卑弥呼魏への朝貢
卑弥呼は魏へ朝貢した。その前後の状況を調べてみよう。青字は魏志倭人伝、赤字は日本書紀
AD234年
新羅、倭国と和解(新羅本紀)
魏に使いを出して和親した。(高句麗本紀)
AD236年
呉の孫権が使いをよこして和親することを乞うた。王はその使いを斬り、首を魏に伝えた。(高句麗本紀)
公孫淵は魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、魏の皇帝曹叡から上洛を求められたが拒否した。
AD237年(景初元年)
七月、公孫淵は呉の孫権に呼応し て魏に反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称するにいたる。年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどした。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属したが、帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻った。公孫淵が司馬懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国)
を味方にした。
魏に使いを出し、年号を改めたのを祝賀した。(高句麗本紀)
AD238(景初2年 )
正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼした。帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して公孫氏の領有下にあった。
魏が公孫淵を討つので、王は主簿大加を派遣してこれを助けた。(高句麗本紀)
六月に、倭の女王が大夫難升米等を遣わして帯方郡に到来し、天子に詣うでて朝献したいと要請した。太守劉夏は、使いを遣わして彼らに随行させ、都に詣でさせた。
その年(238年?)の12月、以下の文書を倭の女王に送った。「親魏倭王卑弥呼に申し伝える。帯方郡の太守劉夏は使いを使わし貴方の大夫難升米・次使都市牛利を送らせ、貴方の献上した男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉って到着した。
貴方がいる所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを派遣して来た。これは貴方の忠孝の表れであり、うれしく思う。
今貴方を親魏倭王としてたたえ、金印紫綬(しじゅ)を授け、封印した後帯方郡の大守に授けさせる。貴方は、それを人々に示し、人民を服従させなさい。貴方の使者難升米・牛利は、遠い所を渡って来て長旅をしてきた。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉として、銀印青綬を授け、引見して労をねぎらい(倭へ)帰す事にする。
AD240年(正始元年)
元始元年(240年)、魏は太守弓遵、建中校尉梯儁等を派遣して、詔書・印綬を捧げ持って、倭国を訪問し、倭王に拝謁し、ならびに詔をもたらし、金帛・錦ケイ・刀・鏡・采物を授けた。倭王は、使に答えて上表し謝意を示した。
AD242年
高句麗は遼東西安平を襲って破った。(高句麗本紀)
AD243年
倭王も使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を(魏へ)派遣し、生口・倭錦(わきん)・絳青ケン(こうせいけん)・緜衣(めんい)・帛布・丹・木フ・短弓 矢を献上した。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を授かった(壱拝す)。
AD244年
魏の将軍毌丘倹による1回目の高句麗侵攻が行われた。高句麗東川王(位宮)は2万の兵を率いて迎え撃ったが連戦連敗し、丸都城を落とされ千人が斬首された。毌は将兵の墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属しなかった。
AD244年
前半 開化60年 開化天皇崩御
後半 崇神元年 崇神天皇即位
AD245年(正始6年)
高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。
ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。この戦いで弓遵は戦死した。
東川王は魏軍が引き上げた後に平壌城を築城した。
軍を出して新羅の北辺を侵した(高句麗本紀)
倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
AD247年(正始8年)
太守王キ官に到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。
AD248年
新羅が使いを派遣し和を結んだ。東川王没、中川王即位(高句麗本紀)
