天照大神の誕生

 日本神話上の最高神は天照大神である。天照大神は最高神と言われているが、その正体に関しては謎が多い。神社に祀られているこの天照大神とはいったいどのような存在なのであろうか。 

 天照という名を持つ神社の祭神 

 まず、神社名に「天照」がついている神社の祭神を調べたところ、以下のようであった。

 大日霊女貴尊(或いは同等名) 25社(内15社が千葉県)
 国常立尊 1社(滋賀県 天照神社)
 天照皇大神 37社 
 饒速日尊 6社
 天照大御神 11社
 天照大神 15社
 皇産霊神 1社(茨城県 天照神社)
 皇大御神 1社(千葉県 天照神社)
 天宇須売命 1社 (広島県 天照真良建雄神社)
 撞榊厳魂天疎向津姫命 1社 (神奈川県 天照皇神社)

 天照の名がつく神社の祭神は上のとおりであるが、この中で複数の神社で祀られている神名は「天照大神」「天照皇大神」「天照大御神」「大日霊女貴尊(同等名を含む)」「饒速日尊・火明尊」である。これら神名を見ても、一般に言われている天照大神は複数の人物が重なった存在であることがわかる。次にその該当人物を一人ひとり検討してみる。

 天照大神の正体

 1 第三代倭国王 日向津姫命

 正式には撞榊厳魂天疎向津姫命と推定している。瀬織津姫とも呼ばれている。宮崎県の加江田神社の地で、BC5年頃伊弉諾尊、伊弉冊尊を両親として生まれ、出雲からやってきた素盞嗚尊との間に天忍穂耳・天穂日尊・市杵島姫を生んだ。その後、出雲に戻った素盞嗚尊と離別し、高皇産霊神と結ばれ、瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊を生んだと推定している。第二代倭国王大己貴命の急死後、西倭国王となり、鹿児島神宮の地で西倭国を統治し、海外との交流を活発化し、九州地方一帯の未統一地域を統一した。高皇産霊神との間にできた3人の子を飛騨国の娘と結婚させ、日本列島統一の基礎固めをした。串間市でAD70年頃亡くなり、王の山に葬られた。

 神武天皇の祖母にあたり、神武天皇と共に九州からやってきた人々の崇拝対象になっていたと思われる。記紀神話の中の天照大神の具体的行動伝承は、この人物のことであろうと推定する。

 2 初代ヒノモト国王饒速日尊

 幼名を大歳といい、正式な神名は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊である。素盞嗚尊と飛騨国王の妹、神大市姫との間に、島根県の須佐神社の地でBC15年頃誕生している。出雲で飛騨系の娘キサカイヒメとの間に猿田彦が生まれている。その後父素盞嗚尊につき従って日本列島統一事業に参加した。北九州地方の遠賀川流域を統一し、南九州統一にも参加した。その後、北四国地方を統治し、丹波地方を統一した。そして、飛騨国王の養子となり、飛騨国王の孫味鋤高彦根命(後の賀茂建角身命・賀茂大御神)を養子とした。

 高皇産霊神・素盞嗚尊より、東日本地域を統一せよの命を受けて、北九州地方の若者(物部一族・マレビト)を多数引き連れて、AD25年頃、近畿地方に降臨した(天孫降臨・マレビト作戦)。マレビトが入り込んで期が熟したAD35年頃、物部一族とともに東日本一帯を統一して、ヒノモトを建国した。統一後大和に戻り、三輪山山頂から昇る太陽を崇め、飛騨国の神(太陽神)祭祀を始めた。AD60年頃、大和の地で亡くなった。その後、饒速日尊自身が太陽神として崇拝された。

 饒速日尊は物部一族、東日本一帯の人々にとって崇拝の対象であった。

 3 第35代上方様(ヒルメムチ・第67代ウガヤ王春建日姫) 

