大田田根子

崇神天皇即位直後の日本書紀記事

 まず、崇神天皇時代初期の日本書紀の記事を検討してみよう。以下は日本書紀の記事の現代語訳である。

 疫病祭祀

 5年 国内に疫病多く、民の死亡するもの、半ば以上に及ぶほどであった。

 6年 百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を持ってして治めようとしても難しい。それで朝夕天神地祇にお祈りした。これより先、天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。そしてその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊鍬入姫に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籠を造った。また、日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、 渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祭りすることができなかった。

 崇神天皇は言った。
「昔、私の皇祖は鴻基(皇位)を開いた。その後は聖業逾高で、王風轉盛だった。思うに、私の世代になって、よく災害がある。おそらく朝に良い政治が行われていないから、天津神・国津神が咎を与えているのではないか。どうにか占いをして、災いを起こす理由を見極めよう」
天皇は神淺茅原(桜井市笠の浅茅原)に行って、八十萬神に占いで問うた。このときに神は倭迹々日百襲?命に憑して言った。
「天皇よ。 どうして国が治まらないことを憂うのか? もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問うた。
「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神か?」
神は答えた。
「私は倭國の域?にいる大物主神という」

 神の語を得て、教えの通りに奉った。しかし、それでも効果がなく、天皇は齋戒沐浴して、宮殿を清め、祈った。
「わたしは、神を敬い奉ったけれど、いまだにことごとく効果がない。どうして、これほどに私の祈りを聞き入れてもらえないのか? 効果が無さ過ぎる。また夢の中で教えていただきたい。神の恩を!」
この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れ、宮殿の入り口に向かって立って、大物主神と名乗った。
「天皇!! また憂いているな。国が治まらないのは、わたしの意思だ!! もし、我が子、大田々根子に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外の国があり、自然と従うだろう

 秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙?と穗積臣の遠祖の大水口宿禰と伊勢麻績君の三人が同じ夢を見て、天皇に報告した。
「昨夜、夢を見ました。 一人の高貴な人がいまして、教えてくれました。
『大田々根子命に大物主を祀る主として市磯長尾市を倭大國魂神を祀る主すれば、必ず天下太平となる』と言いました」
天皇は夢の辞を得て、大変喜んだ。
あまねくく天下に命じて、大田々根子を探すと、すぐに茅渟縣の陶邑(大阪府堺市陶器山)に大田々根子を見つけた。天皇はすぐに自ら神淺茅原に出向いて、諸王卿と八十諸部が集まって、大田々根子に尋ねた。
「お前は、誰の子か?」
大田々根子は答えた。
「父は大物主大神といいます。母は活玉依媛といいます。陶津耳の娘です」
また言った。
「奇日方天日方武茅渟祇の娘です」
天皇は言った。
「わたしは、栄えるだろう」
すぐに物部連の祖先の伊香色雄を神班物者にしようと占うと「吉」と出た。ついでに他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出なかった。

11月13日。伊香色雄に命じて、物部は八十平瓮で神に奉るものを作った。それで大田々根子を大物主大神を祀る主としました。また、長尾市を倭大国魂神を祀る主とした。その後に他の神を祀ろうと占うと「吉」と出た。すぐに別に八十萬群神を祀り、天社・國社・神地・神戸を定めた。 すると疫病が止みはじめた。 国内がようやく鎮まった。五穀が稔って、百姓は賑やかになった。

8年夏4月16日。高橋邑(奈良県天理市櫟本町)の活日を大物主神を奉る酒を掌る人とした。
冬12月20日。天皇は大田々根子に大神を祀らせた。この日、活日が自ら神酒を捧げて、天皇に献上した。それで歌を歌った。

このお酒はわたしの酒ではありません。
倭を作った大物主が醸した神酒です。
いつまでも、いつまでも、栄えますよう

このように歌い、神宮で宴をした。すぐ宴は終わって、諸大夫が歌を歌った。

美味しい酒のある三輪神社の社で
朝が来るまで酒を飲んで、朝が来たら帰ろう。
三輪の社の門から。


それで天皇も歌を歌いました。

美味しい酒のある三輪神社の社で
朝が来るまで酒を飲んで帰りなさいな。
三輪の社の門を押し開いて。


神宮の門を開いて、天皇は帰った。
この大田々根子は今の三輪君などの始祖である。

崇神天皇即位9年春3月15日。崇神天皇の夢に神人が現れて教えてくれた。
「赤盾8枚。赤矛8竿で墨坂神(奈良県宇陀郡蓁原町下井足)に祀れ。また、黒盾8枚、黒矛8竿を大坂神(奈良県北葛城郡香芝町穴虫)に祀れ」
と言った。
4月16日。夢での教えの通りに、墨坂神と大坂神を祀った。

