豊国統一
今後の対策会議
素盞嗚尊・饒速日尊・五十猛命・高皇産霊神は今後の統一計画を練るために、高良山に集まり会議を開き、日本列島を平和的に統一するための作戦を話し合ったと思われる。この会議で以下のようなことが決定されたであろう。AD7年頃と思われる。
高皇産霊神は徐福の子孫であり、日本列島の各地に同族の徐福の子孫が分散しており、彼らとは定期的に連絡を取り合っている。列島各地の状況には精通していたのである。そのために、以降、国家統一のための指導的役割を果たすことになる。高皇産霊神は大阪湾岸地方に住んでいる一族が統一のための最大の壁であることを知っていた。素盞嗚尊も山陽地方を統一する時に神戸周辺に滞在しており、このことは知っていたと思われる。この大阪湾岸地方の統一のための提案として、北九州一帯の人々に高度な技術を伝え、その多数の技術者を大阪湾岸の数多くのムラにマレビトとして入り込ませ、一斉に意識がえをさせてこの地方を統一させるというものである。また、東日本地方は未開の土地が多く、縄文人が多く住んでいる。飛騨国の協力が得られれば、これら縄文人は平和統一に協力するであろうと思われる。東日本地域は、人がまばらなので、多人数による開拓が必要であった。大阪湾岸の人々の協力を得て、東日本を開拓すれば、この地方は簡単に統一できることを説明した。一同は高皇産霊神の見識に感激し、彼の指示に従うことを誓った。会議ではその一団の統率者を大歳命とした。今後の活躍を期待して彼の名を大歳から饒速日尊と改名させた。
① 高皇産霊神の役割
高皇産霊神はその見識を生かして、今後の日本列島統一の総指揮者となった。高皇産霊神はまず、北九州一円の協力してくれる人々に徐福伝来の高度な技術を伝え、技術者を育てることを実践することにした。彼は田川市の春日神社の地を拠点として遠賀川流域の人々を中心に技術を伝えることにした。
② 素盞嗚尊の役割
南九州の統一が目標、そのために宇佐地方に拠点を設ける。その後、四国、南九州を統一。
③ 饒速日尊の役割
高皇産霊神にとって球磨国(狗奴国)は元来の敵対国である。これを統一するのは至難の業である。ここを饒速日尊に任せた。球磨国統一後はそのまま南へ統一事業を進める。
南九州地方が統一されたころ、高皇産霊神による技術者が育ってくると思われるので、その技術者を集め天孫降臨団を編成し、大阪湾岸地方の統一に向かう。
④ 五十猛命の役割
大陸から持ちこんだ有用木種を各地に配って回り、倭国の存在を示す。素盞嗚尊・饒速日尊等の統一者がいきなりその地に赴いて統一交渉しても、その地の人々がすぐに返答することも難しい、そのために先遣隊として有用木種を配って回り、統一の必要性を説いて回る役割を持った。その後、素盞嗚尊・饒速日尊が統一に訪問すればスムーズな統一が可能であると判断した。
北九州中心域は伊都国以外は無事統一され倭国に加盟した。倭国内の国家体制作りは高皇産霊神が引き受け、テキパキと体制固めをした。これにより、倭国内に急激な技術革新が起こったのである。銅鉾を祭器化して統一のシンボルとすることを考えたのも高皇産霊神であろう。楽浪郡を介して華北の青銅を多量に輸入し、それをもとに奴国で祭祀系青銅器の多量生産を始め、倭国加盟のシンボルとして周辺地域に配って回ったのである。朝鮮半島南端部の高霊を盟主としてこの地域を倭国に所属させた。朝鮮半島南端部に多く住んでいた人々は秦から逃れてきた人々で、徐福の子孫である高皇産霊神とは同郷である。朝鮮半島南端部の人々も徐福のことは知っていたであろうから、この地域を倭国に加盟させるのはさほど難しいことはなかったと思われる。この地域に倭国から役人を送り込み、南端部の統一に向けて努力させた。これによって、それまでばらばらであったこの地域がまとまり始めたのである。
宇佐地方の統一
大分県地方の考古学的変化
宇佐市中央を流れる駅館川 の西側には広大な四日市平野が開け、東側には 宇佐台地 が発達している。弥生時代前中期の集落遺跡 としては大分県最大級の遺跡が宇佐台地に位置する東上田遺跡である。東上田地区を中心にした上流1㎞の御幡地区から下流2㎞の高森地区の東岸台地一帯には弥生時代前中期の遺跡群が集中的に分布しており、宇佐台地は弥生時代中期末には小さな国があったものと考えられる。
弥生時代後期になると西岸の低地上には別府遺跡を初めとした弥生時代後期以降の集落遺跡が多くなる。拠点的集落遺跡のこのような在り方からして、宇佐地方の弥生集落の多くは、前中期には水田を見下ろす高台に立地し、後期には水田に面した低地へ移ったと考えられる。弥生時代中期末に画期的な農耕技術の進歩があったことが分かる。
弥生時代中期末の宇佐地方の土器に瀬戸内系の要素が入り込み、後期になると安国寺式土器として誕生し急激に東九州一帯に広まり、その最古形式のものは大分平野で見つかっている。後期初頭の段階でこの形式の土器は大野川流域に入り込んでいる。弥生中期末より土器形式、住居形態などから、東九州全般の交流が盛んになっていることがわかっている。
また、宇佐地方は中広・広型銅鉾の集中出土地域である。これは、北九州中心域の信仰を受け入れていることを意味している。
