広島県地方の大和朝廷における扱い

 広島県地方に大分系土器や九州系鉄器の出土があるが、市杵島姫の伝承とつながっている。

このページの内容
第一項 広島県内の九州系遺物
第二項 市杵島姫
第三項 市杵島姫の御陵


15節 広島県地方の大和朝廷における扱い
        第一項 神武天皇の広島県下での行動について
 昭和16年 広島県発行の「神武天皇聖蹟誌」に広島県下における神武天皇の行動の跡を伝える伝承が詳しく記録されている。この伝承をまとめてみると次のようになる。
1.厳島
 日向を発した神武天皇は広島県沖に達したとき、まず、宮島の南端の須屋浦に上陸し現在の厳島神社の地にしばらく滞在している。渡辺綱吉氏「安芸の宮嶋吉備の高嶋宮」によると、厳島神社の本当の祭神は神武天皇ではないかと書かれている。それは昭和15年の「厳島神社御由緒等調査記」に神武天皇の時代に御鎮座とあり、最初に神武天皇がこの島を訪れているからである。また、島内の山中には巨石を用いた祭祀の痕跡が残っている。これも神武天皇が祭祀したものと思われる。
2.廿日市市地御前
 宮島を発した神武天皇は地御前の地御前神社の地に上陸した。神社西側の入り江を有府水門といい、ここに着岸されたという。
3.廿日市市串戸
 地御前で休息の後、海岸に沿って船を進め、串戸に入り広田神社の地(近くに天王址碑あり)に着いた。天皇が天王社(広田神社)の御戸を開き玉串を奉典し奉ったことにより串戸と名づけられたという。
4.廿日市市宮内
 それよりさらに御手洗川に沿って奥地に入り、宮内の大幸の八坂神社の地でしばらく滞在した。天皇がしばらく滞在したため宮内と呼ばれるようになった。
5.広島市古江
 その後広島市古江に上陸し現在の八幡神社の地にしばらく滞在。ここを多紀理宮という。
6.安芸郡江田島町切串
 その後、江田島に渡り切串の長谷川の河口にある丘陵地に宮をつくりしばらく滞在。洪水にあったために府中町多家神社の地に移動。埃宮とは江の内の意味で広島湾岸を意味している。
7.安芸郡府中町多家神社
 かなり長く滞在したようで、この滞在中矢野や船越方面にも出向いているようである。このとき(?)皇兄の五瀬命が瀬野にて賊退治をしている。日本書紀から推察すると、AD79年12月頃と思われる。以下は多家神社滞在中のことと思われる。
・広島市可部町舟山・・・広島湾を北上し広島市可部町舟山に着岸し、徳行寺境内の総社の地にしばらく滞在。このとき惠坂や螺山方面にも足を伸ばされている。
・高田郡吉田町宮之城・・・内陸部に入り、宮之城の丘陵にある埃宮神社にしばらく滞在。
・賀茂郡西条町寺家・・・新宮神社に腰掛岩がある。
・賀茂郡福富町竹仁・・・橿原神社(現在は森政神社に合祀)に神武天皇が来遊したと記録されている。
・比婆郡西条町高・・・今宮神社に伝承あり
           埃宮に滞在中出雲との関係を生じこの地を数度訪問した。物資を出雲より取り寄せた。
           と言い伝えられている。
・比婆郡高野町南・・・男鹿見山の麓にある八幡神社に大昔より鉾を神宝として伝えている。神武天皇が鬼城山の
           鬼を退治したときの鉾と伝える。この周辺も高嶋という。この周辺に神武天皇伝承地が多