 日本書紀の記事の年代推定

 これらの記事は本当に崇神天皇5年~崇神天皇12年までの記事であろうか。疫病→祭祀→四道将軍派遣→武埴安彦の乱→百襲姫の死→四道将軍派遣→安寧という流れである。

 中国・朝鮮半島の史料、考古学的事実と照合した古代史の復元では、祭祀が強化されたのは220年~230年頃(開化天皇の時代)である。また、百襲姫(卑弥呼)が大物主妻となったのは185年であり、日本書紀では武埴安彦の乱の直後となっているが、古代史の復元では同じ乱でも倭の大乱の直後である。百襲姫が亡くなったのは武埴安彦の乱の直後であるが、魏志倭人伝ではその時狗奴国と戦っていたので、狗奴国との戦いの後に亡くなっていることになり、崇神天皇の初期の記事は年代がずれている可能性があり、日本書紀では倭の大乱後の出来事を、悉く崇神天皇時代に持ってきていると思われる。

 他資料と照合した年代を推定してみよう

大田田根子の系図

饒速日尊━━━事代主命┓┏奇日方天日方━━━飯肩巣見━━━建甕尻━━豊御気主━━建飯賀田須━━━大田田根子┓
           ┣┫                                        ┃
鴨建角身━━━活玉依姫┛┗媛蹈鞴五十鈴媛┓                                ┣━━大御気持━大部主━大友主(三輪氏祖)
                    ┃                                ┃ 
                    ┃                ┏出雲振根命          ┃ 
高皇産霊神┓┏天穂日命━武夷鳥━津狭━━━久志和都命━知理命━━毛呂須命━┫               ┃ 
     ┃┃             ┃                ┗飯入根━━鵜濡淳━━━━美氣媛┛
     ┃┃             ┃
     ┣┫             ┣━━━神八井耳━━━武宇都彦━武速前━━━孝元天皇━━━開化天皇━━━崇神天皇
 日向津姫┛┗鵜茅草葺不合尊━━神武天皇┛

 崇神天皇の時代に大物主神の祭主となった大田田根子は上の系図で明らかなように第9代開化天皇と同世代となる。大田田根子の妻の美氣媛は出雲国造家始祖鵜濡淳の娘である。鵜濡淳の父は飯入根で倭の大乱の時出雲振根に殺害されているので、鵜濡淳は第8代孝元天皇と同世代となる。

 大田田根子が大物主神を祀るに対して出雲国の了承を取るために出雲国造家から妻を娶ったと考えられる。倭の大乱の和平交渉の結果を意識してのものであろう。鵜濡淳は第8代孝元天皇の時代に出雲国造家の始祖になっており、この時代に成人していると思われる。その娘は第9代開化天皇の時代に成人しており、結婚したのは第9代開化天皇の時代と考えられる。この系図から推察すると、大田田根子が大物主神を祀ったのは第9代開化天皇の時代の可能性が高い。

 実際に纏向遺跡で祭祀遺構はAD220~230年頃のものであり、AD220年頃大物主神の祭祀が始まったと考えられる。第9代開化天皇の時代である。

 疫病蔓延

 崇神天皇5年の疫病蔓延はその前となる。2世紀の降水量変化のグラフから、AD200年頃の5年間ほど降水量が激減している。この時が疫病蔓延の可能性が考えられる。人々の生活はかなり苦しかったのではあるまいか。AD200年は孝元天皇29年である。この頃より、纏向遺跡が造られ始められており、時代は会うのであるが、纏向遺跡の完成は220年頃と考えられる。20年ほども継続した疫病も考えにくく、降水量の激減により纏向遺跡の建設を考え、疫病の発生は崇神5年と同じ干支の開化5年(AD216年)頃と考えられる。

 崇神5年、半数の民が病死する程の疫病が発生したので、崇神6年、天照大神(日向津姫)及び倭大国魂大神(饒速日尊)を御殿に祀ったと記録されているが、神を祀る御殿というのは粗末なものとは考えられず、これが、纏向遺跡で発掘された宮殿であろう。開化6年(AD217年)と思われる。ちょうどこの頃宮殿が完成している。

宮殿発見時新聞報道要約

● 柱材はすべて抜き取られ他に転用されていたが、その柱跡から推定して直径約30cm前後の柱が南北方向に4.8m間隔で、また東西方向に3.1m間隔で建てられていた。
● 屋根を支える主柱の間隔が非常に広いため、南北方向の柱の間には床を支える細い束柱(つかばしら)の穴があった。そのため、ここに存在したのは高さ10m前後の掘立柱式高床建物だったと推定された。
● 実際に発掘された建物跡は南北幅が19・2m、東西幅が6・2mだが、後世に柱穴が削られた西側も含め、東西幅は倍の12.4mだったと推定された。この場合、床面積は約238平米となる。
● この大型の建物は、今までに確認されている3棟の建物や柵列と共に、東西方向の同一直線上で南北対称となるよう計画的に配置されていた。しかし、方位はいずれも真北に対して西に5度ほどふれている。
●大型建物跡の東端が方形周溝墓のものと思われるL字形の溝で壊されており、その溝から3世紀中ごろの庄内3式土器(240~270年ころ)が出土した。土器の年代から大型建物は3世紀前半に建てられ、3世紀中頃まで存続したと思われる。

