敏達天皇

 敏達天皇生誕の謎

敏達天皇は宣化天皇3年(538年)に父を欽明天皇、母を宣化天皇の娘石姫として生誕したとされている。しかし、古代史の復元では欽明天皇が526年頃生誕としているために、欽明天皇13歳での生誕となる。皇子生誕にしては若すぎるようである。

敏達天皇の崩御年齢は書物によってまちまちである。 『扶桑略記』『水鏡』は24歳、『愚管抄』は37歳、『日本書紀』『皇代記』『簾中抄』などは48歳、『神皇正統記』『仁寿鏡』は61歳と記録されている。それぞれの年齢から生誕年を逆算すると、『扶桑略記』『水鏡』は562年、『愚管抄』は549年、『日本書紀』『皇代記』『簾中抄』などは538年、『神皇正統記』『仁寿鏡』は525年となる。

 『扶桑略記』『水鏡』は562年生誕は、欽明天皇37歳の時であり、敏達天皇即位時11歳となり若すぎる。『神皇正統記』『仁寿鏡』の525年生誕は父である欽明天皇より一つ年上となる。これらを考慮すると、『愚管抄』に伝えるところの敏達天皇の崩御年齢は37歳、生誕年齢549年が最も自然となる。敏達天皇生誕時、父の欽明天皇は24歳であり、敏達天皇即位時24歳である。敏達天皇の誕生は549年(欽明10年)と推定する。

 敏達天皇の母の石姫は宣化天皇の娘である。宣化天皇は仁賢天皇の娘橘仲皇女を妻に迎えているので継体天皇即位後のことである。石姫の敏達天皇生誕は宣化天皇30歳頃の時となり、欽明天皇は自分より5歳程年上の石姫を皇后にしたことになる。

 第一皇子の箭田珠勝大兄皇子が欽明13年(552年)4月に薨去したので、欽明15年1月7日に皇太子となり、欽明天皇崩御後、第30代天皇として即位した。

 皇后広姫の出自

 敏達天皇の皇后となった広姫は息長真手王の娘とされている。しかし別伝が多く矛盾も多い。まず息長真手王の系図を整理してみよう。

① 息長氏は『記紀』によると応神天皇の皇子若野毛二俣王の子、意富富杼王を祖とす。
② 息長真手王は意富々杼王の孫で、息長君の祖とされる。
③ 息長真手王の娘麻績郎子は継体天皇に嫁ぎ、第六代斎宮の荳角皇女を産んでいる。
④ 息長真手王の父は阿居乃王である。
⑤ 継体帝2年春、帝は妃・安部波延女と娘・都夫良郎女を連れて御手洗池で「禊祓」をしていた処、娘が池の荒波に誘われて水中に流された。当主・息長真手王の一人息子・息長真戸王が、その姫を助けようと水中に飛び入り、二人とも亡くなってしまった。帝は、若い二人の死を大変哀れみ、死後ではあったが姫を真戸王に嫁がせ、垣内の御陵に葬った。更に帝は、自らの王子・阿豆王(「紀」では厚皇子)を真手王の娘・黒郎女に配し、息長家を相続せしめた。(大阪府全史)
⑥ 息長阿豆王の娘・比呂女命(広姫)は敏達帝の皇后となり忍坂彦人太子が産まれた。

 これらの情報を整理すると、下の系図が浮かび上がってくる。

    ┏菟道稚郎子              ┏飯豊青皇女
    ┃                   ┃     ┏武烈天皇
応神天皇╋大山守皇子 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子╋仁賢天皇━┫502
367   ┃      ┃428           ┃494    ┗手白香皇女━┓
    ┣仁徳天皇━━╋反正天皇        ┗顕宗天皇        ┃
    ┃397     ┃433    ┏安康天皇   491           ┃
    ┃      ┗允恭天皇━┫460                  ┣━欽明天皇━━━┓
    ┃       438    ┗雄略天皇━━━清寧天皇        ┃ 540      ┃
    ┃             463      486           ┃        ┣敏達天皇┓
    ┗稚野毛二派━┳意富本杼━┳乎非王━━━━彦主人王━┳継体天皇━━┫┏安閑天皇   ┃572   ┃
           ┃     ┃            ┃510     ┣┫534      ┃    ┃
           ┗沙禰王━━━━━━━━━━真若郎女━┛      ┃┗宣化天皇━石姫┛    ┣押坂彦人大兄皇子
                 ┃                   ┃ 535           ┃     
                 ┃                   ┗━阿豆王━┓       ┃
                 ┃                         ┣━━━━広姫━┛
                 ┃                   ┏━黒郎女━┛  
                 ┗阿居乃王━━━息長真手王━━━━━━━┫
                                     ┗━真戸王