これらのことから弥生時代中期末に宇佐地方を起点として、考古学的に画期的な変化が起こっており、これが、東九州一帯の交流の活発化につながっていることが分かる。そして、この変化は瀬戸内地方からの影響を受けているのである。
宇佐神宮
宇佐神宮御由緒 宇佐神宮は全国4万社余りの八幡宮の総本宮です。 八幡さまは応神天皇の御神霊で、欽明天皇の32年(571)に初めて宇佐の地に御示顕になったと いわれます。 応神天皇は大陸の文化と産業を輸入、新しい国づくりをされた方で、その神徳は強く顕現し、 神亀2年(725)、聖武天皇の勅願により現社地に御殿を造立、八幡神を奉祀されました。 これが宇佐神宮の創立です。 もとよりこの宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、 神代に比売大神が御許山に天降られたと『日本書紀』に記されています。宇佐の国造はこの神を祀 り、八幡神が祀られた6年後に神託により、二之御殿が奉祀されました。 比売大神は後に海北の道中の主として筑前の宗像大社や宮地嶽神社、安芸の厳島神社に祀られ、 福徳愛敬、交通安全等の守護をされ、神功皇后は母神として神人交歓、安産、教育等、 その御威徳が高く顕れています。 三之御殿は神託により、弘仁14年(823)応神天皇の御母「神功皇后」を奉祀されています。 この三殿一徳の御神威は、奈良東大寺大仏建立の協力や、勅使和気清麿公に国体を正してゆく 神教を賜ったことで特に有名です。皇室も伊勢の神宮につぐ第二の宗廟として御崇敬になり、 勅祭社17社に列し、一般の人々にも鎮守の神として広く親しまれてきました。 その御分霊は、平安京鎮護のための石清水八幡宮や、鎌倉の鶴岡八幡宮など、 各地で祀られています。 (宇佐神宮ホームページより) |
宇佐神宮はたいへん複雑な由緒を持つ神社である。その元の信仰は何なのであろうか。それを探ってみたい。
伝承によると、宇佐神宮は御許山に降臨したと言われている三女神を比売大神として祀る奥宮・ 大元神社の麓に位置し、豪族宇佐氏の磐座信仰が当初の形態であろうと言われている。また、 五十猛命が始祖と言われている辛嶋氏が比売大神信仰を持ち込み、辛嶋郷の稲積六神社 (宇佐市中561)が最初といわれている。そして、稲積六神社の御祭神は伊弉册尊 速玉男命 事解男命で 熊野系の神である。そして、宇佐神宮神主家である宇佐氏は菟狭津彦命を祖としている。 菟狭津彦命は高皇産霊尊の孫である。
三女神(市杵島姫)は素盞嗚尊と日向津姫との子で、この女神が降臨するのは少し後のことである。宇佐神宮の起源はこれよりも遡ると判断する。辛島氏が最初に祭祀したのが稲積六神社の熊野の神たちである。すなわち素盞嗚尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊である。これは素盞嗚尊と日向系の始祖とがまじりあった信仰であるということである。弥生時代中期末より南九州との交流が活発になっていることとつなぎ合わせれば、この宇佐の地は日向との交流の接点であったということになる。素盞嗚尊が南九州統一の基点として宇佐地方を統一し、その拠点を宇佐神宮の地としたものであろう。さらに宇佐氏の始祖が高皇産霊神であることから、それは、高皇産霊神の計画の中で行われたことを示している。
素盞嗚尊は南九州統一の後、伊弉諾尊・伊弉冉尊を伴って紀伊半島統一に乗り出している。その基点に当たるのが宇佐神宮の地なので、その元となる稲積六神社に熊野の神たちを祀っているのは自然と説明できるのである。
素盞嗚尊はここを拠点として、南九州・四国・紀伊半島統一を実行した。AD20年頃この地を去る時に高皇産霊尊の子である天活玉命に自らの子三女神(市杵島姫)の養育を託したのであろう。その天活玉命の孫が菟狭津彦命である。
素盞嗚尊は豊国(宇佐地方)の統一に向かった。この地方はまだ未統一の四国地方、南九州地方への玄関口となるので大変重要な地域である。高皇産霊神から受け取った銅鉾を持って、豊国を統一し、今の宇佐神宮の地に拠点を作ったと考えられる。
清地神社 行橋市大字天生田字宮浦1314
日本で木々を植えようとした素盞嗚尊と御子の五十猛命がこの国を経由した時に豊日別命が出迎えて接待した。
この伝承により素盞嗚尊と五十猛命が豊国の統一を図ったことが推定できるが、この周辺を統治していた豪族(豊日別命)が出迎えたようである。
おそらく、豊日別命は倭国連合の実態をよく知っており、豊国の方から積極的に倭国加盟を申し出たことが推定される。素盞嗚尊が山陽地域を統一してから、豊国を飛ばして、北九州中心域を統一していたので、高良国にいた素盞嗚尊に使者を送り、豊国を倭国に加盟させてくれと、申し出たのではないかと考えられる。この神社の伝承はそのようなことを想像させる。
素盞嗚尊も豊国別命のそのような行動に対する返礼として、豊国に南九州地方統一の拠点を作ることにしたのであろう。
大野川流域の統一
国東半島から、別府湾沿岸、大野川流域にかけて弥生時代後期になると、安国寺式土器が流通するようになる。
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