孝霊天皇出雲侵入

 倭の大乱関連地図

  阿毘縁の孝霊天皇伝承
 大菅峠に至る直前の阿毘縁に砥波というところがあるが、ここの熊野神社に孝霊天皇がやっ てきたという伝承がある。 そして、イザナミ陵に孝霊天皇が参拝したとの 伝承もあり、孝霊天皇は出雲総攻撃の前にここにやってきたようである。そして、ここから吉備津彦兄弟が出雲に侵入したのである。

楽楽福神足洗池伝承
 孝霊天皇は祖神伊弉冊命を祭る御墓山山麓の熊野神社に参詣し、砥波(阿毘縁)の大塚家に立ち寄られた。この地を訪れた孝霊天皇は、乞食のような身なりをしていた。飯を与えようとして近づくと、あたり一面大海のようになって近づくことを得ず、これは尊い方であろうと気づき、衣服を改めてくると、大海は跡形もなく消えうせた。そこで天皇を招じ入れたが、そのときに足を洗われたのが足洗池である。

        「日本の神々 神社と聖地 7 山陰」 より

  孝霊天皇軍

 孝霊天皇軍は稚武彦・彦狭島軍と共に宮内を出発した。砥波で彦狭島軍と別れた。この時、御墓山に参拝したのであろう。参拝後孝霊天皇は砥波川を下り、さらに印賀川を下り、印賀から法勝寺川流域に入り、川を下り、現在の米子市福市上安曇の楽楽福神社の地についた。この周辺は以前、孝霊天皇自身が住んでいたところであり、 朝廷に協力的な人々が住んでいた。

孝霊天皇の侵入経路

 孝霊天皇は鳥取県南部町(旧会見町)上安曇に楽楽福神社が存在している。他の楽楽福神社は孝霊天皇の事跡に立てられているためにこの神社もそうであると思われる 。この地は、古代における伯耆国から出雲国への古道に当たり、安田関がその境である。そこまですぐの位置である。孝霊天皇がここに滞在しており、 ここから出雲に入ったと推定される。
 孝霊天皇はイザナギ命と考えられるが、会見町にはイザナギ命がここから、黄泉津比良坂を経由して黄泉国へ行ったという伝承がある。この伝承と孝霊天皇の伝承がきれいに重なる。
  島根県広瀬町の佐々布久神社もこの古道のすぐそばに存在している。飯梨川を下った稚武彦とこの地で合流したのではあるまいか。 

 孝霊天皇は安曇に拠点を構え、そこから安田関(手間関)を打ち破り出雲国に侵入した。 そのように考えられるのである。 そこで関連性が考えられるのが、古事記に書かれている、手間山(現要害山)でオオクニヌシが八十神に襲われて死んだという話である。 手間山は伯耆と出雲をつなぐ古道のすぐそばで風土記によると手間關という関所があったと伝えられている。孝霊天皇が出雲に入るときに何の戦闘もなしに入れるとは思えず、 この手間関周辺で戦闘があったはずである。この話はその戦闘を意味しているのではあるまいか。オオクニヌシがこの関所を守っていた出雲の将軍で、 八十神が孝霊天皇軍を表わしていると考えると、前後がスムーズにつながる。孝霊天皇軍はこの関所を破り出雲国に侵入したと考えられる。

このように考えると出雲神話において因幡の八上姫が八十神からの求婚を断り、オオクニヌシの元に嫁ごうとした神話がある。 オオクニヌシ→出雲国、八十神→大和朝廷、八上姫→因幡国と考えれば、

「倭の大乱の直前、大和朝廷が東倭に所属する各国に朝廷への服属を進めたが、因幡国は出雲国との関係を保ち、 大和朝廷は東倭の切り崩しに失敗した。」といった事実を暗示しているように思える。

 手間山急襲

 その人たちから手間山の麓に出雲軍が集結しているとの情報を聞き、上安曇の楽楽福神社の地から、 この出雲軍を急襲した。出雲軍はたちまち敗走した。この出雲軍の大将は大国主命の直系の子孫(出雲国王?)であった。この大将はこの戦いで戦死した。