 また、大物主神の言葉に海外の国が従うというものがある。海外とは四国・九州・朝鮮半島を指していると思われるが、この頃大和朝廷と戦っていたのは九州の球磨国と朝鮮半島の新羅国である。球磨国との戦いは開化10年(AD219年)、新羅国との戦いは開化40年(AD234年)まで続いている。大田田根子が祭祀を始めたのはAD234年より前となろう。まさに崇神6年と同じ干支の開化6年(AD217年)に祭祀を始めたと考えられる。

 日本書紀との比較

6年 百姓の流離するもの、或いは反逆するものあり、その勢いは徳を持ってして治めようとしても難しい。それで朝夕天神地祇にお祈りした。これより先、天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りした。そしてその神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神は豊鍬入姫に託し、大和の笠縫邑に祀った。よって堅固な石の神籠を造った。また、日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られた。ところが、 渟名城入姫命は、髪が落ち体が痩せてお祭りすることができなかった。

 この崇神6年の記事は、その前後の年代の出来事を1年にまとめていると考えられる。反逆するものがあったと記録されているが、これは、球磨国の反乱を指しているのではあるまいか、新羅本紀において、AD216年(婆娑王8年)、「西方の百済、南方の伽耶に対する国防強化を図った。加召城(慶尚南道居昌郡加祚面)・馬頭城(慶尚南道居昌郡馬利面)を築いた。」と記録されている。婆娑王即位直後卑弥呼の親征を受け、婆娑王は暫らくおとなしくしていたが、この年より、反撃に転換している。倭の球磨国に反乱を促したのはこの年であろう。おそらく翌AD217年球磨国が大和朝廷に対して反乱をおこしたものと考えられる。

 天照大神・倭大国魂神を御殿内に祀ったのはそれより先の年である。これが、纏向遺跡の宮殿であろう。開化2年(AD215年)に天皇は天照大神を調神社(武蔵)に祭ったり、日御崎神社(出雲)の島上に神殿造営をさせたりしている。これは開化天皇が即位直後、全国に天照大神の祭祀を強化したことを意味しており、御殿内に天照大神を祀ったのはAD215年ではないだろうか。この仮説は考古学的な宮殿の建造時期とほぼ重なっているのである。日本書紀のその後に記事、天照大神を豊鍬入姫に託したのは豊鍬入姫が崇神天皇の皇女であることから崇神天皇の時代で、おそらく崇神6年(AD247年)であろう。

 崇神天皇は言った。
「昔、私の皇祖は鴻基(皇位)を開いた。その後は聖業逾高で、王風轉盛だった。思うに、私の世代になって、よく災害がある。おそらく朝に良い政治が行われていないから、天津神・国津神が咎を与えているのではないか。どうにか占いをして、災いを起こす理由を見極めよう」
天皇は神淺茅原(桜井市笠の浅茅原)に行って、八十萬神に占いで問うた。このときに神は倭迹々日百襲?命に憑して言った。
「天皇よ。 どうして国が治まらないことを憂うのか? もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」
崇神天皇は問うた。
「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神か?」
神は答えた。
「私は倭國の域?にいる大物主神という」

 神の語を得て、教えの通りに奉った。しかし、それでも効果がなく、天皇は齋戒沐浴して、宮殿を清め、祈った。
「わたしは、神を敬い奉ったけれど、いまだにことごとく効果がない。どうして、これほどに私の祈りを聞き入れてもらえないのか? 効果が無さ過ぎる。また夢の中で教えていただきたい。神の恩を!」
この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れ、宮殿の入り口に向かって立って、大物主神と名乗った。
「天皇!! また憂いているな。国が治まらないのは、わたしの意思だ!! もし、我が子、大田々根子に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また
海外の国があり、自然と従うだろう

 日本書紀の記事では崇神天皇が国が治まらないことを嘆いているが、この天皇は開化天皇であろうと思われる。御殿内で祭祀をしたAD217年に球磨国が反乱をおこしたが、AD219年(開化10年)になってもその反乱は続いていた。開化天皇はその状態を嘆いていたのであろう。

 卑弥呼(倭迹々日百襲?命)はこの状態を憂えていたと思われる。自らを神格化することによって国を治めようと考え、宮殿内で祭祀(鬼道)を行うことにより、人々に指示を出し、自らは人前に出なくなったのであろう。このとき、自らの言葉を人々に伝える存在が必要になり、この当時おそらくただ一人の身内である孝霊天皇の最後の皇子であり、AD200年頃備後国南宮神社の地で誕生していた五十狭芹彦を大和に呼び出したと思われる。

 この日本書紀における大物主神の言葉は卑弥呼の言葉である。卑弥呼は人前に出なくなり、男弟である五十狭芹彦を介して神の言葉を伝え、自らを神格化させ、国を混乱させているのは神の意志であることにして混乱の収拾を図ったのであろう。国の混乱が神の意志であるとなれば、人々は神を敬い、混乱の収拾が速くなることを考えての言葉であろう。

 天皇は神を祀ることによる効果がないことを憂えており、大田田根子に大物主神を祀らせたのは祭祀開始よりもだいぶ後のことと思われる。海外の新羅が降伏したのがAD234年であるので、大田田根子の祭祀開始はそれより少し前のAD230年頃ではあるまいか。

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