大歳の大阪湾沿岸地方統一準備

 大歳は琴平宮の地で倭国をまとめており、大阪湾岸地方統一のための準備をしていた

大阪湾岸地方の統一戦略
 

 大阪湾岸地域の国々には池上曾根遺跡など大型の建物を持つなど、かなり先進技術を持っている。弥生中期の始めごろ(紀元前100年ごろ)朝鮮半島北部から、直接大集団で移ってきたものと考えられる。そのために大陸の先進技術を失わずに維持しているものと推察する。そのために倭国の先進技術はそれほど真新しいものとは移らないのである。そのために新技術の伝授を持ってこの地域を統一することは不可能である。

 素盞嗚尊が南九州において日向津姫と結婚することによってイザナギ・イザナミの協力を得ることができ、日向津姫自信も国内をまとめるのに絶大なる貢献をしてくれたことを実感している。高皇産霊神はこれをヒントとして、大阪湾岸諸国に有能な男子をマレビトとして送り込み、そこの娘と結婚することによって、その地域を統一できないかと考えた。

 一般に生物は近親交配を続けていると繁殖能力が低下しその種は滅びることになる。当時の人々もこのことを本能的に知っており、小さな集落の人々は外部からやってきた有能な男と、集落内の娘を結婚させて外部の血を入れることを行なっていた。外部からやってくる人間はそのほとんどが男であるために、外部の男と、集落内の女の結婚となることがほとんどであったと思われる。この男たちをマレビトと呼んでいた。

 高皇産霊神は大阪湾岸諸国にマレビトを一斉に送り込み、それによって統一することを考え付いた。「マレビト作戦」と呼ぶことにする。そのためには若い有能な男たちが多量に必要である。その指揮者として饒速日尊を任命した。しかし、大阪湾岸地方にマレビトとして入り込んだ場合、その国が主体となるために、それらの小国家を倭国に加盟させるのは難しいことが予想される。そのときは倭国とは別の国を作って、機が熟したなるべく早い時期に、倭国と合併をするという計画も話し合われたことであろう。

 マレビトの条件としては、優れた先進技術を持っていること、運動能力に優れていること、心優しいことが考えられる。これらに優れた若い男が、小国家を訪問すれば、大抵の国ではマレビトとして受け入れてくれるであろう。「マレビト作戦」に重要なことはこの条件を満たすマレビトを探すことである。

 マレビト作戦の総大将としての適任者が饒速日尊であった。マレビト作戦は飛騨国の勢力圏に入り込むわけであるから、飛騨国との血縁関係の深い人物でないと成功しない。倭国王素盞嗚尊と飛騨系の娘神大市姫の子であり、飛騨国王の娘を3人妻としている饒速日尊はこれ以上ない適任者であった。しかし、マレビト作戦として近畿地方に乗り込むためには、独身でなければならず、これら妻とは一時的に離別するという形となった。

 マレビト作戦の根拠

 この「マレビト作戦」には、そうではないかと思われる根拠がある。以下にそれを列挙してみる。
① 大阪湾岸地方がこの時期一斉に平和裏に統一されている。
② 大阪湾岸から大和平野一帯の巨大集落遺跡・拠点のすぐそばには物部系の神社が必ず存在している。池上曾根遺跡の曾根神社、唐古鍵遺跡の鏡作神社、大和川・明日香川・富雄川などの合流点の広瀬神社、当時の大和川下降にある津原神社などいずれも物部系の神社である。これは、大阪湾岸から大和盆地一帯の拠点と思われる地域がことごとく物部一族で占められているということを意味している。
③ 伝承では神武天皇以前に大和にいた豪族はエウカシ、オトウカシ、エシキ、オトシキ、葛城一族、賀茂一族、三輪一族、磯城一族などことごとく物部系の分派と思われ、饒速日尊の子孫であるという伝承を持つ、あるいは、そう思える節がある。
④ 饒速日尊自身ナガスネヒコ一族に対してマレビトである。
⑤ 饒速日尊と共に大和に下ったといわれている天神玉命も賀茂一族の祖となっている。天神玉命もマレビトである。

