奴国統一

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 奴国倭国加盟時期

 素盞嗚尊が高良国対伊都国奴国連合の戦乱を収集し、北九州を統一したが、伊都国は倭国連合に加盟するのを拒否し、高良国は主体となって日本列島統一に協力した。これに対して奴国はどうなったのであろうか?

 奴国が主体的に日本列島統一に動いていたなら、その国王と推定される人物が高良国の高皇産霊神のように神話伝承上に登場してもおかしくない。しかし、そのような人物は伝承されていない。また、奴国の中心地と思われる福岡市博多周辺にはその玄関口の跡として住吉神社が鎮座しているが、そこは伊弉諾尊が外部からやってきたことになっている。このことは、奴国が倭国に加盟したのは素盞嗚尊の統一時より少し後であることを意味している。

 奴国と伊都国は同一文化圏に入っていたようであり、協調体制にあったと考えられる。しかし、奴国内には青銅器生産センターがあり、ここで生産された青銅器(銅鉾・銅戈)が倭国の祭祀の対象として使われている。これは、奴国が倭国に加盟していたことを意味している。伊弉諾尊がやってきた時期に奴国が倭国に加盟したと思われる。その時期はAD25年頃と推定する。

 素盞嗚尊が戦乱を収集したとき、旧敵国であった高良国が倭国と協調関係になったことから奴国は倭国連合に加盟しなかったのであろう。しかし、伊都国とは異なり中立的な状況だったのではないだろうか。

 今後の統一方針

 AD20年頃より、饒速日尊は丹波国統一、大国主命は越国統一、伊弉諾尊は近江国統一、伊弉冉尊は出雲での鉄生産に出払っていた。高皇産霊神は近畿地方統一のためのマレビト集めに奔走していた。このような時、AD25年頃、伊弉冉尊が出雲で亡くなったのである。安心院に都を建設した素盞嗚尊は高皇産霊神、日向津姫等と今後の統一方針について話し合ったものであろう。

 鉄生産は日本列島統一の切り札となるものであり、それは最優先で取り組む必要があった。また、饒速日尊を大和に天孫降臨させると同時に九州地方の未統一地域の統一は急務であることを高皇産霊神は考えていた。その未統一地域は伊都国・奴国・狗奴国そして大隅・薩摩地方である。

 誰をどこに派遣するかが課題であった。会議の結果、奴国は伊弉諾尊と猿田彦命を大隅・薩摩地方は高皇産霊神・日向津姫が統一に当たる。素盞嗚尊は出雲で鉄生産事業の継続をすることが決定したと思われる。それぞれの地域はその出身者がかかわることでスムーズに行おうとしたと思われる。出雲は素盞嗚尊で日向津姫は日向国へ帰還し、薩摩大隅地方統一と決定した。これにより素盞嗚尊と日向津姫は離別することになった。高皇産霊神は日向津姫の新しいパートナーとなった。このことは素盞嗚尊も承諾していたのであろう。伊都国・狗奴国に対しては今後の課題ということで保留されたと思われる。

 猿田彦命の登場

 猿田彦命はAD5年頃大歳(後の饒速日尊)とキサカイヒメとの間にできた子である。松江市の佐太神社前には佐太前遺跡があり、この周辺における弥生時代後期の拠点集落であったと推定されている。幼少時よりこの遺跡の地で母のキサカイヒメと共に育ったと思われる。

 AD20年頃紀伊国を統一した後の伊弉冉尊が鉄資源開発を目的として恵曇湾より、この地に上陸してきた。猿田彦命は当時15歳程になっており、この伊弉冉尊の世話をして出雲国内を案内していたと思われる。猿田彦命は統治者としての才能に優れており、周辺の人々をこの地に集め定期的に会議を開くなどしていた。周辺の人々にも人望があったようである。

 このような時に奥出雲で伊弉冉尊が亡くなった。猿田彦命はその葬儀を執り行ったことであろう。そのようなときに安心院の素盞嗚尊から呼び出しを受け、奴国を伊弉諾尊と共に倭国に加盟させることを命じられたのである。伊弉諾尊は妻の世話をしてくれた猿田彦命に感謝して協力を申し出たのであろう。

 猿田彦命博多湾岸上陸

 猿田彦命は人望があり、知恵にも優れていたので、素盞嗚尊は猿田彦命こそ北九州の 中心域の統治には最適と考えたのであろう。猿田彦命は妻を失った伊弉諾尊を伴って、出雲を旅立ち福岡市の住吉神社の地に上陸した。猿田彦命は住吉大神の別名を持つこととなった。

住吉神社(福岡市)
福岡市博多区にある筑前一宮と呼ばれている神社。日本全国に約2,000社ある住吉三神を祀る神社の中で最も古い神社であるとされている。神社の縁起では、黄泉国から帰還した伊弉諾尊が禊祓を行った「筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原」が住吉神社の地であるとし、その禊祓で最初に生まれたのが住吉三神である。これが、住吉神社の始源であるとしている。古代の博多湾は住吉神社の前まで海が入り込んでおり、元々の建物は海に向かって建てられていた。奴国の海の玄関口であったと思われる。
 住吉神社の祭神は底筒男命中筒男命表筒男命であり、総称して住吉大神ともいう。海の神、航海の神、また和歌の神とされる。

