宗像三女神

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 AD37年頃、大己貴命は伊予国大洲で協力者少彦名命を失った。悲しみに暮れているところに大物主命(饒速日尊)がやってきた。

 大物主命と大己貴命との関係 

 『古事記』によれば、大己貴神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大己貴神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大己貴神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大己貴神の別名としており、大神神社の由緒では、大己貴神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。しかし、前述したとおりこの2神は別人である。大物主神は饒速日尊である。

 大和に乗り込んで近畿地方を統一していた饒速日尊にとっても少彦名命の持っている先進技術は魅力的なものであったに違いない。大己貴命と少彦名命が播磨国にいる時(AD33年頃)、饒速日尊は三輪山周辺まで統一していた。このとき、饒速日尊はこの二人を三輪山周辺まで呼んだのではないだろうか。大神神社には主祭神は大物主命であるが配祀としてこの二人が祀られている。饒速日尊の参謀として活躍していた足が悪かった久延彦命の提案であろう。その関係で少彦名命が亡くなって途方に暮れている大己貴命を勇気づけたのが饒速日尊(大物主神)ではないだろうか。三輪山山麓にいた饒速日尊は大洲で少彦名命が亡くなったとの情報を聞き、大己貴を勇気づけるために大洲に赴いたのであろう。この時が上述の古事記の記述と思われる。大己貴命は倭国王であり、大物主命はヒノモト国王である。共に素盞嗚尊から託された日本列島統一の使命を持っているわけである。共に協力し合っていたであろう。

 北九州訪問

英彦山 福岡県添田町 、大己貴命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大己貴命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになった
淡島神社 北九州市門司区奥田4-9-5 天照大神の女で住吉大神の后になられた「あはしま」というお方が婦人病に罹られ海に流され紀州加太に漂い着きそこに祀られた。
六嶽神社 鞍手郡鞍手町室木 宗像三女神は最初に六ヶ岳に降臨し、孝霊天皇のとき宗像三所に遷幸され宗像大神となった。その後、成務天皇七年室木里長長田彦が六ヶ岳崎戸山に神籬(ひもろぎ)を営んだのが当社の始まりであると伝えられている。
神興神社 福津市津丸 六ケ岳に降臨した宗像三女神が、室木の六嶽神社に着いた後、宗像三所に遷幸され宗像大神となる前に一時留まられた地とされている。
西海道風土記逸文 西海道風土記に云く、宗像の大神、天より降りまして、崎門山に居ましし時、青?の玉を以ちて沖宮(おきつみや)の表に置き、八尺?の紫玉を以ちて中宮の表に置き、八咫の鏡を以ちて邊宮の表に置き、此の三つの表を以ちて、神體の形と成して、三つの宮に納め置きたまひて、?て隱りましき。因りて身形の郡と曰ひき。
宗像大菩薩御縁起 素盞嗚尊尊の十塚剣が本体、剣の姿で皇敵の蛇を降伏せしめ、神体の時は三韓を征伐した
宗像大社 住吉は子で宇佐は孫

 この直後と思われる大己貴命の行動が添田町の大己貴伝承である。宇佐からこの当時15歳程になった宗像三女神市杵島姫を連れ出し、添田町を開拓し、三女神を宗像へ導いた。この行動から饒速日尊の大己貴命に対するアドバイスを推定してみよう。

 朝鮮半島の先進技術の重要性を少彦名命から再認識させられた饒速日尊は先進技術の導入を最優先する必要性を感じてい たに違いない。猿田彦命(住吉大神)が北九州の海上交易の実権を確保している。

 ところが、猿田彦命は饒速日尊の長子で、AD35年頃と思われるこの当時30歳程になっていたであろう。しかし、 この時まで妻の伝承がないのである。独身だったと思われる。饒速日尊もそれを気にしており、早く妻を持ってほしい と思っていたであろう。猿田彦命は倭国の海上交易の安定確保のための拠点作りをしていた。猿田彦命は九州系の人物とのつながりが薄く、妻となる人物は北九州地方の情勢に明るい九州系の人物が最適であった。そこで、宇佐にいる素盞嗚尊と日向津姫との間にできた娘市杵島姫を妻にしてはどうかと考えた。宗像三女神は異名同神であり、神名を市杵島姫として おく。宗像三女神と言えば海上交通路の神である。住吉大神とその性格はよく似ているのである。