 八十神は、伯耆国手間山にやってきて、「赤い猪を追い落とすから、下にいてこれを捕らえよ。」と言い、猪に似た真っ赤に焼いた大石を転がし落とした。大国主命は、その赤い焼石を抱きついたところ、焼かれて死んでしまった。大国主命の母神(刺国若姫命)が、高天原の神産巣日命に救いを求めて、神産巣日命は、すぐにに蚶貝比売と蛤貝比売を遣わして治療させた。蚶貝比売が貝殻を削って粉とし、それを蛤貝比売が蛤の汁と母乳で溶いて作った薬を火傷の箇所に塗ったところ、大国主命は、麗しい男としてよみがえった。(古事記)

 この古事記神話が孝霊天皇軍の手間山急襲を表していると思われる。八十神=孝霊天皇で、大国主=出雲国王(出雲王朝第11代多比理岐志麻流美神?)ではないかと推定される。神話に大国主命が亡くなったと記録されていることはこの戦いは出雲にとってかなり衝撃的なものであったためであろう。倭の大乱における出雲王朝の行動が全く伝わっていないので詳細は不明であるが、大国主命と伝えられている人物が出雲王朝の王と考えられる。年代計算によると、この時代に活躍していたと思われるのが第11代多比理岐志麻流美神である。出雲王がここで亡くなったと推定した。

 出雲国としては、伯耆国の中心が米子近辺であるので、孝霊天皇軍は安田関から攻めてくると予想していたのであろう。そのために、出雲王自身がこの手間山に陣を張って、孝霊天皇軍がやってくるのを待っていたのであろう。孝霊天皇軍は手間山山上から麓に陣を張っている出雲軍の陣地を襲撃し、出雲王が重傷を負ったのであろう。孝霊天皇が故意に出雲王を殺害するとは思えないので、おそらく、孝霊天皇は出雲軍の大将が出雲王とは気付かなかったものと思われる。

 孝霊天皇は誤って出雲王に重傷を与えてしまったので、方々に手をまわして、必死の手当をしたのであるが、努力虚しく、出雲王は亡くなってしまったと推定する。

 安来支庁襲撃

 手間山のすぐ西側に安田関がある。古代の関所であり、この当時も出雲軍が配置されていたことであろう。孝霊天皇軍はその勢いで安田関を打ち破り出雲国に侵入した。

 安田関を破って、安田川に沿って下ると、伯太川に合流している。孝霊天皇軍がその合流点付近にある清水山に陣を張ると、彦狭島軍が陣を張っている佐々布久神社の地と合わせて能義神社のある安来支庁は朝廷軍に挟み撃ちにされた形となる。孝霊天皇軍は彦狭島軍と連携を取り安来支庁を挟撃したものと考えられる。その後佐々布久神社の地で彦狭島軍と合流し、以降この地を本陣とした。

 出雲聖域侵入経路 

 以降はこの周辺に伝わる黄泉国神話に基づいて倭の大乱の様子を推定してみることにする。

「イザナギ命が死んだイザナミ命を追って黄泉国へ行き,そこで争い,イザナギ命が逃げ帰り,黄泉津平坂の地で別れた。」という記述が古事記にある。この黄泉津平坂は松江市揖屋の地に実在している。

 松江市揖屋の黄泉津比良坂の神蹟においてあった比良坂神蹟保存会編「黄泉津比良坂物語」に、大昔のこの周辺の道の経路が示されていた。まず、西へ向かうと付谷から山越えして五反田、 そこから勝負を越して須田方面に向かうと記録されていた。須田から峠ひとつ超えれば八雲村東岩坂であり、倭の大乱激戦推定地である。また、東へ向かえば、中意東磐坂から、 馬場に出て雉子谷を超えて高丸から安来市の岩舟方面に通じると記録されている。この岩船のすぐ南には佐々布久神社 がある広瀬町石原である。
 孝霊天皇軍が楽々布久神社から出雲聖域の八雲村に進軍した経路はまさにこれであろう。まとめると次のコースである。