 以上のような事実をすべて有効に説明できるのは「マレビト作戦」のみではあるまいか。

 饒速日尊が北九州地方で召集したマレビトたち

 先代旧事本紀に饒速日尊が天孫降臨するときに付き従った人々の一覧が乗っている。まとめてみると以下の通りである。

防衛者(32人)

天香語山命(尾張連等祖)   天鈿売命(媛女君等祖) 天太玉命(忌部首等祖) 天児屋命(中臣連等祖)
天櫛玉命(鴨縣主等祖)   天道根命(川瀬造等祖) 天神玉命(三嶋縣主等祖)   天椹野命(中跡直等祖)  
天糠戸命(鏡作連等祖) 天明玉命(玉作連等祖) 天村雲命(度会神主等祖) 天神立命(山瀬久我直等祖)
天御陰命(凡河内直等祖)   天造日女命(安曇連等祖) 天世平命(久我直等祖) 天斗麻祢命(額田部湯坐連等祖)
天背男命(尾張中嶋海部直等祖) 天玉櫛彦命(間人連等祖)  天湯津彦命(安芸邦造等祖)  天神魂命(葛野鴨縣主等祖)
天三降命(豊国宇佐国造等祖) 天日神命(縣主対馬縣主等祖) 乳速日命(広湍神麻連等祖) 八坂彦命(伊勢神麻続連等祖)
伊佐布魂命(倭文連等祖) 伊岐志邇保命(山城国造等祖) 活玉命(新田部直等祖) 少彦根命(鳥取連等祖)
事湯彦命(畝尾連等祖) 八意志兼神児表春命(信乃阿智祝部等祖) 次下春命(武蔵秩父国造等祖) 月神命(壱岐縣主等祖)

五部人

天津麻良(物部造等祖)   天勇蘇(笠縫部等祖)   天津赤占(為奈部等祖) 富富侶(十市部首等祖)   天津赤星(筑紫弦田物部等祖)

五部造

二田造 大庭造 舎人造 弉蘇造 坂戸造

天物部等二十五部人

二田物部 当麻物部 芹田物部 馬見物部 横田物部
嶋戸物部 浮田物部 巷且物部 足田物部 清尺物部
田尻物部 赤間物部 久米物部 狭竹物部 大豆物部
肩野物部 羽束物部 尋津物部 布都留物部 経迹物部
讃岐三野物部 相槻物部 筑紫聞物部 播磨物部 筑紫贄田物部

船長、舵取等

天津羽原(船長跡部首祖)   大麻良(舵取阿刀造等祖) 天津真浦(船子倭鍛師等祖)
天津麻占(笠縫等祖)     天都赤麻良(曽曽笠縫等祖) 天都赤星(為奈部等祖)

 

 これらの中には女性名と判別できる名は存在しない。また、そのほとんどは後の時代の豪族の祖になっている。これらの事実は、饒速日尊の従った人物もマレビトであったということを示している。    

 

 マレビトの出身地

二十五部の物部の出自地が次のように推定されている。

 

物部 出身地 移動先
二田物部 筑前 鞍手郡二田郷、筑後 竹野郡二田郷、筑後 浮羽郡二田郷 和泉 和泉郡上泉郷二田
芹田物部 筑前 鞍手郡芹田 大和 城上・城下・平群各郡芹田
横田物部 筑前 嘉麻郡横田村 大和 添上郡横田村
浮田物部 大和 葛下郡浮田村
疋田物部 筑前 鞍手郡疋田、讃岐 大内郡疋田 大和 城上郡疋田、大和 添下郡疋田郷、大和 葛下郡疋田
田尻物部 筑前 上座郡田尻村、筑後 三池郡田尻 和泉 和泉郡田尻、大和 葛下郡田尻、摂津 能勢郡田尻村
久米物部 伊予 久米郡、喜田郡久米郷 摂津 住吉郡榎津郡来米、大和 高市郡来米郷
大豆物部 筑前 穂波郡大豆村 大和 広瀬郡大豆村
羽束物部 摂津 有馬郡羽束郷、山城 乙訓郡羽束郷
讃岐三野物部 筑前 筑紫郡美濃、 河内 若江郡三野、讃岐 三野郡
筑紫聞物部 豊前 企救郡
筑紫贄田物部 筑前 鞍手郡新分郷
当麻物部 肥後 益城郡当麻郷 大和 葛下郡当麻
鳥見物部 豊前 企救郡足立村富野 大和 添下郡鳥貝
馬見物部 筑前 嘉麻郡馬見郷 大和 葛下郡馬見
嶋戸物部 筑前 遠賀郡島戸
菴宜物部 伊勢 奄宣郡奄芸郷
酒人物部 摂津 東生郡酒人郷、河内 古市郡尺度郷、
赤間物部 筑前 宗像郡赤間 播磨 飾磨郡英馬
狭竹物部 筑前 鞍手郡粥田郷小竹 大和 城下郡狭竹村
肩野物部 肥後 片野 河内 交野郡
尋津物部 豊前 上毛郡広津 大和 城上郡尋津、河内 丹比郡広来津村
住道物部 摂津 住吉郡住道郷
相槻物部 大和 十市郡両槻村
播麻物部 播磨 明石郡

