古墳時代の始まり

古墳の築造

古墳の出現時期

 古墳時代にはいると,いきなり,巨大墳墓が登場している。古墳の中で,最も重要視されているのが前方後円墳である。この古墳は日本独特 のものであり,特別な階層の人物しか埋葬されていないのである。この前方後円墳の謎を解くために, まず,築造開始時期を探ることにする。

 古墳築造開始は,四世紀になってからというのが定説であったが,先年,池上・曽根遺跡で見つかった木の年輪年代測定により、 かなり遡ることが確認された。箸墓の前方部周辺で出土した土器の年代が250 ~260年頃のものと推定されている。また,前方後方墳の中には三世紀の前半に築造されているものもある。三世紀中頃に前方後円墳の築造始ま ったのは間違いなさそうである。

そして,この年は三角縁神獣鏡が作られ出したと考えられる239年に大変近い。また,三角縁神獣鏡は古墳からしか出土せず,その他の鏡を 含めて,古墳の終焉と共に鏡も出土しなくなっている。このことは,古墳と鏡は切っても切れない関係にあることを意味し,三角縁神獣鏡 とほぼ同時に出現したと,とらえることができる。そして,石棺のサイズから,古墳築造もまた,魏からの技術導入である可能性が高い。

労働力の確保 

 次に,古墳築造には人の力が必要である。権力者はどのようにして人集めをしたのであろうか。力により無理矢理働かせるか, 神の力により働かせるかのどちらかであると考えられるが,前後の関係から後者の方であると考えられる。三角縁神獣鏡と同時出現し, 古墳の消滅と共に,鏡も消滅していることから,鏡と古墳との関係が気になる。古墳時代の鏡は鋸歯紋が重要視されていることから, 大物主の神の神威を利用して古墳築造をおこなったと考えられる。地方の有力者は,大物主のシンボルの入った鏡を持つことにより, 神聖化され,その鏡を示して,人を集め,古墳を造った。人々は,三角縁神獣鏡を示されると,大物主の神の命令と解釈し,それを持つ 人物の命により古墳を作ることが,神の加護を得られると信じて,古墳築造に協力した。古墳には,権力者と同時に,鏡も副葬されるため, 古墳自体も神聖化される。そのため古墳のいくつかは神社の中にあることになる。

人々が神の力を信じて古墳築造を行うためには,これ以前に地方まで神の信仰が浸透していなければならず,スサノオ・ 饒速日尊の統一事業にあわせて,初期大和朝廷から派遣された技術者が,技術の伝達と共に,鏡を使った太 陽崇拝の信仰を広めていた結果であると判断する。人々は大和朝廷から派遣された技術で生活が潤い,これが鏡を使った祭礼 によってもたらされたと思い,饒速日尊の鏡信仰が地方まで普及していき,倭の大乱の後それが強化され, 強力なものになったと判断する。その素地があったからこそ,鏡の力で古墳築造することができたのである。その素地がないのに 全国一斉に古墳が広まることは考えられない。

方形周溝墓との関係

朝廷の祭祀者は地方へ派遣され、その死後方形周溝墓に埋葬されたと推定しているが、この方形周溝墓との関係はどうなっているので あろうか。方形周溝墓・円墳・前方後円墳は共に周溝が巡らされており、同じ群集墳を作っている地域もあることから同系統の墳墓と考えられる。 おそらく朝廷の意向により、地方に派遣された祭祀者の墳墓を方形周溝墓から円墳や前方後円墳に変えたものと考えられる。

前方後円墳の形の意味

 前方後円墳の起源を探るために,現在確認されている最も初期の前方後円墳を探してみると,纒向石塚である。その後,いくつか小さい 前方後円墳が造られた後に,巨大な箸墓が造られているのである。纒向石塚を調べてみると次のようなことが分かる。

①前方部が三輪山の方を正確に向いている。

②立春・立冬の日に三輪山山頂から太陽が昇る。

③冬至の日に大神神社の方から太陽が昇る。

④春分・秋分の日に巻向山頂から太陽が昇る。

⑤夏至の日に竜王山山頂から太陽が昇る。

⑥前方部の開き角度(50度)は,立春の日の出のときに、この地点にくる三輪山の影の角度と一致している。

纒向石塚から見た日の出の位置

これらから判断してみると,前方後円墳の前方部は,三輪山を意味していて,立春の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる姿が見えることから, その姿を石塚に重ねると,後円部は太陽,すなわち饒速日尊を表していることになる。つまり,前方後円墳は三 輪山から昇ってくる太陽の姿を現していることになるのである。そして,大物主神は農耕神であり,石塚の周溝から農具が多量に 出土していることから,石塚で大物主の祭礼をしていたことが推定される。古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡が大物主の神を型どったも のであると同時に,前方後円墳も大物主の神を意識しているのである。