           い。
多家神社を基点として方々を巡回後、当神社を出発、呉市天応(立ち寄り伝承あり、天応の名も天皇の立ち寄りからつけられる)、呉市(賊退治伝承あり)と経由し、海に出る。蒲刈島南方海上を東へ向けて進行中、南風を受け船の梶が折れたために、上下蒲刈島の間の三ノ瀬に船が入りこんだ。下蒲刈の向浦に着岸し天頭山の岸辺で船を修繕。このとき蒲を刈ったので、ここを蒲刈と名づけられた。そこから内海に出てさらに東へ進んだ。
8.豊田郡瀬戸田町名荷
 蒲刈を出た天皇一行は瀬戸田町の名荷に到着。斎串を立てて祀ったのでこの島を生口島と呼ぶようになった。島の嶽山の麓にあった江ノ神社の地にしばらく滞在したとの伝承あり。近くに船を止めたという場所や神武天皇使用の井戸の跡、窯の跡、斎田の跡などの伝承あり。伝承内容からしてかなり長い滞在と思われる。
9.豊田郡大崎町大長
 神武天皇が立ち寄ったという。付近の島々にも支船を停泊させたと伝える。また、この地に着く前に一支隊が四国(三津浜)に立ち寄ったともいう。
10. 因島市大浜
 斎島神社由緒
 「昔神武天皇、東国に行かれるとき、風波のため航海ができず、この大浜に船を留め寒崎山にて数日嵐の静まることを天神に祈られた。即ちこの島は斎島である。後に変わって隠の島(因島)となる。」
11. 尾道市高須町
 ここからは備後の国であり、滞在地を高嶋宮と伝えている。大元山麓の八幡神社の地にしばらく滞在したと伝える。ここから2kmほど南西の大田地区で武器製造・貯蔵をしたと伝えられ、神武天皇はしばしばここを訪れたそうである。ここも滞在期間は長かったようである。ここに着いたのが日本書紀よりAD80年2月頃と考えられる。
12. 福山市金江町
 貴船神社があり、ここに船を止めた。近くの竜王山西麓に神武天皇滞在伝承地があり、この周辺を高嶋宮という。石碑もある。また、鏡山の今伊勢神宮に八咫鏡を奉祀した。そのため、この地を神村という。近くの磐田山に天津磐境をつくり祭祀をした。天津磐境の岩を運んだという伝承地もあり、このあたりに神武天皇伝承地が極めて多い。かなり長期にわたって滞在したものと思われる。
13. 沼隈郡浦崎町
 浦崎町中央部の王太子山中腹に王太子神社があり、神武天皇の滞在を伝える。また、近くの戸崎に神武天皇上陸伝承地がある。
14. 福山市内浦町田島
 内浦に神武天皇滞在を伝える宮址の皇森神社がある。ここも高嶋宮址であり、しばらく滞在したと伝える。周辺に行幸伝承地が多く、滞在期間は長かったと思われる。
15. 福山市田尻町
 田尻町にある高島は現在は半島部になっているが昔は島であった。その南端部に八幡神社があり、高島宮址の石碑がある。しかし、宮址は少し北の宮原の地と伝える。昔橿原神社があったそうであるが八幡神社に合祀されたそうである。ここも滞在期間が長かったようである。ここに滞在中出雲との往復をしているようで、内陸部に入り庄原市の葦嶽山で祭祀をし、使者を出雲の言代主命に挨拶に遣わした。神武天皇自身は高野町にも伝承地があり、高野町を越えて出雲往復をしたものと考えられる。
この後、岡山県笠岡市や岡山市の高嶋宮にも滞在し、大和に向かった。

