神功皇后の富国強兵策

 倭軍の強大化

 神功皇后の時代より、朝鮮半島への出兵が始まっている。日本書紀にはそれ以前の海外派兵での戦闘は記録されていない。新羅本紀には倭人あるいは倭兵の侵入記録が数多く記録されている。しかし、その記述内容に神功皇后の時代以降変化がみられる。

 神功皇后時代より前の新羅本紀に書かれている倭人の記録は、「国境周辺に侵入した」とか「倭人(倭兵)が攻めてきた」というような内容がほとんどで大規模なものとは考えにくい。ところが、この時期から急激に倭国軍の兵力が増大しているのである。

春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに金城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、倭軍は退散した。新羅本紀346年
夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。新羅本紀364年
 夏五月、倭軍が侵入して金城を包囲して5日も解かなかった。王が城を閉じて持久戦に持ち込むと、倭軍は退却を始めたので、挟み撃ちをして大敗させた。新羅本紀393年
倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。好太王碑文391年
高句麗、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にいっぱいいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。ところが安羅軍などが逆をついて、新羅の王都を占領した。好太王碑文400年

 新羅本紀にある金城は新羅の首都である。首都を包囲されてしまえば、戦争は敗北である。それまでの新羅本紀の記録には首都を包囲されるなどといった記述はない。明らかにこの戦いは倭国が圧倒的兵力を朝鮮半島に送り込んだことを意味している。

 それ以降の戦いもいずれも規模が大きく、400年の好太王碑文の記録によれば5万の高句麗の大軍と太刀打ちできるほどの兵力を朝鮮半島に送り込んでいることになる。

 神功皇后はどのようにして、その大軍を派遣することができたのであろうか。日本書紀の記述のみによると、仲哀天皇9年に三韓征伐したことになっているが、そんな急ごしらえの兵力で新羅を打ち破る事は出来ないと考えられ、新羅本紀にある通り、新羅に本格的に戦いを挑んだのは346年頃が妥当であろう。

 そうすれば、333年に倭国の実権を握った神功皇后は13年ほどかけて、倭軍の体制を整えたことになる。その過程を追ってみたいと思う。

 兵の招集の実態

 弥永の大己貴神社に「仲哀天皇九年(331年),諸国に令して新羅征討の船舶を集めんとせしも,軍卒容易に集まらず ,皇后はこれ必ず神の御心ならんと思し召し,弥永の地に大三輪社を建てて,刀矛を奉り給えば,果たして軍衆自ら集まりぬ. ..」とある。大和の大三輪神社の方には,「仲哀天皇,神功皇后の御代,筑紫において三輪の神を勧請した。」とある。

 この二つの記録は対応していると考えてよいであろう。神功皇后は最初、兵を集めようとしたが、集まらなかったので ある。神功皇后に対する信頼がないということであろう。三輪の神を勧請するためには、一度大和に戻る必要がある。

 仲哀天皇が亡くなった後なので、天皇が存在しない状態となっている。この状態では人が集まらないのは当然と言える。当時の倭国内の体制を整える必要があり、そのためには摂政でできることではなく、正式に即位した天皇が必要なはずである。

 生まれる前と思われる誉田別命では無理であり、仲哀天皇の子である大和にいた忍熊王が最適といえる。そのために、仲哀天皇9年仲哀天皇の遺体を大和に運んだと思われる。この時、大和で、6歳前後と思われる忍熊王が即位し忍熊天皇となったのではあるまいか。

 兵力増強の必要性

 330年、後趙は華北を統一し、その立役者石勒は皇帝に即位した。 この勢力が強大であり、後趙の前に、高句麗や鮮卑宇文部、前涼などは朝貢して臣従を誓った。後趙は華北の覇者として君臨することになったのが、この頃である。

 神功皇后にもこの情報は入っていたであろうから、中国における覇権主義が朝鮮半島、日本列島にも及ぶという危機感を持っていたと思われる。これに対して倭国内では熊襲・東国の反乱を平定する兵力しか養成していないありさまである。反乱を平定する程度の兵力では海外で戦うにはあまりにも戦力不足である。

