応神天皇即位

 高句麗の圧力

 346年倭軍初の大規模海外遠征はほとんど戦わず、目的を達し帰還した。暫くは、新羅も要求を受け入れ、伽耶諸国には手を出さなかったようである。ところが、中国大陸の情勢がその状況に変動をもたらせたのである。

 339年前燕が勢力を強め、後趙の所有していた遼東を奪取し、高句麗に侵略してきた。高句麗は前燕に敗北し343年前燕の属国になった。しかし、351年長安を首都とした前秦が勢力を強め前燕を西から圧迫するようになった。前燕は前秦と対抗するため兵力を西に向けたため、遼東付近を統治するのが難しくなってきた。

 そこで、355年、高句麗王を征東将軍・営州刺史・楽浪公に冊封したのである。形の上では前燕に認められたことになっているが、実質は前燕の遼東放棄であり、以降は高句麗が自由にできるようになったのである。

 前燕から自由の身になった高句麗は早速、恨み重なる百済に対して圧力をかけてきた。その様子を見ていた新羅は、高句麗の力を利用して倭・百済両国を弱体化させようと図ってきたのである。新羅は高句麗の援助を受けて勢力を拡大し、再び伽耶諸国に対して手を出し始めたと思われる。360年頃のことである。

 神功皇后としては、この状態を見過ごすこともできず、新羅に対して約束を守るように要請したが、当然のごとく新羅は聞かなかった。再び倭軍を集めて戦う必要があるが、今度は背後に高句麗が存在しており、以前のように簡単に戦える状態ではなかった。

 倭国軍第二次新羅遠征

 新羅本紀364年の記事

夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。

 しかし、新羅をそのままにしておくと、伽耶諸国に侵入され、倭国は朝鮮半島の足掛かりを失ってしまう。これは避けたいと思った神功皇后は第二次新羅遠征をおこなう決心をした。363年頃のことであろう。

 大軍を集結させた倭国軍は364年、第一次遠征の時とほぼ同様の経路で、新羅を襲撃した。今度は新羅の戦い方も具体的であり、倭国軍はかなり苦戦したと思われる。しかし、この後、新羅が倭に対して朝貢するようになっていることから、この戦いも倭国軍の勝利であると判断する。

 倭国軍は苦戦しながらも勝利を得ることができ、新羅に伽耶諸国に手を出さないことと、倭国に対して貢物を送ることを承諾させたようである。

 この時、倭国軍を指揮したのは神功皇后ではなく、誉田別命ではないかと思われる。新羅は高句麗の支援のもと、第一次遠征の時よりも明らかに強くなっていた。前回よりも苦戦が予想されたため、八幡神の生まれ変わりと人々が信じている誉田別命の方が軍卒がまとまりやすく、誉田別命も有能な人物に育っていたので神功皇后も安心して任せたものと考えられる。この時、誉田別命は現年齢計算で31歳であった。

 神功皇后の予想通り誉田別命の指揮のもと、全軍卒が気持ちを一つにして戦ったのである。それが勝利につながったものと考える。

 忍熊天皇の危惧

 誉田別命の活躍は忍熊天皇にしてみれば、自分の地位を危うくする者に移ったのであろう。戦いに勝利することはその指揮官の人気を押し上げるのである。人々の誉田別命に対する信仰心は相当高いものとなった。

 これに対して忍熊天皇は大和からほとんど出たことなく、対外政策は神功皇后及び誉田別命がほとんど独占していた。何れ、自分の地位が危うくなるかもしれないと思っても無理がない面があった。

 神功皇后としても、ほとんど無名の忍熊天皇よりも人気のある誉田別命が天皇になって指揮してくれた方が、倭国は一つになりやすくて対外政策も成功するはずだと考えていたことであろう。

 しかしながら、忍熊天皇は誉田別命や神功皇后を亡きものにする程の気持はなかったと思われる。それは日本書紀の以下の記事から類推できる。

 建振熊命は
「神功皇后は、すでに亡くなりました。これ以上、戦う理由はありません」
 と言い、すぐに弓のツルを切り、降伏した。すると伊佐比宿禰はその嘘を信じて、同様に弓のツルを外し、武器を収めた。この機を逃さず、神功皇后の軍勢は、髪を束ねていた紐を弓に張って、戦闘を再開し、忍熊王の軍勢を追撃した。

