纏向古代都市建設

  AD200年頃より、それまでの古代都市、唐古・鍵遺跡がこの頃より衰退を始め、それと入れ替わるように纏向に巨大都市が誕生している。

 纏向遺跡の特徴

① 纒向遺跡は大集落でありながら、人の住む集落跡が発見されていない。祭祀用と考えられる建物と土抗、祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも 、頻繁に人々や物資が集まったり祭祀のための聖地と考えられる。

② 平成21年に3世紀前半~中頃の大規模な建物群の遺構が見つかった。4棟の建物が軸線をそろえて東西に一直線に並んでおり、立地は人工的に整地が施され、付近には特殊な工房跡もみつかっている。高い規格性と、この時代最大の建築物であることから、卑弥呼の居館ではないかと推定されている。

③ 日本全国で作られたと思われる遺物の出土が多い。特に伊勢国、尾張国が突出している。また、搬入品のほか、大和で製作されたが各地の特色を持つとされる土器も多く、 関連遺構ではその比率が高くなる。これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、 および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったと思われる。

 これら①~③の特徴より、纏向遺跡は居住用の都市ではなく、巨大祭祀施設と考えられる。その祭祀施設には、全国から人々が集まっていることから、全国の祭祀の中心となるものであったと考えられる。纏向遺跡の中心の建物群に卑弥呼が居住し、祭祀をしていたものと考えられる。

 卑弥呼就任後地方に祭祀を広め、吉備国で巨大祭祀施設、祭器の研究がおこなわれてきており、AD200年頃その成果が表れてきたものと考えられる。卑弥呼はその研究成果を踏まえ、出雲国とも協議を重ね、互いに認めることのできる巨大祭祀施設を大和に作ったのである。

 地方から人々を呼び寄せ、その祭祀施設を見せることにより、大和朝廷の権威を高めようとしたものであろう。そして、それらの人々が地方へ帰ることにより、地方に中央の権威を示そうとしたのではあるまいか。

 纏向石塚について

現在確認されている最も初期の前方後円墳を探してみると,纒向石塚である。その後,いくつか小さい 前方後円墳が造られた後に,巨大な箸墓が造られているのである。纒向石塚を調べてみると次のようなことが分かる。

①前方部が三輪山の方を正確に向いている。

立春・立冬の日に三輪山山頂から太陽が昇る

③冬至の日に大神神社の方から太陽が昇る。

④春分・秋分の日に巻向山頂から太陽が昇る。

⑤夏至の日に竜王山山頂から太陽が昇る。

前方部の開き角度(50度)は,立春の日の出のときに、この地点にくる三輪山の影の角度と一致し ている。

⑦纏向石塚は戦前高射砲の台とされ、後円部が削られたが、埋葬施設が存在しなかった。

纒向石塚から見た日の出の位置

これらから判断してみると,前方後円墳の前方部は,三輪山を意味していて,立春の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる姿が見えること から,その姿を石塚に重ねると,後円部は太陽,すなわち饒速日尊を表していることになる。つまり,前方後円墳は三輪山から昇ってくる太陽の姿を現していることになるのである。そして,大物主神は農耕神であり,石塚の周溝から農具が多量に 出土していることから,石塚で大物主の祭礼をしていたことが推定される。古墳に埋葬されている三角縁神獣鏡が大物主の神を型どったものであると同時に,前方後円墳も大物主の神を意識しているのである。

 この石塚が築造されたのはいつのことであろうか、石塚の周壕から出土したヒノキ材の年輪年代法による年代が195年、また、後円部から出土 した土器は纒向一式で二式や三式はまったく出てこない。土器片は墳丘を築造する際に盛り上げた土の中から千点以上が出土。桜井市教委は この土器片を調べた結果、「三世紀第一・四半期(201-225年の終わりごろ」のものと推定。盛り土に、この時期の土器片が混じっていたことから、 築造時期を「三世紀第一・四半期の終わりごろの直後か同時期」とした。おそらく210年~220年頃の築造であろう。