 饒速日尊は大己貴命に宇佐から市杵島姫を連れ出し、宗像を拠点としている猿田彦に会わせて、結婚させてほしいと頼んだ。饒速日尊は大己貴命に、素盞嗚尊の死によって中断された九州地方の開拓を完成させるため、北九州の残りの地域と日向国への技術供与をアドバイスしたと思われる。

 大己貴命は大洲を出発し、豊予海峡を渡り、宇佐に着いた。そこで、高皇産霊神と出会った。高皇産霊神は市杵島姫だけでなく弟の天忍穂耳命も連れて行くように要求した。行橋から今川を遡り、 英彦山に登って周辺地理を把握した。英彦山川を下り、六ヶ岳に登り、道筋を確認した後、山口川を遡り、見返峠を抜けて福津に着いた。そこで一時滞在後宗像に到達した。

 宗像で猿田彦と市杵島姫は出会い、二人は結婚した。大己貴命は市杵島姫を宗像に送った後、添田に引き返してこの地方の開発を天忍穂耳命と共に行った。

 市杵島姫の移動経路の推定

 鎮西彦山縁起
「この三女神は日神の勅を奉じて宇佐嶋に降りられ、その後、この彦山に移る。大己貴神は田心姫命・瑞津姫命を娶り妃となし、彦山の北嶺に鎮座し、北山地主と称した。市杵嶋姫命は彦山の中腹に鎮座し、天忍穂耳尊の霊が一羽の鷹となって東より飛来し、峰に止まった。(中略)大己貴命は北嶽を忍穂耳尊に献上し、自らは田心・瑞津の二妃を引き連れて、山腹に降り、この山を彦山と名付けた。(中略)、その後、三女神は宗像宮に移り、大己貴神は許斐山に遷った。」

 鳥尾峠の伝承
 「三女神は葦原中國之宇佐嶋に天降られ、海北道中へ向かう途中、道に迷われ烏に導かれて、豊前と筑前の境の山に立ち寄られました。その場所を鳥尾という。三女神は、山頂の『方丈の瑞石』に日神を思われて天照大神を祀られました。それでこの山は日思山と呼ばれるようになった。」

「宗像社縁起」
 「宗像三女神は、初め、室貴(室木、鞍手郡鞍手町室木)の六ヶ嶽に御着になり、その後、此の地・津丸神輿村に著き給ふ、この村において初めて天神威を輝かせらる。その後三所の霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり」と。

 これらの伝承から、市杵島姫の移動経路が浮かび上がってくる。

 宇佐→行橋→添田(英彦山)→鳥尾峠→六ヶ岳→福津市(神輿神社)→宗像
である。添田町の伝承にある通り、その経路上の人々に生活上のアドバイスなどをすることによって、人々から敬われていたと思われる。

 市杵島姫はこの経路によって宇佐から宗像まで移動したと考えられる。

忍穂耳命

 忍穂耳命は正哉勝々速日天之忍穂耳命と呼ばれ、天照大神(日向津姫)の長男である。AD22年頃、宇佐の地で、素盞嗚尊と日向津姫との間に生まれた。広島県の斎島神社に正哉勝々速日天之忍穂耳命が主祭神として祀られており、そこには「天照大神の御長男で養子の神」と記録されている。忍穂耳命は誰かの養子になったようである。

 忍穂耳は後に高皇産霊神の娘である万幡豊秋津姫(ヨロズハタトヨアキツヒメ)と結婚していることから、高皇産霊神の養子になったと考えられるのである。

 AD25年頃出雲の素盞嗚尊の命により、日向津姫は南九州の未統一地域の統一のために高千穂に移動した。其の時3歳程になった忍穂耳には将来北九州地方の統治者にする予定のために、北九州の豪族高皇産霊神に其の養育を任せることにした。宇佐の地において高皇産霊神の養育の元で成人した忍穂耳は、AD35年頃、高皇産霊神の娘である万幡豊秋津姫(ヨロズハタトヨアキツヒメ)を娶った。