 飛騨伝承における第35代飛騨国王でAD40年頃、父イザナギ、母イザナミの間に生まれる。母イザナミは出雲から嫁いできている。王位についた後は縄文系の飛騨国と弥生系の国々との交流を活発化した。妹を出雲の素盞嗚尊に嫁がせ、素盞嗚尊は義弟となる。そして素盞嗚尊の子饒速日尊を養子とし、孫の味鋤高彦根命を饒速日尊の養子とした。饒速日尊が東日本統一をするときに王子の大山祇命に協力させ、東日本地域の縄文人たちとの仲立ちをさせた。飛騨国と弥生人の国々との仲立ちを果たし、日本列島統一に貢献した。

 彼女は縄文人の崇拝の対象であった。

 4 飛騨国の太陽神

 縄文国家飛騨国では国常立神と言われている神で、太陽を崇拝していた。各地のストーンサークル、ピラミッド(三角山)、がそれを裏付けており、飛騨地方ではごく最近まで日抱神事が行われていたという。「飛騨」という国名は、この「日抱」から来たものと言われている。

 5 倭迹迹日百襲媛命(卑弥呼・大日霊女貴尊)

 倭迹迹日百襲媛命は、AD168年、父を孝霊天皇、母を倭国香姫として大和国黒田宮で誕生した。AD171年3歳の時、讃岐国に派遣され、水主神社の地で成人した。その後、田村神社の地に移り持ち前の聡明さを生かして、讃岐国の農業改革を推進した。倭の大乱がこう着状態になったとき、倭の大乱を平和裏に集結させ、大乱終結後、大物主神の妻(卑弥呼)に推挙された。

 卑弥呼に就任後は、さまざまに知恵を働かせて、大乱後の不安定な国内を安定化させ、朝鮮半島の戦乱もおさめ。魏に朝貢し先進技術を導入した。地方統治のために、朝廷が直接地方統治する体制を計画した後、AD249年、大和で亡くなった。

 百襲媛は魏志に邪馬台国女王卑弥呼として記録され、大和朝廷の勢力を安定化させた功績がある。

 古代史の復元では、以上の人物(神)が重なった存在が「天照大神」と考えている。

それぞれの名で祀られている神社の県ごとの分布は下のようになっている。

県名 天照大神 天照皇大神 天照大御神 大日霊女 饒速日尊
新潟県 298 371 57 62 6 794
富山県 136 583 22 2 2 745
愛知県 185 217 181 59 16 658
岐阜県 193 197 131 9 8 538
長野県 50 143 50 21 0 264
山形県 93 63 10 84 1 251
秋田県 43 128 44 13 2 230
千葉県 52 68 25 49 17 211
北海道 76 51 51 0 0 178
静岡県 54 71 20 26 1 172
兵庫県 65 43 10 30 7 155
石川県 92 30 12 3 5 142
神奈川県 42 54 3 37 0 136
東京都 35 39 43 16 0 133
三重県 19 19 60 20 13 131
大分県 32 56 29 8 4 129
熊本県 65 61 2 0 1 129
山梨県 43 51 13 18 1 126
福井県 18 81 2 16 1 118
埼玉県 25 16 28 42 1 112
宮城県 35 38 3 21 0 97
茨城県 13 19 10 39 4 85
福島県 21 20 11 32 1 85
高知県 15 51 2 10 6 84
群馬県 3 3 1 75 1 83
栃木県 8 28 3 42 2 83
福岡県 22 21 6 16 15 80
滋賀県 28 26 2 9 5 70
京都府 18 29 7 7 9 70
岩手県 16 21 19 11 0 67
鹿児島県 28 22 4 8 2 64
愛媛県 14 20 4 4 20 62
奈良県 8 35 1 12 4 60
岡山県 30 15 4 6 4 59
青森県 21 25 2 8 0 56
長崎県 15 27 9 2 3 56
島根県 19 10 14 5 5 53
広島県 15 20 12 3 2 52
徳島県 19 16 4 9 3 51
大阪府 10 23 2 0 14 49
和歌山県 19 18 4 1 3 45
香川県 10 15 6 4 2 37
鳥取県 9 3 12 8 2 34
宮崎県 5 8 0 4 8 25
山口県 12 8 1 0 0 21
佐賀県 6 6 0 1 0 13
沖縄県 0 1 1 0 0 2