 広姫は、押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)、逆登皇女、菟道皇女の1皇子2皇女を生み、敏達天皇4年1月9日に皇后となるが、同年11月に崩御している。皇后になってすぐに崩御しているので、この皇子たちは皇后になる前に生誕していると思われる。

 年表

敏達 西暦 記事
1 572 3 使者を北斉に派遣し、朝貢させた(新羅本紀・百済本紀)
4 敏達即位
5 相楽館に郡臣を遣わし、高麗の献調物を京に送らせた
高麗の国書は王辰爾(船史の先祖)が解読した
6 高麗の副使たちは欺かれて国の調を他人に与えた罪が暴かれるのを恐れ大使を殺した。
接待役の東漢坂上直子麻呂らが調べたが、副官達は嘘で言い逃れた。
大使の格式で葬った。
7 高麗の使人たちが帰った
2 573 使者を北斉に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
5 高麗の使者は越海の岸(石川・福井県の海岸)に停泊した。船が壊れて、溺れて死ぬものが多く居た。朝廷は、しきりに路に迷っていることを疑って、歓迎の宴会をせずに、帰すことにした。それで吉備海部直難波に勅して高麗の使者を送らせました。
7 越海の岸に、難波と高麗の使者たちが、話し合って、送使難波の船の人の大嶋首磐日・狹丘首間狭を高麗の使者の船に乗らせ、高麗の二人を送使の船に乗らせた。そうして互いに船に乗らせて、反逆の計画に備えた。どちらも船が出発して、数里ほど進んだ。送使難波は波浪が怖くなって、高麗の使者の二人を捕らえて、海に投げ入れた。
8 送使難波は帰ってきて、天皇に報告をして言った。
「海の裏に鯨魚の大きなのが居て、船と檝櫂を待ち受けて食べた。難波たちは魚が船を飲むのを恐れて、沖へと行けなかった」
天皇はそれを聞いて、嘘だと分かった。そこで難波を官に仕えさせ、故郷の国へと帰させなかった。
3 574 1 使者を陳に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
3 皇龍寺の本尊の丈六の仏像を鋳造した。この仏像に使われた銅の重さは35007斤で、鍍金用の金の重さは10198分であった(新羅本紀)
5 高麗の使人が越の海岸に停泊した
7 高麗の使い人は京に入って言った。
「わたしらは、去年、送使に従って、高麗に帰った。わたしらは先に自分が蕃に到着しました。わたしの蕃で、使人の礼になぞらえて、大嶋首磐日を礼を持って歓迎の宴会をした。高麗国の王は、それとは別に厚い礼を持ってもてなしました。しばらく経ったが、送使の船は今でも到着していない。それで、使人と一緒に磐日たちを派遣して、わたしの使者が来ていない理由を問いたい」
天皇はそれを聞いて、難波の罪を責めて、その罪を数えて言った。
「朝廷を欺いたこと。これが一つ。 隣国の使者を溺らせて殺したこと。これが二つ目。この大きな罪では、許し返すことはできない」
それで断罪しました。
10 蘇我馬子大臣を吉備国に遣わし白猪屯倉と田部を増益
船史王辰爾の弟、牛に姓を賜って津史とした
11 新羅は使者を派遣して調を献上した。
4 575 1 広姫を皇后にした
2 馬子宿禰大臣は京師へと帰った。屯倉のことを復命した。
百済は使者を派遣して調を献上した。いつもの年よりも多かった。天皇は新羅が未だに任那を再建していないので、皇子と大臣に詔した。
「任那のことは怠ることがないように」
4 吉士金子を使者として新羅に派遣した。吉士木蓮子を任那に使者として送った。吉士訳語彦を百済に使者として送った。
皇龍寺の丈六の仏像が涙を流し、その涙が踵にまで達した(新羅本紀)
6 新羅は使者を派遣して調を献上した。いつもよりも多かった。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの村の調を献上した。
11 皇后広姫薨
5 576 3 豊御食炊屋姫尊を皇后にする
この年、隋に行って法を求めていた、安弘法師が胡僧の麻羅など2人の僧侶と共に帰国し、稜伽・勝鬘両経および仏舎利を奉った(新羅本紀)
8 王が薨去した(新羅本紀)
新羅第25代真智王即位(新羅本紀)
6 577 2 日祀部と私部を置く
5 大別王と小黒吉士を派遣して、百済国の宰とした。
7 使者を陳に派遣し、朝貢させた(百済本紀)
10 百済が西辺の州や郡を侵したのでこれを打ち破った(新羅本紀・百済本紀)
11 百済国の王は帰国する使者の大別王たちに、経論若干卷と合わせて律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工の6人を献上した。難波の大別王の寺に安置した。
使者を北周に派遣し、朝貢させた(百済本紀)
7 578 3 菟道皇女を伊勢の祀に仕えさせた。すぐに池辺皇子に侵された。事件が明らかになって解任になった。
7 使者を陳に派遣し、特産物を献上した。百済に閼也山城(全羅北道益山市)を与えた(新羅本紀)
8 579 2 百済が熊峴城と松述城を築いて、蒜山城、麻知峴城、内利西城の道をふさいだ(新羅本紀)
7 王が崩じて第26代真平王が即位(新羅本紀)
10 新羅が使いを使わし調と仏像を送ってきた
9 580 6 新羅は安刀奈末・失消奈末を派遣して調を献上した。日本はそれを納めず、帰した。
10 581 閏2 文帝、北周の静帝より禅譲を受けて隋を建国する。
王は使者を隋に派遣した。隋は王を上開府儀同三司帯方郡公に冊封した(百済本紀)
王は使者を隋に派遣して朝貢した。隋は王に大将軍遼東郡公を授けた。(高句麗本紀)

