三輪山信仰の始まり

 大和での三輪山信仰の始まり。三角形が大和朝廷のシンボルとなる。

饒速日尊の死

暦の始まり

 紀元25年ごろ近畿地方にマレビトとして入り込み、ヒノモトを作った饒速日尊は40年ごろまで、近畿地方一帯を統一し、ヒノモトの安定政権を作るのに努力をした。

 唐古・鍵遺跡の中心と考えられる祭祀遺構に鶏と考えられる土製品があり,この地から冬至の日に三輪山の山頂から昇ってくる朝日を見ることができる。このことは,当時の人々が, 冬至の日に出てくる太陽を崇めていたことを意味する。そして,唐古・鍵遺跡が巨大化し始めたのが,饒速日尊が入ってきた中期末頃と判断されていることから考えて,饒速日尊は, 農耕のための暦も広めたのではないかと判断する。

 この当時、国家を平和的に維持するには、農業特に稲作は重要な要素である。スサノオから受け継いだ方法により、大和盆地で稲作をするための作業をする時期を日の出の方向から 判断できるようにした。この当時一年で一番重要な日は、冬至の日であった。一年で一番太陽が南から昇り、この日を境に太陽が復活するのである。饒速日尊は三角形の山頂から太陽が昇ってくる 姿が好きだったようで、冬至の日に三輪山山頂から太陽が昇ってくる位置に唐古・鍵の小さな集落があった。饒速日尊はこの位置に祭礼施設を作り、ここを中心として祭礼を行い、 それを元に、農業を行った。このとき、饒速日尊は三輪山の形(三角形)をヒノモトのシンボルとして、いろいろな祭器に刻み込ませた。これが、鋸歯紋の始まりである。

 饒速日尊の本来の目的は、「近畿地方以東を統一せよ。」とのスサノオの遺命の遂行であった。ヒノモトの基礎固めのために15年ほどを費やした。この15年の間に近畿地方は安定した。 東日本地方はこの時点でまだ未統一であった。東海地方から来る人々の話では多くの人々が住んでいて、小国家が少しづつ誕生してきているそうである。このままにしておけば、ヒノモトはいずれ、 これらの国々との戦争になる危険性もあった。早めに統一する必要性に駆られた。饒速日尊はこの15年の間に大阪湾岸地方の人々に、東日本地域の統一の必要性を訴え続けていた。 饒速日尊は近畿地方に新技術の導入を行い、自分たちの生活ががらりと変わり、近畿地方の人々から神のように敬われるようになっていた。その饒速日尊の言葉を受け入れ、 人々の間に東を統一しなければならないという意識が次第に育ってきていた。紀元40年頃のことである。

 饒速日尊は、ミカシヤヒメとの間にできたウマシマヂが大きく成長し、東日本を統一する時期が到来したと判断し、大阪湾岸地方の人々を大勢引き連れて、東海地方を初めとして、 東日本一帯に新技術を広める旅に出た。それぞれの国々を回り、そこに住む人々に新技術を伝授する代わりにヒノモトへの加盟をするように言った。現地の人々は、うわさにより、 ヒノモトの状態は知っていた。饒速日尊の伝える技術で生活が楽になるとのことなので、多くの国々はヒノモトに次々と加盟していった。

 ヒノモトに新しく加盟した地域には、大阪湾岸地域から何人かを派遣し共同生活をすることにより、先進技術を現地の人々に伝えた。派遣された人々は、現地の人々から神のように扱われ現地に土着し、 その地方で亡くなった。その結果、方形周溝墓が急激に広まったのである。

大和帰還後の饒速日尊

 陸奥国南半分を統一して大和に帰還してきた。AD60年頃と思われる。AD40年頃、東日本統一事業を行ってから20年ほどたっていた。饒速日尊も齢70程になっていた。饒速日尊にはまだやるべきことが残っていたのである。東日本に未統一地域が残っていることと、倭国との大合併である。しかし、饒速日尊に余命はほとんど残っていない。体力の衰えも顕著になってきた。もう自らですべてをこなすことができなくなったのである。若い次の世代にやらねばならないことを託さなければならなかった。饒速日尊がやらなければならないことは次のとおりである。

 ① 伊勢地方の統一
 ② 越後国内陸部の統一
 ③ 安房国の統一
 ④ 陸奥国北部の統一
 ⑤ 西倭との大合併
 ⑥ 東倭との大合併

 出雲国と大和国の後継者交代について

  伊勢地方は饒速日尊の統一地域から漏れてしまっていた。近くであるからいつでも統一できると思われ、後回しにされたのではないかと思う。逆に大和国のすぐ近くなので、少しでも早く統一しなければならず、これが最優先課題となった。伊勢地方の統一を任せることができるのは、ウマシマヂ、猿田彦命、事代主命、味耜高彦根命、高倉下命などである。それぞれ任地で活躍中であった。ウマシマヂは関東地方、猿田彦は東倭、事代主命は大和、高倉下命は紀伊国をそれぞれ統治中であった。味耜高彦根命は西倭との合併交渉に必要であり、すぐに伊勢地方統一に回せる人物はいなかった。神社伝承から判断すると、伊勢地方を統一したのは猿田彦命となる。出雲国は猿田彦と入れ替わるように事代主命が継いでいる。どういった事情がこのような継承をさせたのだろうか。