 いずれも北九州の倭国加盟領域の人物であり、饒速日尊が統一した地域の人物が多い。このことは、マレビトをかき集めたのは饒速日尊であることを意味している。饒速日尊が四国や丹波国を統一している間に、高皇産霊神はこれら地域の人々に新技術を伝え、マレビトを育てていたのである。

 高皇産霊神は丹波国統一から戻ってきた饒速日尊にマレビトを引き連れて近畿地方に降臨施与との命令を下した。饒速日尊は高皇産霊神によって育てられたマレビトたちを引き連れて近畿地方へ向けて出港することにした。マレビトの出身地から推察して饒速日尊の出港地は遠賀川河口であろう。

 これだけの陣容を何とかそろえ、饒速日尊は大阪湾岸地方を目指して遠賀川河口を出港した。紀元25年ごろのことと思われる。この時マレビトたちは15歳前後の人物でないかと考えられる。これは、あたかも高皇産霊神の先祖である徐福が、中国から出港するときに多数の童男童女を引き連れてきたのと発想が同じである。高皇産霊神は徐福の行動を参考にしたことであろう。

天岩戸神話との関係

 天孫降臨随伴メンバーの天太玉命、天細売命、天児屋命は天岩戸神話に登場する人物である。また思兼神の子表春命が参加している。このことは天岩戸神話の舞台は天孫降臨直前ということになる。古代史の復元では天岩戸そのものは三種の神器の登場(三種の神器は古墳時代に製造されたものと思われる)により第10代崇神天皇6年の日食であると推定しているが、岩戸前での宴会の場面は登場メンバーがこの頃の人物に集中しているのでこの頃(AD25年頃)のものと思われる。

 天の岩戸前の宴会は何を表しているのか判断の難しいところであるが、場所と時代を特定して宴会の正体を探ってみようと思う。

人物名 天孫降臨人物 天の岩戸での役割
思兼神 深く思慮をめぐらし、常世之長鳴鳥を集めてそれぞれ長く鳴かせた。
手力雄神 思兼神の指示で磐戸の側に立つ
天児屋命 天香山の繁った榊を掘り起こし、上の枝には八坂瓊之五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡あるいは眞経津鏡をかけ、下の枝には青い布帛と白い布帛をかけ共にに祈祷をした。
太玉命 天香山の繁った榊を掘り起こし、上の枝には八坂瓊之五百箇御統をかけ、中の枝には八咫鏡あるいは眞経津鏡をかけ、下の枝には青い布帛と白い布帛をかけ共にに祈祷をした。
天鈿女命 に蔓(つる)を巻きつけた矛を持ち、天石窟戸の前に立って巧に俳優を作す。また、天香山の榊を鬘としてまとい蘿を襷にし、火を焚き桶を伏せて置いて、顕神明之憑談をした。
石凝戸邊 作った八咫鏡を上の枝にかける。(一書)
天明玉 作った八坂瓊之曲玉を中の枝にかける。(一書)
天日鷲 作った木綿(ゆふ)を下の枝にかける。(一書)

