丹波王国の誕生

 丹波の古代

 律令制以前は但馬、丹後も含んでいた。現在の京都府の中北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)に北部5郡を丹後国として分離し、現在の状況になった。

 丹波国統一関連地図

 丹波地方は飛騨王朝が鉄生産を目的に、BC300年頃、先進地域として認定し、扇谷遺跡・途中ヶ丘遺跡を中心として、鉄生産を推進してきたと推定した地域である。ここで製造された鉄が、日本海ルートの飛騨国立石遺跡・青森県弘前市砂沢遺跡などの水田稲作推進に使われたと解釈している。ところが、この地域がBC200年頃より大きく変化するのである。

弥生時代中期中葉(BC200年頃)

 弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると鉄・玉を製造する遺跡が急増する。弥栄町の奈具岡遺跡、野田川町の寺岡遺跡、加悦町の日吉ヶ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡、桑飼上遺跡などである。奈具岡遺跡では、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっている。この工房では、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていたようである。この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、大和や河内など近畿地方の中心部に比べて、「鉄の量としては桁違いの多さ」である。その鉄製品の量は相当なものだったと考えられる。このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていたようである。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土している。
 加悦町の日吉ヶ丘遺跡に大きな墳丘墓が造られている。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれ、それが多量に使われているのである。そして、墓に接するように環濠集落が存在している。
 この墓は、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代である。吉野ヶ里よりわずかに小さいのであるが、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡の場合は一人のための墓である。当然、王墓と考えられ、古代丹後王国があったという推定が成り立つ。

弥生時代後期(BC30年頃)

 弥生時代後期になると(BC30年頃以降)中期中葉以降繁栄した上記遺跡は姿を消し、代わりに峰山町古殿遺跡、大宮町谷内遺跡、宮津市宮村遺跡などが繁栄する。後期になっても、鉄器、玉の出土は多く、先進文化は継続されていたようである。古墳時代になっても巨大古墳が数多く築造されており、大和政権に組み込まれた後も朝廷にとって重要地域だったようである。丹後半島は、日本海岸にあり、対馬海流がすぐ沖を流れており、朝鮮半島からの直接の流入があったものと考えられる。

 統一の時期

 遺跡の変化を見てみると、大きな変動があったのは弥生時代前期末、中期中葉、後期初頭の3つの時期であることがわかる。このうち、第一の画期は前期末で、中国大陸での戦乱を避けて大陸からの渡来人が流入し、飛騨王朝がそれを利用して鉄生産の先進地域として開発したためと考えられる。この人たちが製鉄技術を作られた鉄製品は日本海ルートで各地に運ばれ稲作推進に使われたものであろう。
 第二の画期が中期中葉である。この時期はBC200年頃と推定されている。徐福が日本列島に上陸した時期とほぼ重なるのである。丹後半島新井崎に徐福が上陸したとの伝承地がある。また、豊受大神の伝承との関連も考えられる。この画期については後に検討してみよう。
 第三の画期が後期初頭である。この画期こそ素戔嗚尊・饒速日尊の統一事業とかかわっていると推定される。
まずはこの地域の神社伝承をまとめてみよう。