事代主命の謎

 饒速日尊の子である事代主命は二人いる。積歯八重事代主命(別名猿田彦)と玉櫛彦(別名事代主)である。三輪高宮家系譜によると、大国主命(饒速日尊)の子が積歯八重事代主命でその子が玉櫛彦で、その子が天日方奇日方命である。天日方奇日方命は神武天皇と同世代で、饒速日尊はその2世代前となるので、この系図は1世代多い。ありえないことではないが、積歯八重事代主命と玉櫛彦は同世代ではないかと考えられる。饒速日尊の子が積歯八重事代主命・玉櫛彦・下照姫の三人で、日本書紀での大国主命の子の味鋤高彦根命・事代主命・下照姫の三人と対応している。この味鋤高彦根に該当するのが、積葉八重事代主命であろう。

 神社伝承を調べると、積葉八重事代主はこの後出雲を統治し、江津市の多鳩神社に御陵が存在している。玉櫛彦は賀茂一族の賀茂建角身命の娘の活玉依姫と結婚し、天日方奇日方命及び神武天皇の皇后になった媛蹈鞴五十鈴姫が誕生しており、饒速日尊の正式な後継者は玉櫛彦と考えられる。

 先代旧事本紀・地祇本紀(9世紀前半)に「(大己貴命の子)都味歯八重事代主神、倭国高市郡高市社(河俣神社)に坐す」。
また、出雲国造神賀詞に
 「大名持命が申されるには、この大倭の国は皇孫命の鎮まられるべき国であることから、自分の和魂を八咫鏡により憑かせて・・・大御和(大三輪)の神奈備に鎮め坐させ、御子のアジスキタカヒコネ命の御魂を葛木の鴨の神奈備に坐させ、同じくコトシロヌシ命の御魂を宇奈提(河俣神社)に坐させ、同じくカヤナルミ命の御魂を飛鳥の神奈備に坐させて・・・」
 とあることから、玉櫛彦の御陵は橿原市雲梯町の河俣神社の地と考えられる。

 玉櫛彦は倭国とヒノモトの大合併時の伝承が全くないことから、饒速日尊が亡くなった後間もないAD70年頃亡くなったものと考えられる。

 猿田彦の謎

 猿田彦は出雲にいたころの大歳命(饒速日尊)の子であり、AD10年頃誕生している。その後、佐太大社の地で出雲国をまとめ、紀伊国からやってきた伊弉冊尊の道案内をしていた。AD25年頃伊弉冊尊が亡くなった後、伊弉諾尊とともに北九州にわたり、北九州地方を統治した。この時素盞嗚尊と日向津姫との間にできた市杵島姫と結婚していた。AD44年頃第二代倭国王大己貴命が急死したため、国譲り後の出雲を統治するために再び出雲を統治した。出雲を統治するとき天細女を妻とした。

 猿田彦命は出雲の統治をしていたのであるが、猿田彦は賀茂別雷命(岐阜県安八郡輪之内町下榑字東井堰13017の加毛神社では祭神神別雷命を白髭明神と称している。)、住吉神、大山咋神などと言う別名を持っており、方々に祭られている。これは、出雲でおとなしく統治していたのではなく、倭国・ヒノモトを行き来して、地方開拓に協力していたことを意味している。出雲は出雲王朝の鳥鳴海命が統治していたと思われる。

 出雲地方はこの後、猿田彦の娘とタケヒナドリの長男が結婚して素盞嗚尊祭祀を継続している。出雲国の祭祀権は猿田彦命が持っていたわけである。その猿田彦に伊勢地方統一を命じ、事代主命に東倭の統治を命じているのはどうしてなのであろうか。これを東倭とヒノモトの合併工作の一環として捉えられないだろうか。出雲国は東倭の中心となっている国で、西倭と共にヒノモトと合併する必要がある。そのためには、ヒノモトの実態をよく知っている人物が東倭の統治者となると饒速日尊にとっても都合がよいのである。それが事代主命である。彼は猿田彦の異母弟であり、素盞嗚尊の血を引いているので、出雲の人々の納得は得られやすかったのであろう。猿田彦命は中国・近畿地方一帯を頻繁に巡回しているので伊勢地方の事情にも詳しかったと思われる。饒速日尊が亡くなる直前にこの計画は実行された。

 越後国内陸部や安房国(房総半島)、陸奥国北部に於いては、遠方でもあり、大合併後の新政権に任せることとした。残るは合併論議であるが、これを推し進めるまでもなく饒速日尊は亡くなったのである。