広瀬町石原(楽々布久神社)→岩舟→高丸→馬場→中意磐坂→黄泉津比良坂→付谷→五反田→勝負→須田→八雲村東岩坂

である。

出雲聖域侵入 

 彦狭島軍と合流した孝霊天皇は黄泉津比良坂を経由して出雲聖域に侵入した。 途中比良坂の坂本に出雲軍の追撃を受けたときのために伏兵を潜ませて置いた。

出雲聖域では出雲軍の本隊が控えていたが木次の出雲振根から応援要請があったのでそちらに出撃していた。出雲聖域は無防備状態になっていたのである。

 木次方面で朝廷軍を迎え撃っていた出雲振根は安来が破られたと聞き、中心域が攻められると思い、すぐに全軍を聖域に向けようとした。 しかし、稚武彦軍がそれを全力で阻止したため、引き返すことができなかったので、自らは残って稚武彦軍を食い止め、出雲軍本隊を中心域に引き返させた。

 当時熊野大社は現在の松江市八雲町のほぼ全域にあたる程広大な土地を持っていた。その祭祀の中心は熊野山の磐座である。ここが素盞嗚尊の聖地だったからであろう。熊野大社は壮大な祭祀施設であった。その熊野大社の数多くの摂社の中で、唯一熊野山山頂が拝めるのが能利刀神社であり、祭神は言綾根命である。

 能利刀神社について

 熊野大社は古代出雲最高の聖地であった。素盞嗚尊の磐座のある熊野山に元宮が存在したが現在は規模縮小され麓に鎮座している。摂社もその周辺にあったが現在は熊野大社に合祀されている。熊野大社の過去の姿に少しでも迫ろうとその摂社の跡地うち、最も意宇川の下流にある布吾弥社跡地・能利刀社跡地を調査した。

 古代(大和朝初期1世紀から2世紀ごろ)の出雲は上の神魂神社を政治の中心地として熊野大社を信仰の中心地として栄えていた。熊野大社は元宮の熊野山を最奥地として大石地区の布吾弥社跡地・能利刀社跡地までの領域が聖地として扱われていた。意宇川に沿う現在の県道53号線は熊野大社への参道であった。推定であるが神都にいた出雲国首長が熊野大社に参拝するには、意宇川に沿って参道を進み大社の玄関になっている大石地区の布吾弥社に参拝する。各地の代表者はおそらくここまでしか入れなかったのではあるまいか。そのために布吾弥社は他の摂社に比べて広いのであろう。ここで、その向かいの能利刀社にいた素盞嗚尊の言葉を伝える言代主の言葉を聞く儀式が行なわれていたのではないだろうか。ここから奥地は特別の人物しか入れなかったと推定する。


 左側の写真が布吾弥社があったと伝えられている高台である。この上に神社があったそうである。右側はその高台からみた北側の広場である。往古ここに熊野大社参拝の人々に対する宿舎や参拝施設があったのだろうか。

 左の写真は布吾弥社があったと伝えられている高台の現在の様子である。ここに神社が建っていたそうである。右は神社への参道にあった灯篭である。神社そのものは跡形もなくなっているがこの灯篭だけは現存している。

 布吾弥社から意宇川を挟んで反対側に能利刀社の跡地がある。ここで言綾根が素盞嗚尊の言葉を聞いていたと推定している。

 左側の写真が布吾弥社跡地からから見た能利刀社の跡地である。この写真では正面に見える建物のちょうど向こう側に跡地がある。その跡地は右側の写真であり、田の中で、神社のあったと思われる部分だけ竹林が張り出していた。まさにここに能利刀社があったのである。