 登場人物の多くが天孫降臨メンバーであることから、この宴会が行われたのは天孫降臨直前(AD25年頃)と考えられる。 次に宴会の場所であるが、天孫降臨メンバーの一人である天三降命は伝承では宇佐津彦の祖であり、天孫降臨直前に宇佐を統治していたと思われる。 また、思兼命は別名二代目高皇産霊神で、同じくこのあたりを支配していたと思われる。宇佐周辺で宴会を開きそうな場所と言えば、 素盞嗚尊と天照大神が都を作ろうとしていたと思われる安心院を置いてほかはない。

 素盞嗚尊はAD10年頃北九州統一後宇佐地方を最初に統一し、ここを起点として南九州を統一した。AD15年頃倭国統一の拠点となっているここに倭国の都を作った。その場所が安心院の地である。AD18年頃ここ(三女神神社)で三女神が生まれている。三女神神社の前の河原は、安心院と外部との交流の玄関口と思われ、ここが宴会場所(天安川原)に最適である。

 宴会の目的はメンバーから考えて、天孫降臨の成功を祈った儀式のように思える。饒速日尊による天孫降臨はまだ統一されていない近畿地方以東の統一を図る重要な作戦で、これが失敗すると日本列島を一つにまとめ上げることはできないことになる。そのため、高皇産霊神は盛大に宴会を開いて送りだしたのであろう。神話ではこの時三種の神器が造られたことになっているが実際は素盞嗚尊が饒速日尊に渡したと言われている十種神宝ではないだろうか。素盞嗚尊は旅立っていく饒速日尊に日本列島統一のシンボルとして十種神宝を渡したのであろう。この宴会はその伝達の儀式でもあったと思われる。

 縄文国家飛騨国の存在は日本列島平和統一を目指す素盞嗚尊にとっては最も扱いが難しい存在であった。しかし、素盞嗚尊自身が飛騨国から妻(神大市姫)を迎え、饒速日尊が飛騨国の春建日姫の養子となるなど飛騨国も統一に協力してくれるという状況が整ってきた。また、饒速日尊によって、飛騨国から飛騨国王子とされている大山祇命(天活玉命=ウガヤ朝68代宗像彦)を九州に迎えることができた。

 大山祇命は素盞嗚尊・高皇産霊神・日向津姫等に会い、東日本地方一帯の縄文人に日本列島統一に協力させることを約束した。交換条件として新しい統一国家の国名をヒノモトとし、飛騨国の祭祀を受け継ぐ、そして、飛騨国の養子となった饒速日尊がその国王となることが要求された。倭国と別の国を作ることになるが、最終的に双方の後継者を結婚させて日本列島を一つの国にすると云うことで両者の意見が一致し、天孫降臨団を編成することになった。この中に大山祇命(天活玉命)も加わった。

 高皇産霊神は饒速日尊にマレビト作戦と共に東日本全体の統一を指示した。饒速日尊はその命を快く引き受け早速北九州一帯に散らばっている有力者をかき集めたのである。この計画は高皇産霊神が立案し彼の助けのもとで協力者が集まってきたのである。

 十種の神宝

 饒速日尊は大和に天降るとき天神から十種の神宝を授かっている。
伏見神宝神社に意味が記録されている。

十種神宝一覧

澳津鏡 オキツカガミ 遠くをはるかに見渡す
辺津鏡 ヘツカガミ 微細なものを明らかにする
八握剣 ヤツカノツルギ 英断の象徴 布都御魂剣・素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った剣
生魂 イクタマ 命の拠り所を司る
足玉 タルタマ 満足をあらわす
死反魂 マカルガエシノタマ 黄泉返る。起死回生をあらわし決別を現す
道反玉 チガエシノタマ 生命力。負に引き込まれない反発力を現す
蛇比礼 ヘビノヒレ 恐怖を祓い勇猛心と大地の清めを現す 須勢理毘売が大穴牟遅神に授けた
蜂比礼 ハチノヒレ 天空を祓う急所の防備 須勢理毘売が大穴牟遅神に授けた
品物比礼 クサグサノモノノヒレ もろもろの一切を祓う