三輪山信仰の始まり

 饒速日尊は,東日本地域統一後、紀元55年ごろ再び大和に戻ってきて、ヒノモト全体を統治した。再び大和に戻ってきた饒速日尊はウマシマジに統治を任せ、自らは宇陀地方の磐舟の地を拠点として 奥地の小集落と交流し、最後は初瀬川上流の白木の地で隠棲したものと考えられる。

饒速日尊は白木の地で75歳前後で没した。紀元65年頃であろう。

 先代旧事本紀に次のような記事がある。

高皇産霊尊は速飄神(はやてのかみ)に
「我が神の御子の饒速日尊を葦原中国に使わした。疑わしい事がある。汝は降って調べて報告しなさい。」
と命じられた。速飄命は命令を受け天降り、亡くなられた事を見て天に帰り復命して
「神の御子は既に亡くなられました。」
と報告した。高皇産霊尊は哀れと思い、速飄命を使わして、饒速日尊の遺体を天上に上げ、その遺体の側で七日七夜、騒ぎ悲しまれた。天上に葬られた。
饒速日尊は夢によって妻の御炊屋姫に
「我が子を私の形見としなさい。」
と言い、天璽の御宝を授けた。また、天羽羽弓(あまのははゆみ)と天羽羽矢(あまのははや)、また神衣帯手貫(かみのみそおびたすき)の三物を登美白庭邑(とみのしらにわのむら)に埋葬した。 これを持って墓と為した。

 これによると、饒速日尊の遺体は天上にあり、地上には登美白庭邑に遺品を埋葬して墓としたことになっている。遺品の墓は伝承から判断して生駒市総合公園北側山中の檜の窪山であろう。 ここには饒速日命墳墓と書かれた石碑が立っている。それでは遺体はどこの葬られたのであろうか。天上というのは当然ながらありえない。天上と判断できる場所と言うことになる。

 生前,三輪山から昇ってくる太陽を崇拝していた饒速日尊は,その死後,穴師山に葬られ,ヒノモトの開拓者・皇祖・太陽神・天照大神として人々から崇められた。饒速日尊は農業開発をしたため,農業の神としても知られ,三輪山の山の神遺跡では小型鏡や子持ち勾玉,石製模造品や土器の他に農具や食器を模した土製品が奉られた。 そして,三輪山の形(三角形・鋸歯紋)が饒速日尊のシンボルとして,後の饒速日尊の祭器(平型銅剣・大阪湾型銅戈・銅鐸)に刻み込まれることになるのである。

饒速日尊の後継者

 饒速日尊はマレビトとして大和に入り込んだため、方々に数多くの子供が誕生している。饒速日尊がヒノモトの初代国王になったので、その後継者が必要となる。東日本統一には玉櫛彦命と共に行動しており、後継者は玉櫛彦命(事代主命)であることがわかる。

 玉櫛彦命は第二代倭国王大己貴命が急死するまでは饒速日尊と共に東日本統一事業に参加していたが、大己貴命の急死により出雲国譲りが行われて以降、大和国内から動いた形跡が見られない。おそらく、国譲りによって後継者の存在が重要であると感じた饒速日尊が後継者として玉櫛彦を認定し、その後継者を育成するために、大和国内に残したものと判断される。

 饒速日尊が出羽国統一に向かったAD50年頃、賀茂建角身命の娘活玉依姫と結婚し天日方奇日方命(賀茂別雷命)及び、媛蹈鞴五十鈴姫が誕生した。このようにしてヒノモトの後継者は安定することとなった。

賀茂氏・饒速日尊関係系図

                       ┏━玉依彦━━五十手美命━━━━麻都躬之命
            ┏━━鴨建角身命━━━┫
            ┃          ┗━玉依姫┓┏天日方奇日方命━━飯肩巣見命━建甕尻命
            ┃               ┣┫ (賀茂別雷命)
 神皇産霊神━天櫛玉命━┫          ┏玉櫛彦命┛┗媛蹈鞴五十鈴媛命┓ 
       (大山祇)┃          ┃(事代主)         ┣綏靖天皇
            ┗天知迦流美豆比売┓ ┃          神武天皇┛
                     ┣━┫
 素盞嗚尊━━饒速日尊━━━━━━━━━━┛ ┣積羽八重事代主━天八現津彦命━観松彦伊呂止命
                       ┃
                       ┗下照姫

 饒速日尊が亡くなった後、饒速日尊の後継者は言代主であるが彼は出雲国に旅立っており、その娘イスケヨリヒメとなった。まだ幼少であるので、饒速日尊と共に東日本統一に参加した 長男のウマシマヂが後見として実質ヒノモトを治めた。

 実質ヒノモトの後継者となったウマシマヂは、ヒノモトを治めようとしたが、マレビトとしての饒速日尊の子供が方々に誕生しており、それらの間の後継者争いが大和国内で発生することとなった。饒速日尊にはカリスマ性があったので、彼が存在しているだけで大和国はおさまっていた。しかし、彼が亡くなると大和国内が不安定化してきた。

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猿田彦の活躍
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