倭国軍初陣

神功皇后三韓遠征関連地図

 新羅との交渉

 神功皇后は国内で富国強兵政策を実行すると同時に、新羅に対しては、伽耶諸国に手を出さないように要求を続けていた。しかし、新羅は要求を受け入れたと見せてながらも、相変わらず伽耶諸国に手を出すということが続いていた。同じことが繰り返された。神功皇后は新羅王家と倭王家が政略結婚することで解決しようとも諮ったが、新羅から拒否され、このままでは埒が明かないと、新羅に対する開戦を決意することになった。

 新羅の方も倭国は海を渡って大軍を送ることはできないと思いこんでいたので倭国をなめていたこともあった。さらに、倭国軍の大船団の集結地が北九州沿岸地方ではなく有明海沿岸だったので、新羅からのスパイも倭国が戦争の準備をしていることに気付かなかったのであろう。新羅は倭国軍に対しては無警戒であったようである。

 343年頃、神功皇后が九州から大和に帰還する時、香坂王によって、東国の軍卒がまとめられ、播磨国で、神功皇后と合流した。東国の軍卒を朝倉の弥永に駐留させ開戦の準備が整った。345年、新羅に対して国交断絶の使者を送り、同時に瀬戸内水軍、大和の軍勢を弥永に終結させ、北九州の豪族たちもそれぞれの集合場所に集めた。

 神功皇后出港の伝承地

住吉神社 福岡市博多区住吉3丁目1-51 住吉三神の御出生地(橘の小戸の阿波岐原)に当たるとされる。神功皇后の新羅征討時に祭祀がおこなわれたという。
志賀海神社 福岡市東区大字志賀島877 神功皇后の新羅征討時に、神裔・安曇連磯良丸命が軍船を率いたという。
綿津見神社 福岡市東区三苫6丁目21-19 神功皇后の新羅征討に供奉した中臣烏賊津臣命(中臣氏の先祖)が、波浪を鎮めるために海中に投じた三枚の苫が流れ寄った場所が創祀の地
名島神社 福岡市東区名島1丁目26-1 神功皇后の新羅征討時に、現社地で宗像三神に敵国服従を祈願し、また将士の氏名を名乗ったという。皇后が凱旋の途次、同地に宗像三神を奉祀したのが起源という。
壱岐神社 福岡市西区生の松原1丁目9-3 壱岐神社を囲む生の松原は、神功皇后が戦勝祈願のために、松の小枝を逆さに挿したことが起源という。
冑塚 福岡市東区香椎駅前1丁目26 神功皇后が新羅征討のとき、冑を着けた場所ともいい、凱旋ののちに冑を埋めた場所ともいう。
警固神社 福岡県福岡市中央区天神 神功皇后が朝鮮半島出兵の際に警固三神が現れ、軍集を守護し勝利に導いた。
小戸大神宮 福岡市西区小戸 皇后軍が出港して帰港したと言われる小戸の浜がある。
能古島 福岡県福岡市西区能古島 神功皇后が住吉大明神の神霊を残して戦勝を祈願された島というので「残(のこ)の島」と呼ばれ、それが後に「能古島」 に変わった。
玉島神社 佐賀県唐津市南山 神功皇后が新羅出兵の前に玉島川で釣占いを行なった。
その際に「鮎」がかかり「めずらしき物」と仰せられた。
鏡神社 佐賀県唐津市鏡1827 神功皇后が鏡山山頂に戦勝を祈願して鏡を納めたが、その後この鏡が霊光を発したことから、それを聞いた神功皇后が自らの 生霊を鏡に込めて祀ったのに始まると伝える。
神集島 佐賀県唐津市神集島 島の東北、宮崎の砂州に神功皇后が、神を集めて戦勝を祈願したと伝えられる住吉神社がある。
土器崎神社 七ツ釜の近辺 岬の北端には神功皇后が朝鮮出兵の戦勝祈念の時土器を捨てた場所との伝承がある。
筒城浜 長崎県壱岐市 大風に遭い舟を着け、近くの錦浜で濡れた衣を干したとする。
勝本浦 壱岐の北端 壱岐の北端、勝本浦では、風待ちのため長期日滞留せざるを得なかった。
住吉神社 長崎県壱岐市住吉東触 神功皇后新羅出兵の時 三韓鎮護の為、 軍越神事を定めて御親祭を執り行ったことに始る。境内の神池小祠(竹生島神社)下に、神功皇后三韓出兵の陣鐘がある。
爾自神社 長崎県壱岐市有安触 古号「東風大明神」と云われ、境内に径3m程の大岩があって、東風石と云われる。神功皇后が三韓出兵の折り、勝本浦に寄航するが、追い風が吹かないため、この石に順風祈願をすると、石は二つに割れてさわやかな東風が吹き出し、出船できたというものである。
厳原八幡宮 長崎県対馬市厳原町中村字清水山 神功皇后が三韓出兵の時に対馬に着船し、上県郡和珥の津より三韓に渡り、三韓を平げて凱還の時、清水山に行幸し、 此の山は神霊の止まるべき山とし、神鏡と幣帛を岩上に置き天神地祇を祭り神籬磐境を定めた所という。
鰐浦 対馬北端 ここに集結し大陸に侵攻した。戦の後この港に帰還し、戦勝の祝宴を催し、また捕虜を開放したとするのである。

