河内地方統一

大和侵入関連地図

 饒速日尊は大和盆地北部を統一することに成功したが、同時に河内平野に送り込まれた他のマレビトたちもそれぞれの国に入り込むことに成功した。 饒速日尊はこれらの国々との国との交流を常に保っておかなければならない。

 AD30年頃、饒速日尊は、大阪湾岸に送り込んだマレビトたちと連携をとるために現在大阪城のある丘陵地に宮を作ったと思われる。古図に現在の大阪城所在地に磐船神社があったことが記されている。この祭神は饒速日命である。現在の大阪城のある位置は当時海上に浮かぶ丘陵地であった。饒速日命ははじめここに滞在し、大阪湾岸を一望したことであろう。のちに草香山を目指して日下の地に移ったと推定する。

 生駒山の西麓に饒速日尊、可美真手命を祀った石切劔箭神社が存在している。 「神武天皇が即位した翌年、出雲地方の平定に向かう可美真手命は、生まれ育った宮山に饒速日尊をお祀りしました。」 これが石切劔箭神社の発祥と伝えられている。ここを拠点としてマレビトが入り込んだ河内平野の国々との交流を保ったのであろう。可美真手命が育った時期であるからAD30年ごろのことであろう。
 このマレビトたちの活躍があり河内平野の国々は次第に一つにまとまりつつあった。

 大和盆地の縄文人たちと河内平野の弥生人たちは互いに犬猿の仲であったと考えられるが、大和盆地の縄文人は饒速日尊と飛騨国との交渉によって、河内平野の弥生人たちはマレビトの活躍により、両者の対立は解消されたようである。

 考古学的変化

大阪湾岸にある代表的な池上・曽根遺跡を調べてみると,中期までは都市的な色彩を 帯びた巨大集落であったが,中期末(紀元前後)に瀬戸内系土器が出土するようになるとまもなく、この大規模な集落は 瓦解する。以後は小規模な小集団に分散する傾向がある。このような変化はこの遺跡だけではなく大阪湾岸 一帯の遺跡で一斉に起こっている。このような集落の急激な変貌は,内的要因によってもたらされたと考えるよりも, 外部圧力によるものと考えられる。中期末の外部圧力となれば,饒速日尊の大阪湾岸侵入と 時期・場所ともに一致するのである。

池上・曽根遺跡

近畿地方の弥生中期末から後期初頭への変化は饒速日尊の近畿地方侵入によってもたらされたものと 推察されるが、伝承から推定された年代と、考古学的事実から推定される年代の照合を謀ってみよう。

 饒速日尊の近畿地方侵入はその前後と考えられるから、紀元25年頃と推察される。 一方考古学的事実では、中国の王莽時代の貨泉(漢書「食貨志」によれば紀元14年〜40年の間)が近畿地方後期の最も古い形式の土器と共に出土している。 この頃は頻繁に中国と交流しており、鋳造時期と出土時期はほぼ重なると見てもよい。また年輪年代法と合わせて推定すれば、 中期と後期の境目は紀元20年から30年頃と思われ、まさに伝承とぴったりと一致している。

 饒速日尊の近畿地方侵入を裏付けるものとして,次のようなものがある。

瀬戸内系の土器

 唐古・鍵遺跡には,中期までは,近隣地方や東方地域からの土器の搬入があるが,西方地域からの土器の搬入は 全くなかった。ところが,中期末になると,瀬戸内系の大型器台と大型の壷が出土している。これらは日常的に使うもので はないことから,瀬戸内系の文化を受け入れたものと判断される。

 大阪府高槻市の安満遺跡では,中期末になると,壺や鉢などの多くの土器に,新形式が出現し,器形や製作技法に 瀬戸内系の要素が強く認められるようになる。そして,石器が少なくなり板状鉄斧や鉄鏃などの鉄器が多く見られる ようになる。さらに,墓域が居住区に変わるなど,中期の生活形態を否定するような変化が起こっている。 住んでいた人々は集団でどこかへ移動したようである。池上・曽根遺跡、安満遺跡、を初めとする 近畿地方一帯の遺跡から中期末にほぼ一斉に人の姿が消えるのである。 おそらく饒速日尊の東日本統一事業に参加し,統一後の地方統治をしたものと 考える。これは,瀬戸内勢力の侵入を受けて起こった変化と考えられる。瀬戸内勢力は畿内の人々に各方面での技術供与 を行い、その見返りとして、東日本統一に協力するということになったと思われる。

 饒速日尊はマレビトと協力しながら、瀬戸内系の新技術を次々と導入した。鉄器が急増するようになっているが、これこそ淡路島で伊弉諾尊が造った鉄器工房(五斗長垣内遺跡)からもたらされたものであろう。

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