広島県内における神武天皇の滞在跡
        赤実線はほぼ確実、破線は推定経路



このように神武天皇は広島県にかなり多くの伝承を残している。滞在の順番は方向性を考えながら推理したものである。すべてが真実とはいわないが、真実の要素はかなりあるのではないかと思っている。はっきりわかることは、一般には武器調達とか大和の様子見とか言われているが、これほど方々にしかも長期間滞在するというのはそのような理由によるものではないことを示している。この滞在の理由をここでは考えてみたい。

第二項 広島県内の九州系遺物

 広島県地方には後期中葉あたりから,畿内系土器に混じって,大分系土器が出土するようになる。さらに,九州地方に限られていた九州系の鉄器がこの地方のみに出土するのである。大和朝廷成立と前後して大分県地方からの人々の流入があったことが推定される。

 大分系土器は,三原以西の沿岸地方を中心に分布し,北部や東部には見られない。継続がなく,しばらくすると出土しなくなる。一方,畿内系土器は,ほとんどの地域に分布するがその数は少ない。そして,出土は時期的に限られたものではなく,恒常的で,古墳時代以降にも継続している。いずれの土器も在地系土器と混在する形で出土している。これは畿内系と違って,大分系の人々の流入は一時的なものと判断される。そして,土器が在地系と混在していることは共に在地の人々と共同生活をしたことを意味している。これは共通の精神基盤がなければ不可能なことである。共に,大和朝廷によって統一され,スサノオを最高神として崇めていたためにできたのではあるまいか。  

 大分系土器は,出土地域が限定されていること,九州系の鉄器が同じように出土していること,時期的に限定されていることから,鉄生産を目的とした大分県地方からの集団移住ととらえることができる。
 また、後期中葉に広島県地方に九州のAタイプの槍鉋の出土が見られる。地域は大分系土器の出土領域と重なっている。大分系土器を持ち込んだ人々が槍鉋を持ち込んだと思われる。