 今、倭国の総力を挙げて兵力を養っておかなければ、中国の諸国は滅ぼした国の兵力を使って次の国を滅ぼしており、朝鮮半島諸国も狙われていた。中国の覇権主義のもと、朝鮮半島、倭国ともに、強大な国の属国になってしまうという危険性があった。

 中国に強大かつ安定な国があれば、その国と交流することにより倭国の安定は保たれるが、残念ながら中国は五胡十六国の戦乱時代である。どこかの国と交流していると、その国が倒れた時、倭国は敵側に回ってしまうのである。倭国が独立を保つためには、兵力の増強策が必要になってくるのである。

 315年に帯方郡の要請を受けて百済が高句麗と戦った。これをきっかけとして百済は高句麗の恨みを買うことになった。高句麗は百済を攻めようとしたが、前燕の慕容カイが遼東を狙っていたので百済には手を出せない状況が続いていた。
 318年高句麗は前燕に敗れ遼東を失った。これにより高句麗は、暫くは、朝鮮半島に手を出せない状況になった。しかし、遼東の状況次第では、高句麗が朝鮮半島に手を出してくる事が考えられた。

 おそらく、神功皇后は、誰かを中国大陸の戦乱の状態を視察に行かせているであろう。そして、倭国内ではどの程度の兵力が必要か、また、どのような戦術が有効かを調べさせていると思われる。

新羅の事情

 このようなときに、新羅が次第に国力を充実させ強大になってきた。新羅は倭国以上に中国に近く、国を強大化させなければ滅ぼされる危険性を感じていたのであろう。この頃の中国において敗れた国の王は間違いなく処刑されている。新羅王としても国の強大化は是非とも必要だったのである。新羅は強大になるにつれ、国境を越え周辺諸国に手を出してきたのである。

 この頃の倭国は新羅以上に強大であったため、倭国に直接手を出すことはしなかったようであるが、新羅は倭から独立した国であるため、倭からは色々と要求されており、新羅が自立するには倭国は邪魔な存在であった。

 新羅は倭の弱体化を図るために同じような境遇にある球磨国と協力関係を結び、球磨国をあおり、大和朝廷に対して反乱させたのであった。しかし、その作戦も失敗に終わり、球磨国は大和朝廷の支配下に下ってしまった。

 伽耶諸国は倭に属しており、伽耶諸国が存在するために新羅が倭の影響を受けやすくなっているのである。これまでの倭兵たちは、伽耶諸国を拠点として新羅領内に侵入しているのである。伽耶諸国を新羅勢力で固めることができれば、倭が新羅を襲うには直接派兵してくるしかなく、倭の勢力はかなり減退するのは明らかである。伽耶諸国から倭の勢力を追い出すために、新羅は伽耶諸国に手を出し始めたのである。

 倭としては、伽耶諸国は大陸交流の拠点であり、重要な地域である。この地を失ってしまえば、大陸交流に大きな障害が出てしまうので、伽耶諸国は何とか守りたいという気持ちが強かったと思われる。

 倭としては、戦いを好まず、交渉によって打開しようとしていたのであろう。

春三月、倭国王が王子の花嫁を求めてきたので、阿サンの娘を送った。328年、新羅本紀
倭国が使者を使わして婚姻を乞うたが断った。344年、新羅本紀

 この二つの記事は、倭国が新羅に対して国交を断絶した345年の少し前の記事である。322年に和平が成立しており、倭と新羅は交流していたのであるが、先ほどの事情により、新羅が倭に対して色々としかけていたのである。倭としては、新羅と婚姻関係を結ぶことにより信頼関係を築こうとしたのではあるまいか、そのために、この頃、婚姻を求めているのであろう。

 日本列島内では縄文人と弥生人、ヒノモトと倭のように結婚によって一つにまとまってきたという歴史があった。倭としても新羅とそういう関係になりたいと思っていたのであろう。しかし、倭の婚姻作戦も効果なく、新羅はそれを拒否するようになり、345年国交を断絶することになるのである。

 東国の兵の招集

天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って、御陵を明石に興した。こうして、船団を編んで、淡路島に渡して、 その島の石を運んで御陵を造った。
 その時、人毎に武器を持たせて皇后を待った。倉見別とイサチの宿禰は共に香坂王に付き、そこで将軍として東国の兵を集めて率いた。
この時に、香坂王はトガノで、戦いの吉兆を占うために「うけひ狩り」をしたが、赤いイノシシが急に出て来て、香坂王を食い殺してしまった。<日本書紀>

