出雲国建国

紀元前20年頃,土地の豪族ヤマタノオロチを倒した素盞嗚尊は,周りの人々に推されて出雲国を建国し,国王となった。大原郡大東町の須我神社の地で政務を司った。須我神社は日本初之宮と伝えられており、日本で最初の宮跡といわれる。その周辺で、市を開いたり近郷の豪族を集めて会議をしたりといった伝承が伝わっている。古代にしては珍しく合議制だったようである。素盞嗚尊は権力で勝ち取った国王の座ではなく、人々から推されて国王になったのであるから、人々のことを考える気持ちが強かったと推察される。そして,素盞嗚尊は出雲各地を巡回し,人々の生活に心を配ったらしく,島根県各地の神社にこの巡回の模様が伝えられている。素盞嗚尊はこのように民衆に心を配ったために,出雲国の人々の生活は潤い、彼は民衆から慕われた。そのうわさを聞いた周辺の集落も,出雲国に加入するようになり,出雲国は次第に大きくなっていった。

来阪神社 出雲市矢尾 背後の鼻高山に登った。本殿傍らの岩は素盞嗚尊の腰掛岩と云われている。
山狭神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊がこの地を巡視した時、仮の宿を立てた処。熊野山を経由して、熊野との間を往復していたという。
都弁志呂神社 安来市広瀬町 素盞嗚尊が置き忘れて云った杖と腰かけた岩を奉祀した神社
多賀神社 松江市朝酌町 素盞嗚尊命が新羅国より埴土の舟に乗り出雲国に渡り、この地に船を留め宮を作った。

 素盞嗚尊と稲田姫の子供たち

 出雲国を建国した素盞嗚尊は稲田姫との間に子を設けた。その子供たちについて検討してみる。

 第1子八島野命

 素盞嗚尊の長男と言われている。この命に関してはいくつか謎がある。まずそれをまとめてみる。
① 素盞嗚尊の長子と言われているが、行動伝承が全く存在しない。
② 八島野命は出雲王朝始祖となっている。出雲王朝初代は大国主命より6世前であり、大国主命の推定没年AD45年頃を基準に1世平均28年として八島野命はの没年を推定してみるとBC100年頃となる。朝鮮半島で漢の武王が朝鮮を滅ぼした年(BC108年)の直後辺りである。
③ 八島野命の誕生伝承地は2か所ある。雲南市大東町の須我神社と出雲市佐田町の須佐神社近くの誕生山である。共に素盞嗚尊、稲田姫の長子としての誕生伝説である。
④ 素盞嗚尊は自分の子供たち五十猛命・大屋津姫・爪津姫を引き連れて朝鮮半島に行っているが、その中に長子である八島野命はいない。これはなぜであろうか。
⑤ 古事記では大国主妻鳥耳命の父が八島牟遅命となっている。素盞嗚尊の長子である八島野命は八島士奴美と記載されており、両者はよく似た名である。

 素盞嗚尊の長子となれば重要な人物のはずなのであるが、この扱いはどうしたことであろうか。多くの伝承を調べてみると、具体的行動を伴わずに名称のみ記されている神(人物)は、他の人物の陰(別名)であることが多い。この八島野命もそれに該当しているのではないかと思われる。

 八島士奴美が始祖となっている出雲王朝とはなんであろうか、伝承通り直系と考えて年代を推定してみるとBC100年頃からAD300年頃までに存在したことになる。この出雲王朝の人物で行動伝承を持つのが第4代八束淤美豆神(国引伝承)、第5代天冬衣神、第6代大国主神である。誕生伝承を持つものが第1代八島士奴美神(須我神社、須佐神社)、第14代天日腹大科度美神で、それ以外の神は名前だけの存在である。吉田大洋著の「謎の出雲帝国」に富氏伝承が記載されているが、この伝承では素盞嗚尊以前に大国主命につながる古来からの出雲王朝があったことが伝えられている。

 後の時代に起こった出雲を舞台とした倭国大乱でも出雲王朝の王は登場しない。大国主命より後は出雲地方の一豪族としての存在だったのではないだろうか。しかしながら、古事記にわざわざ記載されるということはその系統は古代において重要な地位を占めていたと言わざるを得ない。
 最後の王遠津山岬多良斯は第12代景行天皇の時代に生きていた人物と思われるので、出雲王朝を廃止したのは景行天皇であろう。景行天皇以降第14代仲哀天皇までの天皇の和名にはいずれも「タラシ」がついており、第15代遠津山岬多良斯(トオツヤマサキタラシ)と共通である。これも出雲王朝が大和朝廷にとって重要な存在であったことを意味している。

