神武天皇生誕前の鵜茅草葺不合尊の行動
推定年 | 出来事 |
AD35年頃 | 香川県豊島神子ヶ浜にて生誕。乳幼児期、屋島の近くの鵜羽神社の地で生育 |
AD43年頃まで | 宮崎県西都市童子丸の童子丸神社の地で生育 |
AD47年頃 | 宮崎県都城市都島で日子穂々出見尊とともに生活 |
AD50年頃 | 鹿児島県枚聞神社の地で飛騨王家の娘玉依姫と結婚 |
AD51年頃 | 種子島浦田神社の地で技術指導 |
AD52年頃 | 内之浦にて技術指導。五瀬命誕生 |
AD53年頃 | 日向津姫より倭国巡回を命じられる。宇原神社の地で稲飯命誕生。 倭国巡回に出発。出雲→若狭→越前→飛騨と訪問。 |
AD55年頃 | 北九州瓊々杵尊のもとを訪ねる。伊都国巡回。 鮭神社の地で三毛入野命誕生。 対馬の日子穂々出見尊のもとを訪ねる。 |
AD57年頃 | 日向国蚊口浦の上陸。日向に帰還。佐野原聖地で周辺を統治。 |
AD58年頃 | 宮崎県高原町の宇都に移動。現王島にて神武天皇誕生 |
鵜茅草葺不合尊はAD53年頃倭国巡回を開始し、AD57年頃日向国蚊口浦に戻ってきた。
蚊口浦には鵜戸神社が鎮座しており、この神社には次のような伝承がある。
宮崎県史跡調査(昭和5年刊)には次のように記されている。「創建時代は詳からいずといえど、古来鵜葺草葺不合尊の御上陸の旧跡に社殿を建設したりと伝承する。
本殿の西側にある高さ3尺、縦横9尺五寸の小丘は、御上陸の旧史と伝えられる。 」
また、鵜戸神社の鎮座する境内には、神武天皇が大和に向かう途中に旅の平穏を祈願したところという伝承がある。
蚊口浦が、倭国巡回から戻った鵜茅草葺不合尊の上陸地点なのであろう。神武天皇生誕伝承地の1つ佐野原聖地に次のような伝承がある。
佐野原聖地は神代の昔、鵜葦草葦不合命が都於郡から宮居を遷されて天下を治められた所で、この地で佐野尊(のちの神武天皇)がお生まれになった。
鵜茅草葺不合尊は佐野原聖地に宮居する前は都於郡にいたようである。都於郡は都於郡城があったところで、日子穂々出見尊の高屋山上陵伝承があるところである。ここは実際の御陵ではなく、若き日日子穂々出見尊と鵜茅草葺不合尊が共に住んでいたところと推定している。倭国巡回から戻った鵜茅草葺不合尊は、蚊口浦から小丸川に沿って遡り、日向国の旧都である西都を通って、都於郡にたどり着き、そこで、休息していたのではあるまいか。
誕生地の推定
狭野命の誕生伝承地は南九州に何箇所も存在している。①佐土原(佐野の森)、②高原町佐野(皇子原) 、③志布志町佐野、 ④東串良町宮下(イヤの前)、 ⑤鹿児島県加世田市、などである。どれが正しいのであろうか。他の地にある伝承とうまく繋がらなければならな い。狭野命の成長伝承地、宮跡伝承地などを総合すると、①または②が残る。他の伝承地は宮跡と繋がらない。 ②が成長伝承や宮跡伝承と最も良く繋がるのであるが、 現王島の日吉神社には神武天皇の 胞衣を埋めた伝承がある。狭野命は近くの佐野の森で誕生し、ここに胞衣を埋めたというのである。 この伝承が誕生時を最も具体的に示しているといえる。そこで、狭野命は佐野の森で誕生し誕生後すぐに 皇子原に移動しそこで育ったのではないかと考えてみた。
神武天皇誕生
日向津姫が国分の鹿児島神宮の地に移動してから大分たっており、旧都周辺を巡回したものであろう。鵜茅草葺不合尊が佐野原聖地に、妻の玉依姫の出産が近づいてきたのである。佐野原聖地は高原地帯であるので出産には適さず、2km程北側の一ノ瀬川流域の現王島で出産することにした。
鵜茅草葺不合尊は狭野命出産直前には高原町の「宮ノ宇都」に移動することになったようである。鵜茅草葺不合尊としては、出産に立ち会いたいところではあるが、宮ノ宇都への移動は急を要したのであろう。出産に立ち会わずに移動したようである。
急に移動した理由は都城盆地の曽於族の動きにあるのではないかと思われる。都城盆地は日向一族の本拠地近くではあるが、まだ倭国に加盟していない地域が多く存在していたのである。日向津姫より曽於族を抑えることを命じられたのではあるまいか。
狭野命が誕生したAD58年は、瓊々杵尊、日子穂々出見尊共に北九州に赴いており、有力人物が残っていなかったのである。日向津姫も周辺豪族の動きに神経を使っていたのであろう。
鵜茅草葺不合尊が宇都に旅立って暫らく後に、現王島の日吉神社近くの佐野の森で狭野命(後の神武天皇)が誕生した。玉依姫命は誕生後すぐの狭野命を抱えて、宮ノ宇都近くの皇子原の地に到着した。
皇子原にて
皇子原は 皇祖神武天皇のご降誕遊ばしました聖蹟とされている。皇子原神社後背の「産婆石」付近で神武天皇が降誕になられたと伝えている。また、参道中段中程にある「御腰掛石」は、神武天皇が日向建国の礎を固められた所として知られている。
しかし、狭野命誕生地は現王島と思われるので、誕生数日後には皇子原についているのではあるまいか。現王島と皇子原は直線距離46km程である。一週間程度で移動できるであろう。「産婆石」の近くに宮が作られ、そこで成長したのであろう。
狭野命は皇子原に15歳までいたことになっている。現年代計算で7歳までである。このころ、 鵜茅草葺不合尊は宇都に宮居していた。皇子原から宇都まで2km程の道に狭野命が往復していたという伝承が残っている。また、2km程離れたところにある御池のほとりで、狭野命が遊んでいたという伝承もある。
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