 日本書紀の記録では、忍熊王の兄である香坂王が仲哀天皇の御陵を作る目的で東国の兵を集め、明石に派遣したとなっている。

 しかし、戦いは明石周辺では起こっていないうえに、香坂王の推定年齢(332年当時8歳ほどと思われる)からしても、大分後の時代である。忍熊王の名前で神功皇后が東国に兵の招集体制を固めるように命じたのであろう。新羅本紀によると346年に最初の派兵をしているので、この時には香坂王は22歳ほどになっており、東国の兵を集めることは、可能な年齢になっている。

 神功皇后の時代東国も日本武尊の活躍で落ち着きを取り戻したばかりで、大和朝廷の招集命令のもとすぐに兵が集まるという状況にはなかったはずである。兵を集めるにはシンボルとなる人物が確かな人物でなければならず、香坂王はそれに該当すると思われる。香坂王は神を祀るなどして15歳ほどの時より東国を回り、兵を集めていたと思われる。香坂王が東国の兵を集めて、神功皇后の兵と合流したのが、345年頃と推定する。

 兵力増強の期間

 神功皇后が兵力増強の計画を立てたのが、仲哀9年(332年後半)と思われる。日本書紀では、この時に神功皇后は新羅征伐を行っているが、新羅との交渉程度は行っていると思われるが、戦いはありえないと判断した。実際に日本書紀でも新羅王は神功皇后の兵力の前に戦わずして降参したと記されている。これは、交渉によって、以降熊襲に手を出さないということを新羅が承諾したことを意味していると判断する。

 その後、新羅とさまざまな交渉を行っていたようである。年代が記されている神社伝承は以下の通り、

神功皇后摂政3年(334年)、大陸交渉の際、御艦を当宇須伎津に御滞泊あらせられた際、神功皇託(神様のお告げ)をお受けになりこの宇須伎津の浄地を開き、一小社を建立し、玉依比賣(神武天皇の御母、海の神様)をお祀りし、敷嶋宮と号した。これが当社創建の起源であります。
  魚吹八幡神社(兵庫県姫路市網干区宮内193)伝承

神功皇后が神功皇后9年(337年)秋、朝鮮出兵の時当地を通られたが、山が深く谷も険しくて難路であったため、天神地祇にご祈願されたところ、神様が現れ「難路故各所二物ヲ置キ導キ奉ラント告ゲ給ウ」とのお告げがあり、行軍の先々に白幣を竹筒に挟んだものを所々に置き道案内をした。そして「皇后ニ軍謀秘策ヲ告ゲ給ウ」とし、その後皇后は無事に凱旋できたことを喜ばれて幣白を寄進された。
  三之宮神社(枚方市穂谷2丁目7番1号)伝承
 神功皇后は、住吉大神のご加護の下、新羅遠征から凱旋の帰路、大神の信託に基づいて住吉の地に大神を祀ったとされる。この大神を祀った日(住吉大社の創建日)が、神功皇后摂政十一年(338年)、辛卯年の卯月の上の卯日だった。
 住吉大社伝承
神功皇后摂政18年(342年)三韓征伐の帰路に住吉太神宮に祈って、当国に太神降臨し給う宮処を教え給えと、海辺に茂る藤の木を、本未打ち断ちて海中に投げ入れれば坂島(宇和島)の郷那多に着いた。よって、此処に宮居を営み、藤住吉太神宮と称したという。
 多賀神社(宇和島市藤江1339) 伝承

 これらの年代は倭と新羅が国交を断絶する345年より前の出来事なので、大陸交渉中の出来事と考えられる。神功皇后自ら大陸に足を運び新羅と交渉をしていたのであろう。その交渉が出兵と誤って伝えられることになったと思われる。

