神功皇后の大陸交渉

 332年に仲哀天皇が亡くなってから、367年に応神天皇が即位するまでの26年間にあった出来事を推定してみよう。

 仲哀天皇崩御時の北九州の状況

 仲哀天皇は熊襲と交渉するために九州に下向し、下関の豊浦宮に7年ほど滞在していた。交渉は難航していたようで、仲哀天皇7年に、新羅に誘惑された熊襲が豊浦宮を襲っているのである。

 戦いは避けたい仲哀天皇であったが豊浦宮が襲撃されるようでは我慢がならないと遂に重い腰を上げ、この当時の球磨国の本拠(人吉盆地)の入口にあたる八代の地まで遠征し、そこで、球磨国の首長と交渉していたのであるが、仲哀天皇は首長に騙されて殺害された。

 仲哀天皇は遺体となって香椎宮に戻ってくることになった。

宇美八幡宮(糸島郡前原町大字川付787)伝承
武内宿禰を司として香椎の宮に置かれる所の仲哀天皇の御棺を当長獄山に收めて御陵を築かれたことに始まる…。とある、神功皇后の三韓渡航の間に於ける仲哀天皇假埋葬の地
忌宮神社(山口県下関市長府宮の内町1-18)伝承
9年2月に香椎で崩御せられた仲哀天皇の御屍を、皇后は武内宿禰に命じて海路より穴門に遷されたという殯斂の地が神社の南方500メートルの丘にある。

 仲哀天皇の埋葬伝承地は二つあるようである。最初は香椎宮で宇美八幡宮、最後に忌宮神社の地と変遷しているのではあるまいか。

 なぜ、前原市に仲哀天皇の遺体を仮埋葬したのであろうか。伝承では三韓への渡航の間における苅埋葬地とされている。しかし、神功皇后はこのとき、三韓への渡航はしていないと思われ、島嶼部の新羅に協力している豪族を退治する間の埋葬地であったのであろう。一応周辺が落ち着いたので、神功皇后は仲哀天皇の遺体を忌宮神社の地に移し替えた。その後、周辺の新羅の残党を掃討したのであろう。

 仲哀天皇が不在の時、神功皇后は新羅との戦いに備えて兵力を集めていた。神功皇后はその兵力を新羅ではなく、熊襲退治に用いた。

 春2月 仲哀天皇崩御
 3月1日 皇后斎宮に入る。
 3月17日 香椎宮から松狭宮に移る。
 3月20日 層増岐野に行き羽白熊鷲を殺害
 3月25日 山門県に行き、田油津姫を殺害

老松神社(小郡市上岩田1374)伝承
この老松宮はもと上岩田、井上、下岩田の氏神であり、この神の鎮座地を昔は神磐戸と称していた。上岩田の地名は、神磐戸から神磐田、上岩田と変ったのであろう。大昔、神功皇后が秋月の羽白熊鷲(はじろくまそ)を征伐せられ、次で筑後国山門県の田油津姫を滅ぼそうと津古から舟にて得川(宝満川)を下りられ、この神磐戸にお着きになった。今の老松宮は当時の行在所の跡で、その御駐輦の折、武内宿祢をして御剣を祀らしめられた。その不動石が境内にあったが、現在は不明。
大根地神社(嘉穂郡筑穂町大字内野字大根地2507-3)伝承
人皇第十四代仲哀天皇の9年3月8日神功皇后羽白熊襲御征伐のとき、大根地山に登り天神七代、地神五代の大根地大神を祭り、親ら神楽を奏し勝ち軍を祈り宿陣す、その霊験著しく容易に熊襲の諸賊を誅滅す

 仲哀天皇が亡くなった2月には喪に服していたようで、行動形跡が見られない。3月後半から、周辺の豪族を襲撃している。九州近辺にいた新羅や熊襲に加担している勢力を滅ぼしたのであろうと思われる。神功皇后としては仇打ちの気持ちもあったと思われる。

 熊本県八代地方に神功皇后の伝承が見当たらない。人吉地方へは神功皇后自身ではなく、将軍が派遣されたものであろう。そのために、伝承が残っていないのであろう。神功皇后は熊襲よりも新羅の方が注意を要する存在と考えていた。卑弥呼のころには球磨国は力を持っており、熊襲は一大勢力であったが、第12代景行天皇の襲撃を受けて、この頃は弱体化していたのである。熊襲は勢力を盛り返すために新羅国に援助を求め、新羅の人たちが数多く、倭国内に侵入していたのがこの当時の状況と思われる。

 熊襲・新羅共通の敵は大和朝廷である。新羅は332年当時倭国とは和平条約が成立してはいたが、それまで、さんざん攻撃されており、球磨国と組んで大和朝廷を倒そうと図っていたのではあるまいか。