AD249年
前半 崇神10年 武埴安彦の乱 卑弥呼死 四道将軍派遣
後半 崇神11年 四道将軍復命 魏の張政来日
塞曹掾史張政等を派遣して、詔書・黄幢をもたらし、難升米に授け、檄文を為(つ く)って戦いを激励した(告喩す)。
卑弥呼以て死す。大きな冢(ちょう:つか)を作った。直径百余歩で、徇葬する者は奴婢百余人。程なく男王を擁立したが、国中の混乱は治まらなかった。戦いは続き千余人が死んだ。そこで卑弥呼の宗女(一族の意味か?)壹与(いよ)年十三才を擁立して女王となし、国中が遂に治まった。政等は、檄文を以て壹与を激励した。
卑弥呼魏に朝貢
公孫氏滅亡
公孫康の死後(215年頃)、その子淵・が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・曹丕)により、車騎将軍・襄平侯に封じられた。しかし、228年成長した公孫康の子の公孫淵は恭の位を奪い取り、魏の曹叡(明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられた。
しかし、公孫淵は自立心が非常に強く、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められたが拒否した。翌年237年七月、公孫淵は呉の孫権に呼応して魏に反旗を翻して独立を宣言。遼東の襄平城で燕王を自称し、年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどした。
帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属したが、帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻った。魏は公孫淵の行動に怒り、帯方郡と楽浪郡を奪還することにした。
238年正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼした。
公孫淵が司馬懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡の太守は、帯方郡・楽浪郡を奪還する密命を受た。両太守は兵力がないために、甘言を弄して韓国(三韓諸国) を味方にし、帯方郡・楽浪郡を奪取したのである。
新羅は204年に帯方郡の属国になった。その属国の新羅と倭国・伽耶諸国・百済がAD234年まで戦ったのである。234年新羅は降伏し、倭国の一領域に戻った。通常ならこの時、倭国は帯方郡から攻撃を受けるはずであるが、この時、帯方郡が魏との確執のために倭国に手を出せない状況にあったのである。
倭国が新羅を攻めるということは背後にいる帯方郡を敵に回すことになるのではあるが、卑弥呼は新羅を降伏させるタイミングを探っていたようである。帯方郡が倭国に手を出せない時に新羅を降伏させていると思われるのである。
伽耶諸国と新羅が34年間戦っている間に倭国軍はほとんど直接は手を出していない。卑弥呼が倭国軍を派遣したのは、婆娑王が即位した直後と、新羅を降伏させた時と推定している。聡明であると思われた婆娑王を牽制する目的と、降伏させる目的と有効と考えられる2回の派遣である。帯方郡の動きを警戒していたためであろう。卑弥呼の知恵が優れていたあかしである。
魏への朝貢の意図
卑弥呼の使者が帯方郡を訪れたのはAD238年6月である。帯方郡太守劉夏が韓国の手を借りて、帯方郡を奪還したまさに直後のタイミングである。
それまで、倭国は帯方郡と対立関係にあったので、倭国が帯方郡を奪取した直後のタイミングで朝貢してくることは、劉夏にとってこれ以上ない程の喜びではなかったかと思われる。魏も帯方郡を直接支配した直後の訪問であるから、卑弥呼を特別扱いする程の歓待ぶりであったことは容易に想像がつく。
卑弥呼は新魏倭王として魏からかなり上位の地位を得ることに成功したのである。卑弥呼の238年の魏への朝貢は絶妙のタイミングだったわけである。
新羅は一応元の鞘に収まったが、いつまた独立しようとするかわからず、高句麗などの北方勢力の朝鮮半島への侵入が考えられ、朝鮮半島が再び混乱する恐れがあった。それを防ぐためにも、大国魏の後ろ盾が必要だったのである。
238年の朝貢に対する返事が240年、243年の朝貢に対する返事が245年である。共に朝貢に対して2年後に返事が行われている。247年の朝貢に対する返事(張政の派遣)は記されていないが、同じく2年後と考えれば249年である。この時、卑弥呼は亡くなった直後であった。卑弥呼の死は249年(崇神10年)である。
狗奴国との戦い
247年の朝貢時、狗奴国の男王卑弥弓呼との戦争状態の様子を報告している。247年は崇神6年である。狗奴国は元から大和朝廷に服属していなかった国なので球磨国(現熊本県)のことであろう。
球磨国とは219年(開化10年)に戦っており、247年時点でも戦っている。この後も第12代景行天皇の時代、仲哀天皇の時代も戦っており、戦いは断続的に行われていたと考えられる。