 この写真は能利刀社の跡地から見た熊野山である。この日の熊野山は山頂部に雲がかかっていてあまりはっきり見えないが、遠方にかすかに見えるのが熊野山である。古代能利刀社の言綾根はこの山を崇拝しながら素盞嗚尊の言葉を聞いていたのであろうか。
 この言綾根が能利刀社で熊野山を崇拝しながら素盞嗚尊の言葉を聞き、それを出雲国首長(後の出雲国造)に布吾弥社で伝えるという政治体制は出雲国譲事件(AD50年頃)から倭の大乱(AD180年頃)まで続いたと推定している。
 倭の大乱以降言綾根は廃止され、元宮も麓におり往古の壮大なる熊野大社は次第に衰退していった。

孝霊天皇熊野大社に参内

 八雲村東岩坂に着いた天皇は全軍をそこに控えさせ、自らは側近とともに言綾根のいる能利刀神社 に参内することにした。神社に参内した天皇は早速言綾根に会った。
天皇は言綾根に対し
「いま東倭は多くの鬼が出没し人々は苦しんでいます。東倭は朝廷に服属していただきたい。朝廷の力で人々を救いたいと思います。」
言綾根は
「それはよく分かります。しかし、来るのが遅すぎました。既に出雲軍は朝廷に対しての戦闘体勢に入っています。」
「それを素盞嗚尊の神の力で何とか止めていただきたい。戦争をすると多くの人々が死にます。素盞嗚尊の本当の願いは日本列島の平和的な統一ではありませんか」
「分かりました。それでは素盞嗚尊の言葉を聞いてみます。この儀式は大変神聖なもので、何人といえどその姿を見ることは許されていません。私がもう一度姿を現すまで、決して覗かないでください。」
と言って、言綾根は別室に下がった。

倭の大乱最大の激戦

  その儀式は余りにも時間がかかったので、天皇は落ち着かなくなった。
「今出雲軍は稚武彦の作戦により木次に出向いているはず。しかし、この作戦はいずれ出雲軍に気づかれる。出雲軍は必ず戻ってくるであろう。 それまでに何とか素盞嗚尊の言葉が得られないものか?」
 天皇はあせるあまり、ついにその姿を覗いてしまった。覗かれたことを知った言綾根は怒り、天皇とその側近を追い返してしまった。そして、 しばらく後戻ってきた出雲軍本隊に、朝廷軍追討の命令を下した。

島根県の八雲村にイザナミ御陵(神納山)が存在している。雲陽誌に、 「神納山は、剱山から500メートルほど離れており、男神イザナギノミコトを追った女神イザナミノミコトが、 みずから魂をこの地へ納められたところであるので神納という。」

この神納山の御陵から続いている丘陵によって、日吉・岩坂平野と意宇平野に分けられているが、 この丘陵の東の端に剱神社がある。神話に「女神イザナミノミコトを失った男神イザナギノミコトは、あきらめきれず黄泉の国まで行ったが、みにくい姿をみて逃げた。 黄泉の国の軍勢に追われた男神は剱を打ち振って防がれたので、剱山という。

剱神社(剣山)

とある。意宇川はその昔この地で大きく蛇行しており、江戸時代に土木工事をしてまっすぐにしたそうである。 ちょうどその曲がったところに剱山がある。イザナミとイザナギはこの剱山で戦い、イザナギがここから黄泉津平坂まで退却したようである。

倭の大乱激戦地

 あの世との入口だという伝承地が剱山の麓にある岩屋とか、すぐ北側の松江市の神魂神社の地とかにある。 この周辺は昔からあの世との境目という認識があったようである。墓が多いというのも理由かもしれないがこの頃の墳墓はこの周辺ではない。 おそらく、倭の大乱の激戦地で、多くの将兵が戦死したためそのように呼ばれることになったのではあるまいか。神納山のイザナミ陵はその戦死者を集団埋葬した場所かもしれない。

剱神社(剣山) 倭の大乱激戦地?(剣山周辺)

