百済について

朝鮮半島諸国推定位置

 高句麗建国

 『魏書』と『三国史記』によれば、高句麗はBC37年に夫余の王族である朱蒙により卒本に高句麗を建てたという。

 朱蒙が建国したとされる卒本の地は、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県であり、都城の卒本城は 五女山山城に比定される。AD2年、後漢の光武帝より、それまでの高句麗候から王へ冊封されている。 しかし、3年には、第2代の瑠璃明王が隣国の夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(現在の中国吉林 省集安市)の山城へ遷都したと伝えられる。

 後漢時代

 三国志馬韓伝
 桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制御できず、多くの民が韓国に流入 した。
 建安年間(196年-220年)、公孫康は屯有県以南の荒野を分けて 帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を 討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。

 184年、宗教結社の太平道による「黄巾党の乱」が勃発。百万余の反乱軍を指揮した首領の張角が 病死したことで反乱軍は一時的に瓦解したが、後漢政権も壊滅状態となった。 この混迷の時期に馬韓と濊貊が強勢になったとあるが、他の史料を調べても、この二国が強勢 になったと思える記録がなく、この時期に濊は高句麗の属国にされており、むしろ衰退している。 従って、韓とは遼東の大豪族となった公孫氏に同盟した扶余系の馬韓(後の遼西百済)、濊とは高句麗を指しているものと思われる。

 前記の黄巾党は壊滅した訳ではなく、なかでも百万を擁する青州黄巾党と五斗米道を懐柔して 陣営に取り込んだ魏の曹操の勢力が一気に増強され、後の晋王朝の基盤を築いた。

 青州は朝鮮半島の対岸の山東省であり、戦乱を嫌った大量の黄巾党が海を越えて朝鮮半島に逃げ込んだと思われる。

 初平元年(190年)、遼東郡太守の公孫度は中原の大混乱に乗じて、遼東地方に独立政権を立て、 朝鮮半島の西北部をもその支配下に入れた。

 建安九年(204年)、遼東郡で自立して勢威を奮った公孫度が死去、息子の公孫康が屯有県以南 (楽浪郡の南半部)に『帯方郡』を置いた。

 この頃は三国時代に突入する直前の混乱期にあたり、独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったのだろう。帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎないが、一種の独立国家として韓族を勢力下に組み入れ、後漢政権からは左将軍の官位を授けられた。

 この時、倭と韓を帯方郡に属させた、と記録されている。この頃までは朝鮮半島は無風状態だったと思われるが、帯方郡は独立政権を維持するためにも人員の補強を したかったと思われ、朝鮮半島全域に触手を伸ばしてきた。倭と韓を所属させることにより、帯方郡は公孫氏の私設の郡にすぎなかったが、一種の独立国家として後漢政権から左将軍の官位を授けられることになった。

 三国時代

景初中(237年-239年)、魏の 明帝は密かに帯方郡太守 劉昕、楽浪郡太守の 鮮于嗣を派遣して、海二郡を平定し、 諸韓国の臣智邑君の印綬を加賜し 、その次には邑長 に与えた。(中略)

 従事(官職名)は楽浪に本営を置いて韓国を統治し、辰韓を八国に分割して楽浪に与えた。 通訳の伝達に異同があり(約定を違えた)、臣智は激昂、韓は憤怒し帯方郡の崎離暢営を攻撃した 。時の帯方郡太守の弓遵と楽浪太守の劉茂は兵を挙げ、これを討伐したが弓遵は戦死、二郡は遂に韓を 滅ぼした

 魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、山東半島から黄海 を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。 太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の印綬を賜与し、魏との冊封関係を改めて 結び直した。

 景初元年(237年)七月、呉の孫権に呼応し て公孫淵が魏に叛旗を掲げ、遼東で自立して燕国を号した。翌年(238年 )正月、魏の大尉「司馬懿」が四万の軍勢を率いて出撃、その九月に公孫淵を討ち滅ぼしている。

 上記の帯方郡と楽浪郡の太守は、燕建国時に本国の魏に逃げ戻っていたが、公孫淵が司馬 懿との戦いに集中している間に、帯方郡と楽浪郡を奪還する密命を受け、甘言を弄して韓国(三韓諸国) を味方にした。だが、公孫淵を滅ぼすと通訳を通じて約束した条件を違えて、魏の植民地にしたのだろう 。三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。

 邪馬台国・卑弥呼も、景初2年(238年)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の難升米を派遣し たわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行 を送らせた。