 AD346年、神功皇后は香椎宮を出発した。北九州の各豪族はそれぞれの地から出港したと思われる。香椎宮を出た神功皇后は、陸路を博多まで進み、住吉神社の地で戦勝祈願をした。この地に、軍卒が集まってきた。

 福岡市西区小戸の小戸大神宮の地から、船に乗って出港した。この時にはまだ大船団ではなかったと思われる。その前後に有明海沿岸にいた大船団も出港したと思われる。

 小戸を出港した神功皇后の船団は能古島を経由して糸島半島沖を西に向かい、唐津市の玉島神社の地に碇を下し、戦勝祈願を行った。続いて近くの鏡神社の地で戦勝祈願を行い、神集島に到着した。ここでも他地域からやってきた船団と合流し戦勝祈願を行った。松浦半島突端の土器崎より、海に出て壱岐の筒城浜に到着。海が荒れていたので暫らく滞在し、島に沿って北端の勝本浦に移動。追い風になるのを待って対馬の厳原に渡った。

 有明海を出港した大船団は平戸→壱岐→対馬と進んだと思われる。対馬で数千席の大船団が集結したと思われる。数千隻の大船団と思われる。

 対馬の伝承地

神功皇后の腰掛石
対馬市豆酘浦
神功皇后は、6月1日に豆酘浦に上陸した際、「都にて 山の端に見し月影も 波より出でて 波に入りぬる」と詠まれてた。
神住居(かみずまい)神社
対馬市豆酘浦
神功皇后の行宮と伝えられる。現在は、多久頭魂神社の境内社。
与良祖神社
(厳原八幡宮に合祀)
対馬市厳原
神功皇后の朝鮮出兵に際し、祭神の豊玉姫が「新羅は外側は強いが内部が脆い。急襲せよ!」と神託を下した。凱旋後にも再拝したところ。
桜橋公園(志良石)
対馬市厳原
志良石、別名「神功皇后の腹冷やし石」が移設されている。
笠渕・截裳渕 対馬市厳原
皇后の笠が飛んだので「笠渕」、皇后の裳が濡れ切り捨てたので「截裳渕」という。
砥石渕 対馬市厳原
皇后の軍勢が平石で剣を研いだので「砥石渕」と言われる。
阿須神社
対馬市厳原
阿須の地名は、皇后の水先案内人(神)である「安曇磯良」に由来。 磯良は豊玉姫の子とも言われ、普段は海底に棲んでおり、顔に貝類が付着して醜いのを恥じて皇后の招集に応じなかったが、やがて皇后に協力し、活躍する。
綱掛崎 美津島町大船越 皇后一行は美津島町大船越沖で雷雨に遭遇し、船を岸につないだので、「綱掛」崎。
住吉神社 対馬市美津島町鴨居瀬491番地 皇后の行宮とされる。
八点島
赤島の八点島は、皇后が平穏祈願のため船を海に投じたところ、岩と化したところ。
雷浦
神功皇后の一行が嵐に襲われ、雷が落ちたところ。
入彦神社
豊玉町千尋藻
千尋藻(ちろも)の地名は、皇后が馬糧の代わりに海藻を馬に食させたことに由来。
入彦神社の祭神は建布都魂神で、皇后が親祭された場所。
皇后が玉籖入彦命(たまくしいりひこ=コトシロヌシ)を祭られたところ。
仮殿神社
葦見の能理刀神社境内の仮殿神社は皇后の行在所。葦見(あしみ)は、皇后が鷲を見て吉凶を占ったため、鷲見→葦見。
胡禄神社 対馬市上対馬町琴1番地 皇后一行は2回目の嵐に遭遇し、船が破損。磯良が破損箇所にアワビを貼り付け、修復。
古津麻神社 皇后一行が立ち寄った場所
本宮神社 対馬市上対馬町鰐浦字在所陰531番地 神功皇后が出港した地「和珥津(わにのつ)」