 戦前に後円部が削られたが埋葬施設が存在しなかった。かなり深く埋められている可能性はあるが、この時期の古墳は竪穴式で通常後円部の墳頂のすぐ下に埋葬施設があるはずである。埋葬施設がないということは石塚は墳墓ではなく祭祀施設であるということになる。

 吉備国三輪山の宮山墳丘墓の祭礼により、円形墳を一方向から祭礼する前方後円形の 祭礼施設が良いという流れになっていたが、大和でも本格的に祭礼のシンボル的な巨大墳丘墓を作る必要が出てきた。吉備国で素盞嗚尊の魂と 饒速日尊の魂を吹き込んだ特殊器台を使い、大和で最も神聖な三輪山から太陽が昇る姿を墳丘墓の形にして、中国からの歴訪の導入による一年の 始まりである立春の日に祭礼ができるようにその位置に纒向石塚を築造したのであった。

纒向石塚 石塚より見た三輪山

古代都市纒向

 それ以前に栄えていたと考えられる唐古・鍵遺跡では,その中心にある祭祀遺跡から,冬至の日に三輪山山頂から昇ってくる太陽の姿を見る ことができる。これは一年の祭礼のうち,冬至の日が最も重要な日であることを意味しているが,纒向石塚では,立春の日に変わっている。 立春を一年の始まりとする考え方は,二十四節気といい,中国から入ってきたものであるが,その時期は不明であった。このことか ら,二十四節気は魏からの技術導入と共に入ってきたと考えられる。二十四節気は太陽の昇る 位置から,農耕の時期を知るもので,極最近まで使われていた。おそらく,中国に朝貢することによって二十四節気を学び,それに適する 位置に祭礼用の祭壇である纒向石塚を造った。纒向石塚上で立春の日に三輪山から昇ってくる太陽を崇める儀式がおこなわれていたと考える。当然その祭主は百襲姫であろう。

 纒向に都市遺構が作られるのは、唐古・鍵が衰退するのと入れ替わるようであり、その年代は紀元200年頃と推定されている。まさに倭の大乱の 直後かあるいはその末期と考えられる。この頃の変化を推定してみると次のようになる。

 2世紀後半に人心が落ち着かなくなり倭の大乱が起こった。大和朝廷は人心を落ち着かせるため、人々の神への信仰心を煽り、神の力で国を 治める必要があった。朝廷は饒速日尊の神(三輪山)信仰を深めるために、三輪山山頂から太陽が一年の始まりである立春の日に昇ってくる位置 にある纒向に新しい都を建設しようとした。

 その為には信仰の中心となるシンボル的構造物が必要であった。そこで、纒向の中心位置に三輪山から昇ってくる太陽の姿を形にした纒向石塚 を造った。そして、盛大に祭礼を行うため、その周辺に人々を集め,最初の都市遺構である纒向遺跡を造ったものと考えられる。纒向石塚の後円部上からは立春の日午前7時35分ごろに三輪山山頂から昇る太陽を見ることができ、さらに、前方部はその瞬間の三輪山の影と一致する。 この瞬間(立春の日午前7時35分頃)に石塚上で年間最大の祭礼を行ったものと推察される。大和朝廷は祭礼を強化することで国を治めよう としたのである。

 その後、神聖である石塚と相似形(前方後円形)の構築物を有力者の墳墓とすることで、有力者を神格化することにした。そして有力者の 死後の祭礼も強化した。前方後円墳の誕生である。

 巨大神殿の築造

 纏向遺跡で巨大神殿跡が発掘された。この神殿の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されており、その溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240~270年ころ)が出土した。土器の年代から大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと思われる。ちょうど卑弥呼が活躍していた年代と重なる。卑弥呼が亡くなると同時に壊されたようである。