 仲哀天皇は豊浦宮に滞在していた7年(現行暦で3年半)の間に、北九州各地の新羅の影響を受けた地域を把握していたのであろう。仲哀天皇は性格的に戦いを好まず交渉をしようとしていたようであるから、熊襲・新羅連合軍にそこを付け込まれ豊浦宮が襲撃を受けたのである。

 仲哀天皇を失った神功皇后は、すぐさま、把握している新羅の影響を受けている豪族たちを襲撃して滅ぼしたのである。

若八幡神社(田川市夏吉)の伝承
 (応神天皇を)八幡様と申し上げるのは、(神功皇后が)新羅の軍勢から襲撃されるのを防ぐ為に、海岸近くの香椎から、蚊田村におうつりになって、産家のあたりに旗を数十本立てて、厳重に警固されている事をお示しになったとの事

  この伝承は応神天皇誕生時新羅の軍勢から襲われるのを警戒していたことを意味している。日本書紀では新羅は降伏しているはずなのであるが、ここでは、降伏をしていないことが分かる。倭の領域内に新羅人が数多く存在しており、その人たちに襲撃されることを恐れているのである。

 この新羅からきている人たちが熊襲をそそのかして仲哀天皇7年に豊浦宮を襲撃したのであろう。

 新羅の思惑

 神功皇后は熊襲を一挙に滅ぼしてしまった。この頃より熊襲が日本書紀に登場しなくなるので、神功皇后の襲撃を受けて大和朝廷の支配下に下ったものと考えられる。

 熊襲が滅ぼされても神功皇后の大陸交渉は継続していたようである。その交渉内容は何であろうか。新羅本紀には「倭人が攻めてきた。」「追い返した」等と書いてあるだけで、なぜ、倭人が攻めてくるのか何も書いていない。倭人が新羅を攻めたのには何か理由があるはずである。それは何であろうか。

 一つには熊襲を援護していたというのがあると思われるが、熊襲が滅ぼされた後も交渉が継続している。卑弥呼の時代、垂仁天皇の時代にも倭と新羅は数年かけて戦っている。これらとも関係があると思われる。ここでは、その理由を推定してみる。

 現在でも過去でも、国どおしが争う最も大きな理由は領土問題である。領土問題の可能性を考えてみたい。 

日本書紀神功皇后摂政49 年(応神3年=369年)
春3 月に荒田別、鹿我別を将軍とし、久?等と共に軍士を率いて渡り卓淳国に至り新羅を襲撃しようとした時誰かが言った。
「兵士の数が少なく新羅を撃破できません。もう一度沙白と蓋盧を奉じてまつり上げ軍士を増員するよう要請しましょう」
そこで木羅斤資と沙沙奴跪〈百済の将軍〉に命じ、精兵を率いさせ沙白、蓋盧と共に送った。 みな卓淳に集まり新羅を攻め破った。これにより比自、南加羅、国、安羅、多羅、卓淳、加羅の7国を平定した。
再び軍士を移動し西へ回り古奚津に至り、南蠻、忱彌多禮を取り百済に与えた。そこで、その王肖古と王子貴須も軍士を率いて来て集まった。この時比利、辟中、布彌支、半古の4 邑が自ら降伏した。

 この時の倭国軍は新羅を打ち破った後、比自、南加羅、国、安羅、多羅、卓淳、加羅の7国を平定している。これらの国々は伽耶諸国であり、以前から倭の領域である。これらを平定しなければならないということは、この時、新羅の勢力下に下っていたことを意味している。次第に力をつけてきた新羅によって伽耶諸国の領域を次第に侵されていたのであろう。それぞれの伽耶諸国の王はそのまま継続しているので、新羅から圧力を受けていたのではないかと考えられる。倭国内に新羅人が侵入しているように、伽耶諸国にも侵入しており、国内で、騒乱を引き起こすなどしていたのではあるまいか。

 新羅はなぜ、そのようなことをするのであろうか。以前より倭との戦いで辛苦をなめさせられており、倭の弱体化を図っていたのであろう。倭さえ弱体化すれば、百済を攻め、新羅は勢力拡大が可能なのである。 

 新羅は百済とよく国境問題を起こしているので、百済の背後にいる倭が邪魔だったと考えられる。高句麗が帯方郡を滅ぼした315年、百済が帯方郡を応援したのを恨みとして高句麗は百済を攻撃しようとしたが、前燕の攻撃の前に動きが取れなかった。それでも百済を何とかしたいと考えた高句麗は百済の敵である新羅に使者を送り、新羅を背後から支援していたと思われる。

 新羅としてみれば、今まで弱小であるがゆえに倭や百済にいいように攻め込まれており、何とかしたいという気持ちもあったと思われる。この当時百済は倭の協力者であり、倭も又、百済に支援をしていた。倭・百済連合を打ち破るには高句麗の支援はありがたいものだったのであろう。

