出雲国建国

八岐大蛇関連地図

出雲国建国関連地図

BC18年頃,土地の豪族ヤマタノオロチを倒した素盞嗚尊は,周りの人々に推されて出雲国を建国し,国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる。その周辺で、市を開いたり近郷の豪族を集めて会議をしたりといった伝承が伝わっている。古代にしては珍しく合議制だったようである。素盞嗚尊は権力で勝ち取った国王の座ではなく、人々から推されて国王になったのであるから、人々のことを考える気持ちが強かったと推察される。そして,素盞嗚尊は出雲各地を巡回し,人々の生活に心を配ったらしく,島根県各地の神社にこの巡回の模様が伝えられている。素盞嗚尊はこのように民衆に心を配ったために,出雲国の人々の生活は潤い、彼は民衆から慕われた。そのうわさを聞いた周辺の集落も,出雲国に加入するようになり,出雲国は次第に大きくなっていった。

来阪神社 出雲市矢尾 背後の鼻高山に登った。本殿傍らの岩は素盞嗚尊の腰掛岩と云われている。
山狭神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊がこの地を巡視した時、仮の宿を立てた処。熊野山を経由して、熊野との間を往復していたという。
都弁志呂神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊が置き忘れて云った杖と腰かけた岩を奉祀した神社
多賀神社 松江市朝酌町 素盞嗚尊命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。

 素盞嗚尊と稲田姫の子供たち

 出雲国を建国した素盞嗚尊は稲田姫との間に子を設けた。その子供たちについて検討してみる。

 第1子八島野命

 素盞嗚尊の長男と言われている。この命に関してはいくつか謎がある。まずそれをまとめてみる。
① 素盞嗚尊の長子と言われているが、行動伝承が全く存在しない。
② 八島野命は出雲王朝始祖となっている。出雲王朝初代は大国主命より6世前であり、大国主命の推定没年AD45年頃を基準に1世平均28年として八島野命はの没年を推定してみるとBC100年頃となる。朝鮮半島で漢の武王が朝鮮を滅ぼした年(BC108年)の直後辺りである。
③ 八島野命の誕生伝承地は2か所ある。雲南市大東町の須我神社と出雲市佐田町の須佐神社近くの誕生山である。共に素盞嗚尊、稲田姫の長子としての誕生伝説である。
④ 素盞嗚尊は自分の子供たち五十猛命・大屋津姫・爪津姫を引き連れて朝鮮半島に行っているが、その中に長子である八島野命はいない。これはなぜであろうか。
⑤ 古事記では大国主妻鳥耳命の父が八島牟遅命となっている。素盞嗚尊の長子である八島野命は八島士奴美と記載されており、両者はよく似た名である。

 素盞嗚尊の長子となれば重要な人物のはずなのであるが、この扱いはどうしたことであろうか。多くの伝承を調べてみると、具体的行動を伴わずに名称のみ記されている神(人物)は、他の人物の陰(別名)であることが多い。この八島野命もそれに該当しているのではないかと思われる。

 八島士奴美が始祖となっている出雲王朝とはなんであろうか、伝承通り直系と考えて年代を推定してみるとBC100年頃からAD300年頃までに存在したことになる。この出雲王朝の人物で行動伝承を持つのが第4代八束淤美豆神(国引伝承)、第5代天冬衣神、第6代大国主神である。誕生伝承を持つものが第1代八島士奴美神(須我神社、須佐神社)、第14代天日腹大科度美神で、それ以外の神は名前だけの存在である。吉田大洋著の「謎の出雲帝国」に富氏伝承が記載されているが、この伝承では素盞嗚尊以前に大国主命につながる古来からの出雲王朝があったことが伝えられている。

 後の時代に起こった出雲を舞台とした倭国大乱でも出雲王朝の王は登場しない。大国主命より後は出雲地方の一豪族としての存在だったのではないだろうか。しかしながら、古事記にわざわざ記載されるということはその系統は古代において重要な地位を占めていたと言わざるを得ない。
 最後の王遠津山岬多良斯は第12代景行天皇の時代に生きていた人物と思われるので、出雲王朝を廃止したのは景行天皇であろう。景行天皇以降第14代仲哀天皇までの天皇の和名にはいずれも「タラシ」がついており、第15代遠津山岬多良斯(トオツヤマサキタラシ)と共通である。これも出雲王朝が大和朝廷にとって重要な存在であったことを意味している。

 そうなれば、その始祖である八島士奴美神は重要人物となるが、皇祖神とはなっていない。そこで、始祖の八島士奴美神を素盞嗚尊の系統に無理やり組み入れたのではあるまいか。そのために第6代大国主命と素盞嗚尊は同時代に生きていたはずなのであるが、年代が大きく開くという矛盾を生じてしまったと考える。