巨大神殿の模型 神殿配置図
(桜井市立埋蔵文化財センター2010より転載)
神殿東側正面から見た景色

 この宮殿の位置の真西に巻向石塚があり、真南に箸墓がある。巻向石塚の方がこの宮殿より先にできたと考えられるが、宮殿が完成する前に、この宮殿の位置に何かの施設があった可能性も考えられ、この宮殿の位置は重要な位置だといえます。
 おそらく、卑弥呼にとって、この周辺で最も重要な地は、天照御魂神社(祭神饒速日尊)の位置だと思われる。ここは、大和における日読みの地であり、卑弥呼はこの地で日を読んでいたと思われる。この日読みを始めたのは饒速日尊であろうと推定され、饒速日尊の妻である卑弥呼がこの地で日読みの儀式をするのは当然と言える。
 この地からみた朝日は、
 ・立春・立冬--三輪山山頂
 ・春分・秋分--巻向山山頂
 ・立秋・立夏--一本松付近
 ・夏至--竜王山山頂
 ・冬至--三輪山南斜面の隆起点(H=326m)
から昇る。
 この地から宮殿の方向を見た景色が上の図である。背後の左側の山が竜王山で右側の山が三輪山である。宮殿の東側正面にあるのはこの二つの山の間のピークである。このピークは穴師山と呼ばれている山である。卑弥呼は宮殿からちょうどこの穴師山を見ていたと思われる。この位置からみて穴師山山頂から太陽が昇るのは現行暦で3月30日か、9月10日 前後である。
 当時の暦法は不明であるが、立春前後の朔日を1月1日とすれば、半年一年歴で5月1日ごろとなる。春分でも夏至でもない日である。この日が何か特別な日だったのではないかと考えらる。田植え、稲刈りの時期としての目安だったのかもしれないし、饒速日尊の命日だったのかもしれない。

 穴師山の正体(饒速日尊の御陵)

 当初、饒速日尊の御陵は三輪山山頂と考えていたが、三輪山山頂には奥津磐座があり、祭祀対象が岩であった。もし、三輪山山頂に饒速日尊御陵が存在するならば、御陵が祭祀対象になっていなければならないと思われ、饒速日尊御陵は三輪山山頂ではないと判断した。

 穴師山は纏向遺跡の宮殿の正面にある山であり、大物主(饒速日尊)の妻となった倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)が毎日のようにあがめていたと思われる山である。この山は特別な山ということになる。この山の正体として考えられるのが饒速日尊の御陵というものである。このことを宇田川氏に報告すると宇田川氏から、箸墓の中心線もこの穴師山を正確に向いていることを指摘された。

 箸墓は卑弥呼の御陵と推定している。卑弥呼の宮殿跡、御陵ともに穴師山を正確に向いているとなれば、この穴師山こそ饒速日尊御陵と確信できる。

穴師坐兵主神社

 箸墓の中心線の延長線上に穴師山があるが、穴師山のふもとにある穴師坐兵主神社(桜井市穴師1065)も同じ中心線上にある。この神社は、かって上下二社に分かれ、上社は弓月岳に穴師坐兵主神社があり、下社が現在地にあり穴師大兵主神社であったとされている。

 穴師大兵主神社の中殿の祭神は兵主神とされている。境内表示では、「崇神天皇の六十年、命を受けて皇女倭姫命が創建され、天皇の御膳の守護神として祀られ、天孫降臨の際の三体の鏡の一体を御神体とし、御食津神と申し上げる。」
 御食津神は気比神社祭神の伊奢沙別命と同神であり、古代史の復元では饒速日尊と推定しており、兵主神も饒速日尊と推定される。

左社の祭神は大兵主神とされている。境内表示では、「纏向山上の弓月嶽に祀られたが、後に下られて御祀り申し上げています。御神体は剣(ほこ)で武勇の神、従って相撲の祖神となった。」
 古代において剣は素盞嗚尊のシンボルとされており、大兵主神は素盞嗚尊と考えられる。

