倭国の都

北九州統一関連地図

 素盞嗚尊が出雲国の建国より始めた統一事業は、40年ほどして西日本一帯を支配下におさめた倭国連合に成長した。第二代倭国王に大国主命も決まった。素盞嗚尊が次になさねばならないことは都の建設であった。倭国の都となるのであるから、交通の便が良い・農作物が豊富にとれるなどの条件を満たした地でなければならない。その条件を吟味して最終的に決定したのが豊国の安心院の地である。

 この地はすぐ近くにそれまで拠点としていた宇佐があり、宇佐からは北九州、南九州、四国、瀬戸内海沿岸地方と方々との交流に便利な地である。また、安心院は盆地なので、土地が肥えており農業に向いている。さらに海岸の宇佐まではわずかな距離であった。

安心院での都作り

 倭国の統治領域の中心付近で海上交通の要となる場所として選んだのが宇佐の地である。現在の宇佐神宮がある地は、この当時丘陵地に囲まれた海岸であり、港湾としては最適の場所であったが、土地が狭いので都としては不向きであった。素盞嗚尊が都として考えたのが其の奥地である安心院の地である。ここは駅館川の上流にあり、盆地である。川を遡ることで、容易にこの盆地にたどり着くことができた。

 佐田京石・・・安心院盆地の北はずれに米神山があり、其の周辺に佐田京石という、巨石による祭祀遺跡がある。伝承では「昔、神々がこの地に都を作ろうとし、米神山から100本の石を麓に飛ばそうとしたが、99本目にみだりに騒ぐ者がいたため、そこで作業は中断され、都が建設されることはなかったという。麓に残る京石はその名残である。」と言われている。京石周辺から弥生式土器が出土しているので、弥生時代のものであると云われている。

 三女神社・・・素盞嗚尊と日向津姫の誓約によって誕生したと云われている。このことは、素盞嗚尊・日向津姫の新婚生活をしていた地はこの安心院であることを意味している。

 妻垣神社・・・比売大神を主祭神とする神社でこの神は玉依姫と言われているが、別伝では三女神であるとも言われている。宇佐神宮でも中心的に祀られており、正体がはっきりしない神である。日向津姫ではないかと想像している。

  これらの伝承を総合して考えると、素盞嗚尊はこの安心院盆地に巨大化した倭国の都を作ろうとしていたのではあるまいか。都を作ろうとしていたが何かの出来事によって都づくりが取りやめになったものと考える。

 素盞嗚尊が日向津姫と出会ったのは南九州統一時に日向国の阿波岐原である。その後結婚したが、紀伊半島を統一しているときは彼女は鹿児島神宮の地で周辺を統治していた。安心院を倭国の都に決定してから、日向津姫を鹿児島神宮の地から呼び寄せ共同生活することとなった。倭国の知恵袋の役割をしている高皇産霊神もこの地を訪れていると思われる。

 AD20年頃からAD25年頃までの間素盞嗚尊と日向津姫はここを都として倭国統治をしていたと考えることができる。この間にAD20年頃市杵島姫が三女神社の地で誕生し、25年までの間に天忍穂耳命と天穂日命が同様にこの地で誕生したと思われる。

 宗像三女神について

 宗像三女神は一人の女神

 三女神社で誕生したと言われる三女神は、通称、宗像三女神と呼ばれている、日向津姫(アマテラス)と素盞嗚尊との誓約にてできた子である。「田心姫」・「湍津姫」、「市杵嶋姫」である。この三姉妹の名前も、『日本書紀』の一書によって複数あるが、後の正史で六国史の一つである『日本三大実録』は、この三姉妹が異名同体であることを伝えている。本来一人であったのを三人に分けて祀ったというのである。
 この三女神が誕生した時期はごく限られており、AD20年頃からAD25年頃までの5年間程である。こんな短い期間に3人も生まれるとは、この三女神は三つ子かと思っていたが、『日本三大実録』の記録で納得できた。三女神のうち具体的伝承を伴っているのは「市杵島姫」のみであるので、以降、宗像三女神は「市杵島姫」と称することにする。日向津姫と素盞嗚尊との間にできた子は天忍穂耳命と天穂日命と市杵島姫の三人ということになる。伝承に伝えられている5男三女のうち、他の男神3神は後に述べるが高皇産霊神と日向津姫との間の子であると推定している。

 宗像三女神が一人であったとすると、その夫となった人物は誰なのであろうか。「田心姫」・「湍津姫」は大国主命と結婚し、味鋤高彦根命・事代主命・下照姫命を生んでいる。市杵島姫は猿田彦命と結婚している。市杵島姫と猿田彦は各地の神社の伝承により確実な関係と思われるが、味鋤高彦根命は出雲で、事代主命・下照姫命は大和に誕生伝説地がある。そして、事代主命・下照姫命の父は饒速日尊である。味鋤高彦根命も東北地方で建御雷命(饒速日尊)の御子としてまつられている。宗像三女神と高皇産霊神の娘である三穂津姫が混乱しているところもあり、饒速日尊と三穂津姫を大国主と宗像三女神との関係に書き換えられているのではないかと想像する。

 AD20年頃から25年頃にかけて、素盞嗚尊は安心院を拠点として、すでにまとまった倭国を巡回していたのではないかと思われる。この時、AD20年頃長女市杵島姫誕生、AD22年頃長男天忍穂耳尊誕生、AD24年頃二男天穂日命が誕生している。

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