「天照大神」「天照皇大神」「天照大御神」を同等神と考えれば、圧倒的に多く祀られているのが、新潟県、富山県、愛知県、岐阜県、長野県である。この地域はいずれも飛騨国の隣接地域である。天照大神は本来飛騨国の神であると推定しているが、まさにそれを裏付けているといえる。

 同等名を含む「大日霊女貴尊」で祀られている地域は、新潟県、山形県、関東地方が多い。「饒速日尊」あるいは「火明尊」という名で祀られているのは、愛媛県、千葉県、愛知県、福岡県、大阪府、三重県が多い。

 天照大神最初の祭祀

 天照大神が祭祀された最初の神社は、調べた範囲では、孝元6年(AD189年)に紀伊国の内原王子神社(和歌山県日高郡日高町大字萩原1670番地)が最初のようである。正式には祭神は「皇大神」であるが、天照大神のこととされている。卑弥呼に就任した直後である。

 この次に祭祀されたのが、開化天皇2年に天照大神を調神社(武蔵)に祭り、同時に日御崎神社(出雲)の島上に天照大神の神殿造営している。

 卑弥呼が祭祀を強化したのは遺跡から判断して纏向遺跡が発展を始めたAD210年頃と推定される。中央の祭祀体制ができないと地方の祭祀は進められないと考えられる。時期的に判断して内原王子神社の祭祀は違うように思える。この神社は明治になって周辺の神社を合祀しており、神社の社伝に「孝元天皇6年に天神7代を祭祀した。」とあり、天照大御神とは記されていない。詳細は不明である。後から追加されたものではないかと考える。

 このような諸条件を考えると、天照大神を最初に祭祀したのは卑弥呼ということになる。それ以前の神社祭祀に「天照大神」は存在しないので、天照大神の存在を考え出したのは卑弥呼ということになる。

 天照大神の誕生

 百襲姫が卑弥呼に就任したのは倭の大乱終結直後であり、国内が非常に不安定な時期である。卑弥呼は就任直後、大陸の先進技術導入に力を入れており、AD210年頃より、その先進技術をもとに祭祀体制を充実させてきた。強烈な祭祀を行うことによって国内を安定化させようと図っているのである。そのために、自らを大物主神(饒速日尊)の妻として、神格化したのである。

 この当時は、また、大和朝廷によって統一されてはいたが、連合国家の代表というような存在であり、大和朝廷による地方統治は完成してはいなかった。卑弥呼は地方の完全統一を目指していたのである。その統一のために必要だったのが祭祀の統一である。倭の大乱は出雲と朝廷の祭祀の違いが原因で発生している。祭祀が統一されないと、いずれまた同じような大乱が起こる可能性があると考えたのであろう。

 縄文人は飛騨国の太陽神及び35代上方様(ウガヤ朝第67代春建日姫)を崇拝しており、関東地方を中心として活躍している物部一族は饒速日尊を崇拝しており、九州出身の豪族たちは日向津姫を崇拝していた。また、出雲出身の人たちは素盞嗚尊を崇拝しており、このように、崇拝している神が地方や豪族によって異なっているのである。

 崇拝している神が異なる中で祭祀を統一するのは不可能である。そこで、卑弥呼はそれらの神々を統一した総称「天照大神」を考え出したのではあるまいか。「天照大神」は各豪族が崇拝している神を合わせた神なので、自らの神格化を合わせて、それら豪族が一柱の神を崇拝でき、人々の心を統一できると考えたのであろう。