蝦夷が数千、辺境で反逆した。それで魁帥綾糟たちを呼び寄せて詔して言った。
魁帥は大毛人。「推察するに、蝦夷は景行天皇の時代に、殺すべきものは殺し、許すべきものは許した。今、朕は、その前例に従って、元々の性質から悪のものを誅殺しよう」
綾糟たちは、畏まり、恐れ、泊瀬の中流に下りて、三諸岳(三輪山)に向かって、水をすすって誓って言った。
「わたしめら蝦夷! 今より以後、子々孫々清らかで明るい心を持ち、天皇に仕えましょう。わたしめらがもしも誓いを違えば、天地のもろもろの神と天皇の霊が、わたしめの種を絶滅させるでしょう」
11 582 1 使者を隋に派遣し、朝貢させた(百済本紀・高句麗本紀)
10 新羅は安刀奈末・失消奈末を派遣し、調を献上した。これを納めず帰した。
11 使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
12 583 1 使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
2 布告を出して、不急の事業を減らさせ、使者を各地の郡邑に派遣し、農耕と養蚕を奨励させた(高句麗本紀)
4 使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
7 天皇は詔して言った。
「欽明天皇の世に新羅は任那の国を滅ぼした。欽明天皇の23年に任那は新羅のために滅ぼされました。それで新羅が我が内官家を滅ぼしたと言った。前の天皇は任那を復興したいと謀っていた。果たせずに崩御して、その志を成すことができなかった。それで朕は、神のように不思議な妖しい謀略で助けて、任那を復興しようと思う。今、百済に居る、火葦北國造阿利斯登の子の達率日羅は賢くて勇猛だ。朕はその人と計画を立てようと思っている」
すぐに紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して百済に呼び寄せた。
10 紀国造押勝たちは百済から帰って朝廷に報告をした。
「百済国の主は日羅を惜しんで聞き入れず、献上を認めません」
12 德爾・余奴等日羅を殺害
使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
13 584 2 難波吉士木蓮子を新羅に使者として派遣した。ついに任那に行った。
使者を隋に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)
4 隋の文帝は、わが国の使者を大興殿で饗宴した(高句麗本紀)
9 百済から鹿深臣が弥勒石像一体と、佐伯連が仏像一体をもたらした
蘇我馬子宿禰がその仏像二体を請い受けた。
高麗恵便を仏法の師とし、三人の尼を崇敬。
仏殿を馬子の邸宅の東方に造り、石川の家に仏殿を造った。
11 使者を陳に派遣し朝貢させた(百済本紀)
14 585 2 蘇我大臣馬子宿禰が大野丘の北に塔を建てた
このとき国内に疫病がはやり、死ぬ者が多かった。
3 物部弓削守屋大連が奏して、仏法を宜断
物部弓削守屋大連が塔と仏像と仏殿を焼いた
疱瘡で死ぬ者が国に満ち、仏像を焼いた罪だと密かにいわれた
6 馬子宿禰一人に仏法を許可し、三人の尼を返した
馬子宿禰は寺院を造り供養した
8 天皇は大殿で病死した
殯宮を広瀬に建てた。
馬子宿禰大臣は刀を帯びて誄を述べた
物部弓削守屋大連は馬子宿禰を矢で射られた雀烏のようだとあざ笑った
弓削守屋大連は手足をふるわせて誄を述べた
馬子宿禰大臣は、鈴をつけろと笑った
三輪君逆は隼人を殯の庭を守らせた
穴穂部皇子はなぜ死んだ王の庭に仕え、生きている王に仕えないのだと怒った 
12 使者を陳に派遣し、朝貢させた(高句麗本紀)