 統一関連伝承

丹波国 一宮 出雲大神宮 京都府亀岡市 大國主尊 三穗津姫尊 少那姫尊 「奈良朝のはじめ元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。すなわち今の出雲大社これなり。」と記す。
 出雲神社などと称へ奉り建国の所由によって元出雲といわれる。従って縁結びの神ということも当宮を指すのである。兵乱のない島根半島の大社は国譲りました大国主大神御一柱を祀る慰霊の社にすぎない。
 三穂津姫命は天祖高産霊尊の御女で大国主命国譲りの砌天祖の命により后神となり給う 天地結びの神即ち縁結びの由緒亦ここに発するもので俗称元出雲の所以である。
 日本建国は国譲りの神事に拠るところであるが丹波の国は恰も出雲大和両勢力の接点にあり此処に国譲りの所由に依り祀られたのが当宮である。
丹後国 一宮 籠神社 京都府宮津市 彦火明命 不詳 『丹後国式社證実考』などでは伊弉諾尊としている。これは、神代の昔、天にあった伊弉諾大神が、地上の籠宮の磐座 に祭られた女神伊弉冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。 伊弉諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。
 神代と呼ばれる遠くはるかな昔から奥宮眞名井原に豊受大神を祭って来たが、 その縁故によって人皇十代崇神天皇の御代に天照皇大神が大和国笠縫邑から移った後、之を與謝宮(吉佐宮)として一緒に祭った。 その後天照皇大神は11代垂仁天皇の時に、また豊受大神は21代雄略天皇の時にそれぞれ伊勢に移った。 それに依って当社は元伊勢と云われている。両大神が伊勢に移った後、天孫彦火明命を主祭神とし、社名を籠宮と改め、元伊勢の社として、 又丹後国の一之宮として崇敬を集めて来ました。
二宮 大宮売神社 京都府京丹後市大宮町周枳1020 大宮売神・若宮売神 不詳 古代天皇家の祭祀を司った人々の生活があり、稲作民による祭祀呪術的な権力を持つ豪族の国(大丹波)の祭政の中心の地であったといわれる。当宮の境内は、神社としての社ができる以前に、既に古代の政(まつりごと)が、おこなわれていた地である。
大虫神社 京都府与謝郡加悦町温江1821 大己貴命 昔、大国主命が沼河姫と加悦に住んでいたころ、槌鬼と言う病いが姫にとりつき、たちまち病いにかかられて大国主命はあまりになげかれたので少彦名命七色に息をはいて、この槌鬼の病いを追いだされたので姫の病いを癒されたがその息がかかったため人や植物が病にかかって苦しむようになり、少彦名命は「私は小虫と名のって貴男の体内に入り病のもととなる虫を除きましょう。」と言われ、大国主命は「私は人の体の外の病を治そう」と言われ、鏡を二面つくられ一つを少彦名命が一つは大国主命が持たれた。ここで大虫、小虫と名のられたと言うことである。
比沼麻奈爲神社 京都府京丹後市峰山町久次字宮ノ谷661  豐受大神、瓊瓊杵尊、天兒屋根命、天太玉命 遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。
豊受大神は、伊勢外宮の御祭神で、元は此の社に御鎮座していた。即ち此の社は、伊勢の豊受大神宮(外宮)の一番元の社である。
熊野新宮神社 京都府京丹後市久美浜町大字河梨字大谷 事解男命、速玉男命 熊野新宮大神の休憩された大石があり、人馬の足跡なりと云う「馬蹄岩」がある。

 第二の画期について

 まず、この第二の画期にかかわっていると思われる伝承を挙げてみよう。

徐福上陸伝承

 丹後半島東岸より東を見ると、海上に浮かんでいるように見えるのが常世島とも呼ばれている冠島である。徐福の一行はこの島で仙薬を見つけ,丹後半島へ上陸したと言われている。徐福の求めた不老不死の仙薬とは,この島に生える黒茎の蓬や九節の菖蒲と言われている。京都府与謝郡伊根町新井の海岸には「秦の始皇帝の侍臣,徐福着岸の趾」の碑が立つ場所がある。大きな岩で囲まれた洞穴のようになった場所で,現在の海水面からはやや高い位置にある。その上に新井崎神社があり、事代主命、宇賀之御魂命と徐福が祭神として祀られている。徐福は,医薬・天文・占い・漁業・農耕など多くの知識や技術などを伝えた産土神として祀られ,今も土地の人たちが大切にしている。徐福は「仙薬が少なくて故国の都に帰ることができない」と言って,ここに住みついたと伝えられている。新井崎神社を童男童女宮とも呼ぶが、これは、徐福に同行した3000人の童男童女にちなんだ名だと思われる。

羽衣伝承

<丹後国風土記>
 昔、磯砂山の山麓で八人の美しい天女が水浴びをしていました。その様子をそばで見ていた老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまったため、 その天女は天に還ることができなくなってしまい、やむなく老夫婦の養女として暮らすことになりました。
天女は稲作・養蚕・酒造の技術を伝え、老夫婦はすっかり裕福になりましたが、ある日老夫婦は「汝は我が児に非ず」とし て天女を追い出してしまいました。悲しみに暮れた天女(豊宇気比売)は、奈具の村に行き着き・・・・・・
京丹後市峰山町に伝わる羽衣伝説は、丹後風土記にも登場する日本最古のもので、奈具神社には豊宇気比売がお祀りされています

