猿田彦の活躍

 猿田彦命のここまでのあらすじ

 猿田彦は出雲にいたころの大歳命(饒速日尊)の子であり、AD5年頃誕生している。母は神皇産霊神の娘伎佐貝姫(縄文人)である。その後、佐太大社の地で成長し、AD20年頃より素戔嗚尊留守中の出雲国をまとめるようになった。そのころ、紀伊国から鉄資源開発のためにやってきた伊弉冊尊の案内をしていた。

出雲国建国 猿田彦命誕生秘話

奴国統一 猿田彦命の九州上陸

 AD25年頃伊弉冊尊が亡くなった後、伊弉諾尊とともに北九州にわたり、北九州地方を統治した。AD35年ごろ、第二代倭国王大己貴命が宇佐にいた市杵島姫を宗像に連れ出した。猿田彦命はその市杵島姫と結婚した。猿田彦命30歳・市杵島姫17歳ほどであったと思われる。

 AD44年頃第二代倭国王大己貴命が鹿児島で急死した。倭国が東倭と西倭に分裂したが、出雲を中心とする東倭の統治者が事代主命に決定した。しかし、この当時10歳ほどと思われる事代主には統治できないので猿田彦命が後見人として推薦された。実質、猿田彦命が出雲を統治することとなった。この時、市杵島姫は宗像の地で北九州の航海の安全を祈願する役目を持っており、猿田彦命と行動を共にすることができなかったので、別離することとなった。AD47年ごろのことであろう。

国譲会議 猿田彦命が出雲統治者になる理由

 猿田彦命は、この時、素戔嗚尊祭祀を始めたが、猿田彦の娘とタケヒナドリの子櫛瓊命が結婚することにより、その子孫が代々素盞嗚尊祭祀を継続している。事代主命が15歳に達したAD55年頃、猿田彦命は父である饒速日命のもとにやってきた。

 天細女命との結婚

 猿田彦命の妻としては天細女命(猿女君)であるが、天細女命は、AD25年ごろの天孫降臨直前の儀式で裸踊りをしている。この頃20歳前後であったと思われ、猿田彦命とほぼ同年齢であろう。天細女命はその後天孫降臨団に加わって大和にやってきている。猿田彦命が天細女命と結婚したのは、この時と考えられる。両者ともに50歳前後である。

 天細女命は猿女君の祖先として伝えられており、猿田彦命と天細女命との間に子がなければならないのであるが、この両者が結婚したとき、子ができるような年齢ではない。伝承では猿女君の祖先が猿田彦命ではなく天細女命となっているので、猿田彦命と結婚する前に誰かと結婚しており、その人物の子孫とも考えられる。

 神話伝承ではこの二人が知り合ったのは、天孫降臨時であるが、この直後に出雲から北九州に上陸している。猿田彦命は天孫降臨直前の儀式に参加しているかどうか定かではないが、伝承上では参加していないようである。

 若狭国の開拓

 猿田彦命は天細女命と結婚直後より若狭国・丹波国・山城国の開拓を命ぜられ実行した。

 山城国・丹波国の開拓

伊勢国統一

 一連の統一事業により、日本列島内のほとんどの地域は倭国・ヒノモトのどちらかに統一された。日本列島において、この時点で未統一なのは、北海道・岩手県・伊勢国・安房国である。北海道と岩手県は遠いので手が回らなかったといえるが、伊勢国はヒノモトの中心地である大和のすぐ近くである。近いからいつでも統一できるとして後回しにされたものと考える。

阿射加神社 松阪市小阿坂町120 《主》猿田彦大神

<神話伝承>
瓊々杵尊は、天細女命に言った。
「汝は、我をここに案内してくれた猿田彦命の名前を明らかにした。猿田彦命を送って行き、その神の名を譲り受けよ。」
 天皇にゆかりの深い神社で、神楽を行う女性たちを「猿女君」と呼ぶのは、その名前が猿田彦命という神の名から由来している。
 その猿田彦命が、阿耶訶(あざか。現在の三重県松阪市)の海で魚を獲っていたところ、ヒラブ貝に手をはさまれて海の底に沈み、溺れてしまった。その猿田彦命が、海に沈んでいるときの名前を「底どく御魂(そこどくみたま)」といい、沈んで行く時に海水がぶつぶつと泡立つときに名前を「つぶ立つ御魂」といい、またその海の泡がはじけるときの名前を「あわ咲く御魂」と言う。