ひれについて

古事記の大穴牟遅神に関する記事の中にある。

 須佐之男命は大穴牟遅神を家の中へ呼び入れ、蛇の部屋に寝かせた。すると、妻の須勢理毘売が、「蛇の比礼」を夫に授けて、「蛇が喰おうと襲ってきたら、この比礼を三度振って打ち払いなさい。」と言った。そこで、その通りにしてみると、蛇は自然と鎮まった。そうして、大穴牟遅神はそのままぐっすりと眠り、平気な顔で蛇の部屋から出て来た。

大穴牟遅神が再び訪れた夜、須佐之男命は百足と蜂の部屋に寝かせた。すると、また須勢理毘売がやって来て、「百足と蜂の比礼」を授け、先日と同じように教えていった。そこで、大穴牟遅神はまたまたぐっすりと眠り、何食わぬ顔で百足と蜂の部屋から起きて来た。

 この2種のひれは十種神宝のひれのようである。十種神宝ははっきりしているものはすべて素盞嗚尊とかかわりがあるものである。このことから饒速日尊に神宝を授けた天神とは素盞嗚尊であることが分かる。

 これらの神宝のうち息津鏡と辺津鏡は丹後の籠神社に神宝として保存されている。息津鏡は前漢の内行花文昭明鏡で、辺津鏡は新~後漢初期の長宜子孫内行花文鏡である。近畿地方にはこの当時全く存在しない形式の鏡であり、この鏡が饒速日尊を主祭神とする籠神社に伝世されていることはこの伝承の正しさを裏付けているといえる。時期としては辺津鏡の長宜子孫内行花文鏡が新~後漢初期頃鋳造されたもので、西暦紀元ごろから紀元50年ごろのものである。息津鏡が紀元前1世紀後半のものであることとあわせ、紀元25年ごろ饒速日尊が天降ったというのは時期的に整合している。

 大歳命は北九州一帯の有能な人物をかき集めて、遠賀川河口を出発した。最初の行き先は安心院である。素盞嗚尊・高皇産霊神が豊国周辺の有力者を安心院に集めていたのである。安心院でその一団は合流し、天孫降臨団となった。この一団の団長である大歳命(饒速日尊)にその証である十種神宝をわたし、作戦の成功を祈って儀式をして送りだしたのである。

 天孫降臨その後

 天孫降臨団を送り出す少し前にイザナミ命が出雲で亡くなっている。これが、天照大神の岩戸隠れ、すなわち天の岩戸の暗闇を意味しているのであろう。素盞嗚尊は天孫降臨団を送り出した後、出雲に帰還している。これも記紀神話の出雲追放に対応していると言える。天照大神(日向津姫)はこの後、この地で高皇産霊神を補佐として、倭国統一のために尽力している。

 日向津姫と高皇産霊神との関係

 日向津姫と素盞嗚尊の間には5男3女がある。5男は天忍穂耳尊・天穂日命・天津彦根命・活津彦根命・熊野楠日命で、3女は宗像三女神(田心姫・湍津姫・市杵嶋姫)である。この中で天忍穂耳命は高皇産霊神の養子となり北九州東部地域を統治し、天穂日命は出雲を統治した。宗像三女神は実は市杵島姫一人で三女神は異名同神と考えることができる。田心姫・湍津姫・市杵嶋姫は饒速日尊の飛騨系の妻三人を意味しているようで、記紀を編集するときに饒速日尊の妻三人を日向津姫・素盞嗚尊の娘市杵島姫と重ねたために、三女神の異名同神を作ることになったと考える。

 残る3男が全くの正体不明である。天津彦根命・活津彦根命・熊野楠日命である。記紀神話にも神社伝承にも具体的行動が全く存在しない。記紀神話に於いて名前だけで行動が全く示されていない神の正体は、ある神を別の神名で呼んでいる場合か、あえて行動を抹殺している場合、行動が不明の場合である。この3命は天照大神の子であるから、行動不明とか、不都合とかいうのは考えにくく、最初の別の同一人物(異名同神)がいる場合の可能性が高い。瓊々杵尊の正式名称が天津彦根火瓊々杵尊であることから天津彦根命=瓊々杵尊と推定できる。そうすると、活津彦根命=日子穂々出見尊・熊野楠日命=鵜茅草葺不合尊と考えられる。記紀では瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊は日向三代と呼ばれ直系の関係であるが、天照大神(日向津姫)から神武天皇まで5世となるが、大和では天照大神と同世代と思われる饒速日尊から神武天皇の皇后の媛蹈鞴五十鈴媛命まで2世である。明らかに年代が合わない。瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊が兄弟であるとすれば年代がほぼ一致するのである。よって、天津彦根命・活津彦根命・熊野楠日命の三命は瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊であると想像する。

 ではなぜ、瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊を天津彦根命・活津彦根命・熊野楠日命と名前をすり替えたのであろうか。これと、天の岩戸後の天照大神の神話に登場する状態の変化に注目してみたい。天の岩戸までは天照大神は単独で登場する。ところが、天の岩戸の後は、必ず高皇産霊神とペアで登場するのである。これは、天の岩戸の後、高皇産霊神の力が強くなっていることを意味する。

「昔我が天神,高皇産霊尊,大日霎貴が,この豊葦原の瑞穂の国を瓊々杵尊に授けた」(神武天皇即位前紀)。また、神武天皇東遷時、八十梟帥を討つ前,五百箇の真坂樹をもって諸神を祭ったときに,神武天皇自身が神懸かりしたのは,「今高皇産霊尊を以て,朕親ら顕斎を作さむ。」とあるとおり,高皇産霊神だった(神武天皇即位前紀戊午9月)。これらは高皇産霊神は明らかに天照大神以上の存在であることを意味している。
 日本書紀では「皇祖高皇産霊神は 我が娘のタクハタチヂヒメと天忍穂耳尊の間に生まれた瓊々杵尊を葦原中国の主にしようと思い 神々と協議して天穂日命を葦原中国に遣わした。」ここでは高皇産霊神を「皇祖」と記している。

 このことから、瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊の父が高皇産霊神ではないかと考えるのである。もしそうであるなら、高皇産霊神が天照大神以上の皇祖として扱われていること、瓊々杵尊・日子穂々出見尊・鵜茅草葺不合尊を天津彦根命・活津彦根命・熊野楠日命としていることも説明できる。

 日向津姫は素盞嗚尊と結婚し安心院の地で2男1女をもうけたことになる。安心院で素盞嗚尊と生活していたのはAD18年頃からAD25年頃までの8年ほどである。しかも素盞嗚尊はこの間に紀伊国を統一している。8年で8人を産むのはかなり無理があると思われ、二人の間の子は2男1女であろう。

 天岩戸事件は高天原に登ってきた素盞嗚尊が乱暴を働いて起こったものである。その後、素盞嗚尊は高天原から追放されている。これは、日向津姫の素盞嗚尊との離別を意味し、その後高皇産霊神との再婚を果たしたことを意味することになる。日向津姫は倭国の重要人物であるため、その再婚は周りの人々から祝福されねばならず、天岩戸神話はその再婚の儀式を表している可能性もある。

 素盞嗚尊との離別、そして高皇産霊神との再婚

 日向津姫と素盞嗚尊はどうして別れなければならなかったのだろうか?素盞嗚尊は安心院を引き払った後、出雲の佐田神社の地に移動している。その川下に姉山と云う山があり、天照大神が素盞嗚尊に会うためにここに滞在したことが伝えられている。このことからこの両者はけんか別れと云うものではないことが分かる。おそらく、倭国の将来を考えての離別だったのであろう。伊弉冊尊が出雲で亡くなった直後の出雲帰還であることから出雲での伊弉冊尊の業績を引き継ぐための帰還であることが考えられる。この時、素盞嗚尊は日向津姫も出雲に引き連れていくことも考えたであろうが、南九州がまだ未統一であることを考慮し、日向津姫に南九州統一を託したと思われる。そのためには協力者が必要であり、それが高皇産霊神であったのであろう。素盞嗚尊が高皇産霊神と日向津姫との再婚を認めたのではないか。天照大神の岩戸隠れは素盞嗚尊との離別を意味し、岩戸開きは高皇産霊神との再婚を意味していることになる。岩戸前の宴会は天孫降臨団の出発の儀式であると同時に高皇産霊神と日向津姫との再婚の儀式であったのであろう。

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