三輪地方統一

三輪山山麓の統一 

耳成山 古くは天神山と呼ばれ、8合目に耳成山口神社(天神社)があり、大山祇命・高皇産霊尊が祀られている。昔より神が坐す山といわれていた。位置から考えて、葛城から三輪方面へ移動する丁度途中にある耳成山は饒速日尊が拠点とするには最適と思われる。
鳥見山・等弥神社 最古の斎場だと言われている。山頂には祭壇状の斎場跡、祭祀の饗宴場だったという「庭殿」、注連縄をはって祭場とした「白庭」がある。等弥神社の祭神は「大日霊女貴尊」であるが、「饒速日尊」を祀っていたようである。
三輪山  「三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座の3ヶ所に神の宿る座があり、それぞれ大物主神・大己貴神・少彦名神の依代であると言われている。 そのなかの山頂周辺にあるのが奥津磐座である。この磐座が三輪山祭祀の中心と考えられる。 山頂には大物主神の子といわれる日向御子神を祀る高宮神社がある。
大神神社 祭神 大物主神
三輪山そのものを御神体としている。
大和神社 祭神 大和大国魂大神
 中央本殿の祭神大和大国魂大神、左本殿の祭神八千矛神(素盞嗚尊or饒速日尊?)、右本殿の祭神御歳神である。大和大国魂大神は大歳神の子(言代主か?)と言われている。 近くには素盞嗚尊を祀る神社が多い。
志貴御県坐神社 本来の祭神の詳細は不明なようであるが、饒速日命とも言われている。
宇陀郡榛原町檜牧 宇陀川と内牧川の合流点の南側に磐舟という字有り、近くに御井神社がある。この周辺は饒速日尊滞在伝説地である。
初瀬川上流の白木 饒速日尊が遷座したところ、鳥見の白庭の地であると伝承されている。東に鳥見山がある。初瀬町白河に饒速日尊を祭る白山神社がある
芹井(白木の北)  芹井物部(饒速日尊に供奉した物部)のいたところと伝える。
大行事社 大物主神の子といわれる、事代主命、加夜奈流美命を祭る。最古の市場の跡といわれている
日向神社 大物主神の子といわれる、櫛御方命、飯方巣見命、建甕槌命を祀る。
狭井神社 祭神 大神荒魂神、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神
五十鈴姫の実家があったと伝わる狭井川の畔に立つ大神神社の摂社
墨坂神社 奈良県宇陀郡榛原町萩原字天野
 祭神 墨坂大神(天御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、伊邪那岐神、伊邪那美神、大物主神の六柱神の総称)
 神武天皇東遷以前にすでに祀られていた。 「雄略紀」には、
「天皇、少子部スガルに詔して曰く、朕、三諸の岳の神の形を見むと欲すと。或いは云う。此の山神は大物主神と為す。或いは云う。うだの墨坂神なり。 」とある。 これは墨坂大神=大物主神であることを意味している。

 この当時大和川流域は大きな湖だった。そのため、大和盆地の中心地域には饒速日尊関連伝承地が存在しない。葛城に進出した饒速日尊は一言主神社の地に拠点を遷し、周辺を地盤固めをしたと思われる。AD32年頃耳成山に拠点を移し、そこで、三輪山周辺に拠点を持っていた三輪一族と交渉に入ったと思われる。

 三輪氏の始祖は事代主命(玉櫛彦)で三輪山周辺に拠点を構えている。神社伝承でも元来この地に土着していた豪族の影が見えないのである。饒速日尊がここに来る前にこの地は空き地だったのか、或いはこの地の豪族が率先して土地を提供したのかどちらかであろう。

 考古学的には大神神社の宮前に弥生時代の芝遺跡が存在している。弥生時代中期後半ごろの方形周溝墓や、大型の掘立柱建物を描いた絵画土器が見つかっている。このことから、この周辺は空き地ではなかったようである。矢田坐久志玉比古神社にあるようにこの周辺に住んでいた人々は喜んで饒速日尊一族を受け入れたということになる。

 三輪地方に住んでいた人々は葛城地方に拠点を構えていた饒速日尊一族のことは知っていたであろう。日本列島を平和的に統一することを目指している饒速日尊一行は大和盆地では人気者であったようである。饒速日尊はこの後東日本統一に出発し長期間留守であったはずであるが、幼少と思われる事代主命・御歳(下照姫)が育っている。土地の人々が大切に育てたのであろう。この頃より饒速日尊は周辺の人々から神のように親しまれるようになっていったものと考える。大和盆地全体がヒノモトの国として統一された。紀元32年ごろのことであろう。 

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