 これらの記事を見てもわかる通り、神功皇后は大陸を何回も往復しているのである。これらも大和に忍熊天皇が存在しているからできることであろう。

(345年)春二月、倭王が国交断絶の国書を送ってきた。新羅本紀
(346年)倭軍が突然襲来し、辺境地帯を侵した。さらに金城までを包囲して攻撃したが、城を閉じて持久戦に持ち込んだところ、倭軍は退散した。新羅本紀

 新羅本紀によると、倭が国交を断絶したのは345年のことである。倭は新羅と戦う態勢が整ったために、国交を断絶したのであろう。実際にその次の年に大軍を派遣している。そして、新羅本紀の記録では初めてである金城が包囲されているのである。

 これらから、神功皇后は333年から345年までの12年間で倭国内の兵力増強及び海外派兵の体制を固めたと思われる。

 瀬戸内水軍の召集

 神功皇后の立ち寄り伝承地は瀬戸内海沿岸地方と北九州地方に集中している。瀬戸内海沿岸地方は広島・岡山・香川愛媛の伝承地をざっと調べただけで66か所見つかった。さらに調べればもっと増えるものと思われる。上記の神功摂政元年以外の年代が記されている伝承はいずれも瀬戸内海沿岸地方の伝承である。神功皇后は333年~345年の間瀬戸内海沿岸地方を中心に各地を訪問していたと思われる。

 その目的はやはり瀬戸内水軍の招集体制の確立と思われる。瀬戸内水軍の越智氏の伝承に
 孝霊天皇皇子彦狭島命6世三並の伝承に「仲哀天皇の熊襲征伐の時功績との言い伝えあり。」
 また、7世熊武の伝承に「 神功皇后の新羅征伐に功績との言い伝えあり。」
と記されている。

 越智氏は大三島の大山祇神社を奉祭してきた氏族である。
この神社の由緒によると、神武天皇の東征以前に大山積神の子孫である「乎千命」が四国に渡り、瀬戸内の治安を司って芸予海峡の要衝である御島(大三島)を神地と定め鎮祭したことにはじまると伝えられている。
また、大山祇神社が祖神として「饒速日」を祀ってあることから、大山積神=饒速日尊と推定できる。

 瀬戸内水軍は饒速日尊が四国統一する時に創設し、大和降臨後大和・九州間の交流促進のために強化したものである。瀬戸内水軍は饒速日尊を始祖として崇拝していた。

 大軍を海外に派遣するには組織的な水軍が必要である。神功皇后が目を付けたのが瀬戸内水軍である。

 住吉大神の正体

 神功皇后は三韓征伐に際し、各地で住吉神を祀っている。日本書紀には三韓征伐の成功は住吉大神のご加護があったためと記されている。神功皇后は三韓から帰還後各地で住吉の神を祀っている。これはどういうことであろうか。

神功皇后は帰途にここで住吉大神を祭り、渡海安全の祈願をして剣と鉾を奉納した。そしてそのしるしに自ら松を植えた。 
唐ノ松神社(中間市垣生)伝承
神功皇后は再びこの崗の津に着いて、この丘に登って海上に浮かんだり飛び交う水鳥を眺めた。この時、神功皇后は群臣を召して「このたびたやすく三韓を従える事が出来たのはひとえにこの神のお蔭である。その恩をひとときも忘れない。」
と言って自らの手で 一株の松を植え、その根元に白幣を納め「この松は神ともに弥栄に栄えよ。」祈った。
こうしてここを若松と呼んで住吉大神を祭った。
住吉神社(遠賀郡若松)伝承
戦勝を収めると軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が皇后に教えて言った。 
「我が荒魂を穴門の 山田の邑に祭れ。」と。その時、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチと津守の連(むらじ)の祖のタモミの宿禰が皇后に言った。
「神が鎮座したいと言われる所には必ず定めて祭られますように。」
そこで、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、祠を穴門の山田の邑に立てたという。
住吉神社(下関市) 日本書紀

 住吉大神は古代史の復元では猿田彦命の別称と考えている。海路を導いたということで住吉大神を祀ったと思われる。住吉大社の祭祀者の津守氏の祖は火明命(饒速日尊)である。