 次に大国主命の妻である鳥耳命の父である八島牟遅命は何者であろうか、出雲王朝が直系でないとすれば、八島士奴美神と同一人物であると考えることもできるのであるが、直系であれば、明らかに年代が異なる。こちらが素盞嗚尊の長子と考えれば、BC18年頃の生誕でその子鳥耳命はAD1年頃の生誕となり、大国主命と年代的に会うのである。素盞嗚尊の長子は五十猛命なので、八島牟遅命は五十猛命と考えている。

 八島野命の誕生伝説地は二つあるが、どちらも別人の誕生伝説地となる。素盞嗚尊の長子は五十猛命である。彼は、率先して最初から倭国統一に参加しており、まさに長子にふさわしい行動をとっているのである。須我神社における誕生伝説は五十猛命の誕生伝説とみて良いのではないだろうか。須佐神社の誕生伝説は大歳命の項で述べる。

 五十猛命

 素盞嗚尊と共に朝鮮半島に渡り、大陸の新技術を学んで帰ってきた。帰国後は佐賀・長崎など北九州西部地方の統一に尽力し、素盞嗚尊と共に紀伊半島を統一し統一後は和歌山市近辺で紀伊半島を統治していた。紀伊国国譲り(AD47年頃)後、出雲に戻り、横田町の鬼神神社の地で世を去った。

 須我神社で八島野命が誕生したという伝承は五十猛命のものと判断する。生誕はBC17年頃のことであろう。

 大屋津姫・爪津姫

 素盞嗚尊・五十猛命と共に朝鮮半島に渡り先進技術を輸入し、その後五十猛命と共に紀伊半島に移動し、大屋彦と結婚した。最後は和歌山市で亡くなったようである。常に二人セットで行動しており、具体的な行動伝承を伴わない。同一人物ではないかと思われる。もし別人であれば行動も別になるはずである。以降代表して大屋津姫と呼ぶこととする。素盞嗚尊第2子と推定する。生誕はBC15年頃のことであろう。

 岩坂彦命

  素盞嗚尊の第3子となる。島根県八束郡鹿島町南の恵曇神社に祭られており、出雲国風土記、秋鹿郡恵曇郷の由来に、「須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、ここにお着きになっておっしゃったことには、「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」と仰せられた。」とある。島根県松江市八雲町西岩坂946 の磐坂神社の地が生誕地と伝わる。岩坂彦命は素盞嗚尊の子として出雲国を巡回していたことが分かる。生誕はBC14年頃と推定する。

 出雲王朝との関係

 素盞嗚尊は出雲国を建国したが、出雲王朝との関係はどうなったのであろうか。出雲王朝は飛騨国と関係を持ち、出雲地方の有力豪族であったが、木次の八岐大蛇の台頭に対してなすすべなく、いいようにあしらわれており、出雲の人々からの信頼をなくしていたのであろう。このような時によそ者の素盞嗚尊が八岐大蛇を退治することによって、人心は一挙に素盞嗚尊に流れて、素盞嗚尊の建国した出雲国は発展していったのである。

 八岐大蛇退治の時の出雲王朝の王は第5代天冬衣神である。この人物は伝承上では素盞嗚尊の八岐大蛇退治の後、オロチの所持していた天村雲剣(草薙剣)を天照大神に献上した人物となっている。また、出雲王朝の総称名と思われるクナト大神は素盞嗚尊の道案内をした神として知られている。これらのことから、出雲王朝と素盞嗚尊の立場が逆転していることがうかがわれる。

 素盞嗚尊の活躍により、出雲の人々は出雲王朝から素盞嗚尊に心を寄せるようになったのである。素盞嗚尊の出雲国に対する政策が功を奏し、出雲国が次第に巨大化してきた。 

国家統一の動機

 素盞嗚尊の憂慮

 周辺地域が出雲国に加盟するようになって次第に巨大化し、出雲国の将来を考えた時、素盞嗚尊は不安を感じてきたのではないだろうか。出雲国がこのまま巨大化してくると、当然ながら周辺の国との衝突が起こることが予想される。その場合どちらかの国がどちらかの国を併合する形となり、日本列島が一つの国になるまで、その戦争は続くことになると思われる。そのような姿を素盞嗚尊の父である布都御魂も話してきたことであろう。この国の将来が悲観されたのである。