添田町HP
、大己貴命が、宗像三神をつれて出雲の国から英彦山北岳にやって来た。頂上から四方を見渡すと、土地は大変こえて農業をするのに適している。早速、作業にかかり馬把を作って原野をひらき田畑にし、山の南から流れ出る水が落ち合っている所の水を引いて田にそそいだ。二つの川が合流する所を二又といい、その周辺を落合といった。大己貴命は更に田を広げたので、その下流を増田(桝田)といい、更に下流を副田(添田)といい、この川の流域は更に開けていき、田川と呼ぶようになったという。
 ところがその後、天忍骨尊が英彦山に天降って来たので、大己貴命は北岳を天忍骨尊に譲った。天忍骨尊は、八角の三尺六寸の水晶石の上に天降って鎮座し、尊が天照大神の御子であるので、この山を「日子の山」から後に、「彦山」と呼ぶようになった。

 忍穂耳は宇佐から今川に沿って遡り赤村にたどり着いた。この赤村には倭国に加盟していない小国があったようである。岩石山を挟んで反対側にある彦山川一帯は大己貴命が宗像三女神と共に開拓しており、発展していたが、この小国はそれを邪魔していたようである。忍穂耳はこの小国を倭国に加盟させた。岩石山は吾勝山・赤神山とも呼ばれており、その昔忍穂耳命が山頂に祀られていたそうである。この山は忍穂耳命の勝利の神跡と云われている。忍穂耳がこの小国を加盟させる時ここを統治していた豪族と戦いがあり、其の首領をこの山に追い込んで打ち取ったものであろう。忍穂耳はこの小国を開拓するためにしばらくここに滞在していたのであろう。そのためにこの周辺を吾勝野と呼ぶようになった。

 宮跡は不明であるが、岩石山山頂が忍穂耳の聖地のようなので、御陵が岩石山山頂で、宮跡はこの山の麓(我鹿八幡神社の周辺)にあったのではあるまいか。忍穂耳は岩石山山頂に何回も足を運び国見をしたのであろう。しだいに其の周辺の国も巡回するようになり、より遠くの地域までを見渡すために英彦山山頂でも国見をしたのであろう。

 田川市に香春神社がある。その昔は九州でも有数の大社であったようで、歴史上重要な意味が込められているようである。この神社にも忍穂耳命が忍骨命として祀られている。

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 『香春神社』は延喜式神名帳(927成立)に、
 「豊前国田川郡三座 辛国息長大姫大目(カラクニ オキナガ オオヒメ オオメ)命神社(以下「息長比咩」という)
               忍骨(オシホ)命神社
               豊比咩(トヨヒメ)命神社」
とある式内社で、今、香春一の峰南麓に鎮座し、
 『古宮八幡宮』(元宮八幡ともいう。式内社ではない)
は三の峰麓に鎮座するが、この両社に係わって幾つかの縁起・伝承が残っている。
① 香春神社縁起(成立年代不明)
 「元明天皇・和銅2年(709)第一岳麓に社殿建立。三社の神を併せ祀り奉り『新宮』という」
 なお、「息長大姫尊は神代に唐国経営に渡らせ給い、崇神天皇の御宇、本郷に帰り給い第一岳に鎮まり給う。忍骨命は天津日大御神の御子で、荒魂は南山に和魂は第二岳に鎮まり給う。豊比咩命は第三岳に鎮まり給う。三神3峰に鎮座し“香春三所大明神”と崇め奉る」
② 続日本後記・承和4年(837)
 「太宰府曰く、豊前国田河郡香春神は辛国息長火姫大日命、忍骨命、豊比咩命の是三社である。元々この山は石山であって草木がなかったが、延暦22年(803)、最澄が入唐するにあたってこの山に登り、渡海の平安を願って麓に寺を建てて祈祷したところ、石山に草木が繁茂するという神験があった。水旱疾疫の災いがある毎に郡司百姓が祈祷し、官社に列することを望んだので、之を許した」
③ 香春神社解文(1287成立)
 「日置絢子が採銅所内にある阿曽隈を崇拝し奉る。降って元明天皇御宇・和銅2年、『新宮』に勧請し奉る。是香春也。本新両社と号す」
④ 三代実録・貞観7年(864)
 「豊前国従五位下辛国息長比咩神・忍骨神に従四位上を叙す」
⑤ 香春神社古縁起(太宰管内志所載)
 「第一殿は大目命、第二殿は忍骨命、第三殿は空殿なり」
 第三殿空殿の理由として、「第三殿は豊比咩命の御殿だが、豊比咩命は祭の時のみ新宮に留まり、祭が終わると採銅所に帰られるから“空殿”という」
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 香春神社は時代が異なる神が祀られているが、その中で最も古いのが忍骨命である。古代において忍穂耳がこの周辺を統治していたためにここに祀られたものであろう。英彦山神宮に天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されている。また、瓊瓊杵の国を統一するのに助力した」と記録されている。此の香春神社周辺は古代からの銅の産出地である。このことより、忍穂耳命はここで、銅の産出をしたと思われ、後に朝鮮半島から来た渡来人が本格的に銅の産出をしたものであろう。この地は饒速日尊がAD5年頃最初にやってきて倭国に加盟させ、大己貴がAD38年頃やってきて農地開発を行い、AD40年頃忍穂耳命がやってきて統治していたと思われる。