 気比神社(兵庫県豊岡市)伝承
 越前の伊奢沙別命(饒速日尊と推定)が皇后の夢枕に立ち、「船を以って海を渡るならば、直ちに住吉大神を船に祭るように」と教えた。

 この伝承より皇后が住吉大神を重視したのは、敦賀の気比神宮の神(伊奢沙別命)であることが分かる。この神は饒速日尊である。

 住吉大神には饒速日尊の影も見えるのである。これらのことより、ここでいう住吉大神は饒速日尊・猿田彦命父子を指すのではないかということが考えられる。住吉大神は表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々の総称である。そのうち2柱が饒速日尊・猿田彦命父子だとすれば、もう一柱は誰であろうか。

 男神で、饒速日尊・猿田彦命父子に近い存在となれば、素盞嗚尊以外には考えられない。住吉大神は素盞嗚尊・饒速日尊・猿田彦命の直系三代を表筒男、中筒男、底筒男として表したものではないかと思われる。素盞嗚尊は朝鮮半島を開拓した神で海を治める神であり、饒速日尊は瀬戸内水軍の生みの親で、金毘羅大権現の別名で海洋交通の神であり、猿田彦命は道案内の神である。何れも住吉大神の特徴を持っている。

 この度の神功皇后は倭国軍の創設が目的である。神に祈ることにより、人々の心を一つにしなければならないが、地域によって、奉祀する神が違っているのである。山陽地方は素盞嗚尊、伊予・讃岐地方は饒速日尊、北九州地方は素盞嗚尊・猿田彦命である。これらの地域の人々の心を一つにするには共通の神が必要だったのであろう。そのために生まれたのが住吉大神と考える。素盞嗚尊・饒速日尊・猿田彦命の直系三代を住吉大神として祀ることにより、すべての地域の人々をまとめることができたと思われる。

 住吉神社の総本宮は福岡県筑紫郡那珂川町仲の現人神社である。

 現人神社(住吉三神総本宮・福岡県筑紫郡那珂川町仲)略誌
御祭神 住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)
御由緒 並びに御神徳
伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小戸の檍原にて禊祓い給いし時に生れましし住吉三柱の大神を祭祀した最も古い社にして、神功皇后(1780年前)三韓遠征の際、軍船の舳先に御形を現し、玉体を護り進路を導き、無事凱旋せしめた御神として、皇后いたく畏(かしこ)み奉りて、この住吉の神の鎮まり座す現人宮を訪れ、神田に水を引かむと山田の一の井堰を築き、裂田の溝を通水して、五穀豊穣の誠を捧げられ、現人大明神の尊号を授けられ、供奉の藤原朝臣佐伯宿禰をして祀官せしめられてより、現人大明神と称す。
摂津の住吉大社は現人大明神の和魂(にぎみたま)を祀り、福岡の住吉宮は(1200年前)分霊せらる。

 この神社は神功皇后の時代すでに祀られていたようである。住吉大神はこの地になぜ祭祀されていたのであろうか。素盞嗚尊・饒速日尊・猿田彦命の三人が一時期この地に滞在していたためではないかと推定している。AD25年頃出雲で伊弉冉尊が亡くなった後、猿田彦命が伊弉諾尊と共に出雲からこの地にやってきている。この直後素盞嗚尊は出雲に帰還しており、饒速日尊は讃岐国琴平で瀬戸内海沿岸地方を統治していたが、大和降臨のためにこの頃北九州に呼び戻されている。この三者が同時期に同地域にいたのはAD25年頃の北九州地方しかないのである。おそらく、この神社の地に三者が集まり、今後の日本列島統一について話し合ったのではあるまいか。それを記念して祀られた神社が現人神社と推定できる。

 瀬戸内水軍招集方法

 日本書紀では瀬戸内水軍の活躍を住吉大神と重ねて表現しているのではないかと思われる。

 神功皇后は三韓から帰還後、方々に住吉大神を祀っている。三韓征伐後も海外遠征が必要な戦いが予想される。瀬戸内水軍は今後重要視される関係から、瀬戸内水軍の拠点を各地方に広げたと思われる。その拠点に祭られたのが、住吉神社であろう。瀬戸内水軍はこれを機に勢力を広げることになった。瀬戸内水軍は自らの繁栄のためにも、神功皇后に協力したのであった。