 祭祀者を地方に派遣して、太陽神を崇拝させた。これら地方の人々にとって、新しく神を崇拝するには、崇拝対象となる具体的な物体が必要であった。これが、鏡であろう。後漢鏡は大和朝廷成立まで(弥生時代後期中頃)は北九州に集中していたが、後期終末期以降は、全国分布している。中国から鏡を大量輸入し、それを地方に配り、鏡が太陽を反射して輝く姿を崇拝させたと判断する。この鏡は自らの姿を映すのには不向きな、凸面鏡であり、凸面鏡は太陽光を反射してそれを崇拝させるには最適である。

 最初は、中国鏡をそのまま輸入していたが、卑弥呼は大和朝廷のシンボル(三角形=三輪山の形)を多量に掘り込んだ鏡を考えだし、中国から技術者を呼び、国内で作らせた。これが三角縁神獣鏡であろう。

 崇神10年(AD249年)の卑弥呼(百襲姫)の死後、地方を大和朝廷の直接の支配下に置くため、地方に国を作り、四道将軍が地方に派遣され、地方の有力者をそのまま国造に任命した。この国造にその証として鏡を渡したものであろう。任命された国造は、鏡を使って地方の統治をし、死後はそのシンボルである円形の墓を作った。これが、前方後円墳である。前方後円墳にはこの鏡が副葬された。

 国造が代替わりしたとき、朝廷から新しく鏡を受け取り、次の代の国造りはそれを用いて祭祀を行ったのであろう。そのために、朝廷は多量の鏡の生産が必要となり、その材料の青銅が不足することになり、旧祭祀具である銅剣・銅矛・銅鐸を没収して融かし、鏡の材料としたと考えられる。そのために、三角縁神獣鏡の鉛同位体比が一致する青銅産地が見つからない状況になっていると判断できる。

 天照大神は、地方統治のために考えられた神であると推定している。祭祀の柱になる神なので、記紀神話における最高神として認知されることになる。

 天照大神の放浪

 天照大神の祭祀が開始されたのは、孝元天皇の時代AD210年頃と考えられる。その後しばらくは皇居内に祭られていたが、疫病が流行ったり、天候が不順になったりした。崇神6年(AD247年)、日食が起こり皆既のまま日没(天岩戸)となり、朝廷は大騒ぎとなった。天照大神を皇居内で祭祀しているのが原因であるといううわさが広まり、これを機に、天照大神を豊鋤入姫に託して皇居外に出した。この直後の崇神10年、百襲姫(卑弥呼)が亡くなった。この後台与(弟五十狭芹彦の娘と考えられる)が卑弥呼に就任した。

 

国名 宮名 代表的伝承地 所在地 滞在年数
大和国 笠縫邑 檜原神社 桜井市三輪 33
丹波国 吉佐宮 真名井神社 宮津市江尻 4
大和国 伊豆加志本宮 與喜天満神社 桜井市初瀬字与喜山 8
紀伊国 奈久佐浜宮 濱宮 和歌山市毛見 3
吉備国 名方浜宮 伊勢神社 岡山県岡山市北区番町 4
大和国 弥和乃御室嶺上宮 高宮神社 桜井市三輪字神峯 2
大和国 宇多秋宮 阿紀神社 宇陀市大宇陀迫間 4
大和国 佐佐波多宮 篠畑神社 宇陀市榛原山辺三字篠畑
伊賀国 隠市守宮 宇流冨志禰神社 名張市平尾 2
伊賀国 穴穂宮 神戸神社 伊賀市上神戸 4
伊賀国 敢都美恵宮 都美恵神社 伊賀市柘植町 2
近江国 甲可日雲宮 大神宮社 甲賀市土山町鮎河(旧社地) 4
近江国 坂田宮 坂田神明宮 米原市宇賀野 2
美濃国 伊久良河宮 天神神社 瑞穂市居倉 4
尾張国 中島宮 酒見神社 一宮市今伊勢町本神戸字宮山
伊勢国 桑名野代宮 野志里神社 桑名市多度町下野代 4
伊勢国 奈其波志忍山宮 布気皇館太神社 亀山市布気町野尻
伊勢国 阿佐加藤方片樋宮 加良比乃神社 津市藤方字森目 4
伊勢国 飯野高宮 飯野高宮神山神社 松阪市山添町字神山 4
伊勢国 佐佐牟江宮 竹佐々夫江神社 多気郡明和町山大淀
伊勢国 伊蘓宮 磯神社 伊勢市磯町字権現前
伊勢国 大河之滝原之国 瀧原宮 度会郡大紀町滝原
伊勢国 矢田宮 口矢田ノ森 伊勢市楠部町字口矢田
伊勢国 家田々上宮 大土御祖神社 伊勢市楠部町字尾崎
伊勢国 奈尾之根宮 那自賣神社 伊勢市宇治中之切町
伊勢国 五十鈴宮 皇大神宮 伊勢市宇治館町