第三項 市杵島姫

 大分県の宇佐地方でスサノオとムカツヒメの子として生誕した三娘のうち,市杵島姫の伝承が広島県下に残っている。栗原基氏著「新説日本の始まり」によると広島県高田郡向原町の大土山に住んでいた市杵島姫の子供が行方不明になったのをきっかけとして,向原町実重→福富町久芳鳥越妙見→東広島市志和町奥屋→広島市瀬野川町→東広島市八本松町→東広島市西条町寺家→生口島→大崎上島矢弓→大崎上島木ノ江→江田島町伊関廿日市市宮内→大竹市→宮島町と転々と移動している。この滞在の地にはいずれも厳島神社が存在している。そして,この転々としている領域と大分系土器の出土する領域が一致しているのである。市杵島姫がその一族と共に大分から広島へ移住してきたものと考えられる。「女王アマテラス」によると,市杵島姫は九州へ住んでいたころ,ニギハヤヒの子であるサルタヒコと結婚していた。サルタヒコが出雲統治に行った後,広島県地方に移ったのではあるまいか。大分県地方から瀬戸内海を渡って,広島県地方に上陸するコースを考えてみると,崖が迫っているところは上陸しにくいので,広島湾に入り込み,そこから三篠川に沿って上流に移動することが考えられる。川をさかのぼっていくと,その先に大土山がある。大土山のある向原町には,水田の跡と考えられる伝承地が点在している。この伝承地は神武天皇の滞在地と重なっているところが多く、神武天皇の行動と内容がよく似ている伝承もある。また、厳島神社は神武天皇を祀ったものと思われるが市杵島姫を祀っているのも事実である。この二人に深い関連性を見ることができる。市杵島姫と神武天皇は同時に広島へやってきたのではないかと考えている。
           第四項 神武天皇安芸国および吉備国長期滞在の理由
 神武天皇の伝承地の集中度を調べてみると、よく言われている府中町の多家神社周辺ではなく福山市周辺である。多家神社の埃宮と福山市周辺の高嶋宮がそれに該当する。岡山県下にも高嶋宮跡があるが、伝承の集中度では福山市が圧倒している。伝承が多いところに長期間滞在したと判断してよいと思われる。また、その間でも方々に長期間滞在しているようである。何のためにこんなに方々で滞在したのであろうか。滞在地の何箇所かで巨石祭祀をしているのである。大規模な巨石を用いており、神武天皇と同行している人々だけの力ではこれだけの祭祀施設を作るのは無理ではないかと思われ、さらに、瀬戸内沿岸地方は神武天皇の所属していた西倭でも合併する日本国でもない、出雲国の支配する東倭に所属する地域である。
 また、広島県北部に残る神武天皇関連の伝承は比婆郡西条町高の今宮神社の伝承や庄原市本村の葦嶽山に伝わるものなど、出雲との交渉を示すものがある。出雲との交渉が滞在目的のひとつであったのは間違いがないであろう。
 これらから判断してこの地域の人々を味方につけるために神武天皇は各地に長期間滞在したのではないかと考えるのである。何のためにこの地域の人々を取り込む必要があったのか。合併後の大和朝廷の政治に目を向けてみると、大和朝廷は海外からの技術導入に力を入れなければならず、そのためには北九州主要部(伊都国)は重要拠点となる。実際に伊都国は後期中葉以降畿内系土器が集中出土するようになり、方形周溝墓も出現するようになる。考古学的視点に立っても大和朝廷は北九州主要部を重視していたことは明らかである。朝廷のある大和から伊都国との交流が大切なものとなるが、その経路上のほとんどの地域は東倭に所属しているのである。このままでは朝廷成立後の日本国の運営に大きな支障が出ることは誰の目にも明らかである。神武天皇としては、この状態は何とかしなければと考えたに違いない。どうすれば解決するのであろうか。一番よいのは瀬戸内海沿岸地方を東倭から譲り受けることである。そのために選ばれたのが広島県地域ではないのか。このように考えると神武天皇の行動は自然なものとなる。
 この仮説を別方面から検討してみることにする。まず、後期中葉の広島県下の土器に変化が起こっている。後期初頭までは出雲系土器がまばらに出土していたが、後期中葉になると出雲系土器が消滅し、変わりに畿内系土器の出土が始まるのである。隣の岡山県や島根県地方にはこの傾向が見られないことから広島県地方のみの傾向である。これは、出雲から広島県地域が朝廷支配地域になったことを意味している。しかし、朝廷支配地域に出現する方形周溝墓が出現せず、また、出土する畿内系土器は祭祀系土器ではなく、日常生活用土器である。これは出雲から広島県地域を譲り受けるときに、祭祀をしないという条件があったものと考えれば説明がつく。出雲はスサノオ祭祀をしており、日本国はニギハヤヒ系祭祀であるから、出雲がそれに抵抗を示すことは当然考えられるのである。伝承では言代主は神武天皇からの使者の言葉に一度は怒り追い返しているのである。その後使者の言葉を受け入れている。もし、神武天皇が日本国におもむき、西倭との合併の挨拶だけであれば、神武天皇が日向を出発する前に話がついているのであるから言代主が怒るはずがない。広島県地域を譲れという思いがけない言葉に怒ったのである。市杵島姫による説得が功を奏して、言代主も納得し宝剣を渡したものと考えられる。
 神武天皇が福山市周辺で長期間滞在したのも説明がつく。後期初頭までの出雲系土器がよく出土するのは北部地域と芦田川流域である。この地域をつなぐと、瀬戸内海沿岸地方と出雲との交易ルートが浮かび上がってくる。福山周辺の伝承でも、スサノオは出雲の斐伊川の川上から福山周辺にやってきたことが伝えられている。出雲と、瀬戸内海沿岸地方との交易ルートはこの経路であることがわかる。神武天皇がこの地域に長期滞在をし、さらに巨石祭祀を行なっているのはこの地域の人々の心をつかむのと、出雲との交渉のためと考えられる。
 そこで、交渉の代表者として登場するのが
市杵島姫となる。彼女はこの当時生存していた数少ないスサノオの娘である。さらに、出雲のサルタヒコは北九州にいたとき、この市杵島姫を妻にしていたのである。出雲の言代主にとって、頭の挙がらない人物の一人であろう。神武天皇もそれを計算して宇佐から彼女を同行させたと考えるのである。
 このように考えると、神武天皇の長期滞在理由、土器の出土状況、市杵島姫の広島への移動すべてが説明できるのである。東倭から譲り受けた後の広島県地域は市杵島姫が統治していたものと考えられる。市杵島姫の伝承地が転々と移動しているのも地域をまとめるためと考えられ、大分系土器が出土するのもそのためと考えられる。
 安芸国に滞在しているときに、出雲国との交渉によって、安芸・備後(現広島県)を東倭から譲り受けた後の経路については、神武天皇が大和で即位した後の北九州との航路を安定化するために要所となるところに寄港地を作るために方々に滞在していたのではあるまいか。磐田山の天津磐境は航海の安全を祈る祭祀施設かもしれない。