 この記事は、誉田別命を殺害する意思はなく、本気で戦う気も弱かったことを意味している。おそらく、忍熊天皇の反乱ではなく、神功皇后の計略ではないかと思える。

 神功皇后は誉田別命を天皇にしたいと思っていたのは事実であろう。しかし、忍熊天皇が健在である以上それは叶わない夢である。誉田別命が忍熊天皇を押しのけて天皇に即位したのでは、人民の気持ちが離れてしまう。最も神功皇后の思い通りになるのは、忍熊天皇の方から仕掛けてくれることである。忍熊天皇が仕掛けてきても忍熊天皇を殺害したのでは、やはりまずい。最もよいのは忍熊天皇が自殺してくれることである。日本書紀の記述はまさにその通りになっており、神功皇后にとってはこれ以上ない成り行きである。このようなことから忍熊王の反乱は神功皇后の計略と考えるのであるが、証拠はない。

 忍熊天皇の反乱

 誉田別命が新羅から凱旋してきた時、神功皇后は香椎宮にいたと思われる。神功皇后は、おそらく、大和に向かってうわさを流したのであろう。「神功皇后が誉田別命を皇位につけるために忍熊天皇の命を狙っている」というような噂である。

 その噂はたちまち忍熊天皇の耳に入った。「最初はそんなばかな」と思って信じなかったと思われるが、神功皇后にとってはあり得ることだと思い、大和に凱旋する神功皇后一行を待ち受けることにした。

 北九州に凱旋した数万の大軍は、北九州の地で解散した。神功皇后に従ったのは、大和から直接率いた軍卒のみであろう。365年頃のことである。

 忍熊天皇は大和に残っている豪族に出陣するように要請し、難波の住吉の地で神功皇后一行を待ち構えた。忍熊天皇は神功皇后の描いた筋書きに乗ってしまったのである。忍熊天皇はあまり有能な人物ではなかったようで、この戦いに関して作戦が穴だらけであった。

 神功皇后自体は誉田別命に最前線で戦わせたくはなかったようである。誉田別命はあくまでシンボル的存在でなければならないので、忍熊天皇がわの軍卒からも恨まれてはいけないのである。そこで、誉田別命は武内宿禰に任せて、彼の生まれ故郷である紀伊国に避難させた。

 神功皇后は忍熊天皇の作戦をよく把握していたと思われる。早速、船団を難波に向かわせ、住吉の地に上陸し、忍熊天皇軍に正面からぶつかった。戦術的にも優れていた神功皇后軍はたちまち忍熊天皇軍を破った。忍熊天皇軍は宇治まで退却した。おそらく淀川沿いに宇治まで退却したのであろう。

 誉田別命和歌山迂回

 誉田別命は紀伊国に迂回したのであるが、忍熊王と結びつく伝承は少ない。忍熊王とは関係がないと思われる伝承が多いのである。この戦いより前の九州遠征の帰りなどに誉田別命が和歌山を訪問した時の伝承が多いのであろうと思われる。

 忍熊王が絡むと思われる伝承を持つ神社は調べた範囲では八幡神社と潮崎本之宮神社のみである。

八幡神社 和歌山市相坂671 神功皇后三韓より御凱旋の際、忍熊王の難をさけ、難波から紀水門(安原付近)に御到着、御子誉田別命(応神天皇)を武内宿称に護らせ、皇后みづからは更に日高郡衣奈まで迂回をして、再び安原の津田浦(小学校付近)に御上陸、頓宮を造られ御滞在なされた跡が当社である。
潮崎本之宮神社 西牟婁郡串本町串本517 神功皇后帰還の折り大和で忍坂王の反乱を知り、皇后は武内大臣に皇子を守護し紀伊に赴いた際、南に漂流し当地に着き、住吉大神を祀ったという。
隅田八幡神社 橋本市隅田町垂井622 神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧蹟
小竹八幡神社 御坊市薗642 神功皇后の小竹宮跡とする伝承がある。