 神功皇后と瀬戸内水軍の出会いと思われる伝承がある。岡山県の牛窓の地名由来である。

神功皇后のみ舟、備前の海上を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛輔と日ひき。今、牛窓と云ふは訛れるなり。
     (備前國風土記逸文)

 神功皇后西国御遠征の砌、牛窓沖にて牛鬼の難に逢われ、危うき処を住吉大明神に救われたことが、このような伝承になったと推定できる。仲哀天皇生存時にも瀬戸内水軍が活躍しているので、この伝承は仲哀天皇の在世中のものであろう。神功皇后が、この牛窓に立ち寄ったとき、土地の豪族に襲撃されたのであろう。そのとき、この地方にいた瀬戸内水軍がこの豪族を成敗し、神功皇后を救った。神功皇后は瀬戸内水軍の威力をこの時知ったのであろう。

 しかし、この当時瀬戸内水軍は一枚岩ではなかったのではないかと思われる。瀬戸内水軍はもともとは瀬戸内海沿岸の海賊である。伊予の越智水軍が最大規模のものであったようであるが、それぞれの地域に頭領がいて、その頭領を中心にまとまっていたのであろう。備讃瀬戸に拠点を持っていた水軍と、芸予諸島に拠点を持っていた水軍は別組織であったと思われる。彼らを倭国軍として活躍させるには一枚岩にする必要があった。

 神功皇后は頻繁に瀬戸内海沿岸地方を訪れ、その地域で奉祀されている神を祀ることにより、人々の心を一つにして瀬戸内水軍を一つにまとめ上げたのである。HP「愛媛伝」によると、神功皇后伝承のある神社は瀬織津姫の伝承と重なることが指摘されている。神功皇后=瀬織津姫と考えられるほどの一致のようである。伊予国で信仰の厚かった瀬織津姫・饒速日尊ゆかりの地を神功皇后が訪問し、祭祀したためであろう。

 その時の様子を表していると思われる伝承が存在している。

広島県草津、古江の伝説
 草津の港は古くは「軍津浦輪(いくさつうらわ)」と呼ばれ、神功皇后が朝鮮出兵の往き帰りに、この港に舟を集結させたとの伝説が残っている。
 「神功の鼻」は新宮神社のある小山を指し、[漕出」は今の古田小学校の裏手あたり、「樽ケ鼻」は古江と草津の境のあたり、「日向山」は草津八幡神社を祀る[行者山」とされている。 この行者山は力箭山とも呼ばれているが、神功皇后の軍勢が、この山で弓の猛訓練が行われたことから、その名が起こったと云われる。

 草津八幡神社・新宮神社は神武東遷時の立ち寄り地でもあり、ここでも、先人のゆかりの地で神功皇后は活躍していることが分かる。神功皇后は、各地で先人ゆかりの地を訪れ、そこに周辺の水軍を集め、訓練をしていたことを意味している。先陣ゆかりの地で水軍を集め訓練をすることにより、土地の人々も集まりやすかったのであろう。

 神功皇后は333年から345年までの間瀬戸内海沿岸地方で地道にこの活動を行った。これにより、次第に瀬戸内水軍は一つにまとまり、倭国軍の強大な戦力となっていったのである。

 北九州豪族の招集

 北九州豪族の招集方法も瀬戸内水軍の招集方法とよく似ている。神功皇后が訪れ、神を祀った地は神武天皇の滞在地と重なることが多い。応神天皇の誕生伝承を持つ宇美八幡宮を始め、大分八幡宮、岡田宮、熊野神社、嚢祖八幡宮、蓑島神社、宮地嶽神社、宇佐神宮等である。

 神武天皇の滞在地でありながら、神功皇后の伝承のみが残り、神武天皇の伝承が失われたのではないかと思われる神社も存在している。他に伊弉諾尊の滞在伝承を持つ太祖宮、彦穂穂出見尊の伝承を持つと思われる高祖神社など、先人のゆかりの地をあえて訪れることにより、兵卒を集めて訓練をしているようである。

