天日槍命来日

 天日槍命が垂仁天皇の時代に来日したと日本書紀に伝えられているが、大国主命との争いが神社伝承で伝えられている。一体これはどういうことなのだろうか?この謎を解明したいと思う。

日本書紀

 天日槍命が日本にやってきたのは垂仁天皇3年(日本書紀でBC27年・甲午)と言われている。脱解の時代の近くの半年一年干支が甲午の年はAD219年である。天日槍命は新羅第4代国王脱解王(AD201年~AD212年の子であると言われている。脱解王は62歳で即位したと伝えられている。半年一年暦で31歳である。脱解の生誕はAD171年(孝霊46年)となる。孝霊天皇が伯耆国遠征した翌年である。

 父である脱解王の誕生説話は韓国の民間伝承に次のように言い伝えられている
「昔、倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を龍城国とも言った。国王の名前を含達婆といい、女王国の女を王妃としていた。 その王妃は妊娠から7年目にして大きな卵を産んだ。国王は怪しいと思って、それを捨てさせた。王妃は絹布で卵を包み、櫃の中に入れて船で海に流し 「有縁の地に到り、国を建て、家を成しなさい」と祝福して別れを告げた。その船は阿珍浦(慶州郡陽南羅児里)に流れ着いた。その地の老婆が空を見上げると、 鵲(かささぎ)が盛んに鳴きながら飛んで来たので、何故かと思って行ってみると、船の中に子供を見つけた。 その子供を大切に育てると、人々が尊敬するような人物になった。 鵲の飛鳴によって発見したので、鵲の字の鳥を除いた字である「昔」を姓とした。また、 老婆が櫃(ひつ)を解いて出現したので名前を「脱解」とした。その賢名を聞いた朴氏第二世の南解王は、彼を婿に迎え、朴氏第三世の儒里王が崩御した後、 遺言によって新羅国の第四代の王となった。」

 新羅本紀には、第四代の脱解王について、次のように記録されている。
「脱解尼師今が即位した。王はこの時、年が六十二歳(修正31歳)であったが、姓は昔氏で、妃は阿孝夫人である。脱解はもと、多婆那国の生れで、その国は倭国の東北千里の所にある。・・・」
これに対応するのが丹後一宮の籠神社に「古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった。」という伝説が残されている。

 伝説をまとめると、脱解の誕生はAD201年31歳で即位したことになるので、脱解誕生はAD170年となる。AD200年頃丹波国の脱解が朝鮮半島にわたり、新羅国第4代脱解王となったということになる。天日槍命はこの王の子なのでAD219年頃再び日本列島に戻ってきたのであろう。第9代開化天皇の時代となる。

 天日槍命はこの脱解王の子と言われている。古事記・日本書記・播磨風土記を元にしてその後をまとめてみると
新羅の阿久(アグ)沼<大韓民国慶州市>の辺で、昼寝をして居た女性が太陽の光を浴びて、目映い赤玉を産み落としたと言う噂を聞いて、譲り受け、持ち帰った処、赤玉は美しい乙女に変身し、天日槍は妻に娶り、楽しい歳月を送るが、夫婦喧嘩の末に「祖国へ帰る」と云い残し、日本に逃げ帰った妻阿加留比売(あかるひめ)を追い、家督を弟知古(ちこ)に譲り来日。

 大国主命と天日槍命との戦いを示す伝承<播磨国風土記> 

1 揖保郡・揖保の里 粒丘 粒丘とよぶわけは、天日槍命が韓国から渡って来て宇頭川下流の川口に着いて、宿所を葦原志挙乎命に お乞になって申されるには、「汝はこの国の主たる方である。私の泊まるところを与えてほしい」と
韓国から来た天日槍命が宇頭の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命に土地を求めたが、海上しか許されなかった。天日槍命は剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘に上がった。
境内に「粒丘」と彫った石標がある。<兵庫県たつの市揖保町中臣1360 中臣印達神社>
2 新良訓 昔、新羅の国の人が来朝した時、この村に宿った。だから新良訓とよぶ。
3 穴禾の郡・雲箇の里・波加の村(はか) 国を占めなされた時、天日槍命が先にこの処に来、伊和大神はその後でここに来られた。
<宍粟市波賀町 上野に明神社「天火明神」、宝殿神社「大国主神」>
4 穴禾郡比治里奪谷 葦原志挙乎命と天日槍命が奪いあったので、奪谷と云う。
5 穴禾郡柏野里伊奈加川 葦原志挙乎命と天日槍命が国を奪い合った時、馬がいなないたので、伊奈加川と云う。
6 兵庫県姫路市一宮町須行名407 伊和大神と天日槍命が国を争い、天日槍命が先に占拠した。「度[はか]らずに先に・・」と云ったので波加村と云う。
<伊和坐大名持御魂神社「大己貴神」>
7 餝磨郡・伊和の里伊和部 積幡の郡の伊和君らの族人がやってきてここに住んだ。だから伊和部とよぶ。手苅丘とよぶわけは、 「韓人たちが始めて来たとき、鎌を使用することがわからず、素手で稲を刈ったからと言う。
<手苅丘 姫路市手柄 生矢神社「大国主命」もとは三輪明神>
8 穴禾の郡・御方の里 葦原志挙乎命は天日槍命と黒土の志爾蒿(しにだけ)にお行きになり、お互いにそれぞれ黒葛を三条足に着けて投げあいた。その時葦原志挙乎命の 黒葛は一条は但馬の気多の郡に落ち、一条は夜夫の郡に落ち、一条はこの村に落ちた。天日槍命の黒葛は全て但馬の国に落ちた。
<姫路市一宮町北部 姫路市一宮町森添 御方神社「葦原志挙乎命 配 高皇産霊神、月夜見神、素盞嗚神、天日槍神」>
葦原志許男神と天日槍神との戦いを仲裁するべく大和から高皇産靈神がやって来て和議があいなった。そこでお三方をお祭りしたので御方神社と呼ぶ。
9 神前の郡・多駝の里(ただ)・粳岡(ぬかおか) 伊和大神と天日桙命の二人の神がおのおの軍兵を発して互いに戦った。
<姫路市船津町八幡>