 これを見た神功皇后は紀伊の誉田別命の元に向かい、和歌山市相坂の八幡神社の地で誉田別命・武内宿禰と共に作戦を練った。

皇子は、建振熊命を将軍に任命した。
戦いは皇太子側が優勢で、戦闘は忍熊王が後退していき、山城まで至ったが、その後、忍熊王は持ち直して、膠着状態となった。<日本書紀>

 誉田別命は建振熊命を将軍に任命した。一行は紀の川を遡り、御所市辺りから大和に入ったと思われる。しかし、大和は空の状態で何の苦もなく、大和に入れた。このあたりも忍熊天皇の作戦の手抜かりである。

 建振熊命は南から宇治の忍熊天皇軍を攻めたてた。建振熊命はおそらく神功皇后より忍熊天皇を殺害しないように厳命されていたと思われる。天皇を殺害すると後がまずいのである。おそらく、自害させるのが作戦だったのであろう。

 建振熊命は退却する忍熊天皇軍を山城まで追いこんだ。

建振熊命は
「神功皇后は、すでに亡くなりました。これ以上、戦う理由はありません」
 と言い、すぐに弓のツルを切り、降伏した。すると伊佐比宿禰はその嘘を信じて、同様に弓のツルを外し、武器を収めた。この機を逃さず、神功皇后の軍勢は、髪を束ねていた紐を弓に張って、戦闘を再開し、忍熊王の軍勢を追撃した。

 戦いは膠着状態になった。このまま全面戦争を行うと忍熊天皇が戦死してしまう危険性が考えられた。そこで、建振熊命は計略を練ったのである。忍熊天皇を追いこんでいるのは神功皇后なので、神功皇后が亡くなってしまえば戦う理由がなくなる。そこで、神功皇后が亡くなったことにして、忍熊天皇軍に降伏した。

 忍熊天皇としても天皇として野心もなく存在できればよいので、簡単にそれを信じて武器を収めてしまったのである。忍熊天皇軍が武器を治めたのをみた神功皇后軍は一挙に忍熊天皇軍を押し切った。武器を治めてしまっては戦うことができずに天皇軍は総崩れになった。

 追い詰められ逃げるところを失った忍熊天皇は瀬田の渡し場から琵琶湖に身を投げて亡くなった。366年のことであろう。

 応神天皇即位

 翌367年、誉田別命は天皇に即位し第15代応神天皇となった。神功47年のことである。

 古墳時代前期から中期への変化

 副葬鏡の変化

 古墳時代前期では,重要視していた三角縁神獣鏡が中期にはいると,ほとんど姿を消し,出土するものでも,踏み返し鏡がほとんどになる。 この変化は4世紀後半頃に起こっている。古墳築造には欠かせない三角縁神獣鏡に,なぜ,このような変化が起こったのであろうか。大和朝廷自 体を揺るがす大変な大事件が起こったとしか考えられない。

 この変化は,古墳時代前期と中期の境にあるようなので,天皇陵の前期古墳と中期古墳の境目を探してみると,神功皇后陵までが前期古墳 と考えられ,次の応神天皇陵から中期古墳である。389年崩御したことになり、神宮皇后陵がその数年後には築かれ、応神天皇は394年崩御であるから、その数年後に応神天皇陵が築かれたことになり、前期古墳と中期古墳の境目は400年ごろと見ることができる。 

 また朝鮮半島南端部には,中期の形式の前方後円墳であるが,前期の円筒埴輪が使われているものが見つかっている。中期古墳は,朝鮮 半島南端部に発生し,日本列島に流れ込んできたもののようである。この時期,神功皇后が朝鮮半島出兵して帰ってきていることから,中期 古墳は神功皇后によってもたらされたものと考えられる。

鏡作り一族の消滅

 神功皇后が忍熊天皇を破った。その結果,忍熊天皇に加担した豪族は処罰を受けることになった。その中に鏡 を作る一族があったため,以前のような鏡を作ることができなくなり,踏み返し鏡などを使うことになったのではないかと想像 する。

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