天忍穂耳尊土佐国開拓

 土佐国統一関連地図

 土佐の忍穂耳伝承

 高知県に天忍穂耳尊が活躍していたと思われる伝承が存在している。

天忍穂別神社 香美郡香我美町字山川1024,1025 主祭神 天忍穂別神(天忍穂耳命)配祀 饒速日尊
境内案内板より
 昔天照大神のお孫様で饒速日命という神様が、石舟に乗り大空を天かり給い、山川のスミガサコの山の峰にお着きになりました。
 饒速日命は、まず、河内の国のある山にお降りになり、それから大和の国の桃尾山の麓におとどまりになって、やがて父神の天忍穂耳尊を慕って、土佐の国へお着きになりました。土佐へ初めてお降りになったのは、物部川下流の上岡山(野市)で、それから富家村に入られ西川村・長谷の小村・峠の船戸・末延の水船・山川の舟谷を経て、今のスミガサコのお社にお着きになったといいます。
 舞川の地石は、この神様がお休みになった時舞楽をなされた跡で、長谷の小村には烏帽子をかけられたという烏帽子岩があり、今のお社の南の谷はお冠を取られた所でカットリといいます。北の谷は杖谷といい、命がホコを置かれた所。その側の首珠が佐古は、お首飾を置かれた所といわれます。
 饒速日命がお乗りになった石舟は、境内の裏手にあり、巨大な自然石の舟型をしております。又付近には、船乗り達が献納した小さな石舟がどっさり置かれています。この小さな多くさんの石舟たちが物語る様に、航海の安全を守る舟神様であると共に疱瘡様の神様としても知られております。

 この伝承は天忍穂耳尊の直接の伝承ではないが、天忍穂耳尊が土佐国にいたことを示している。大和国桃尾山は別名、鳥見山、大国見山と称し 石上神宮「鎮魂祈祷祝詞」の中で『天祖御祖の大語を稟給ひて、饒速日命天磐船に乗りて河内國河上哮峯に天降坐て大和國鳥見の山麓白庭の高庭に遷坐せて鎮齋給ひ石上大神と号け称奉る』と記されている。饒速日尊が大和の三輪地方を統一したのがAD32年頃でAD40年頃には東日本統一に出発している。饒速日尊がこの土佐の地を訪れたのはこの間の期間と推定される。

 天忍穂耳尊はAD22年頃安心院の地で誕生し、AD45年頃の出雲国譲りの直前に急死している。添田町の伝承と照合すると、土佐国を統治していた時期の方が早いと思われる。少彦名命が亡くなったのがAD35年頃、その直後大己貴命が添田町の開拓に赴いている。大己貴命が急死したのはAD44年頃と思われるので、大己貴命が天忍穂耳尊が添田町で大己貴命から統治権を引き継いだのはAD40年頃であろう。

 饒速日尊土佐国訪問の目的

 天忍穂耳尊が土佐国を統治し始めたのはAD36年頃と推定する。天忍穂耳尊がAD40年頃までの4年間ほど土佐国にいたと思われる。この間に饒速日尊が大和から訪問しているのである。 

高知県内で饒速日尊を祀っている神社(平成祭データより)

天忍穂別神社 香美郡香我美町字山川1024,1025 《主》天忍穂別神,《配》饒速日尊
河内神社 吾川郡伊野町槙641 《主》饒速日命,《配》加藤之神,素盞嗚命
延清神社 香美郡香我美町中西川2913 《主》天忍穂別神,《配》饒速日神
八所河内神社 吾川郡伊野町小野1716番地 《主》饒速日命
御林神社 安芸郡芸西村馬ノ上茶畑427 《主》天忍穂別命,饒速日命

天忍穂別神社の伝承よりその経路を推定すると、

 物部川下流の上岡山(野市)→富家村→西川村→長谷の小村→峠の船戸→末延の水船→山川の舟谷→スミガサコのお社

 この経路は高知市・香南市・香美市・芸西村・物部村を転々としており、一つの経路に沿っての移動ではない。

 天忍穂耳尊が主祭神として祭られている神社の一覧(平成祭データより)

 

