倭国首都の変更

 倭国の都は素戔嗚尊が安心院地方に決めたが、第二代倭国王を継承した大国主命は、都は出雲にすべきと考えていたようである。龍蛇神について調べていると、大国主命の遷都の姿が見えてきた。

 龍蛇神について

 『龍蛇神とは、大国主大神さまの御使神です。
十月の神無月(かんなづき)の呼名の由縁ともなる故事ですが、陰暦十月に全国の八百万の神さまは、出雲大社の大国主大神さまのも とに集まり(そのため出雲では神在月と呼びます)、今を生きる私たち生きとし生けるもの全ての幸せの〝ご縁〟を結んで下さる縁結びの会議をなさいます。
その際に、八百万の神さまを出雲大社にご案内するため稲佐の浜にてお迎えされるのが「龍蛇神」という神様です』

出雲大社の神在祭の時に稲佐の浜から出雲大社に案内する神が龍蛇神とされている。<龍蛇神伝承>

 古代史の復元では、素戔嗚尊の最初の宮跡とされる須我神社前で周辺豪族を集めて会議を開いていたのが神在祭の起源であろうと推定していたが、龍蛇神の伝承をよく考えてみると、少し違うようである。

 時期の推定

 出雲の神在祭は素戔嗚尊が八岐大蛇を退治して出雲国を建国したときに、各地域の有力者を集めて会議をしたのが始まりと考えている。その後猿田彦も佐田大社の前で会議をしていたようである。古代の出雲国(倭国)は合議制を敷いていたようで、毎年1回領域内の代表者を集めていたことが神在祭の始まりであろう。しかし、大国主命はこれをもとに全倭国規模で大々的に会議を開いたと考えることができる。

 出雲大社の神在祭は稲佐の浜が上陸地点であること、大国主(大己貴命)が主体となっていることから判断して、この会議は素戔嗚時代ではなく大国主命時代で、大国主命が第二代倭国王になり、鹿児島で急死するまでの期間の会議を意味しているように思える。この時期大国主命は自ら地方開拓をしており、出雲を留守にすることが多かった。出雲に戻ったのは大洲でパートナーの少彦名命が亡くなった後と考えられ、AD40年ごろであろう。その後出雲で神在祭を実行したと考えられる。時期的にこの時しかないのである。

 龍蛇神とはだれか

 会議の場所は出雲大社の位置ではないと推定するが、それはさておき、稲佐の浜から上陸しているということは、神々は九州地方からの上陸を意味している。九州地 方からの来客が多かったためであろう。そこで、龍蛇神に該当する人物であるが、相当な信仰を集めているようなのでただの使者ではなく、相当有能で血筋のはっきりとした人物が考えられる。古代史の復元内で該当する人物として第一に掲げられるのは猿田彦命となる。

 AD40年ごろで出雲関連で有能な人物の多くは出雲から離れており、猿田彦命も北九州地方を統治していた。猿田彦命は出雲にいなかったわけであるが、それでも龍蛇神に比定するのは、荒神谷遺跡の青銅器があるのが理由である。荒神谷遺跡の青銅器が埋納されたのはAD50年ごろと言われている。ちょうど鹿児島で大国主命が急死(AD43年ごろ)した直後である。ということは、AD40年ごろの大国主命が青銅器をかき集めたことになり、おそらく神在祭に合わせて盛大な儀式を考えていたと推定される。この当時青銅器製造の主体となっているのが福岡県の那珂川流域である。この地域は猿田彦命をまつる神社が集中しているので、猿田彦命は青銅器の生産を主体的に行っていたと解釈している。荒神谷で見つかっている銅鐸・銅矛は九州で生産されたものであることが分かっており、猿田彦命が九州から持ち込んだものと考えている。

 荒神谷で見つかった多量の銅剣は近くで作られたとされている。出雲の赤川流域にある神原神社の地に積み重ねられたと伝えられているので、この背後にある山のふもとで製造されていたのではないかと推する。出雲ではこれまで青銅器の生産がおこなわれていた形跡がないので、銅剣製造のための技術者を九州から招いていると思われ、その人物が猿田彦命ではないだろうか。

 猿田彦命は出雲で生まれAD25年ごろ(20歳前後)まで出雲にいたので、出雲の国内事情に詳しく、また、その後北九州にいたので北九州周辺の豪族とも人間関係を築いており、神在祭の神迎えの使者には最高の人材となりうる。

 また、この頃猿田彦命は市杵島姫と結婚している。しかも新婚に近い状況だったはずである。猿田彦命は市杵島姫とともに出雲にやってきたのではないかということは十分に考えられる。出雲は市杵島姫の父素戔嗚尊の故郷に当たるわけで、市杵島姫はこの時まで出雲に来たことは伝承上ないと思われる。市杵島姫としても父の生まれ故郷である出雲を見てみたいという気持ちがあっても不思議はない。そうすると、猿田彦命が単独で出雲にやってきたと考えるより、市杵島姫を伴って夫婦で出雲にやってきたと考えたほうが自然と言える。その場合、稲佐の浜での神迎えを夫婦で行ったと判断できる。これが事実なら龍蛇神は猿田彦命・市杵島姫夫婦を指す神ということになる。

 龍蛇神が神迎えの儀式を行ったといわれている稲佐の浜には弁天島があり、現在この神社には弁天様(市杵島姫)が祀られている。神在祭をより厳粛なものとするためには市杵島姫の神在祭への参加は重要なものであったと推定でき、おそらく龍蛇神は猿田彦命・市杵島姫の夫婦神を表していると推定する。

 神在祭の会議主催者の変遷

 出雲の神有祭の起源は確かに出雲国建国直後の素戔嗚尊が開催した会議と思われる。しかし,出雲大社の神有祭はその伝承内容からして, 素戔嗚尊の会議を発展させた第二代倭国王としての大国主命主催の会議を意味していると思われ、その時期はAD40年を挟む10年間ほどと推定できる。

 素戔嗚尊はBC20年ごろ出雲国を建国しBC10年ごろまで出雲国にいたが,それ以降は大陸に先進技術をかき集めに出たり,地方統一に遠征したりで出雲にはほとんどいなかったと思われる。その間留守を預かっていたのは誰か?

