神武天皇について
神武天皇即位は年代推定によりAD83年1月1日(AD82年冬至の日)であることがわかった。この日を基準として、神武天皇の一生を伝承を元にまとめてみよう。
1. 年代推定
日本書紀によると神武天皇は即位76年に127歳で崩御したとなっている。逆算すると、神武天皇誕生はAD57年後半で、崩御はAD120年後半となる。東遷開始年は日本書紀己未年3月7日に「我々が東征に出てから六年が経った。」と記録されている。己未年は即位前2年にあたりAD82年前半である。これより東遷開始はAD78年後半となる。
日本書紀では甲寅(79年前半)となっている。しかし、日本書紀では岡田宮への滞在期間が1ヶ月ほどになっているが、後に述べるように北九州周辺での神武天皇関連伝承の多さから推察しもっと長いはずである。古事記の1年滞在が正しいと考える。また、神社伝承では山口県周南市の神上神社の地に半年間滞在したことになっている。さらに、安芸国に3ヶ月滞在したことになっているが、安芸国にも滞在伝承が多く、ここももっと長期間の滞在と思われる。鹿児島県の波見港に伝わる伝承では神武天皇が出航したのは3月とのことなので、出航はさらに一年早くAD78年後半3月と推定する。
これらを元に神武天皇の年代を推定すると、下の表のようになる。
西暦 | 干支 | 年齢 | 紀元 | 出来事 |
57 | 1 | 宮崎県佐野原で誕生 | ||
58 | 3 | 宮崎県高原町皇子原へ移動 | ||
64 | 15 | 都城市都島に移動 | ||
69頃 | 25 | 吾平津姫と結婚 | ||
70頃 | 27 | 日向津姫串間にて崩御 | ||
72 | 30 | 宮崎市皇宮屋に移動 | ||
75頃 | 36 | 父鵜茅草葺不合命死去 日本国との合併の話が持ち上がる 第5代倭国王に就任 東串良の山野に宮を造り、父の大隅半島統一を引き継ぐ |
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76頃 | 38 | 日本国に婿入りが決定し、日子穂々出見命に第6代倭国王位を譲る。 高千穂宮(鹿児島神宮)にて東遷準備会議を開く |
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78頃 | 42 | 加世田の瓊瓊杵命に東遷の挨拶をする | ||
78後半 | 癸丑 | 43 | 鹿児島県波見港を出航(3月) | |
78後半 | 癸丑 | 43 | 美々津港を出航(8月) | |
78後半 | 癸丑 | 43 | 宇佐に滞在 | |
78後半 | 癸丑 | 43 | 岡田宮到着(11月着・一年滞在) | |
79前半 | 甲寅 | 44 | 山口県徳山に到着(12月着・6ヶ月滞在) | |
79後半 | 乙卯 | 45 | 安芸国多祁裡宮到着(6月着) | |
80前半 | 丙辰 | 46 | 吉備国高島宮到着(3月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 吉備国高島宮出発(2月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 白肩津に到着(3月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 孔舎衛坂の戦い(4月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 五十瀬命死去(5月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 名草の戦い(6月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 熊野神邑到着(6月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 荒坂にて遭難(7月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 宮滝到着(8月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 高倉山で視察(9月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 国見丘の戦い(10月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 大和進入(11月) | |
81後半 | 戌午 | 49 | 長髄彦誅す(12月) | |
82前半 | 己未 | 51 | 都の選定(3月) | |
82後半 | 庚申 | 52 | 五十鈴姫を正妃とする(9月) | |
83前半 | 辛酉 | 53 | 1 | 神武天皇柏原宮(神武天皇社)にて即位 |
83頃 | 合併反対派の駆逐 | |||
84後半 | 56 | 4 | 宇陀・伊勢巡幸 | |
88後半 | 64 | 12 | 天皇日向を巡幸。三山陵を参拝す(6月) | |
98前半 | 80 | 31 | 第二代綏靖天皇に譲位 橿原宮に居を移し、綏靖帝を補佐する。 |
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103頃 | 92 | 41 | 第3代安寧天皇即位 | |
107 | 100 | 49 | 第4代懿徳天皇即位 後漢に朝貢(安帝永初元年) |
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111頃 | 108 | 57 | 第5代孝昭天皇即位 | |