 神功皇后の対馬上陸伝承地は壱岐から近い厳原ではなく、対馬の南西端に近い豆酘浦である。どうしてこのようなところに上陸したのであろうか。壱岐からなら厳原が常識であろう。これを、有明海出港の大船団を待ち受けるためと判断する。有明海出港の大船団は五島列島を経由して壱岐を通らず直接対馬にやってきたのではあるまいか。対馬海流に乗れば比較的楽に行けるルートである。

 厳原に上陸した神功皇后は本体から離れ、豆酘浦で大船団を待ち受け、連絡を取り合ったものと考える。神功皇后一行は対馬島東海岸を北上している。東海岸は険しい海岸線が多く大船団が移動するには不向きである。これに対して対馬島西海岸は入江が多く、比較的安全に大船団が航行できる。神功皇后は東海岸を、大船団は西海岸を北上したのではあるまいか。

 両船団は時を同じくして北端の鰐浦に集まり、一挙に対馬海峡を渡ったのであろう。そして、朝鮮半島南端の現在の釜山についた。ここから先は伝承がないので、地理的状況から推理してみる。

この時の新羅本紀の記録が次のようなものである。

倭国は風島を襲撃し、さらに進撃して首都金城を包囲攻撃した。訖解尼師今は出撃しようとしたが、伊伐?の康正の進言によって 倭軍の疲弊するのを待ち、食料が尽きて退却しようとした倭軍を追撃して敗走させた。(新羅本紀346年)

 風島は釜山の影島ではないかと想像する。おそらく新羅の半島南端の城があったのであろう。対馬海峡を渡った倭国軍はこの島の新羅の城を一挙に襲撃して落とした。すぐさま、釜山から東に渡り蔚山に集結する船団と、その先の浦項に終結する船団に分かれて、南北からほぼ同時に金城に攻め込んだと思われる。

 新羅としても今までに見たこともない大軍が押し寄せたので、ほとんど戦うこともなしに、金城内に逃げ込んだのではあるまいか。倭軍としても新羅を滅ぼすのが目的ではなく、要求を受け入れさせるのが目的であった。倭軍は金城を包囲して新羅王に「伽耶諸国に手を出すな」という要求を突き付けたのである。

 新羅本紀は持久戦に持ち込んだら倭軍は退散したと書かれているが、これは、要求を受け入れたために退散したと考えたほうがよいであろう。通常、食料が尽きるのは城に籠っている方である。そうでなければ、有利に戦っているのに何のために遠征したのかわからなくなる。

 新羅王は倭の大軍の前に、やむなく、倭国の要求を受け入れ、以降伽耶諸国に手を出さないことを約束した。倭軍は、要求が受け入れられたとして、退散したのであろう。

 唐津から壱岐を経由して対馬に至った軍団の他に、津屋崎から沖ノ島を経由して対馬に至った軍団もあったと考えられる。
後に「海北道」と呼ばれる大陸への渡海ルートである。沖ノ島の祭祀遺跡がそれを裏付けている。
沖ノ島は津屋崎の北50~60kmの沖合いに浮かぶ、周囲4km足らずの絶海の孤島である。四世紀代から十世紀初頭に至る祭場の跡と、十二万点にものぼる奉納品が発見されている。この祭祀遺跡は、航海の安全を祈願したものとされるが、奉納された鏡、剣、馬具、装身具など、その遺物に大陸系の遺物を多く含むこと、奉納品の豪華さ、その量の多さ、更に祭祀の主体が、大和王権という中央政権によって執り行われている事は、単なる航海の安全だけを祈ったものでないことを示している。朝鮮半島へ出兵する際の、戦勝祈願と戦勝報告の場所と考えるほうが自然である。

 ただ、朝鮮半島遠征はこの後何回も行われているので、この後の戦いで利用された経路かもしれない。

 このように倭軍の初戦は大した戦いもなく終わったものと考えている。しかしながら、これは、新羅がまた強くなるきっかけにもなった。

 新羅襲撃に成功した倭国軍は、対馬・壱岐と帰還し、有明海の大船団とは壱岐で別れたものであろう。

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