福岡県朝倉の地名について

 大和の三輪山を中心とする地名と,朝倉地方の三輪町弥永を中心とした地名が,ほぼ,完全に一致している。その中心にある神社が弥永の大己貴神社であり、この神社には
 「仲哀天皇九年(331年),諸国に令して新羅征討の船舶を集めんとせしも,軍卒容易に集まらず ,皇后はこれ必ず神の御心ならんと思し召し,弥永の地に大三輪社を建てて,刀矛を奉り給えば,果たして軍衆自ら集まりぬ. ..」
 と記録されている。このことは、神功皇后がこの地に滞在していたことを意味している。

 共通の地名三輪から時計回りに似た地名を並べると以下のようになる。

<九州>・・①三輪町・②朝倉町・③鷹取山・④星野・⑤浮羽町・⑥杷木町・⑦鳥屋山・⑧山田布・⑨田川市・⑩御笠・⑪御井町・⑫小田・⑬池田・⑭夜須町。
<大和>・・①大三輸町・②朝倉・③高取山・④吉野山・⑤音羽山・⑥榛原町・⑦鳥見山・⑧山田・⑨田原・⑩三笠山・⑪三井・⑫織田・⑬池田・⑭大和。

 偶然では考えられないほどの一致である。やはり、この2地域には何か関係があったと考えるべきであろう。

 神社伝承からこの地に滞在していたのは神功皇后であると考えられる。短期間に滞在しているのに対して多くの地名が一致することなどはありえない。かなり長期にわたって、少なくとも断続的にこの地に滞在していたと思われる。おそらく、神功皇后をはじめ大和から来た人々が、故郷の大和を偲んで、大和と同じ地名を付けたものであろう。

 断続的な長期滞在の目的は神社伝承の通り、兵の招集体制の確立にあったと思われる。九州は大陸に近いことから、九州地方の豪族が主になって倭軍を編成する必要があるが、九州は大和から遠いために招集体制がなかなか整わなかったのであろう。

 この地域は筑後川の流域であり、水運に恵まれ、遺跡密度の高く人が多く住んでいたと思われるが、北九州の主要部から少し離れた地域である。この地は饒速日尊が大歳と名乗っていたころ統一した地域で、この土地の人々は饒速日尊を崇拝していたと思われる。饒速日尊を祀る中心的神社がなかったために、神功皇后は大三輪社を立てて、饒速日尊を盛大に祀ったのである。これが、人々の心を引き、軍卒が集まるようになったと思われる。

 神功皇后は北九州主要部の豪族はそれぞれの地域で、先陣ゆかりの地に赴き、軍卒を集めて、訓練できた。これらの地と朝倉地方は少し違うようである。

 大和の地名を移すということは、大和から来た軍卒の滞在地だったと解釈できる。

傳に曰く当社は神功皇后三韓征伐より凱旋の節当地へ着船。副将武内宿祢に命じて行宮を創立し給ふ。
玉垂神社(福岡県大牟田市大字岬2363)
本宮は神功皇后が新羅親征よりの帰途(西暦192)軍船を筑後葦原の津(大川市榎津)に寄せ給うた時、皇后の御船のあたりに白鷺が忽然として現われ、艮(東北)の方角に飛び去りました。皇后はその白鷺こそ我が勝運の道を開き給うた少童命の御化身なりとして白鷺の止る所を尾(つ)けさせられ、其地鷺見(後の酒見)の里を聖地とし、武内大臣に命じて仮宮(年塚の宮)を営ませ、時の海上指令であった阿曇連磯良丸(あづみのむらじいそらまる)を斎主として少童命を祀りました。
風浪宮(福岡県大川市大字酒見字宮内726-1)

 これらの伝承地は筑後川河口域である。三韓からの船団の帰途は、長崎を経由して有明海に入り、この地に上陸したと考えられる。最終目的地は弥永の大己貴神社周辺であろう。とすれば、出発地も同じ場所と考えられ、数多くの軍卒の駐屯地が弥永の地ということになる。

 新羅征伐の大軍は数万に達すると思われ、この地に大和から来た数万の軍卒を長期にわたって滞在させることになる。そうなれば、食糧・武器などの調達が必要となり、必然的に物流がしやすい地となる。この地は、筑後川の流域で、数多くの船で物資を運ぶのが容易な地である。それらを考慮した結果、この地が選ばれたのであろう。