 天皇はかろうじて東岩坂まで逃げ切りそこに控えていた朝廷軍に、出雲軍に対する総攻撃を命じた。かくして、倭の大乱最大の激戦が始まったのである。 出雲軍本隊と朝廷軍は松江市と八雲村の境の剣山周辺で激突した。この頃の戦いはにらみ合いがほとんどで白兵戦になることはあまりなかったが、 出雲軍としては聖域に入っての戦いであり、なんとしても朝廷軍を追い返さねばならなかった。この戦いは激戦となり多くの将兵が戦死した。そのため、 この周辺は後にあの世への入口(黄泉国)と呼ばれるようになった。出雲軍の死力を尽くした戦いに朝廷側は重要人物(イザナミ)が戦死し態勢が崩れた。 そのまま東出雲町揖屋まで退却した。

黄泉津比良坂の戦い

出雲軍本隊は追撃した。 天皇は黄泉津比良坂の坂本に控えさせていたオオカムヅミ命に出雲軍の追撃を食い止めるように命じた。 オオカムヅミ命は出雲軍の追撃を何とか食い止めることができた。両軍は比良坂の峠を挟んで対峙することになった。

黄泉津比良坂及び伊賦夜坂の位置
               島根県東出雲町揖屋

 日本神話の中にも関連すると考えられるものがある。それは,黄泉国神話である。 「イザナギ命が死んだイザナミ命を追って黄泉国へ行き,そこで争い,イザナギ命が逃げ帰り,黄泉津平坂の地で別れた。」という内容である。 黄泉国とはイザナミが死んだ国で,イザナミ陵があることから,出雲国と考えられる。

 この神話は,出雲国とどこかが戦争をしたことを意味しているようであるが,イザナギ命の行動の跡は, 出雲地方周辺に全く見られないことと,黄泉津平坂は島根県の揖屋の地にあり, 出雲の東側で出雲中心地の入口にあたることから考えて,これは,出雲と対戦した相手が,出雲の東側に存在し,イザナギのいた日向地方ではないことを意味している。 日向地方ならば,国譲りの戦いの時,出雲の西側の稲佐の浜に上陸していることでも明らかなように,出雲西部から攻めるのが普通である。

 スサノオの聖地である出雲と対戦しうる国となれば,相当力を持った国でなければならない。日向でないとすれば,後は大和としか考えられない。 大和だとすれば、その時期はいつのことであろうか。大和朝廷成立以前は,中国地方に畿内系土器が全く見られず,畿内人が大量に押し寄せたとは思えない。 出雲と大和の戦いがあったのは,大和朝廷成立後と考えられる。大和朝廷成立後であれば,倭の大乱以外に考えられない。 この神話は,倭の大乱を意味しているのではないかと思う。、

 平坂は安来市と東出雲町の間にある丘陵地を越える旧峠道だったようである。丘陵地の東側が比良坂で西側が伊賦夜坂と呼ぶそうである。

イザナギがイザナミ軍に追われて意宇川沿いに退却してきたとき通過すると思われる場所にある。イザナギはイザナミ軍に追われたとき、竹や桃で防いだと記録されているが、 どちらもこの周辺に存在している。 また、最後に分かれたときイザナギは千引岩でその出口をふさいだといわれているが、巨大な岩がその境界付近に存在している。これらがどんな歴史的事実を反映しているのか 分からないが古事記に記されている黄泉津平坂の条件はすべて満たしている。

 「黄泉津比良坂物語」にはイザナギを黄泉津比良坂の坂本で助けた桃の実の神オホカムヅミ命は 黄泉津比良坂東方の山上にある荒神森と推定している。この地は現在平賀と呼ばれており字に坂本も残っている。この地に孝霊天皇がオホカムヅミ命を将とする軍を 控えさせていたのではあるまいか。孝霊天皇軍が退却してきたとき、オホカムヅミ軍によって追っ手を食い止めることができ、この地で対陣することになったものと推定する。

孝霊天皇出雲侵入関連地

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