 国土開拓伝承

10 因達の神山 昔、大汝命の子の火明命は、強情で行状も非常に猛々しかった。そのため父神はこれを思い悩んで、棄ててのがれようとした。則ち因達の神山まで来て、 その子を水汲みになって、帰らない間に、すぐさま船を出して逃げ去った。
11 揖保郡・香山の里鹿来墓 揖保郡・香山の里鹿来墓とよぶわけは、伊和大神が国を占めなされた時、鹿が来て山の峰にたった。山の峰は墓の形に似ていた。 <揖保郡新宮町香山>
12 揖保郡・阿豆の村 揖保郡・阿豆の村 伊和大神が巡幸なされた時、「ああ 胸が熱い」いって、衣の紐を引きちぎった。だから阿豆という。
<揖保郡新宮町宮内>
13 揖保郡・御橋山 揖保郡・御橋山 大汝命が俵を積んで橋(梯子)をお立てになった。
<揖保郡新宮町觜崎(屏風岩)>
14 揖保郡・林田の里談奈志 揖保郡・林田の里談奈志と称するわけは、伊和大神が国をお占めなされたとき、御志(みしるし) をここに突き立てられると、それからついに楡(いはなし)の樹が生えた。
<姫路市林田町上溝 祝田神社「罔象女命」>
15 揖保郡・林田の里・伊勢野 揖保郡・林田の里・伊勢野 山の峰においでになる神は伊和大神のみ子の伊勢都比古命(建比名鳥命の子)、伊勢都比売命である。
<姫路市林田町上伊勢、下伊勢、大堤>
16 揖保郡・林田の里・稲種山 揖保郡・林田の里・稲種山 大汝命と少日子根命の二柱の神が神前の郡の?岡の里の生野の峰にいて、この山を望み見て、 「あの山には稲種を置くことにしよう」と仰せられた。山の形も稲積に似ている。
<姫路市下伊勢 峰相山>
17 穴禾の郡 伊和大神が国を作り堅め了えられてから後、ここの山川谷峰を境界として定めるため、御巡幸なされた。
<宍粟市 伊和神社>
18 穴禾の郡・比治の里・宇波良の村 葦原志挙乎命が国を占められた時、みことのりして「この地は小さく狭くまる で室戸のようだと仰せられた。だから表戸という。
19 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) 穴禾の郡・安師の里(あなし)(もとの奈は酒加(すか)の里) (伊和)大神がここで冫食(飲食)をなされた。だから須加という。伊和の大神は安師比売神を娶ろうとして妻問いされた。その時この女かみが固く辞退して許さない。そこで大神は大いに怒って、石を以て川の源を塞きとめた。
<姫路市安富町と山崎町須賀沢 安富町三森 安志姫神社「安志姫命」>
20 穴禾の郡・石作の里・伊加麻川 大神が国を占められたとき、烏賊がこの川にあった。
<宍粟市山崎町梯川>
21 穴禾の郡・雲箇の里(うるか) 大神の妻の許乃波奈佐久夜比売命は、その容姿が美麗しかった。だたか宇留加という。
<宍粟市一宮町閏賀・西安積・杉田 閏賀に稲荷神社「宇賀今神 配 木華開耶姫命」>
22 穴禾の郡・御方の里・伊和の村( 大神が酒をこの村で醸したもうた。また(伊和) 大神は国作りを終えてから後、「於和」と仰せられた。
<宍粟市一宮町伊和 伊和神社>
23 賀毛の郡(かも)・下鴨の里 大汝命が碓を造って稲を春いた処は碓居谷とよび、箕を置いた処は箕谷とよび、酒屋を造った処は酒屋谷とよぶ。
<下里川流域>
24 賀毛の郡・飯盛嵩 大汝命の御飯をこの嵩で盛った。
<加西市豊倉町の飯盛山>
25 賀毛の郡・端鹿の里(はしか) 昔、神がもろもろの村に菓子(このみ:木の種子)を頒けたが、この村まで来ると足りなくなった。
<東条川流域 東条町天神 一之宮神社「素盞嗚尊」>