 朝鮮半島三国の接近と新羅の孤立

 朝鮮半島では百済・新羅の同盟が崩れ、新羅が独自に中国との朝貢を行なって冊封体制下に入るようになった。また、百済も中国との朝貢を行うようになって高句麗の優位性が崩れた。高句麗は中国の動向を注意深く見守って再び南北朝両面への外交を続けることとなった。北朝の北斉、北周、また南朝の陳に朝貢し、北斉からは560年に<使持節・領東夷校尉・遼東郡開国公・高句麗王>、陳からは562年に<寧東将軍>の称号を得ることになった。この流れで日本との協力関係を築こうと日本に使者を送るようになった。そして、574年に高句麗と日本との協力関係が成立した。

 昔から日本との関係が深かった百済も、日本高句麗の協力関係が成立したことを意識したため、翌575年に使者を派遣して例年より多い貢物をした。日本に百済との関係を重視してほしいとの意識であろう。

 日本としては新羅に任那を再建させたい思いが強かったので、高句麗百済が日本との関係を深くしようとしているのを利用して吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に使者として送った。おそらく新羅に任那を返すように要求したのであろう。

 このような状況において朝鮮半島三国の中で新羅のみが日本との関係が悪くなったのである。せっかく手に入れた任那は返せないが、日本との関係は維持しておかないと新羅の立場が悪くなるので、早速日本に使者を送り、いつも以上の貢物を送って日本の機嫌を取ろうとしたのである。

 このような時に敏達5年(576年)新羅第24代真興王が死去した。次の第25代真智王は、百済・日本との友好をかなり重視した王のようである。
577年10月百済が西武国境地帯の州や郡を犯したので、伊飡の世宗に命じて出兵させ、侵入軍を一善郡の北方で撃破し、3700人を斬ったり捕らえたりし、同年同月内利西城を築城しているが、578年百済に閼也山城(全羅北道益山市)を与えたと記録されており、真智王は百済に対して譲歩しているようである。しかし、翌年、百済は熊峴城と松述城を築いて、蒜山城、麻知峴城、内利西城の道をふさいで、その譲歩を裏切っているのである。その直後真智王は死去したことになっているが、百済日本に対する譲歩が、真智王を退位させたのではないかと判断する。

 次の第26代真平王が即位後日本の新羅に対する態度が変わっており、それ以降日本は新羅からの調の受け取りを拒否しているのである。おそらく、真智王は任那の復興を日本に対して約束したが、次の真平王がそれを反故にしたために日本側が怒って新羅からの調の受け取りを拒否したものと考えられる。百済・高句麗は中国の陳や隋に朝貢したという記録が載っているが、新羅にはそのような記録が一切ない。これも、真平王が周辺国家に対して強く出ているということのあかしであろう。

 北魏の滅亡から隋の建国までの中国史

534年
 北魏の宰相高歓は北魏末期の六鎮の乱に加わったが、爾朱栄に鎮圧された。爾朱栄が孝荘帝に殺されると自立して爾朱氏を滅ぼし、孝武帝を擁立して北魏の実権を握った。孝武帝はこの高歓を排除しようと謀ったが失敗し、首都洛陽から逃れ、関中の宇文泰に保護された。高歓は皇帝を失い鄴で孝武帝の従甥の元善見を帝に擁立した。これが東魏の孝静帝となった。

535年1月
 宇文泰は孝武帝を保護たが相性が悪く、これを毒殺して孝武帝の従兄の元宝炬を帝(文帝)に擁立し西魏を建てた。西魏では宇文泰がその実権を握り、その皇帝はいずれも傀儡だった。宇文泰はこの国の事実上の皇帝だった。これにより北魏は東魏と西魏に分裂することとなった。
隋の祖楊忠はこの時宇文泰に従って西魏の成立に貢献し、大将軍を務め、隋国公の地位を得た。