神社名 鎮座地 祭神
天忍穂別神社 香美郡香我美町字山川1024,1025 《主》天忍穂別神,《配》饒速日尊
王子神社 吾川郡伊野町大内2252番地イ.ロ 《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳命
王子神社 吾川郡伊野町八田331番地 《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳命
奥合神社 高岡郡仁淀村森3083番地 《主》正哉吾勝尊,勝速日天忍穂耳命
御市川若一大王子宮 香美郡香北町五百蔵1739 《主》天忍穂耳命
葛原神社 高岡郡日高村下分3587番地 《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
若一王子宮 香美郡土佐山田町林田860 《主》天忍穂耳命
若一王子宮 香美郡香北町美良布下野尻254 《主》天忍穂耳神
若一王子宮 土佐市高岡出間1878番地 《主》天忍穂耳命
延清神社 香美郡香我美町中西川2913 《主》天忍穂別神,《配》饒速日神
八王子宮 香美郡夜須町字西ノ岡417 《主》正哉吾勝勝速日天忍穂耳命,天之菩卑能命,天津日子根命,活津日子根命,熊野久須毘命,多岐理姫命,市杵島姫命,湍津姫命
八王子宮 吾川郡春野町弘岡下1815番地 《主》天忍穂耳命,熊野f樟日命,天津彦根命,湍津姫命,天穂日命,思姫命,活津彦根命,市杵姫命
八所河内神社 吾川郡池川町土居57番地 《主》湍津姫神,田心姫神,市杵島姫神,天穂日神,天津彦根神,天忍穂耳神,活津彦根神,熊野大隅神
八所川内神社 吾川郡池川町川内谷南中山5番地 《主》湍津姫神,田心姫神,市杵島姫神,天穂日神,天津彦根神,熊野大隅神,天忍穂耳神,活津彦根神
御林神社 安芸郡芸西村馬ノ上茶畑427 《主》天忍穂別命,饒速日命
六社聖神社 長岡郡大豊町日浦104 《主》天照大神,素盞嗚尊,天忍穂根命,彦火瓊瓊杵命,彦火火出見命,鵜草葺不合命

 これらの神社は物部川流域と仁淀川流域に集中している。天忍穂耳尊はこれらの川の流域でこの地方の開拓を行っていたと判断してよいであろう。特に土佐市新居の仁淀川河口付近の上ノ村遺跡からは弥生時代中期末の大規模な鉄器工房跡が見つかっている。また、八所河内神社は鉄器工房跡のすぐ近くであり饒速日尊が祭神であるとも言われている。

 天忍穂耳尊は周辺の遺跡から鉄器製造技術の伝授を行っていたと考えることができる。饒速日尊も仁淀川流域までやってきていることになる。

 饒速日尊が土佐国にやってきた目的は倭国とヒノモトとの境界線を明確にするためではないかと思われる。倭国のシンボルである銅剣・銅矛とヒノモトのシンボルである銅鐸が高知県下東西でかなりはっきりと分布状況がわかれている。銅剣・銅矛は高知市以東でも見つかっているが出土数は西部より少なく、銅鐸は高知市以東でしか出土していない。これは、当初土佐国全域が倭国に所属していたが、饒速日尊との境界線交渉で高知市以東がヒノモトに所属するようになったためと考えると説明ができる。

 饒速日尊が土佐国にやってきたときの天忍穂耳尊の本拠地は神社分布から推察して伊野町周辺であったと推定している。饒速日尊はAD37年頃阿波国徳島市近辺より海路室戸岬を経由して仁淀川流域の天忍穂耳尊に会いに行ったと思われる。そこで、倭国とヒノモトとの境界線を高知市近辺と定め、その後物部川流域の各集落を巡り、ヒノモトへの加盟を伝達したのではないだろうか。そのために、天忍穂別神社における饒速日尊の巡回経路が広域に分散しており、複雑になっていると考える。

 天忍穂耳命の土佐国開拓事情

 土佐国は素盞嗚尊がAD12年ごろ統一し、ほとんどそのままになっていた地域である。最新技術を投入していなければ、分裂する可能性がある。そこで、高皇産霊神はAD35年ごろ、最新技術を学ばせた天忍穂耳尊を降臨させたのであろう。天忍穂耳伝承のある地域は鉄器工房跡が集中している地域なので、製鉄技術が中心であったであろうと思われる。

 天忍穂耳命はAD22年ごろに誕生しており、AD35年ごろは当時における成人した直後と考えられる。素盞嗚尊の子である天忍穂耳尊の将来の倭国統治者としての実績作りと名を売るためであろう。

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