この石塚が築造されたのはいつのことであろうか、石塚の周壕から出土したヒノキ材の年輪年代法による年代が195年、また、後円部から出土し た土器は纒向一式で二式や三式はまったく出てこない。土器片は墳丘を築造する際に盛り上げた土の中から千点以上が出土。桜井市教委はこの 土器片を調べた結果、「三世紀第一・四半期(201-225年)の終わりごろ」のものと推定。盛り土に、この時期の土器片が混じっていたことから、 築造時期を「三世紀第一・四半期の終わりごろの直後か同時期」とした。

また同時期に築造されたと推定されているホケノ山古墳の焼けた木棺の炭化部分のサンプルを「C(炭素)14・年代測定法」という方法で分析。 測定の結果、約七割の信頼性がある値として、木棺材の伐採年代は紀元160ー235年となった。

これらより纒向石塚の築造年代は220年頃と推定される。吉備国三輪山の宮山墳丘墓の祭礼により、円形墳を一方向から祭礼する前方後円形の 祭礼施設が良いという流れになっていたが、大和でも本格的に祭礼のシンボル的な巨大墳丘墓を作る必要が出てきた。吉備国でスサノオの魂と 饒速日尊の魂を吹き込んだ特殊器台を使い、大和で最も神聖な三輪山から太陽が昇る姿を墳丘墓の形にして、中国からの歴訪の導入による 一年の始まりである立春の日に祭礼ができるようにその位置に纒向石塚を築造したのであった。

纒向石塚 石塚より見た三輪山

箸墓

次に作られた巨大前方後円墳の箸墓は,倭迹迹日百襲姫の陵墓と伝えられている。平成十年九月の台風7号の強風により、古墳本体部に 植えられた木が倒れ、その整備事業の際に、倒れた木の根元の土から採集された。ほとんどが前方部と後円部の墳頂からの出土だった。

後円部で出土した土器には、「特殊器台」という吉備地方の墳墓に供献された大型の土器が含まれていた。「特殊器台」は弥生時代などで 出土している。

箸墓古墳から出土したものは、最古型式の埴輪に転化する直前のタイプで、奈良県や岡山県の弥生時代終末期とみられる墳墓など数カ所で発 見されているにすぎない。

また、前方部からは、瀬戸内沿岸地方の壷型土器が出土。二重ロ縁壷など多数の埴輪が見つかっている。

出上した土器の年代について、大塚初重・明治大学名誉教授(考古学)は「後円部の特殊器台と前方部の埴輪には、考古学的な時間差があり、 まず後円部で埋葬時に吉備の土器が供献され、五年か十年後、前方部で埴輪を置いて墓前祭のような葬送儀礼が行われていたのではないか。 箸墓古墳に一定の年代幅があったとみられ、箸墓の出現は三世紀半ば頃までさかのぼる可能性がある」としている。

纒向石塚から見た箸墓
   左端に三輪山の裾野が見える

このことより,箸墓は250年から270年頃の築造と考えられる。つまり、卑弥呼の没年である249年の直後である。径百余歩(約 150m)もの大きさを持った墳墓は,この時期としては,九州にも大和にも箸墓以外に存在しない。これほどの規模の墓がまだ発見されていない とは考えにくく,箸墓はまさに卑弥呼の墓である。箸墓の後円部は160m程で大きさは魏誌にある 百余歩とぴったりと一致するのである。

箸墓から吉備系の土器が見つかっていることは、倭迹迹日百襲姫命の弟である大吉備津彦命(卑弥呼の男弟)が彼女の死の直前に吉備国に 派遣されていることから、箸墓築造後の祭礼時に大吉備津彦が吉備国から持ち込んだものと考えられる。

古墳時代に入って,人骨に朱を塗ったものが発掘されているが,これは明らかに死体が白骨化した後に塗ったものである。そして, 古墳を暴いて後から塗った様子がないことから,この時代,統治者が死ぬと殯屋を建てて白骨化させ,その後に古墳に納めたもののようである。 白骨化するまで最低でも3~4年ぐらいはかかるようであるから,このあいだに古墳築造をするはずである。つまり,古墳は死後築造されているの である。卑弥呼の死後,墓が作られたことは魏志倭人伝にも書かれているとおりである。箸墓は巨大墳であるからすぐに作れるはずもなく, さらにピラミッドのような強制労働ではなく,神の力によって民衆が動かされているのであるから,強制労働よりは時間がかかるのではないかと 考えられる。さらに箸墓は他の巨大古墳が丘陵地を利用して築かれているのに対して平地から作り上げられている。かなりの労力が必要であると 思われる。完成まで10年以上はかかったのではないだろうか。