 数万の大軍を朝鮮半島に送るには、数千隻の船が必要となる。その船を係留する場所はどこであろうか、関門海峡は難所なので、九州沿岸のどこかとなる。北九州地方は冬場に玄界灘の荒波が激しく、博多湾岸に数多くの船を係留するのは危険である。多数の船を係留できる場所は玄界灘からの風がゆるむ場所であり、その地は有明海沿岸である。

 有明海沿岸は瀬戸内海同様に波が穏やかで数多くの船を係留するには最適である。神功皇后は数千隻の船の係留地として有明海沿岸に決定したのであろう。

 瀬戸内水軍は神功皇后の計画により多数の船をそれぞれの地で建造し、少しずつこの有明海沿岸に運んだと思われる。この地は瀬戸内水軍・大和からの軍卒・東国の軍卒が大集結可能なように整備されたことであろう。

 このようにして対外遠征の準備は着々と整えられたのである。

 兵卒の士気を高める策

 八幡大神について

 一般的には八幡神は応神天皇のこととされている。八幡神の始まりは伝承によると、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされている。次第に応神天皇の別名が八幡神となっていったものと考えられる。

 全国の八幡神社の総本宮は宇佐神宮である。宇佐神宮の祭神は八幡大神(応神天皇)・比売大神・神功皇后とされている。古代史の復元では比売大神は日向津姫、八幡大神は素盞嗚尊と考えている。比売大神は「奈良名所八重桜」では「伊勢国渡会宮天照大神の分身」と記されており、比売大神は日向津姫であることを示している。また、宇佐八幡宮奉祀の氏族は辛島氏であるが、その祖神は素盞嗚尊である。宇佐の地は素盞嗚尊が九州統一の拠点としたところで、その後、素盞嗚尊と日向津姫が新婚生活をした安心院の地の玄関口にあたる。安心院は素盞嗚尊が一時期倭国の都にしようと計画していた地である。その玄関口にあたる宇佐神宮は素盞嗚尊・日向津姫が祀られるのが当然と考えられる。実際周辺の神社には素盞嗚尊がよく祭られ、また、素盞嗚尊の祭器である中広銅鉾が集中出土する地域でもある。

 八幡神は本来素盞嗚尊を意味していたと思われる。それがなぜ、八幡神=応神天皇になったのであろうか。これも神功皇后のなせる技ではないかと考える。神功皇后は兵卒の士気を高めるために住吉大神を利用し崇拝した。しかし、人々の心を一つにするには、目に見える形での神が必要だったと思われる。それが、自らの産んだ誉田別命だった。この頃の最高の武神は倭国の創始者素盞嗚尊である。瀬戸内海沿岸地方・北九州地方はその大半が素盞嗚尊が統一した地域であり、これらの地域では素盞嗚尊が最高神として扱われていた時代である。

 神功皇后は誉田別命誕生時からそれを意識しており、誉田別命誕生のとき、誕生した家屋の上に八つの旗をひらめかせ、人々に八幡神素盞嗚尊の生まれ変わりとして印象付けたと思われる。そして、誉田別命が人前に出る時、八幡神の生まれ変わりとして宣伝し、人々も誉田別命を素盞嗚尊の生まれ変わりとして認識するに至った。

 そして、誉田別命誕生後、武内宿禰に命じて、素盞嗚尊ゆかりの地を訪問させたと思われる。それが、宇佐神宮であり、島根県の武内神社であろう。実際素盞嗚尊と応神天皇がペアで祀られている神社は全国に数多く存在している。

 八幡神社 沼隈郡沼隈町大字中山南2155番地 
 八幡神社 鳥栖市山浦町2104 
 八幡神社 佐用郡佐用町横坂164
 糸根神社 厚狭郡山陽町大字埴生851
 皇祖神社 下毛郡耶馬渓町大字三尾母423番地の2
 素盞嗚神社 和気郡佐伯町北山方1876
 他にも多数存在

 誉田別命も有能な人物だったようで、八幡神の生まれ変わりとしての役割は十分であったようである。誉田別命が陣頭指揮に立った時、人々の心は一つになり、倭国軍はより強力になったと思われる。

 倭国軍の招集体制、訓練が完成した345年頃、新羅との最初の戦いが行われることになったのである。

 

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