新羅本紀には234年に和解した後、暫らく倭国が登場しない。次に倭国が登場するのは278年(崇神30年)に「倭女王卑弥呼が和を乞うた」という記事である。この時卑弥呼は亡くなっているわけであるから、卑弥呼ではなく台与であろうと思われる。台与にしても、和を乞うということは、これ以前に倭国と新羅の関係は悪化していることを意味しており、新羅は倭国に対して何か画策していたと思われる。
新羅は234年に倭国に対して降伏したが、服従したわけではなく、球磨国を利用して再び反抗を企てていたのではあるまいか。240年の朝貢時には狗奴国のことは記録されていないので、球磨国が再び反旗を翻したのは245年頃のことであろう。
AD245年には開化天皇が亡くなり第10代崇神天皇が即位している。天皇の代替わりの時は反乱をおこすにはちょうど良いタイミングとなる。球磨国が再び反乱を起こしたのはAD245年であろう。
AD245年の出来事
AD244年前後には次のようなことが起こっている。
高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。
ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。この戦いで弓遵は戦死した。
東川王は魏軍が引き上げた後に245年平壌城を築城した。
245年3月 日本海地方(辰韓)の人々が美女を献じたので後宮に入れた。
245年10月、新羅の北辺を犯す。
248年2月 新羅側から使者を送って来たのを受けて新羅と和を結んでいる。
この出来事は球磨国の反乱と何か関係があるのではないだろうか。「韓」とは今の北朝鮮領域と重なる領域の国家群である。この国家群が楽浪郡に編入されてしまったのである。
倭国が魏の朝貢国になっているので、楽浪郡は倭国と友好関係にあった。楽浪郡に編入された韓は楽浪郡に対抗しようと高句麗に対して美女を献じ、高句麗の援助を受けようとした。高句麗は辰韓諸国の後援に回った。辰韓諸国の南にある新羅に手を出して、さらに勢力拡大を画策したのであろう。新羅は倭国に降伏してはいるが反抗する機会を狙っており、それを利用して新羅を高句麗領にしようと考えたと思われる。
新羅の最大の願いは独立である。倭国の一領域も望まず、高句麗領も望んではいない。しかし、このままじっとしていたのでは高句麗領になってしまう可能性があった。そこで、日本列島の球磨国とは王の間に血縁関係があり、友好関係にあったのを利用し、球磨国を新羅国と連合させ高句麗に対抗しようと画策したのではあるまいか。球磨国はAD219年頃の戦いで大和朝廷に対して降伏しているが、反撃の機会を狙っていた。新羅国の援助が受けられることを喜んでこの連合に加盟したものであろう。
球磨国にとっても、新羅にとっても目の上のタンコブのようになっているのが伊都国である。伊都国王の権限は強く、九州一帯を治めると同時に、朝鮮半島の監視役も行っているのである。新羅で何か起これば、伊都国王を介して大和朝廷に情報が伝わるのである。
球磨国が伊都国をつぶせば、倭国と魏の交流を断ち切ることができる。倭国と魏の関係が断ち切られれば、楽浪郡と倭国との関係が冷え込み新羅としては独立しやすくなるのである。これを土産に高句麗と有利な交渉ができるのである。それまで、高句麗の要求に対して明確な返答は避けていた。
AD246年球磨国が伊都国に戦いをしかけた。卑弥呼の情報網はしっかりしており、早速朝廷軍が応援に駆け付け、球磨国と大和朝廷の戦争が始まった。
これが、古代史の復元で推測している狗奴国との戦いである。
248年2月に新羅は高句麗と和を結んでいる。これは、この時点で、球磨国が有利に戦いを進めていたことを意味している。大和朝廷は狗奴国に対してかなり苦戦を強いられていたのであろう。
卑弥呼はこの戦いの様子を魏に伝えたのである。卑弥呼は球磨国の背後に高句麗・新羅国がいることを見抜いており、魏に対して高句麗・新羅を牽制してくれることを臨んだのであろう。
正始8年(247年)韓族との戦いで戦死した弓遵から引き継いだ太守・王頎は、倭の使者から邪馬台国と狗奴国との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏の少帝の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史の張政が派遣されるに留まった。
しかし、この戦いは卑弥呼が亡くなった249年には決着がついていたと思われる。
下の系図は魏志倭人伝の登場人物の該当推定人物である。
魏志倭人伝登場人物の推定
武諸隅の謎
海部氏系図に饒速日尊7世に武諸隅という人物がいる。この人物には謎が多い。
丹後国 熊野郡 三嶋田神社の記録に
孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・ 上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉る。
とある。