  崇神6年(247年)から垂仁25年(AD290年)現在の伊勢神宮に落ち着くまでの間に、天照大神の祭祀宮は上の表のように変遷している。最高神として祭祀しなければならないので、その祭祀する宮地は、それなりの神聖な地でなければならない。その地を探して変遷しているようである。なぜ伊勢神宮の地に落ち着いたかは、今のところ不明である。

 豊受大神の正体

 伊勢神宮外宮の神、豊受大神は卑弥呼の後継者の台与が重なっていると思われるが、天照大神と同様にほかの神が重なっているようである。豊受大神は本来は徐福の関係者で、丹波に上陸した人物の代表者と思われる。卑弥呼が天照大神と重なっているため、二代目卑弥呼の台与も重要な神と重ねる必要が出てきたのではないだろうか。天照大神と重なっていない、大和朝廷成立にかかわった重要人物といえば、出雲の素盞嗚尊と丹波の豊受大神である。素盞嗚尊は天照大神の弟ということで崇拝対象になっているので、丹波の豊受大神に台与を重ねることを考えたのであろう。崇神6年に大和を出てから33年後の崇神39年に祭祀宮が丹波国に移っているが、この時、豊受大神と台与が重なったのではあるまいか、この移動は豊受と重ねるための移動だったのかもしれない。

 皇居八神殿の神の正体

 皇居で真実大切にされている神は八神殿に祭られている八柱の神である。『古語拾遺』によると、初代神武天皇の時に皇天二祖(天照大神・高皇産霊神)の詔のままに神籬を建て、高皇産霊・神皇産霊・魂留産霊・生産霊・足産霊・大宮売神・事代主神・御膳神を奉斎したという。重要な神のはずであるが、正体不明の神が多い。古代史の復元を元にして、その正体を推定してみよう。

第一殿 神皇産霊神
 飛騨国の系統を表している神と思われる。

第二殿 高皇産霊神
 男系をたどった皇祖神で、徐福の系統を表している神と思われる。

第三殿 玉積産日神
 天御中主神と同神といわれており、呉太白の子孫で伊弉諾尊・伊弉冊尊の系統と思われる。

第四殿 生産日神
 活玉神と同神と考えられ、活玉神は飛騨国王第35代上方様(ウガヤ王朝第67代春建日姫)の王子である大山祇命(ウガヤ朝第68代宗像彦)と思われる。

第五殿 足産日神
 消去法により素盞嗚尊ではないかと推定している。

第六殿 大宮売神
 丹波国(豊受大神)の系統を表していると思われる。

第七殿 御食津神
 初代ヒノモト国王饒速日尊と思われる。

第八殿 事代主神
 饒速日尊の子で、神武天皇の皇后五十鈴姫の父、第二代目ヒノモト国王と思われる。

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