119頃 | 122 | 73 | 健磐龍命を球磨国に派遣 | |
120後半 | 127 | 76 | 神武天皇崩御 |
2.神武天皇誕生地推定
狭野命の誕生伝承地は南九州に何箇所も存在している。①佐土原(佐野の森)、②高原町佐野(皇子原)、③志布志町佐野、④東串良町宮下(イヤの前)、⑤鹿児島県加世田市、などである。どれが正しいのであろうか。他の地にある伝承とうまく繋がらなければならない。狭野命の成長伝承地、宮跡伝承地などを総合すると、①または②が残る。他の伝承地は宮跡と繋がらない。②が成長伝承や宮跡伝承と最も良く繋がるのであるが、現王島の日吉神社には神武天皇の胞衣を埋めた伝承がある。狭野命は近くの佐野の森で誕生し、ここに胞衣を埋めたというのである。この伝承が誕生時を最も具体的に示しているといえる。そこで、狭野命は佐野の森で誕生し誕生後すぐに皇子原に移動しそこで育ったのではないかと考えてみた。
佐野の森は佐野原聖地と呼ばれ、神武天皇の父、鵜葺草葺不合尊の宮殿跡で、ここで神武天皇はじめ4柱の皇子がお生まれになった所と伝えられている。この地から800mほど北に現王島の日吉神社があり、神武天皇の胞衣を埋めたといわれている。
この時父の鵜葺草葺不合尊は内之浦の統一を終え、蚊口浦から上陸し、西都市周辺を統一していた兄の日子穂穂出見尊が対馬の統一を任されたので、その後をついで、西都市周辺の統一に取り掛かっていた。このような時に神武天皇は誕生したのである。幼名を狭野命という。AD57年後半のことである。
3.皇子原へ移動
西都市周辺が統一されたので、鵜葺草葺不合尊は第3代倭国王ムカツヒメの後継者として都城盆地を中心として倭国の統治のため、宇都に宮を移した。AD58年頃のことである。狭野命3歳(古代暦・現年齢1歳)程である。狭野命は皇子原に15歳まで住み、御池で水遊びしたり、宇都との間の道を通ったりしたという伝承が残っている。
4.都島への移動
AD64年高千穂山が大噴火を起こし、皇子原周辺は火山灰に覆われてしまった。住めない土地となった。鵜葺草葺不合尊一家は南の都島に移動することにした。暫くして、第三代倭国王ムカツヒメから大隅半島の統一を命じられ、大隅半島に出向くことになった。狭野命は都島に残り、現在の宮崎県南部地方の統治を託された。
5.狭野命の結婚
AD69年狭野命は25歳になった。この当時は25歳(現年齢で12歳)が成人であった。日南の阿多一族を倭国に取り込む時、鵜葺草葺不合尊の子と結婚指せることが条件であったために、狭野命は海幸彦の娘吾平津姫と結婚することになった。
日南→北郷→曾和田(生達神社)→河原谷→板谷→大八重→都島と往復しながら頻繁に逢った。この時の通過伝承が曾和田の生達神社にある。
6.皇宮屋(宮崎市)への移動
AD72年、ムカツヒメが串間で崩御した。狭野命は父鵜葺草葺不合尊から、日向国と北九州や東倭国との交流の玄関口である現宮崎市の皇宮屋で政務を執るように命じられ、皇宮屋に移動した。この時の経路上に金崎神社があり、神武天皇通過伝承を伝えている。皇宮屋に伝わる伝承では神武天皇は30歳からここに住んだと伝えられている。皇宮屋はこの当時大淀川の川辺であったと考えられ、水上交通の拠点であった。しかし、狭野命はこの時期、主に日南の油津に住んでいたようである。
皇宮屋に移ってから暫くして、狭野命は吾平津姫と結婚した。吾平津姫は結婚後、日南市の駒宮神社の地に住んでおり、この地は父が居る宮下の西洲宮(桜迫神社)へ通う都合もあり、狭野命は駒宮の地に頻繁に通ってきていた。その経路は旧飫肥街道と考えられる。
狭野命はこのとき、海神(海幸彦・吾平津姫の父)から、駿馬を献上され、尊はこれを大変気に入り、龍石(たついし)と名づけられ、この馬に乗って、西州宮を往復したと伝えられている。駒宮神社周辺には、この時の船や馬を繋いだといわれる「船繋ぎの松」、「馬繋ぎの松」がある。また、付近に「神川」と呼ばれる川があり、愛馬を洗ったと伝えられている。東遷が決まってから、この馬は野(立石の牧)に放たれた。
宮下のイヤの前で長子タギシミミが生まれている。ここは伝承上では神武天皇誕生地であるが、鵜葺草葺不合尊がここに宮を移したのは晩年であり、神武天皇誕生地とは考えられない。狭野命が吾平津姫との結婚後、父との連絡に頻繁に通ってきているので、この地で誕生したのは、狭野命の長子タギシミミではないかと推定する。また、桜迫神社の伝承に神武天皇が幼少時に過ごしたと伝わっているが、これもタギシミミのことであろう。
7.鵜葺草葺不合尊崩御
AD75年頃、狭野命36歳の時、父鵜葺草葺不合尊が西洲宮で崩御した。
9.曽於族との戦い
鵜葺草葺不合尊の伝承は志布志の御在所嶽にもある。この伝承は天智天皇のものであるが、玉依姫を伴っているので、鵜葺草葺不合尊のものと解釈される。曽於族を倭国に取り込むために彦火火出見尊と共にこの周辺で活躍したものであろう。近くに佐野と呼ばれている所が在り、佐野丘には三野大明神の祠堂があって、神武天皇が祀られている。ここは神武天皇誕生地ともいわれている。
末吉町の住吉神社は神武天皇が創建したといわれている。この地は曽於族のほとんど本拠地近くである。狭野命は鵜葺草葺不合尊に伴って曽於族を取り込むために活躍した時にここに滞在していたのであろう。
この当時まだ未統一であった曽於族が都城の方へ進出して来た。狭野命は高千穂宮で軍を集めて都城方面へ出陣をしたが敗戦した。この時の伝承が子落にある。都城で敗れた神武天皇一行が国分まで引き返す時子落を通過したといわれている。この時狭野命は高千穂宮に居たようで、東遷準備中のことと思われる。この後曽於族とは講和したようである。
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