これより武諸隅命は孝霊天皇と同世代と考えられる。しかし『勘注系図』では、饒速日尊六世孫建田勢命、七世孫建諸隅命、八世孫日本得魂命は何れも尾張氏の人物で、建田勢命は七代孝霊天皇に、建諸隅命は九代開化天皇に、日本得魂命は十代崇神天皇に奉仕としている。
また、『勘注系図』は、この建諸隅命の亦の名を由碁理とする。由碁理と云う人物は『古事記』にも登場し、九代開化の妃となった竹野比売の父親である。古事記はこの由碁理を、丹波大縣主としている。
この二つの記録は矛盾している。天皇系図との照合を図ると『勘注系図』の方が正しいようである。三嶋田神社の記録は武諸隅命の父である建田勢命(建宇那比)の誤記か、時代が孝霊天皇の時代ではなく開化天皇の時代の誤記と考えられる。
日本書紀崇神天皇60年の記事、出雲神宝検校に武諸隅が登場するがこれは、物部氏の武諸隅と思われ海部氏の武諸隅とは別人と判断する。出雲神宝検校は孝霊天皇の頃の出雲振根が登場しており、孝霊天皇の時も神宝検校が行われており両者の記事が重なった結果武諸隅が孝霊天皇の時代の記事に紛れ込んだのではないかと推定する。
魏志倭人伝238年の記事によると、卑弥呼は都市牛利と云う人物を派遣している。この武諸隅は丹波大縣主由碁理の別名を持っており、読みの類似から都市牛利は武諸隅であると推定する。
難升米と伊聲耆
中臣氏の系図に梨迹臣、伊世理という人物が存在している。漢字から推測される、音の類似で難升米を梨迹臣、伊聲耆を伊世理と推定する。両者は神武天皇と同世代の菟狭津媛の4世孫であり、開化天皇と同世代と考えられ、活躍時期も倭人伝の時期と一致する。
邪馬台国の官
魏志倭人伝には邪馬台国の官として伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳是がある。これらはいったい誰なのであろうか、順に記録されているので、上位の者から記録されていると見てよいであろう。
伊支馬は崇神天皇であると考えられる。この当時卑弥呼は巨大な神殿内で生活していたと考えられるが、天皇は質素な宮殿ではなかったかと判断している。そのために海外から来た人物は天皇を通常の官と同じように見ていたと考えても不思議はない。近年でも海外からの渡航者は江戸幕府の将軍と京都の天皇の関係はなかなか理解できなかったようである。形式の上では天皇が上であるが、実権を持っていたのは江戸幕府である。
この当時は、実際に政策を考案して指示を出しているのが卑弥呼であったと考えられ、天皇は卑弥呼の指示のもと政治を実行していたのであろう。しかし、卑弥呼を除けば天皇は最高位に存在しているわけであるから、魏志倭人伝でも官の筆頭に記録すると考えられる。この当時の天皇は第10代崇神天皇である。和名は「ミマキイリヒコイニエ」である。伊支馬「イキメ」→「イニエ」がなんとなく似ているような気がするが、当時でも今でも天皇を個人名で呼ぶことはない。今は「陛下」、昔は「帝」だったようであるが、古代では何と呼ばれていたかはわかっていない。
飛鳥時代では「オオキミ」と呼ばれていたようである。伊支馬「イキメ」→「オキミ」で似ているような気もする。
彌馬升(ミマシ)=彦坐王(イマス)、彌馬獲支(ミマカキ)=御間城姫(ミマキ)、奴佳是(ヌカテ)=建沼河別(ヌナカワ)と解釈しているが、根拠は生存時期が重なる、天皇との血縁者、読みが似ているというだけであるので、他の候補者を排除するものではない。
魏志倭人伝に登場する人物の系図上の推定位置を示した系図 神皇産霊神━━天活玉命━━━天三降━┳━菟狭津彦 ┃ ┗━菟狭津媛━━┓ ┏━梨迹臣━━━━神耳勝━━━━久志宇賀主・・藤原氏 ┣━━宇佐津臣━━━━大御食津臣━━━━伊香津臣━━┫(難升米) 天児屋根━━━天押雲━━━天多禰伎禰━┛ ┗━伊世理 (伊聲耆) 9 ┏━倭得魂彦━━━彦与曽 ┏天忍人━━━天登目━━━━━建登米━━━建宇那比━━建諸隅━━┫ ━高皇産霊神━━天道日女┓ ┏━天村雲━━━┫ 由碁理 ┗━天豊姫━━┓ ┣━天香語山━┫ ┃ (都市牛利) (竹野姫)┃ ┃ ┗━高倉下 ┗天忍男━━┓ ┃ 饒速日尊┛ ┣世襲足姫━━┓ ┏━倭迹迹日百襲媛命 ┣━彦湯産隅命 ┏━剣根━━━━━賀奈良知姫┛ ┣━孝安天皇━━孝霊天皇━┫ (卑弥呼) ┃ ┏━鴨建角身━鴨建玉依彦━┫ ┃ ┗━━━━━━━五十狭芹彦━━豊受姫 ┃ ┗━五十手美 ┃ (男弟) ┃ (台与) 神皇産霊━━大山祇━┫ ┏綏靖天皇━━孝昭天皇━━┛ ┏開化天皇━┳━━━━━━┛ ┗━━━鵜茅草葺不合尊━━━━神武天皇━━┫ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━彦坐王 ┗神八井耳━━武宇都彦━━━━武速前━━━孝元天皇━┫ ┃ (彌馬升) ┃ ┗━崇神天皇━┓ ┃ (伊支馬)┣━垂仁天皇 ┃ ┏━━御間城姫━┛ ┗大彦━━┫ (彌馬獲支) ┗━━武渟川別 (奴佳是) |
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