 また,魏の使者張政は250年来日したが,それは卑弥呼が死んだ直後であった。魏志倭人伝を見てみると,卑弥呼の墓を作るとき, 殉葬者のことまで記録されている。普通,殉葬者は墳墓が完成した直後に葬られるものであるから,魏の使者張政は, 古墳の完成時期まで国内に滞在していたことになる。

 魏志倭人伝によると,「壱与は倭の大夫,率善中郎将の掖邪狗等二〇人を使わし,張政等が郡へ還るのを送らせた。ついで, 洛陽の朝廷に参上し,男女生口三〇人を献上し,白珠五千孔,青の大句珠二枚,異文雑錦二〇匹を貢ぎ物とした。」また,晋書「武帝紀」に 「泰始二年(266年),倭人が来て,方物を献じた。」とある。この二つの記録を照合すると,張政は,266年,倭人の使者に送られて帯方郡まで 戻り,倭人の使者はそのまま中国へ朝貢をしたようである。この記録の通りだとすると,張政は250年から 266年まで16年も国内に滞在したことになる。なぜ,こんなに長期間滞在したのだろうか。単なる訪問にしては長すぎると思われ, 長期間滞在の必要があったと考えられる。

 日本側の記録によると,崇神11年多くの外国人がやってきたとある。倭人伝との対応により, この外国人は張政一行のことと思われる。わざわざ日本書紀に記してあることから考えて張政一行は相当な多人数だったと推定される。 朝廷が欲していたのは魏の技術者であるから,この一行には多方面の技術者が含まれていたと考えられる。その中に大型墳墓築造技術者がいたの ではあるまいか。朝廷側としては,偉大な統治者卑弥呼の墳墓を作るのであるから失敗は許されない。しかも,初めての巨大墳墓を作るには 不安が多すぎる。そこで,中国側の技術者の指示を仰いで巨大墳墓築造に踏み切ったのではないだろうか。そうだとすると,墓が完成するまで 日本にいることになり,箸墓の完成は266年頃になる。

 最初の巨大墳であるから,初めての築造計画を立てる必要もあり,この時大和に来ていた魏の使者張政等の意見も聞き,築造を開始した。 また,この古墳に台与が追葬されている可能性がある。 

古墳築造技術の伝世

魏から取り入れた古墳築造技術を使って,石塚や箸墓を造り,その後,本格的な古墳築造を始めたのだろうが,ほぼ同時に全国で造られる ようになっている。その築造技術はどのようにして地方に伝えられたのだろうか。

纒向遺跡には,全国の外来系土器が非常に多い。纒向の外来系土器は大阪の庄内式、三重や愛知などの東海系、 山陰、北陸、山陽、関東、近江、西部瀬戸内、福岡、鹿児島と当時の朝廷の勢力範囲のほぼすべての領域である。そしてその量は 全体の2~3割を占めている。時期は3世紀中頃から後半にかけてである。全国から人々を集めていたらしい。朝廷が全国から呼び寄せたものと 考えられるが、何のために呼び寄せたのであろうか。全国の有力者に箸墓築造の協力をさせると同時に、古墳築造を初めとする各種技術を全国に 伝えるためとは考えられないだろうか。

倭の大乱以前は,地方に有力者がいなかった関係上,朝廷の方から地方に出かけていって技術を伝えていたが,この頃は, 地方に有力者がいるために,その有力者を呼び寄せ,これらの人々を,纒向の地に10年程度住まわせ,新農業技術や, 古墳築造技術を伝えたものと考える。

 ところで,文字がなかったこの頃,どのようにして,このような技術を次に世代に伝えていったのだろうか。崇神天皇の時代になって, 租税・古墳・鏡など文字がないと伝えるのが難しい高度な技術が多くなってきている。さらに,古墳は古事記・日本書紀が編纂される頃まで 築造されていたが,その技術的なことは全く記されていないのである。このようなことから,この当時は,後の時代における徒弟制度のような ものがあり,専門技術を持った一族がその技術でもって代々朝廷に仕え,その技術は門外不出であったと 考えられる。

古墳築造の意味

 人心が不安定になっていたこの時期,前方後円墳も,鏡も,神と大変関連の深いものであるため,地方の有力者が鏡と共に前方後円墳に 葬られることは,有力者が神に近い存在であることを人々に知らしめ,その後継者も神に近い存在となるため,神威を利用して国を治め安くな ったのである。それでも反抗をする人々に対しては,四道将軍を派遣するといった方法を用いた。四道将軍は大物主の神の鏡を地方有力者に 配って,反乱軍鎮圧に協力させた。

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