 右社の祭神は若御魂神とされている。境内表示では「三種の神器を御守護された稲田姫命を御祀りし、御神体は匂玉と鈴で、芸能の神として崇敬を受けられています。」
 穴師大兵主神社の三殿の祭神はシンボルとして鏡・剣・勾玉の三種の神器を示しているようである。三種の神器が重要視されたのは倭の大乱の後である。古代史の復元においては、勾玉は倭の大乱の和平交渉の中で登場してきたものと判断しており、素盞嗚尊祭祀・饒速日尊祭祀の統合の象徴である。境内表示の稲田姫とは考えにくく、倭の大乱の和平交渉の主役だった倭迹迹日百襲姫命(卑弥呼)ではないかと考えられる。

 小川光二氏の『大和の原像』では弓月岳は穴師山としており次のように記述している。
穴師山山頂の様子(1973年以前)
山頂部手前に台地があり、原型を留めない小祠が石の上の台に残っていた。
山頂部の方向に葺石とおぼしき砕石状の同じ様な大きさの小石が密集していた。
山頂には二つの頂上がある。三輪山頂の真北に当たる。
【古老曰わく】
穴師の真ん中の神さんがもと祀ってあった所を「ゲシノオオダイラ」と呼ぶ。小川氏は「夏至の大平」との解釈している。

 穴師山山頂には二つの峰がある。雄岳、雌岳と呼ばれている。雄岳の北北西180mの位置に雌岳がある。纏向遺跡の宮殿跡及び箸墓の中心線は雄岳の方を正確に向いている。雌岳の方は崇神天皇陵の中心線が正確に向いているようである。

 箸墓の中心線は正確に穴師山山頂を向いている。穴師山山頂の北側に平坦部があり、ここが「夏至の大平」と呼ぶそうである。箸墓の後円部先端から穴師山を拝むと、夏至の日に太陽が上がるのがこの夏至の大平の位置からである。この夏至の大平には饒速日尊を祀っていた神殿があったということである。

 この神社は崇神60年(AD274年)に創建されたとされている。日本書紀では同じ年に出雲振根の乱があったことになっているがこちらは孝霊73年の出来事が同じ干支で移されたものと解釈している。兵主神が神社に創建された位置は箸墓古墳の後円部先端から見て夏至の日に太陽が昇る位置である。これは、この位置が箸墓築造前に重視されていることを意味している(箸墓築造後だと後円部頂上が観測地と推定)。この神社創建は箸墓築造前と解釈している。

 そうすれば、実際の創建は、崇神60年ではなく同じ干支の孝元57年(214年)ではないだろうか。卑弥呼は次の215年に「天照大神を調神社(武蔵)に祭る。日御崎神社(出雲)の島上に神殿造営」など、天照大神の祭祀を強化している時期である。時期的にも一致しているのである。そうすると、この時に、箸墓の位置で夏至の日の祭祀が開始されたことになる。その祭祀地に後の時代箸墓が築造されたことになる。

 箸墓は、ほかの古墳が丘陵を改造して築造しているのに対して平坦地から築造されたといわれている。平面から作り上げるには相当な労力が必要であり、どうしてもその位置でなければならない理由があったと考えるのが自然である。それこそが卑弥呼の夏至の日の祭祀地であろう。

 穴師坐兵主神社は当初饒速日尊を祀っていたが、後に、その父である素盞嗚尊と、饒速日尊の妻であった卑弥呼を祀ったものであろう。

 夏至の日の祭祀位置がなぜ、穴師山山頂から太陽が昇る位置ではないのか

 夏至の日の祭祀位置は夏至の日に穴師山山頂から太陽が昇るのを見ることができる位置と考えるのが自然であるが、その位置は箸墓と穴師山を結ぶ線上で、箸墓後円部先端より500mほど東側の位置であるがこの位置には何もない。発掘すれば何か出るかもしれないが、伝承にも残っていないようで、ほんとうに何もないと思われる。

 穴師山山頂直下の「夏至の大平」の位置から、夏至の日に太陽が昇るのを観測できる位置が、箸墓後円部先端である。この太陽が昇る位置に祠を建てて饒速日尊を祀ったのが穴師坐兵主神社の創建と考えられる。なぜ、山頂ではなくこの位置から太陽が昇るのを見ることができる地が重要だったのであろうか。

