金官伽耶国建国

 新羅建国

 新羅は当時は倭国領内であった韓国慶州付近の邑長が集まって、この地域の代表者を決めようとして、144年、神武天皇の兄の孫?である赫居世を立てたのが始まりである。赫居世の人望もあり次第に統治領域が広くなり、自治をおこなうようになった国である。147年には大和朝廷がこの国に疑念を抱き、様子を見に来たが赫居世が神武天皇の兄稲飯命の子孫であることを知って安心して引き上げた。

 金官伽耶国(狗邪韓国)建国

 新羅は赫居世の人柄もあり、よくまとまり、次第に強大化してきた。新羅は強大化するにつれ、次第に独立国としてふるまうようになり、大和朝廷はその扱いに苦慮するようになっていった。

 倭の大乱時の孝霊61年(AD178年)、新羅は日本列島の東倭、球磨国や新羅北方の月支国などと諮り、朝廷を攻撃しようと大軍を出雲に差し向けた。幸い嵐が起こって事なきを得たが、何れ大和朝廷の存在を危うくする危険性があったのである。

 この当時朝鮮半島は倭国領ではあったが、新羅以外に有力な支配者がいたわけではなく、日本列島内と同じく、それぞれの地域の自治に任されていた。新羅はそれを利用して、周辺自治体に新羅に所属するように働きかけ、領土拡張を図っているのである。

 これを放置していては、倭国が分裂し、朝鮮半島全域が新羅によって乗っ取られてしまう危機感があった。卑弥呼もこの状態を何とかしたいと考え、朝鮮半島内に新羅に対抗できる国を作ろうとしたのである。

『三国遺事』二巻「駕洛国記」
 後漢の光武帝の建武18(AD42)年の禊浴(みそぎ)の日に、村の北側にある亀旨峯(クジボン)で怪しげな音がしたという。村人200~300人が行くと声は聞こえて姿は見えず、「皇天の命令でこの地の王になったので峯に降りて来る」と言い、天から紫の紐が垂れてきて、その端に紅色の布包みがあった。その中には金色の盆が包まれており、中には黄金の卵が六個入っていた。村人はそれを見て喜び百拝したが、その地の九人の村長の一人が家にもち帰り、床に安置しておいたところ、翌日の朝になると卵は変じて六人の男になっていた、という。
そのうちの一人は、10日もすると身の丈が九尺にもなり、その顔も高貴なものだったので、その土地の王として即位した。そこで、初めて現われたというので諱を「首露」ということとし、国の名を大駕洛、又は大伽倻とよぶことになった。そして、残りの五人も伽倻六国の他のそれぞれの国の王となった

「東国輿地勝覧」では首露王の父は天神夷毗訶、母は正見母主とされている。『三国遺事』の信ぴょう性は低いのであるが、この物語から神聖なる人物が産んだ6人の子たちを伽耶6カ国の王として、国をまとめさせた。王にさせる命令を下した「皇天」なる人物は何者か?これを大和朝廷の天皇と考える。首露王の生誕はAD42年と伝承されているが、金官伽耶国の年代も345年で半年一年暦と中国暦が切り替わっているとすればAD42年はAD193年となる。首露王の寿命が158年と異常に長いが半年一年暦で考えれば79歳となり、あり得ない年齢ではなくなる。

 新羅と同様に、国が安定して存在している状況でなければ生まれた直後の人物が王になることなど考えられない。この時期、大和朝廷の朝鮮半島経営が順調にであったものと思われる。193年は倭の大乱が終わった直後であり、戦乱に懲りた朝廷は地方を安定して治めるには、地方権力者を作る必要があると考えていた。日本列島内では国造を任命したが、朝鮮半島では、王を作ろうとしたのであろう。その成功例が新羅だったのである。

 時の天皇は第8代孝元天皇であるが、実質権力者は卑弥呼であった。卑弥呼の提案で孝元天皇の命により、伽耶国建国が実行されたのではあるまいか。

 孝霊・孝元天皇の血筋につながる6人の皇子に伽耶地域に赴かせ、それぞれの土地の女性と結婚させ、誕生した皇子をそれぞれの国の王として育て、以降その子孫が国を治めるというものだったのではないかと考えられる。

 このようなことは伽耶地方が大和朝廷の支配の元安定した状態にあったからできたことである。その代表が金官加耶国の首露王だったのであろう。このようなわけで、首露王は生まれながらにして国王だったのである。

 この王たちが成長し、現年齢計算で、19歳になったAD211年以降新羅と伽耶の戦いが始まるのである。

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