<天女の家、安達家に伝わる天女伝説>
磯砂山(比治山)で狩猟をしていた猟師の三右衛門(さんねも)が、女池で水浴をしていた八人の天女のうち、一人の天女の羽衣を盗んで家に持ち帰った。羽衣をなくした天女は、天に帰れず、とうとう三右衛門の嫁になった。
 そして、三人の子が生まれた。天女は農耕や養蚕、機織、などを広め、その家は豊かになった。
ある日、天女は、子供に「お父さんは、毎日どこを拝んでいるのか?」と聞いた、 子は「大黒柱を、拝んでいる」と答えた。
そこで、大黒柱を探すと、穴が開いているところに、羽衣が隠されていた。天女はその羽衣を身につけ天に帰ってしまった。
その後、長女は、「乙女神社」に、次女は、「多久神社」に、三女は「奈具神社」にそれぞれ氏神として、また農業の神として祭られた。

豊受大神

<比沼麻奈爲神社>
 比沼麻奈爲神社は豊受大神最初の降臨地として伝承されている。
① 遠き神代の昔、此の真名井原の地にて田畑を耕し、米・麦・豆等の五穀を作り、又、蚕を飼って、衣食の糧とする技を始めた豊受大神を主神として、古代より祀っている。
② 久次・・・太古豊受大神が御現身の折、五穀を作り蚕を飼って糸を取るなど、種々の農業技術を始められた尊い土地である故、久次比(奇霊クシヒ)の里と呼ばれていた。
③ 久次嶽(眞名井岳)・・・豊受大神が、稲作りなどの農業をこの山麓ではじめられた"奇霊岳"であり、九州の天忍穂井の眞名井の霊水を移された清水の湧き出る霊峰であるので、眞名井岳とも言われている。この山頂近くに「大神杜」あり、古、大神鎮座の地と言い、千古不伐、老樹鬱蒼とした中に巨岩累々として、古より女人禁制の仙境であります。この森の近くに「降神岩」、中腹に眞名井の水を移されたと伝えられる「穂井の段」、大神が五穀や種々の御饌物を天神に奉られた机代の石と伝えられる「應石(おおみあえいし)」があります。
④ 清水戸(稲種漬井)・・・豊受大神が稲作りをせられるとき、始めて稲種を浸された霊井で、常に少し白濁しており旱魃にも涸れることがないと言われています。
⑤ 月輪田(三ヶ月田)・・・豊受大神が始めて稲を植えられた霊蹟。
                            <比沼麻奈爲神社御由緒書より>
<籠神社伝承>
彦火明命が丹後の地に降臨され、眞名井神社に元初の神、豊受大神をお祀りされた。天ノヨサヅラ(ひょうたん)に天の眞名井の御神水を入れてお供えされたので、この宮を吉佐(ヨサ)宮という。

 豊受大神とは誰か

 籠神社伝承によると、「豊受大神は亦名を天御中主神・国常立尊、その御顕現の神を倉稲魂命(稲荷大神)と申す。」と伝わっており、国の大元の神と言われている。饒速日尊も新技術を持って地方を統一しているが、豊受大神の技術内容(稲作)の方が明らかに古い。豊受大神には饒速日尊の姿があるのではあるが、ここに登場する豊受大神は饒速日尊ではないように思える。この丹後の地に上陸した天火明命は豊受大神を始原の神として祭祀している。天火明命(饒速日尊)が自分自身を祭祀するのもおかしな話で、豊受大神と饒速日尊は別人となる。そして、饒速日尊が丹後にやってきたのは豊受大神が活躍した時代よりだいぶ後のことであろう。そうでなければ、豊受大神を始原の神として祭祀することはありえないのである。
 上にあげた伝説はこの土地の人々に各種技術を伝えた人物の伝承であり、内容はかなり似通っている。徐福=天女=豊受大神ということは考えられないであろうか。