 忍穂耳命はほかにも福岡市の鷲尾愛宕神社、小郡市の天忍穂耳神社などで主祭神として祀られており、この周辺も訪問しているようである。また、後の時代神武天皇が帝王山山頂で祭祀したのは忍穂耳命であり、馬見山では関連の深い高皇産霊神を祀っている。忍穂耳命関連伝承はそのほとんどが失われているが、このことから判断して田川郡から嘉麻市一帯を統治していたのであろう。出雲の国譲りの時にこの地域を瓊々杵尊が引き継いだために「瓊瓊杵の国を統一するのに助力したと」英彦山神宮に伝えられることになったのであろう。

 忍穂耳命は出雲国譲りが起こる直前AD45年頃、急死したものと考えている。そのために弟である瓊々杵尊が急遽北九州へ来ることになったのであろう。

 北九州地方は海外との交易の要になる地域であるために、古代史上の主要人物の出入りが非常に激しく、その実態を解明するには非常に難しい地域である。

       神皇産霊神━━岐佐貝姫┓
                  ┃
       神大市姫┓      ┣━━━猿田彦━┓
           ┣━━饒速日尊┛       ┃
           ┃              ┣
       素盞嗚尊┻━━━━━━┓ ┏━市杵島姫┛
                  ┃ ┃
呉太白・・・ 伊弉諾尊┓      ┣━╋━天忍穂耳尊━┓
           ┣━━日向津姫┛ ┃       ┃
       伊弉冉尊┛        ┗━天穂日命  ┣
                            ┃
             高皇産霊神━━━栲幡千千姫命━┛

 天忍穂耳命の生涯

 年齢
(頃)
西暦
 (頃)
事象 
 0 22  ・大分県安心院の地で素盞嗚尊・日向津姫の長男として誕生 
 3 25 ・饒速日尊天孫降臨、素盞嗚尊出雲帰還 
 8 30 ・素盞嗚尊出雲で死去、高皇産霊神及び日向津姫は西都に移動。
・天忍穂耳尊は姉の市杵島姫、弟の天穂日命と共に、宇佐に帰還した天三降命に預けられ、宇佐で生活。 
13 35 ・高皇産霊神より、土佐国開拓を命じられる。土佐国赴任。
・ヒノモト饒速日尊の訪問を受け、ヒノモト倭国の国境設定を行う。
18 40 ・土佐国より、宇佐に帰還 
・高皇産霊神の娘万幡豊秋津姫と結婚
・吾勝野の開発に従事
23 45  ・吾勝野で急死。岩石山?に葬られる。 

 

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