             ┃┏香坂皇子
                               ┃┏成務天皇        ┣┫
           ┏崇神天皇━━垂仁天皇━━━━景行天皇━┻┫            ┃┗忍熊皇子
孝元天皇━開化天皇━━┫                    ┗日本武尊━━━仲哀天皇━┫
           ┃                                 ┣━応神天皇
           ┗日子坐王━━大筒木真若王━━迦邇米雷王━━息長宿禰王━┓     ┃
                                       ┣神功皇后━┛   
新羅王                      ┏多遅摩比多訶━葛城高額媛━┛
脱解━━━天日槍命━━━但馬諸助━━但馬日楢杵━━┫
                         ┗多遅摩毛理(太道間守)
                     

 

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