 そうなれば、その始祖である八島士奴美神は重要人物となるが、皇祖神とはなっていない。そこで、始祖の八島士奴美神を素盞嗚尊の系統に無理やり組み入れたのではあるまいか。そのために第6代大国主命と素盞嗚尊は同時代に生きていたはずなのであるが、年代が大きく開くという矛盾を生じてしまったと考える。

 次に大国主命の妻である鳥耳命の父である八島牟遅命は何者であろうか、出雲王朝が直系でないとすれば、八島士奴美神と同一人物であると考えることもできるのであるが、直系であれば、明らかに年代が異なる。こちらが素盞嗚尊の長子と考えれば、BC18年頃の生誕でその子鳥耳命はAD1年頃の生誕となり、大国主命と年代的に会うのである。素盞嗚尊の長子は五十猛命なので、八島牟遅命は五十猛命と考えている。

 八島野命の誕生伝説地は二つあるが、どちらも別人の誕生伝説地となる。素盞嗚尊の長子は五十猛命である。彼は、率先して最初から倭国統一に参加しており、まさに長子にふさわしい行動をとっているのである。須我神社における誕生伝説は五十猛命の誕生伝説とみて良いのではないだろうか。須佐神社の誕生伝説は大歳命の項で述べる。

 五十猛命

 素盞嗚尊と共に朝鮮半島に渡り、大陸の新技術を学んで帰ってきた。帰国後は佐賀・長崎など北九州西部地方の統一に尽力し、素盞嗚尊と共に紀伊半島部を統一し統一後は和歌山市近辺で紀伊半島を統治していた。紀伊国の国譲り(AD40年頃)後、出雲に戻り、横田町の鬼神神社の地で世を去った。

 須我神社で八島野命が誕生したという伝承は五十猛命のものと判断する。生誕はBC20年頃のことであろう。

 大屋津姫・爪津姫

 素盞嗚尊・五十猛命と共に朝鮮半島に渡り先進技術を輸入し、その後五十猛命と共に紀伊半島統一に尽力した。最後は和歌山市で亡くなったようである。常に二人セットで行動しており、具体的な行動伝承を伴わない。同一人物ではないかと思われる。もし別人であれば行動も別になるはずである。以降代表して大屋津姫と呼ぶこととする。素盞嗚尊第2子と推定する。生誕はBC18年頃のことであろう。

 岩坂彦命

  素盞嗚尊の第3子となる。島根県八束郡鹿島町南の恵曇神社に祭られており、出雲国風土記、秋鹿郡恵曇郷の由来に、「須作能乎の命の御子である磐坂日子の命が、国内をご巡行になった時に、ここにお着きになっておっしゃったことには、「ここは、地域が若々しく端正な美しさがある。土地の外見が絵鞆のようだな。わたしの宮は、この所に造り、祭り仕えよ」と仰せられた。」とある。島根県松江市八雲町西岩坂946 の磐坂神社の地が生誕地と伝わる。岩坂彦命は素盞嗚尊の子として出雲国を巡回していたことが分かる。生誕はBC15年頃と推定する。

 出雲王朝との関係

 素盞嗚尊は出雲国を建国したが、出雲王朝との関係はどうなったのであろうか。出雲王朝は飛騨国と関係を持ち、出雲地方の有力豪族であったが、木次の八岐大蛇の台頭に対してなすすべなく、いいようにあしらわれており、出雲の人々からの信頼をなくしていたのであろう。このような時によそ者の素盞嗚尊が八岐大蛇を退治することによって、人心は一挙に素盞嗚尊に流れて、素盞嗚尊の建国した出雲国は発展していったのである。

 八岐大蛇退治の時の出雲王朝の王は第5代天冬衣神である。この人物は伝承上では素盞嗚尊の八岐大蛇退治の後、オロチの所持していた天村雲剣(草薙剣)を天照大神に献上した人物となっている。また、出雲王朝の総称名と思われるクナト大神は素盞嗚尊の道案内をした神として知られている。これらのことから、出雲王朝と素盞嗚尊の立場が逆転していることがうかがわれる。

 素盞嗚尊の活躍により、出雲の人々は出雲王朝から素盞嗚尊に心を寄せるようになったのである。素盞嗚尊の出雲国に対する政策が功を奏し、出雲国が次第に巨大化してきた。

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対馬統一
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