 そのために、新羅は倭に対して国境問題を起こし、上手くすれば、伽耶諸国を倭から引き離し、新羅に組み入れようとしていたのであろう。同時に倭国内にも工作員を送り、熊襲を利用して倭の弱体化を図り、朝鮮半島の主導権を握ることを考えていたと思われる。

 大陸交渉とは

 このような状況にあった時、322年、第12代景行天皇の政策により倭と新羅は一応和平条約が成立し、形の上では平和が訪れていた。しかし、新羅は裏で色々と画策していたのである。

 神功皇后は先祖が新羅の天日槍命であり、新羅からの情報を得ていた。熊襲の反抗も裏で新羅が糸を引いていることを知っていた。何とかしなければと思ってはいたが、仲哀天皇が平和主義であり、話し合いを重視していたので、自分の意見は通らなかった。

 仲哀天皇が亡くなり、実権を持つようになった神功皇后は、新羅を攻撃することも考えたのであろうが、高句麗の支援を受けている新羅は次第に戦力を高めており、倭国側に対馬海峡を超えて大軍を送る体制ができて居ないことに気付いた。

 大陸交渉の中身はおそらく、「新羅は国境侵犯をしないように、熊襲には手を出すな。」ということであろう。

 新羅は倭国側の要求は一応は聞いているのであるが、すぐにまた同じことを繰り返すと言ったことが続いているようである。戦力を高めた新羅としては、「倭国は今の状態では大軍を送ることができない。言うことを聞いたと見せかけて時間を稼ぎ、その間に伽耶諸国を新羅に取り込もう」とでも考えていたと思われる。

 神功皇后の大和帰還

 332年後半仲哀天皇が亡くなって暫らくの間は、九州内にいる熊襲及び新羅勢力の駆逐を行っていた。そして数ヵ月後には一度大和に戻っている。仲哀天皇の遺体を大和に戻すのが目的だったのであろう。この時、忍熊王が仲哀天皇から皇位を受け継ぎ忍熊天皇となったと思われる。忍熊天皇は仲哀天皇の御陵を造営した。この滞在中神功皇后は安産祈願を坐摩神社の地で行っている。

 しかし、まだ、九州には新羅・熊襲の残党が残っていた。その残党を掃討するために、神功皇后は再び九州に出向いたのである。

八幡神社(神戸市兵庫区兵庫町1-4-37)伝承
神功皇后三韓征討の帰途、摂津国岡野村にお立寄りになられた時、応神天皇がお生れにならんとしたため、その地の霊石をお探しになりご誕生の延期をお祈りした。その祈りが通じた為、その後其の霊石を岡野村より福原街東溝下旧長谷川楼の辺りに迎えて一社を創立し、その後現在の地に奉還、湊玉生八幡宮と称されておりました。
坐摩神社(大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号)伝承
安産の神とは神功皇后が応神天皇をお生みになります時其の安産を当社にお祈りになった故事により、安産の神として古くより知られています。
御厨神社(明石市二見町東二見字宮ノ北1323)伝承
往年の火災により、社殿と共に記録文書を焼失し創立の年月は不詳。社伝によると、神功皇后の西征の際、この二見浦に船を泊めて船子を加え兵糧を集めた時、土地の者が食物を奉ったところという。その故事によって御厨(神饌を調進する所)の名が起こった・・。

 この神社の伝承は、神功皇后の三韓征伐ではなく、「西征」と書かれている。九州地方の熊襲・新羅の残党を征するために出発したと考えられる。以前は九州で集めた軍を用いて残党退治をしたのであるが、今度は大和朝廷の軍を率いて九州に出向いたのである。やはり急ごしらえの軍は統率が難しかったあのであろう。再び九州に出向いた時、蚊田で誉別命(応神天皇)が誕生したのである。

 誉田別命(応神天皇)誕生

 応神天皇生誕伝承地

宇美八幡宮(糟屋郡宇美町宇美4104)伝承
応神天皇降誕の霊蹟として特別の由緒を持ち古来皇室を始め国司藩主を始め一般庶民の崇敬篤く天皇御在世中広く海外の文化を接収して文化を興し国威を輝かされ農耕を興し殖産工業を奨められ又母君神功皇后の御胎内にて遠く海外に雄飛せられる等の御神徳の外特に御誕生の御地にて安産育児の神として霊験著しい。

 2回目の九州西征時に誉田別命が蚊田の地で誕生したのである。仲哀天皇が亡くなったのが2月で、誉田別命の生誕が12月である。仲哀天皇が亡くなってから、現在の暦でいうと5ヶ月後に誉田別命が誕生している。

 やはり大和から連れてきた軍は強く、この時の西征で熊襲・新羅の残党はいなくなったと思われ、以降伝承に出てこないようである。

 神功皇后はこの後頻繁に九州と大和を往復している。大陸交渉は一つの目的であったが、同時にもう一つの目的があったのである。

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