 仮説1 
 夏至の日に太陽が昇るのが山頂の場合より、夏至の大平の方が早く太陽を見ることができる。つまり、夏至の大平から昇る太陽を見るのは夏至の日に少しでも早く太陽を崇めるのに必要だったのではないか。

 仮説2
 夏至の大平の位置に高さ5m程度の櫓を組めば、穴師山山頂と三輪山山頂を重ねてみることができる。穴師山も三輪山も共に聖地なのでこの両地を重ねてみることができる位置は聖地になっても不思議はない。実際雌岳山頂からは左に三輪山右に穴師山と二つの山頂を並べてみることができる。この雌岳山頂に崇神天皇陵の中心軸が正確に向いている。これは、雌岳山頂も聖地であったことを意味している。

 仮説3
 箸墓の後円部先端から夏至の日に穴師山山頂から太陽が昇る姿が見られるのは6月10日前後と7月2日前後である。この期間が農作業の何かを実施する期間を示している可能性が考えられる。

 おそらく仮説1と3が理由ではないかと想像するが、今後の検討課題である。

平原弥生遺跡

平原遺跡から見た日向峠

福岡県前原市に平原弥生遺跡がある。昭和40年に発掘され、その墓から39枚もの銅鏡がみつかり話題となった。この墓は方形周溝墓で、被葬者は副葬品から女性と考えられている。この位置から立春の日に日向峠から昇る太陽を見ることができる。纒向石塚同様に立春の日が一年で最も重要な日になっているのである。おそらく纒向石塚とほぼ同じ230年ごろ築造されたものと考えられる。この女性の役割も卑弥呼と同じ役割をしていたのではあるまいか。毎日決まった位置で日の出の方角を観測し、ある特定の位置から出たときを基準にして暦を作り、その暦を基に農作業に従事するというものである。これは魏からの技術導入の結果と考えられる。畿内の場合はいち早く前方後円形の祭祀施設を作ったが、伊都国ではまだ伝わらなかったものと考えられる。出土した鏡は日の出の太陽を反射するその祭礼に使ったものと判断できる。

 天照大神の祭祀強化

 AD214年第8代孝元天皇が亡くなった。翌AD215年第9代開化天皇が即位した。このとき、卑弥呼は就任後30年が経過しており、現年齢で49歳になっていた。開化天皇2年に地方において天照大神の祭祀を強化しているようである。武蔵国調神社、及び出雲国日御崎神社で天照大神を祀っている。同じ年に同じ神を離れた地方で祭っているので、実際は他の地域にも祀ったものと思われる。全国に天照大神を祀らせたものではなかろうか。

 天照大神は太陽神であり、本来は飛騨国の祭祀であったが、この当時は饒速日尊を意味するようになっていた。纏向石塚で早朝の太陽を崇拝する祭祀が始まっている。中国より二十四節気が導入され、祭祀者がある場所から朝日を観測し、日が昇る位置から農作業の時期を探るというものであろう。

 祭祀のみを強化してもそれが人々の生活の向上に直結していなければ、人心を安定させることができない。卑弥呼はそれを考慮し、各地で祭祀者が祭祀場所を決め、その祭祀場所から朝日を崇め、太陽が昇る位置から稲作の時期を定めるという暦法を地方に広めようとしたのであろう。この研究も吉備国で行われていたのではあるまいか。

 これによって、今まで以上に効果的に稲作ができるようになり、人々が太陽崇拝の祭祀を重視するようになっていったと考えられる。そのために、太陽神=天照大神が地方に祭られることになったと思われる。

 その祭祀の時に、太陽の光を反射し、輝く姿が神聖なものとなり、鏡が祭祀の上で重要な祭器となっていった。この頃までは鏡は共同体の持ち物であったようで、代々伝世されていた。そのため、弥生時代後期中葉の墳墓からは鏡の出土がなかったが、弥生時代後期後葉~終末期にかけて、漢式四期(1世紀後半)の鏡が副葬されることが多くなった。これは伝世されていた鏡が個人の持ち物になってきたことを意味している。

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