 この時帯方郡に属した倭は、日本列島の倭ではなく、朝鮮半島の倭ではあったが、朝鮮半島が戦乱 に巻き込まれる危険性を感じた卑弥呼が帯方郡を通じて魏に朝貢することになったのであろう。

 百済の出自

『北史』百済伝
 百済国は蓋馬韓の属国。出自は索離国(タクリ国)。(中略)東明は南に奔り、 淹滯水を渡り、扶余に於いて王となる。東明の後に仇台がおり、帯方郡の故地に建国する。漢遼東太守 の公孫度の娘を娶り、東夷の強国となる。初めに百家(多勢)で済した(渡った)ことから、百済と号した。

『唐会要』百済伝
 百済。元は扶余の別種。馬韓の故地にいたが、後に仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南、東北に新羅、西に越州、南の海を 渡れば倭国に至る。北には高麗。王の居城は東西に両城あり。

『通典』百濟
 百済、すなわち後漢末の扶余王「尉仇台」の後裔、後に魏の時代に百済王が上 表して言うには「臣は高麗の先、扶余より出る」。初め百家(多勢)で済海(海を渡る)した故に百済と号する。

『後漢書』東夷列伝
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇 鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣 わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢 の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。 翌122年(延光元年)、また高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救っ た。 

『後漢書』高句麗伝
 建光元年(121年)秋、宮と遂成が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台 を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破り、斬首五百余級を挙げた。この歳、 宮が死んで子の遂成が立つ。

『三国志魏書』扶余国伝
 扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服 させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 上記のように中国史籍は尉仇台を百済の祖と記している。三国史記だけは高句麗の始祖である朱蒙の三子温祚が百済を建国したと主張する。温祚が即位したのは、古代史の復元での年代では164年である。温祚が尉仇台の子(あるいは孫)と考えれば、両者はつながる。三国史記は半年1年暦で年代 がくるっていることに気づかず、年代の一致する朱蒙の子としたのではあるまいか。

 建光元年(121年)秋、第7代高句麗王遂成(次大王)が馬韓と濊貊の数千騎で玄菟郡治を囲んだ。扶余王は子の尉仇台を派遣し、二万余の兵を率いて州郡の軍と合力させ、これを討ち破った
 
公孫度が東方地域に進出してきたので、第2代夫餘王尉仇台は、改めて遼東に服属することになった。この時期、高句麗と鮮卑が強盛であった。公孫度は、夫餘が高句麗と鮮卑にはさまれている状況から扶余と同盟を結ぶため夫餘一族の女性と結婚した。扶余は、これらの戦いの最中、故地に残留した旧扶余と公孫氏に帰属した尉仇台系扶余に分岐したのである。

 このときの尉仇台系の扶余が馬韓の伯済国を支配し、後に馬韓を統一した。扶余王の尉仇台が馬韓統一の基礎を築き、その子温祚が伯済国を足場にして百済を立てた。と考えられる。

『宋書』『梁書』『南史』などによれば、百済は始めは高句麗と「ともに」遼東の東千里の地にあったという。この地は遼東半島周辺である。百済は当初遼東半島地域にあったと思われるが、『唐会要』百済伝に「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号する。」とあるように、国を破られて、南に移動したようである。

晋への朝貢

 咸熙二年(265年)十二月、司馬炎は魏の元帝に禅譲を迫り、皇帝に即位すると、王朝を「晋」 と号した。咸寧六年(280年)三月、晋は遂に呉を滅ぼし、中国統一を達成した。
 韓国にとっての仇敵である魏が滅び、晋が帯方郡と楽浪郡を手にすると、頻繁に朝貢外交を再開したよ うだ。

『晋書』馬韓伝
 太康元年(280年)と二年(281年)、その君主は頻繁に遣使を入朝させ、方物を貢献。
 同七年(286年)、八年(287年)、十年(289年)、また頻繁に到った。
 太熙元年(290年)、東夷校尉の何龕に詣でて献上。
 咸寧三年(277年)再び来朝、翌年もまた来朝の内諾を請う。

晋の衰退と百済の復活

 太熙元年(290年)、司馬炎(武帝)の崩御を契機に馬韓の通貢記録が途絶える。

 これ以降、晋は皇族間の「八王の乱」と呼ばれる内乱で衰弱し、304年 に内乱が終焉したときは、すでに華北は異民族が群雄割拠する動乱の時代に突 入していた。隋が天下を統一する590年まで三百年近い戦乱時代を迎えることになり、 朝鮮半島への漢民族の侵入はな くなった。これ以降、韓(百済)は復活するのである。