猿田彦神社 伊勢市宇治浦田2-1-10 《主》猿田彦大神,《配》大田命 平成祭データ

 猿田彦大神は上は高天原を光し、下は葦原中つ国を光し、天孫降臨を天八衢に待ちむかえ、日向の高千穂の觸之峰に導き奉った。続いて伊勢の狭長田五十鈴の川上に天宇受売命に送られて来られたと伝えられている。垂神天皇の御代、皇女倭姫命が、皇大神宮鎮祭の地を求めて巡歴されるにあたり、猿田彦大神の裔たる宇治の土公大田命は、祖神からの伝えにより、これを迎え、五十鈴川上の霊地を献じ、鎮祭に尽くされた。神宮の鎮祭と御遷宮奉仕に関連して、大神は地祭り、方除、建設の御神徳、また大は世の行手を示し、小は各人の道を開きたまう大神としてみちびきの御神徳高く、全国的に多くの崇敬者を有し、尊崇を集めている。

椿大神社  鈴鹿市山本町1871 猿田毘古命 平成祭データ

  伊勢国鈴鹿山系の中央麓に鎮座する椿大神社は、往古時代、只今の神社の背後にそそり立つ高山入道嶽、短山椿ケ嶽を天然のやしろとして、(神代の神跡いわくら現在)高山生活を営まれたクニツカミ猿田彦大神を主神とし、相殿に皇孫瓊々杵尊、栲幡千々姫命を祀り、配祀に天之宇受女命・木花咲耶姫命を祀る。神話に伝わる天孫「瓊々杵尊」降臨の際、猿田彦大神、北伊勢道別の里なる地祗本陣を旅立ち給ひて天の八衢に「道別の大神」として出迎え、風ぼう雄大、超絶した神威を以って恙なく天孫を高千穂の峯に御先導申し上げた事で肇国の礎を成したこの大神を、後に人皇第十一代垂仁天皇の27年秋(西暦紀元前3)倭姫命の御神託により、磯津(鈴鹿川)の川上、高山短山の麓、土公神陵の前方御船磐座辺りに、「道別大神の社」として社殿を造営し奉斎された日本最古の神社であります。仁徳天皇の御代、御霊夢により「椿」の字をもって社名とされ現在に及び、昭和の始め内務省神社局の調査により、全国2千余社の猿田彦大神をまつる本宮であることが明かとなり、「地祗猿田彦大本宮」と尊称されております。

都波岐神社・奈加等神社 鈴鹿市一ノ宮町1181 《主》猿田彦大神,中筒之男命,天椹野命 平成祭データ

  本社は延喜式内の古社で伊勢国一之宮である。本社はまた、雄略天皇23年に伊勢国造高雄東命が勅を奉じて創建し、中跡直廣幡が宣旨より初代の祭主となった。白河天皇より正一位の勅額を賜わり、花園天皇の正和年中に摂政藤原冬平の執奏により神伝記を天覧に供し、後小松天皇の嘉慶年中に征夷大将軍足利義満が富士登山の帰途当社に参詣して幣帛を供え社領を寄進した。織田信長が神戸、高岡の二城を攻略の際、本社は兵火に罹り社殿が消失した。その後、一柳監物の援助で社殿を復興し、明治三十六年に県社に昇格した。猿田彦大神を主祭神として奉斎、御神徳を慕って、全国から参拝者が絶えない。

 伊勢国の開拓を任された猿田彦命は伊勢国一宮の都波岐神社・奈加等神社の地を本拠として、活躍していたが、阿射加神社の地で水死してしまった。椿大神社の地に埋葬されたようである。AD65年ごろと思われる。

 猿田彦亡き後

 出雲統治時代、猿田彦の娘が建日名照命の子と結婚し伊勢津彦(またの名を出雲建子命、天櫛瓊命)を生んでいる。その伊勢津彦が伊勢国を統治しているようである。

 『伊勢国風土記』逸文
 伊勢津彦は、伊賀の安志(あなし)の社に坐す神で、出雲神の子であり、またの名を出雲建子命、天櫛玉命といい、石で城を造って居住していた。神武東征の際に、神武が派遣した天日別命に国土を天孫に献上するかを問われ、はじめに否と答えたために討伐されそうになったので、居住していた伊勢を風濤に乗じて去った。

 天櫛瓊命は出雲国造家の系統であり、出雲で素戔嗚祭祀をしている身分であるから、出雲から伊勢にやってくるのは無理であろう。おそらく、同一人物とされている伊勢津彦・出雲建子命・天櫛瓊命は兄弟であり、天櫛瓊命が出雲国造家を受け継ぎ、伊勢津彦が義父である猿田彦を慕って伊勢国にやってきたのではないかと考える。猿田彦には後継者がいなかったものと考えられ、その娘婿の子を後継者として認定したのではないだろうか。それが伊勢津彦である。

 伊勢津彦命は猿田彦命亡き後の伊勢国を統治していたが、神武天皇に国を譲ることになった。

 

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