 留守を預かっていた人物は何人か候補がいる。出雲王朝第5代天冬衣命か素戔嗚尊の長子の五十猛命あるいは素戔嗚尊の妻の稲田姫,あるいは後妻の神大市姫あたりが考えられる。この中で五十猛命は一時期留守を預かっていたかもしれないが,素戔嗚尊につき従い海外遠征をしているので,候補から外れる。天冬衣命は大国主命の父に当たるが,素戔嗚尊と血のつながりがないため,代役にはなれても主催者に離れないと思う。残るは素戔嗚尊の 妻に当たる稲田姫か神大市姫である。

 素戔嗚尊と結婚後の稲田姫は子をなしたこと以外は全く伝承上に出てこないので,稲田姫に関しては全く分からない。素戔嗚尊がAD25年ごろ出雲に戻ってきたときも,大国主命が政治を行ったのも, 素戔嗚尊が最初の宮を作った須我神社の地より,かなり西側にずれている。稲田姫はAD10年ごろには離別したか亡くなったかしたのではないかと思われる。そうなれば消去法により出雲国の留守を預かっていたのは素戔嗚尊の後妻の神大市姫となる。

 神大市姫は飛騨国王第35代上方様ヒルメムチ(ウガヤ朝第67代春建日姫)の妹と推定しており,相当なネームバリューがあったと推定している。留守を掌るには十分ではないかと思う。神大市姫はBC10年ごろからAD10年ごろまで出雲での神有祭の会議を主催していたと推定している。

 その後は、素戔嗚尊の孫にあたる猿田彦命がAD25年ごろまで主催したと推定する。猿田彦命が佐田大社前の広場で会議を主催したことが伝えられている。

 しかし,このころは出雲国内の豪族を集めていたはずで,倭国全体の豪族を集めていたわけではなさそうである。素戔嗚尊はAD20年ごろ大分県の安心院地方を倭国の都と想定してその地で倭国全領域の代表者を集めた会議を考えていたよう である。これが,天安河原神話となったものと考えている。猿田彦が行っていた神在祭の会議は素戔嗚尊によって、安心院に変更されたのではないだろうか。AD25年ごろ素戔嗚尊が出雲に戻ってからは,高皇産霊神・猿田彦命が主体となり,宇佐の地で会議が開催されていたのではないかと考える。

 出雲への遷都

 AD25年ごろ素戔嗚尊から第二代倭国王を継承した大国主命は会議の主催地を出雲にしようとの画策を兼ねて少彦名命とともに諸国巡回をしたと考えている。AD35年ごろ少彦名命が大洲で亡くなった後,北九州巡回したのち出雲に戻っ ている。この北九州巡回で高皇産霊神や猿田彦と話し合い,会議の主催地を出雲にすることが決定したと思われる。AD38年ごろではないか。

 大国主命は出雲こそ倭国の聖地と考えており、倭国の都は出雲であるべきと考えたのであろう。その理由として考えられるのは、大国主命の活躍により倭国の勢力範囲は東は越国(北陸地方)まで及んでおり、北陸地方の有力者が九州の安心院まで赴くのはかなり難があり、出雲であれば、九州からも北陸地方からも来れるというところではないだろうか。

 その後大国主命はこの会議を神聖なものとするために,猿田彦の協力を得て,青銅器をかき集め,会議時に祭礼を強化しようとしたと推定する。これが荒神谷の祭器であろう。

 この会議の場所は,大国主命が亡くなった後の国譲会議(日本列島統一会議)が行われたと推定している出雲市武志町の鹿島神社の地ではないかと考えている。この地と荒神谷遺跡は直線距離で約7kmほどである。 当時はこのあたり一帯海面だったと思われるので,船で祭器を運んだものであろう。この地 と九州方面の豪族の上陸地点と思われる稲佐浜との直線距離は9kmほどである。九州方面からの有力豪族が稲佐の浜に着いた時、市杵島姫が、神迎えの儀式を行い。猿田彦命が陸路で会場まで案内したのではないだろうか。

 猿田彦命は大国主命が出雲に会議地を移すまで宇佐地方で会議を主催していたわけですから,倭国の豪族に顔が効き,信頼される人物だったので,案内人としては最適の人物だと思われる。

 この頃南九州地方の豪族たちは,まだこの会議に参加していなかったのではないかと思う。南九州地方は素戔嗚尊の現地妻である日向津姫が主体となって倭国に加盟させているわけで,倭国内でも出雲とのつながりが薄い地域である。 大国主命はAD44年ごろ,この地域と出雲を一体化させる目的で南九州を訪問したのであろう。その活躍中霧島市国分の大穴持神社の地で落馬し,その時にマムシにかまれて亡くなったと推定する。AD45年ごろのことである。

 神在祭の別名は忌祭である。大国主命が亡くなった後,同じ出雲市の鹿島神社の地で国譲り会議が開かれているが,この時も地方の豪族が集められている。この成り行きから神有祭が忌祭の別名を持つに至った理由ではないかと想像する。

 

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