漢委奴国王

 金印の委奴国は倭国最南端の日向国であり、委奴国王は日向津姫である。その墓は王の山と思われる。

女王日向津姫誕生

 倭国から九州を独立させるのに成功したが,忍穂耳命が急死し、西倭王の座は空いたままになってしまった。候補者は日向津姫の子である瓊々杵命・日子穂々出見命・ 鵜茅草葺不合尊であるがこの3人はまだ倭国に加入していない地域の統一に活躍しなければならず、その手段として政略結婚もありうるので、国王にするのは今はまずいとの思いがあった。そこで,最終的に適任者は一人しかいないことになる。それは日向津姫である。日向津姫は素盞嗚尊の妻であるから,国王になる資格は十分である。 日向津姫が西倭王として即位することになった。

 この後,日向津姫とその一族は南九州の未統一地域の統一のため、北九州地域の政治体制を固めた後、素盞嗚尊が南九州政庁とした国分の鹿児島神宮の地に移動した。 この地は南九州の未統一地域(大隅・薩摩・日南)の中央にあり、これら地域の統一の指示を出すには最適の地である。日向津姫はここを拠点として以後20年間西倭をまとめたのである。紀元50年ごろと思われる。
 そして,この直後,後に神武天皇になる狭野命が日向津姫の末子鵜茅草葺不合尊の子として生まれている(AD58年)。日向津姫は西倭の全実権を 握った。その結果,南九州での瀬戸内系土器が衰退したものと判断する。

 委奴国は日向国

 後漢書「東夷伝」に,

「建武中元二年(紀元五七年)倭奴国が貢物を献じ,朝賀してきた。使者は自分のことを大夫と称していた。倭の最南端である。光武帝は印綬を賜った。」

とある。この時の印綬が,志賀島より見つかった「漢委奴国王」の金印であることは,ほぼ間違いないといわれている。定説では,委奴国は奴国や伊都国を指すといわれているが,後漢の光武帝が金印を授けるという国は,相当大規模な国に限られている。北九州の小国であると考えられている奴国や伊都国では該当しないのではないか。この委奴国はどこを指すのであろうか。後漢書「東夷伝」では,「倭奴国」となっているが,金印が「委奴国」となっているため,より原典である「委奴国」が正しいと判断する。そのまま読むと「イナコク」である。委奴国とはどこにあった国であろうか。

 中国書物の倭奴国記事をまとめてみると,

①倭国は古の倭奴国である。「旧唐書」

②倭の最南端である。「東夷伝」

そのまま直接解釈をすると,倭奴国は大和朝廷の前身で,日本最南端にある国ということになる。さらに金印を賜っていることから,当時の日本列島の大半を治めている強大な国ということである。1世紀中頃と推定される国内伝承と照合すると,委奴国は日向国としか考えられない。委奴国が日向国である可能性について考えてみよう。

まず、「日向」は古代なんと呼んでいたのであろうか。推古天皇の頃の記事に「ヒムカ」と呼んでいる部分があり、この頃は「ヒムカ」だったようである。景行天皇が九州征伐に赴いたとき(日本古代の実年代によると312年~315年)にこの地方に日向という地名をつけたことになっている。このときから呼び名が「ヒムカ」となったものと考えられる。それ以前はどうだったのであろうか。それがもし広く使われていたものであればその呼び名は現在まで何らかの形で残っていると思われる。全国に「日向」という地名が散見するが、その多くは「ヒナ」あるいは「ヒナタ」と呼んでいて「ヒムカ」や「ヒュウガ」と読む例は数少ない。そして、日向から出雲に来たイザナミの陵があると推定した奥出雲地方には「日向」と付く地名が4個所あり、「日向(ヒナ)」、「日向原(ヒナノハラ)」、「日向山(ヒナヤマ)」、「日向側(ヒナタガワ)」といずれも「ヒナ」と読んでいる。このように日向と書いてヒナと読ます例が多いこととから「日向」は,当時,「ヒナ」と呼んでいた可能性は高い。

h音は落ちやすいことからイナ国の前にhが付いていて中国人が聞き間違えたとすると,日向国・委奴国は共にヒナ国となる。霧島連山の中に夷守岳というのがあり、その北麓の小林市は昔夷守(ヒナモリ)と呼ばれていたと言われている。ここは大和朝廷の日向出張所のあったところではないかと思われ、日向守の意味と推定している。大和朝廷成立後,ヒナ(雛)は都から遠く離れた国という意味で田舎を指す言葉となったものか?,魏志倭人伝の卑奴母離は,この頃設置されたと思われ,日向守の意味か? 

日向国は現在の宮崎県であり最南端ではないという指摘もあるが、律令時代の極初期は現在の宮崎県と鹿児島県とを合わせて日向国といっており。古代の日向国は宮崎県と鹿児島県を合わせた領域であった。その後713年大隅国と薩摩国を分離し日向国は現在の宮崎県の領域になった。昔は宮崎・鹿児島合わせて日向と呼んでいた事から考えて、古代において、この領域は一つの文化圏にあったといえよう。まさに倭国最南端の国「日向国」である。

伝承面を見ても、子のニニギを今の鹿児島県川内市に配置し、神武天皇の兄に当たる「ミケイリヌ」を高千穂峡の地に配置しているが、これらはいずれも日向国の境界で球磨国(熊本県)との交通の要所に当たり、球磨国との争いを感じさせる。

また、大隈半島の付け根に当たる鹿屋や串良周辺は北九州の主要部に次いで弥生時代の遺跡密度の高い地域である。この地はシラス台地の端に当たり、稲作には向かない事を考えると政治的中心地があったため遺跡密度が高くなったと考えてもよいのではあるまいか。後に述べるように「王の山」で国宝になっている璧の出土した王墓らしきものも見つかっており、委奴国は日向国と考えられる。

 紀元50年頃,九州倭国王となった日向津姫は,政権を安定維持するために,紀元57年,中国に朝賀したものと考える。委奴国王というのは日向津姫のことであろう。漢の武帝が朝鮮を滅ぼしてより,倭から中国に朝貢する国が出てきたと,中国史書に書かれているが,具体的な内容が出ているのはこれが始めてである。それまで、中国との交流を主に行っていたのは北九州の豪族達であった。倭国の朝鮮半島との交流は素盞嗚尊以来続いていたが、新しい技術が少なくなってきたので、さらに強力な新技術を導入するために中国との交流を考えたものと考えられる。おそらく,今までの小国とは違い,倭国を代表する大国が朝貢に来たため,中国側も大変慶び、金印を与えるなどして破格の扱いをし、記録されたものではあるまいか。

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