 播磨国風土記に伝わる伝承を伊和大神と天日槍命との戦いと伊和大神の国土開拓に分けてまとめてみた。大汝命=伊和大神=葦原志挙乎命=大国主命と考えられるが、少々複雑なようである。平和的な国土開拓と天日槍命との戦いが入り乱れており、異なる時代の出来事が重なっているようである。

 この地域にやってきた人物は最初は、25番より素盞嗚尊であることが分かる。また、10番は子が火明命(饒速日尊)であることから、大汝命は大国主命ではなく、素盞嗚尊を指しているようである。17番、22番、25番は国土統一の終了を意味しており、ここの伊和大神は素盞嗚尊を指しているのではないか。BC5年頃、素盞嗚尊は幼少の火明命(饒速日尊)を伴ってこのあたりを統一したのであろう。

 新羅から天日槍命がこの播磨国に上陸している。ここで、伊和大神と戦いをしている。9番より判断してこの戦いは集団戦だったようである。また、3番、7番は伊和大神が饒速日尊であることを示している。しかし、16番は少彦名命を伴っているので、この大汝命は大国主命であろう。最後に8番で高皇産霊神が大和からやってきて仲裁している。この時の天日槍命は饒速日尊を指していると思われる。

 古事記・日本書紀を中心としてまとめると、以下のようになる。

 其の間阿加留比売は難波の比売詐曾(ひめこそ)神社の祭神と成ってしまう。天日槍は八種の神宝を持参して難波を目指し、一旦播磨の国宍粟(兵庫県宍粟郡)に上陸。噂を聞いた垂仁天皇は使いを出し、何故新羅の王子が日本に来たか問うと、「立派な王が居ると聞き、神宝を持参した」と答えると、其の宍粟周辺の領地を与える約束を受けたが、妻を求める為、宇治川を上り、近江の国<滋賀県>・若狭の国<福井県>から但馬の国<兵庫県>をさ迷ったが思い果たせず、(難波を播磨・但馬と聞き間違えたのか?)出石の住人俣尾(またお)或いは、麻多烏の娘前見津を娶り、天日槍は、製鉄を始めとする大陸の優れた技術と文化を伝えた。出石神社の祭神である。

 この当時はAD220年頃で垂仁天皇の時代ではなく、大和に君臨していたのは開化天皇である。よって、この伝承の垂仁天皇は開化天皇を指していることが分かる。そして、仲裁したのが卑弥呼ではないだろうか。

   
                                ┏成務天皇
           ┏崇神天皇━━垂仁天皇━━━━景行天皇━━┫
孝元天皇━開化天皇━━┫                    ┗日本武尊━━━仲哀天皇━┓
           ┃                                 ┣応神天皇
           ┗日子坐王━━大筒木真若王━━迦邇米雷王━━息長宿禰王━┓     ┃
                                       ┣神功皇后━┛   
新羅王                      ┏多遅摩比多訶━葛城高額媛━┛
脱解━━━天日槍命━━━但馬諸助━━但馬日楢杵━━┫
                         ┗多遅摩毛理(太道間守)
                     

但馬故事記

 第6代孝安天皇53年(AD149癸酉)、新羅王子・天日槍帰化す。
天日槍命は鵜葺草葺不合命の御子・稲飯命五世の孫なり。
孝安天皇61年(AD153辛巳)春2月、天日槍を以って、多遅摩国造と為す。
第7代孝霊天皇38年(AD166戊申)夏6月、天日槍命の子・天諸杉命を以って、多遅摩国造と為す。
孝霊天皇40年(AD167庚戌)秋9月、天諸杉命は天日槍命を出石丘に斎き祀り、且つハ種神宝を納む。
(中略)
第11代垂仁天皇88年(AD292己未)秋7月朔、群臣に勅して曰く、
「朕聞く。昔、新羅王子・天日槍が初めて帰国した時、携えた宝物、いま多遅麻国出石社にあり」と。
朕これを見たい。よろしくこれを奉れ」と。
ハ種神宝は
羽太玉(はふとのたま) 一個
足高玉(あしたかのたま) 一個
鵜鹿々赤石玉(うかがのあかし) 一個
出石刀子(いづしのかたな) 一口
出石桙(杵)(いづしほこ) 一枝
日ノ鏡 一面
熊神籬(くまのひもろぎ) 一具
射狭浅太刀(いささのたち) 一口
を携え、皇都に上る。

 稲飯命は神武天皇の兄であり、神武天皇と同世代である。古代史の復元系図では第9代開化天皇と同世代となるが、記紀の系図では第5代孝昭天皇と同世代となる。但馬故事記では第6代孝安天皇と同世代のようである。しかし、記紀では脱解の子となっているのが但馬故事記では稲飯命の子孫となる。

 新羅王脱解はAD170年生誕で孝元天皇と同世代と考えられる。天日槍命はその子であれば、開化天皇と同世代となる。子孫の神功皇后まで系図はスムーズにつながるが、孝安天皇の時代に天日槍命が帰化したとなれば世代が合わなくなる。但馬故事記の記述は前後の世代が合わないので、記紀の記述が正しいと考える。

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