 徐福はBC209年佐賀平野に上陸し、しばらく滞在後、太平洋岸を山梨県まで移動し、そこで亡くなっている。京都府には直接本人は来ていないのではないかと推定している。徐福自信と行動を共にしていた重要人物(氏名不詳=豊受大神)の一団がこの丹後にやってきたものと思われる。この人物の行動が徐福伝説、羽衣伝説、豊受大神の伝説のもとになっていると思われる。徐福一行は当時の中国における最高技術を持って渡来しているのである。日本列島に当時流れ込んでいた技術よりもはるかに高度なものだったに違いない。丹後半島の上陸した一行(豊受大神一行)は、その当時丹後地方にあった技術をさらに高度化することを現地の人々に伝えたものであろう。最高技術を持っていた豊受大神一行は、最高技術を伝えることによりこの地方をまとめ上げ、その結果丹後半島の玉造遺跡が急増したものと考えられる。豊受大神一行はここに王国を築き、日本列島の他地域に先駆けて王墓として方形貼石墓が存在することになったのであろう。

 丹後王国がまとまった結果、技術を守るための大規模高地性環濠集落は必要なくなり、扇谷遺跡は衰退したものであろう。そして、豊受大神は丹後で神としてあがめられるようになったものと推定する。

 豊受大神は男神であろうか、女神であろうか?一般的には女神として扱われているが、伊勢神宮の外宮の本殿千木、比沼麻奈爲神社本殿千木は共に外削ぎである。千木は例外もあるが、祭られている神が男神なら外削、女神なら内削と言われている。豊受大神を祭った神社が外削ぎであるということは本来の豊受大神は男神であったことを意味しているのではないだろうか、古代において、女性が単独で、旅をすることは考えにくく、外部からやってきた豊受大神は男神でなければならない。ただ、豊受大神は一人の人間を意味しているのではなく、新井崎に上陸した一団を表しているともいえる。そうであれば、男神とともにやってきた女神が現地の人と結婚し、直接の技術指導を行ったと考えることもでき、羽衣伝承のようなことが起こったとも考えられる。

 豊受大神の御陵と思われるものが出雲大神宮の背後の山(御陰山)である。ここは現在なお禁足地とされている。豊受大神の御陵が丹後半島から離れた地にあるということは、このあたりまで、丹波国として統一していたことを意味している。

飛騨王朝とのかかわり 

 日本列島内の徐福上陸伝承地は、その多くが太平洋岸である。日本海側の上陸伝承地は、この丹波以外に秋田県男鹿半島と青森県小泊にしかない。ただ、富山県の海岸沿いの村では徐福が水産業の守り神とされているそうであり、日本海ルートの移動もしていると思われる。

 丹後半島は当時の飛騨王朝にとって先進地域であり、稲作推進をするために鉄生産を増大させる必要があった。そのために、先進技術を持った徐福の上陸は飛騨王朝にとってはまたとない機会だったはずである。徐福が飛騨にやってきたという伝承は全く存在しない。飛騨王朝の方から徐福に会いに行ったと考えられる。

 日本海ルートの上陸伝承地がほとんどない中、丹後半島にあることから、縄文連絡網によって徐福一行が佐賀平野に上陸したという情報を聞いた飛騨王朝はマレビトとともに使者を派遣し、徐福一行の中の鉄生産技術者を含む一団を丹後半島に派遣することを依頼したと推定する。徐福の方も縄文連絡網を持っている飛騨王朝からの情報は貴重な情報となるはずで、徐福は、その情報を得て4000人もの上陸団の移動先を決めたと思われる。その中の一団が丹後半島に派遣され、そのリーダーが豊受大神と呼ばれるようになった人物ではあるまいか。

 豊受大神は丹後半島に上陸すると、現地の人々に溶け込み、鉄器生産技術を伝授するとともに、それを利用して農地開発をはじめとする農業技術を革新させたと思われる。

 

 トップへ  目次へ 
出雲王朝誕生
関連 秦徐福到来
北九州統一
高皇産霊神の正体