『通典』百濟
 晋の時代(265年-316年)、高句麗は遼東地方を占領し、百済もまた遼西、晋平の二郡を占拠した。 今の柳城(龍城 )と北平の間である。
 晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。
 その国、東西に四百里、南北に九百里、南に新羅と接し、北に高句麗と千余里、 西は大海(黄海)に極まり、小海(楽浪湾)の南に居住する。(中略)晋代より臣従国として爵位を受 け、自ら百済郡を置く。

 西晋時代の郡国制では、平州には「昌黎、遼東、楽浪、玄菟、帯方」の五郡国、 幽州には「範陽、燕、北平、上谷、広寧、代、遼西」の七郡国が置かれた。

 高句麗の占領した遼東とは、地理的にみて遼東国だけとは思えない。おそらく遼西地方の昌黎を除く、楽浪、玄菟、帯方にも及んだものと推察する。

 百済の占拠した遼西とは遼西郡を指すが、晋平に該当する郡国が分からない。通典 は今の「柳城と北平の間」と記しており、晋時代の「昌黎と遼西の間」に該当する。おそらく晋平と は「晋の平州の昌黎郡」の意味ではないかと推測する。

 百済と倭との関係

 百済が日本書紀に最初に登場するのは神功皇后の時代で、345年頃帯方郡の故地を奪回した後の
 神功44年(364年)「百済王は、卓淳旱岐のもとへ、日本へ渡る道を知っているか三人の使者を送っ た
 神功46年(366年)「斯摩宿禰を卓淳國に遣わし、百済との交流が始まる
である。しかし、倭と百済との間にはいくつかの謎がある。

① 最初から百済は倭の属国になっているようである。これはなぜか
 倭と百済が交流するようになってからは、百済は倭に貢物をしたり、王子を人質に送ったりしている。 また、王仁など優れた学者を倭に送っている。百済は強国であり、先進技術も持っているのに倭の属国のような状態に置かれている。これはどうしたことか。

② この時期以降百済は朝鮮半島南西部を領地としているが、この地域は3世紀ごろまで倭の領域であった。どのような経過で百済の領地になったのか、なにも記述されていない。

 神功皇后の時代の日本書紀の記事は日本書紀が卑弥呼=神功皇后の立場をとっている関係上、神功皇后の時代の記事と卑弥呼の時代の記事が混在している。実際に神功皇后が攻めたという新羅国王は卑弥呼の時代の人物である。日本書紀の神功皇后関連記事は干支二回り分(120年)ずれているのである。これによると神功44年(364年)は244年である。

 百済王が日本へ渡る道を聞いているということは、これ以前は日本からはるか離れた地にいて、移動してきたか、何か事情があって日本の位置を知りたいと思ったのであろう。この年244年の次の年にあった出来事がヒントになる。

 245年(正始6年)、高句麗は再び魏軍の侵攻を招いた。魏軍は南北の2方向から侵攻して高句麗を大いに打ち破り全土の村々を落とすと、東川王は南沃租へ逃げたが更に追撃を受け北方にある粛慎との境いまで逃れた。この戦いにより3千人が捕えられて斬首され、従属させていた東濊も高句麗を離れ魏に服属した。韓はこの戦いに協力していたと思われる。
 ところが、戦いの後、韓との約束した条件を違えて、辰韓八国を楽浪郡へ編入した。韓を魏の植民地にしたのである。このことが韓を激怒させ郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して討ち、三韓は百戦錬磨の漢族によってだまされ滅亡するに至った。 

 三韓は245年に滅亡しているのである。百済も三韓の一国なので、この時、同時に滅亡しているのである。『通典』百濟によると、「晋より以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を占領した。」とあるので、晋ができた265年時点で百済は馬韓から追い出されていることになる。

 百済建国の245年から晋の建国265年までの間で百済が馬韓を追い出されたと思われる事件は245年の記事のみである。 おそらく、これが、『唐会要』百済伝の「仇台は高句麗に国を破られ 、百家で海を済(渡)る。故に百済と号 する。」につながるのであろう。百済を破ったのは高句麗ではなく楽浪郡であり、 王も仇台(仇台という百済王はいない。尉仇台か?)ではないが、誤伝承ではあるまいか。

 244年に百済は滅亡の危機にあることがすでに分かっていたのではあるまいか。そのために、南にある大国倭に救援を願い出ようと倭との関係を模索したと思われる。これが、神功44年の記事である。この2年後の神功46年(246年)以降、百済と倭との交流が始まっている。