 伝承によると出雲国王時代には,素盞嗚尊は出雲各地から毎年代表者を呼び寄せ,会議を開いていたようであり,その会議によって重要なことを決めていた。 つまり合議制だったのである。古代の権力者は独裁になりやすいのであるが,素盞嗚尊はかなり民衆のことを考えた政治をしていたようである。 神社伝承でも,出雲国王としての素盞嗚尊は人々からかなり慕われていたことが伝えられている。素盞嗚尊は常に民衆のことを考える性格の人物であり, その性格が次のようなことを感じさせたのではあるまいか。

 素盞嗚尊の父布都御魂は,おそらく朝鮮半島の権力抗争に敗れた人物で,素盞嗚尊はその話を聞いていたと考えられる。また, 出雲の豪族ヤマタノオロチの横暴をみるにつけ,日本列島が統一されていないために,このまま時が過ぎると出雲国はいずれどこかの国と戦争をしなければならなくなり、 多くの人々の血が流されることになろう。

このように、各地の有力豪族が権力を欲しいままにしていた状況に「今のうちに、何とかしなければ」というものを感じたのではあるまいか。

 その中でも最大の憂慮は飛騨国との関係である。飛騨国から派遣されたヤマタノオロチを退治してしまい,飛騨国からの良く思われていないだろうし,このままにしておけば,飛騨国との戦いになる恐れもあった。

有力豪族の権力抗争を憎み,

「今のように,小国家が分立した状態で,それぞれの王が,権力欲をむき出しにしている状態では,いずれ朝鮮半島のように列島内至る所で戦争が始まり, 人々は苦しむ状態になる。幸い日本列島は小国家乱立状態で,それぞれの国家は烏合の衆である。今のうちに統一してしまえば, 未来永劫,争いのない世界がやってくるのではないだろうか。」

とでも考えたのではないだろうか。この考えは日本書紀の「八紘一宇」「六合一都」の考え方で,初代神武天皇が大和で即位するときに人々に示したとされている。 これは、戦前に強調され,太平洋戦争の口実になったものである。しかし、古代にしては考えられないほど理想的な考え方である。この考えを受け継いだ神武天皇が大和で即位するときに,この考え方を示したものであろう。

 素盞嗚尊自身がこのような考えに至ったと思われるが,一人で考えを実践したのではなく,合議制を重視していることから,当然ながら周囲の人々に相談しているものと考えられる。その結果,周囲の人々にもこの考え方が広まり,飛騨国の縄文連絡網を通して飛騨国にも素盞嗚尊の考え方が伝えられたのであろう。

 最初に統一された瀬戸内海沿岸地方から,出雲系土器が出土するが,その数はまばらで少ない。このことは素盞嗚尊のこの地方統一は少人数だったことを意味し, 少人数での統一は平和統一しかあり得ない。素盞嗚尊は,瀬戸内海沿岸地方の人々に国家統一の必要性を説いて回り,その協力者を募ったものと考える。 古代と雖も人々は戦いを好まず,平和な生活を望むであろうから,協力者はかなり多かったのではあるまいか。 そして,彼らの協力を得て次の地域を統一していくという方法を使ったのであろう。

 これは,素盞嗚尊が権力欲や支配欲なしで,純粋に国家統一を目指していたことを意味している。もし,素盞嗚尊が権力欲を持っていたのなら, 瀬戸内地方を統一した後は,この地方を出雲勢力の勢力下に置くであろう。そして,統一に武力を用い,あくまでも出雲勢力を中心に動くはずである。 統一した地方の人々を動かして,次の地域を統一するといった手法は,統一された側に支配されるという感情を持たせず, 目的意識を持って積極的に国家統一事業に参加させるといった効果をもたらせたと考える。そのため,統一される側も,抵抗感が少なくなったのであろう。 実際にその後の九州統一でも,遺物から判断して,出雲勢力よりも瀬戸内勢力がかなり活躍している。

 このような気持ちで統一事業をやったからこそ,多くの人々が協力し,後に日本最高の神として崇められるようになったと考える。

 実際に日本列島は弥生中期は小国家乱立状態であったが、この時期は戦闘を意味する遺物が数多く出土しているが、日本列島統一が始まる弥生時代後期に入ってからは、武器を意味する遺物は祭器に変わり戦闘関連遺物は激減している。これは、日本列島統一事業は宗教的に行われたことを意味し、戦争によって併合されたのではないことを意味している。

 素盞嗚尊は日本列島をなんとか平和的に統一できないものかと考えたことであろう。

 飛騨国との接触

 縄文連絡網を通して,出雲国が平和統一をしようと考えていることを知った飛騨国は,早速使者を派遣して,素盞嗚尊を接触を図ったと思われる。

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高皇産霊神降臨 
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