天津磐境(立岩)

「神武天皇聖蹟誌」に

 御蔭山に対峙する磐田山山頂近く東面して設けられた拝所といわれ、高さ14尺6寸廻り36尺5寸の大立岩は、台岩の上に上代使用の磐楠船に似た二艘のくり木舟型の岩石の上に載せられ、これを取り巻いて、神供檀岩を始め、立岩、平岩の構えよろしく、横側には祭器入所と認べき場所も造られ、その中から弥生式祭祀系土器の破片出土を見、かつこれら巨岩の前部は60坪に達する軽い斜面の大岩磐があって、祭祀場に格好の場所となり、後方一段高いところには大岩石による二重環状列石と認められている遺跡がある。
 里伝に、上代神武天皇御行宮の砌、天神を斎ひ祀られるために設けさせられ、その下方を御供人の墳墓の地とせられたという。

と記録されている遺跡である。20年前からその場所を探していたが、このたびその場所が特定できたので早速調査してみた。

松永駅から鞆の浦方面に右折し福山少年自然の家に向かう。自然の家で立岩の位置を教えてもらった。
 「自然の家から東へ200mほど行ったところを左に鋭角に曲がる道があり、それを上り緩やかに右に曲がった先の左手にある。」

とのことであった。

早速そのとおりに行ってみると、左側に巨石が見えてきた。

はたして「神武天皇聖蹟誌」に記載されたとおりの巨石であった。

道路から岩の斜面を20mばかり登っていったところにあった。石の階段が3段ほどあり、その上の船型の2つの岩上に巨大な立岩が載っている。立岩の下面は水平になっており、如何にも人工的に岩を積み重ねたという感じであった。この岩の背後にも巨石が並べてあったが、この配列形等明らかに人工のものと思える。この周辺にも巨石の配置があるようだが、木が生い茂っておりその詳しい状態は不明である。
 方位磁石で立岩の向いている方向を調べると、ほぼ真南であった。祭祀をする人々は真北を向いていたことになる。この天津磐境は神武天皇の祭祀跡といわれているが、これだけの物を作るには一朝一夕でできるものとは思われず、神武天皇も長期にわたり、この地に滞在したのではないかと思える。

天津磐境から見た松永湾 天津磐境背後の岩(人工的な加工の跡歴然)




上の写真は立岩から真南の方向を写したものである。遠くに松永湾が見えている。当時の人々はこの下で立岩を祭祀していたのであろう。神武天皇の時代この周辺は島であったようで、神武天皇は松永から鞆の浦を抜けて福山市南部の田島におもむかれたと記録されている。田島には高嶋と呼ばれている半島部があり、昔は島だったそうである。
 神武天皇が安芸の多家神社で滞在した後、吉備国の高嶋宮に滞在したと記録されているがその宮はこの周辺ではないかと思える節がある。これについては今後の調査しだいである。
 

 立岩の背後にも巨石が並べられていた。右の岩はそのなかで特に形が整形されているのではないかと思えた岩である。

写真ではその加工の跡がわかりにくいが、きれいな方形の2段になった岩に加工されている。

04.10.22調査

天津磐境入り口(祭祀遺跡立岩とある) 遺跡への入り口前の広場
  このあたりに人々が集まって祭祀していた

霊石山

H16.10.22調査

 霊石山は鳥取市と河原町との境にある標高333mの山である。天照大神が征西の途上ここに一時期宮をおいていたという伝承がある。ここは二十数年前に訪れたことがあるが、昔のことであまり記憶になく、また、そのときはまだ古代史に関して霊石山の位置づけが分からなかった。現在は倭の大乱が起こる直前、孝霊天皇が一時住んでいたのではないかと推定している。その真偽のほどを確認できる資料が手に入るかと思い調査することにした。

霊石山 伊勢ヶ平

霊石山の山頂近くにある伊勢ヶ平に天照大神が滞在し、そこにある岩に腰をかけたと伝えられている。山頂までFJ1200であがって、そこから山道を伊勢ヶ平に向かった。二十数年前はかなり整備されていたと思ったのだが、今回訪れたときは荒れ果てていた。伊勢ヶ平までの道しるべもなくなっていた。昔の記憶に頼って、草を掻き分け進むとやっと伊勢ヶ平に着いた。伊勢ヶ平は前に来たときは草原であったが草がぼうぼうになっていた。皇居石も案内板があったはずであるが、無くなっていた。周りをうろうろしてやっとひとつ見つけた。

皇居石 御子岩

皇居石は2個あるそうである。しかし、1個しか見つからなかった。また、登山道の途中に猿田彦を祭った御子岩があった。