 北九州中心域には伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀った神社が数多く存在している。しかし、伊弉諾尊の行動実績は伝えられているが、伊弉冉尊は伝えられていない。後の時代に神武天皇がこの地を訪れた時も伊弉諾尊のみを祀っている。おそらく、伊弉冉尊と死別したあとの伊弉諾尊が訪れたのであろう。福岡市の住吉神社は根の国から戻って禊をして住吉神を産んだとされている。住吉神は猿田彦命で猿田彦命と共にこの地に上陸したことを意味しているのであろう。古代の住吉神社の地は那珂川の河口でありながら、丘陵があり上陸地に最適の場所だったようである。

 奴国の青銅生産

 北九州は青銅器の生産が盛んに行われていたが、その生産に猿田彦がかかわっていると思われる。まずは青銅器生産の変遷を検討してみることにする。

 弥生時代中期前半

 この時期は北九州での青銅器生産の走りである。すべて細型銅武器であり、その約3分の2が銅剣である。20%程が中国四国地方に移出している。中期前半ごろの青銅器は朝鮮半島から玄界灘沿岸の唐津・早良・福岡・糟屋地域に移入され一墓地に集中大量副葬されている。ほぼ同じころ佐賀地域で青銅器生産が開始されている。この時期は秦徐福が渡来した時期にあたり、秦徐福のもたらした技術で青銅生産が開始されたと考えることができる。

 中期中頃

 青銅器生産が春日地域にも始まる。春日地域では中期初頭から前半にかけて春日丘陵を中心として集落数が激増している。集落数の増加は福岡地域からの移動と考えられている。ここで生産されたのはほとんど銅剣で、生産地域にはほとんど残されず周辺地域に広がっている。そして切先が多く出土していることから武器としての剣の需要があったためと思われる。
 佐賀地域での青銅武器生産も継続されており、その中心は吉野ヶ里遺跡である。佐賀地域は玄界灘沿岸地域よりも早く青銅器生産が始まっているが、朝鮮系無文土器の出土も玄界灘沿岸地域よりも早く多量出土している。これは、青銅の原材料を玄界灘地域を経由せず独自経路で手に入れていたと思われ、筑紫地域との対立関係がうかがわれる。

 中期後半

 この時期に入ると福岡地域でも青銅器生産が始まる。細型銅剣が生産されなくなり中細型銅剣・銅戈に変わってくる。次第に同化の生産量が増大している。春日地域と福岡地域での生産量が全体の6割程に達している。この頃から埋納が始まった。この頃の生産主体は佐賀・鳥栖・春日・福岡である。この時期は楽浪郡と積極的に交流し始めた時期で、勢力を得た集団が周辺地域に配るために大量生産していたと思われる。

 中期末から後期初頭

 青銅武器は中広型になり、銅戈が激減し、銅鉾が激増する。生産地は春日地域がほぼ独占状態となる。外縁付紐式銅鐸の鋳型の出土が見られる。その製品は対馬・中国・四国地方の広範囲に広がり、移出が目的で生産されていたようである。佐賀地域での生産はほぼ終了している。

 猿田彦命とのかかわり

 猿田彦命が博多湾に上陸したのは弥生時代中期末に当たる時期である。猿田彦命は出雲にいたころ伊弉冉尊の世話をしていることから、鉄器生産技術を学んでいると思われ、その応用で青銅器生産を行ったと思われる。中広型銅鉾が倭国連合のシンボルとしての意味を持つようになり、倭国統合の象徴として周辺に配布するようになったものであろう。その意義を高めるためには、青銅器を生産する人物が素盞嗚尊の血筋を請けた人物であればなおさらよいわけである。素盞嗚尊の孫である猿田彦命が生産することでその価値はさらに高まったと思われる。

 猿田彦命はどのようにして奴国を倭国に加盟させたのであろうか。奴国の将来性と猿田彦命(住吉大神)が航海の神といわれていることから考え併せて、海外交易の利権で加盟させたのではないかと思う。猿田彦命は奴国に上陸する前に朝鮮半島に渡り、楽浪郡との交易ルートを確保していたのではないかと思われる。倭国連合は当時の日本列島における最大の連合国家であり、楽浪郡としても倭国連合と交易した方が利便性も高いと考えたことが予想される。奴国にしても伊都国にしても次第に海外交易の利権が失われていったのではないだろうか。その中で次第に奴国王に倭国加盟を決意させたのであろう。

 猿田彦命の海外交易ルートを利用して朝鮮半島から多量の青銅原料を輸入し春日丘陵にて巨大化した中広型銅鉾や外縁付紐式銅鐸を製造し、周辺諸国に配ることで奴国は倭国内における地位を確保したと思われる。

 猿田彦命はここを拠点として北九州市以西の海岸線及び筑後川流域、佐賀・長崎の広い地域を統括することになった。猿田彦命の統治領域は広い海岸線を含んでいる。海上交通の実権を握っていたことは明らかであろう。この地域の実権を握るには海上交通を抑えないと意味がない。住吉大神は海上交通の神である。宗像三女神も海上交通の神であり、両者にはつながりが感じられる。三女神を祭る中心的神社は宗像神社と呼子の田島神社である。呼子は壱岐島からの最短距離にあり、宗像は東からの海上交通の要になるところである。そしてその真ん中あたりに住吉神社がある。また、この配置は当時の未統一地域である伊都国を東西から挟んでいる配置である。伊都国は猿田彦命によって海上交易の利権を奪われた形になっている。猿田彦命は、この時三女神の市杵島姫と結婚したのであろう。伊弉諾尊は猿田彦命の統治に暫く協力後、淡路島の鉄器工房の完成を見届けそこで世を去った。

 猿田彦は北九州の海上交通の実権を握って後に宗像三女神の市杵島姫と結ばれることになる。

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