比婆山 比婆山御陵

第5項 後の滞在推定値

 福山市田尻町の高島宮址を出航した、神武天皇一行のその後の立ち寄り地を探ってみることにする。大阪湾岸に到達するまでに、以下のような伝承地が存在している。

 1. 岡山県笠岡市高島

 笠岡諸島のひとつの島である高島には高島神社がある。明治維新までは「神武天皇宮」「神武天皇社」と呼ばれて崇拝されていた。社は小さいが神武天皇が東征された際の仮宮である吉備高島宮の跡と言われている。近くの最長には高島遺跡が存在している。長期滞在には不向きと思われ、海が荒れたため立ち寄ったのではないだろうか。

高島

 2. 児島湾に浮かぶ高島

 児島半島はこの当時島であり、児島湾は東西に通じていた海峡であった。笠岡の高島を出航した神武天皇一行はこの海峡に沿って東行し、旭川河口にある高島周辺で船を休めた。高島は大変小さい島で、児島湾上に浮かんでいる。この島及び児島半島の北岸に神武天皇が滞在したという伝承地がある。このような島に大人数が長期滞在するのは無理であるので、長期滞在地を探すために短期間滞在したのではないかと創造する。ここに滞在中、龍の口山の麓に長期滞在地を選定したものと考える。

児島湾に浮かぶ高島 高島神社

 3. 岡山市賞田、龍の口山の南麓

  岡山市市街地の北西部旭川のそばに龍の口山がある。その南麓に高島神社が存在し、神武天皇が滞在した址と伝えている。当時はこの近くまで海だったようで、児島湾の高島からこの地に移ったと考えられる。大和へ向かう経路上より北へずれているため、長期滞在したのではないかと考えられる。この地より10kmほど南東に兄である五瀬命が滞在したと伝えられている安仁神社が存在している。昔はこの鶴山の麓まで海であったそうで、入江の奥の良港だった。後方の山には磐座や列石があり、古代の祭祀跡と見られるところに、神武東征の船の「ともづな」を掛けたといわれる「綱掛石神社」などがある。この安仁神社の地は神武天皇が龍の口山の高島宮に滞在中に五瀬命が滞在していたと推定する。 日本書紀から推定すると、ここを出発したのがAD81年7月下旬となる。

高島神社の顕彰碑 高島神社

 4. 兵庫県家島

 神武天皇が東征の時、海があれ、嵐を避けるために家島に御寄港した。島内に入ると外の嵐がウソのように波静かで、まるで自分の家にいるようだったことから、「家島」と名づけられたと伝えられている。
 家島は、古くは、国生みの島オノゴロ島、胞島(エジマ)と呼ばれていた。その後家島と呼び名を変え、瀬戸内海の海上交通路の拠点、潮待ち、風待ちの非難港として栄えてきたともいわれている。
「播磨鑑」には次のような説話が伝えられている。
 「白髪長髪の翁が、亀の背に乗り、沖で釣をしていると、吉備水道を抜け出て来た船団が播磨灘に向かってやってきて、翁がこの海に関して詳しい事を知り、翁に道先案内を頼みました。
船団は、家島に滞在し、船の修理や、兵士の訓練、食料の補充をして数年間がたちました。そして、翁の案内で、摂津へ旅立ちました。難波について翁は手柄を褒められました。翁の亀は、忙しい主人をおいて、先に難波ヶ崎から家島に帰ってきました。」
 この話は神武天皇の東征時の説話といわれている。
神武天皇一行が高島を出航したのが戊午2月11日で、難波の白肩津に着いたのが3月10日なので、この間約15日(この頃の1ヶ月は15日と推定)。距離から考えて家島には五日ぐらい滞在したのではあるまいか。

 神武天皇東遷伝承へ

 トップへ  目次へ 
神武天皇東遷開始
関連 倭国・ヒノモト合併交渉
鵜茅草葺不合尊大隅へ
神武天皇誕生
安芸国埃宮