 この点を説明するために「倭の領地を百済に割譲した」という仮説を立ててみる。

 2世紀後半の黄巾の乱以降、朝鮮半島に多くの人々が流入するようになり、朝鮮半島の地は新羅 の台頭を始め、他の地も小国がそれぞれ自己主張を強化し、昔のように安定してこの地を治めることが 難しくなってきたのではあるまいか。大和朝廷も朝鮮半島を統治するためにかなりの労力を使っていたと推察する。

 このような時、馬韓・辰韓が帯方郡によって滅ぼされている(245年)。残った残党は南である倭に逃げたと思われる。第4代百済王蓋婁王の時である。

 遼東半島の領地を帯方郡に奪われ、土地をなくした蓋婁王が大和朝廷に頼み込み、朝鮮半島の倭の地を百済に割譲したのではあるまいか。

 この時、大和朝廷も交換条件を出しているであろう。考えられる条件とは、
① 朝鮮半島南西部を統治し、毎年貢物を朝廷に送ること。
② 新羅が台頭してきているので、新羅をけん制すること。
等であろう。

 当時の半島情勢からすると、大和朝廷、百済ともに利益のある交換条件だったといえる。こ れとよく似た出来事が実際に起こっている。任那割譲である。

 継体天皇六年(512)四月、穂積押山が馬四十四頭のお土産を持って百済に 渡った。
 十二月、百済は倭に使者を返し、
「任那四県(朝鮮半島 南西部)を割譲してくれ」
 と、頼んできた。
 押山はこの地域の長官である。彼は大王・継体天皇に進言した。
「この四県は百済に隣接し、倭からは遠く離れています。放っておけばすぐに新羅や高句麗に) 奪われましょうが、百済領にしておけば、しばらくは安心でしょう」
 これに大連・大伴金村も同調、難波の迎賓館にいた百済使に承諾の旨を伝えるために大連・ 物部麁鹿火を遣わした。

 この割譲には前例があったことになる。

  百済本紀には、これに関する記事はないが、気になる記事は存在している。
「新羅の阿飡(新羅の官位)の吉宣(きちせん)が反乱を企てて失敗し、百済に亡命してきたことにある 。新羅王(阿達羅尼師今)は吉宣の送還を求めたが蓋婁王はこれをかくまったため、新羅軍の派兵を招い た。このとき百済の諸城は籠城戦を採ったため、新羅軍は撤退した。翌年(修正254年)、蓋婁王は在位39年にして 死去したが、この時より百済と新羅とは敵対関係に入った。」

 蓋婁王が死去したのは半年一年暦を修正した年代では254年である。この記事は朝鮮半島の倭の領域の割譲を受けて間もなくということになる。

 新羅本紀によると、倭は頻繁に新羅を襲撃している。倭としては新羅に手を焼いていたのである 。百済がそれに手を貸してくれると倭としても大助かりである。実際百済と新羅は頻繁に戦っている。

 百済本紀の吉宣が反乱を企てたのも倭の意向をくんだ百済の差し金かもしれない。

百済
                                                                          7                                 17
                                   5      6  ┏━沙伴              15    ┏━阿辛        
                                  ┏肖古━━━━仇首━┫ 289            ┏━枕流━━┫ 392
               1    2    3    4   ┃255     279  ┃ 11     13    14   ┃ 384   ┃ 18 
     扶余王━━尉仇台━━温祚━━━多婁━━━己婁━━━蓋婁━━┫          ┗━比流━━━照古━━━貴須━┫ 16   ┗━直支  
               163    186    211    236   ┃           324    346    375  ┗━辰斯    405     
                                  ┃ 8    9    10    12         385                 
                                  ┗━古爾━━━責稽━━━汾西━━━契  
                                    289    315    321    345      


日本
                                                                     17      
                    8    9    10     11    12    13                    ┏━履中
神武天皇━神八井耳━武宇都彦━武速前━━孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━景行━┳━成務                   ┃ 427
                    186    214    244     278    298  ┃ 325    14     15      16  ┃ 18
                                            ┗━日本武尊━仲哀━━━━応神━━━━━仁徳━╋━反正
                                                   328     367      397  ┃ 433
                                                                   ┃ 19            
                                                                   ┗━允恭
                                                                     438      
高句麗
                    ┏抜奇━━駮位居
                    ┃
               新大王━━╋故国川王
               165    ┃179
                    ┗山上王━━東川王━━中川王━━西川王━━┳烽上王
                     197    227    248    270    ┃292
                                         ┗咄固━━美川王━━故国原王━━┳小獣林王                        
                                              300    331     ┃371                           
                                                         ┗故国譲王━━━広開土王━━長寿王━━助多━━文咨明王━
                                                          384      391     413        492       
                                                         

 

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