537年
 東魏の高歓が大規模な攻勢をかけたが、西魏の宇文泰はこれを撃退した。 

538年
 宇文泰が西魏軍を率いて攻勢をかけるが、東魏の猛将侯景のために大敗し、逆に長安を脅かされるが、何とか保った。 

547年
 東魏高歓死去。その長男の高澄が大丞相を継ぐ。その直後に河南大行台の侯景が背いて州都もろとも梁に帰順するという事件が発生した。
高澄は慕容紹宗を派遣して侯景・梁軍を撃破した。梁に逃れた侯景はその後反乱を起こし、梁を事実上の滅亡に追い込んだ(侯景の乱)。

548年
 宇文泰は太師・大冢宰に任じられ、名実ともに西魏の支配者としての地位を確立する。 

549年
 東魏高澄は南朝の梁が侯景の乱で混乱を始めたので、梁の皇族達と手を結び、慕容紹宗に侯景を討たせた。そして北魏の分裂時に梁から奪われた漢中地方を取り戻した。
 高澄は相国に上り、斉王に封じられたが、酒乱による暴虐により、蘭京に殺された。高歓の次男の高洋が相国・斉王を継いだ。

550年
 東魏高洋は孝静帝から禅譲されて帝位に即き、翌年元旦に国号を斉(北斉)に革める。ここに東魏は滅亡した。 

551年
 西魏の宇文泰はただちに東伐を行ったが、大雨にたたられ、西魏軍は引き上げざるを得なかった。これにより、西魏に傾きかけた旧東魏の人々も北斉に従うようになった。しかし、東魏が滅亡したことにより、(北)魏の皇帝の正統性の問題は解消され、西魏にとっては南進への環境を整える結果となった。 

553年
 西魏は四川地方を奪って版図を拡大した。

554年
 西魏は江陵を陥して梁の元帝を自殺させ、代わりに雍州刺史として襄陽にいた武帝の孫の一人・蕭詧(宣帝)を江陵に送って梁の皇帝に即位させ、西魏の傀儡政権である後梁(西梁)を成立させた。

556年
 10月に宇文泰死去。三男の宇文覚が太師・大冢宰を継承し、12月には周公に封じられた。西魏皇帝恭帝はその月のうちに宇文覚に禅譲の詔を出し、ここに西魏は滅んだ。

557年
 正月朔日、宇文覚は天王に即位、国号も周(北周)と革められた。宇文覚(孝閔帝)はその時16歳で、実権は従兄の宇文護が補佐の形で専横した。宇文護の政治そのものは北周の国力を充実させたが、独裁・専横が過ぎて周囲の反感を買った。反対派の重臣は、孝閔帝が即位したその年に結託して宇文護の暗殺を謀るが、事前に計画が漏洩し、孝閔帝や重臣らはことごとく殺害された。宇文護は新たな天王として先君の兄の宇文毓(明帝)を擁立した。 

559年
 北斉第2代廃帝即位。

560年
 北周明帝は明敏で見識・度量共に優れていたため、宇文護は後難を恐れて毒殺した。弟である宇文邕(武帝)が次の皇帝に擁立された。 
 北斉第3代孝昭帝即位。孝昭帝は、人材を広く求め、前代までの弛緩した朝政の建て直しに尽力した。民衆に対しては税賦の軽減を図り、軍事面では庫莫奚への親征を行なうなどの功績を残した。

561年
 北斉第4代武成帝即位。贅沢をしたため国力を消耗した。高長恭や斛律光といった名将らが健在だったため国は守られていたが、和士開などの奸臣を用いてその専横を許した。

565年
 北斉第5代後主即位。暗愚なため、国力を衰退させる。

568年
 隋の祖楊忠は死去し、楊堅が北周大将軍・随国公の地位を受け継いだ。

572年
 宇文護は武帝の罠にはまって誅殺される。武帝はその徒党もことごとく殺戮して親政を開始した。

573年
 陳の宣帝陳頊が名将呉明徹を遣わして北斉軍を討ち破り、寿陽など江北の九郡を奪った。

575年
 陳の攻撃で弱った北斉に、これらの富裕な土地を奪還する能力が欠如していると判断した武帝は、北斉への本格的な攻撃を開始。

576年
 北周武帝、平陽と晋陽を奪う。 

577年
 北周武帝、北斉首都の鄴を包囲した。北斉軍は戦意乏しく、後主高緯や皇族たちは逃亡を企てたが、間もなく青州で捕まった。北斉は滅亡し、北魏の東西分裂以来四十数年ぶりに華北が統一された。 

578年
 北周武帝、陣中で病にて崩御。皇太子の宇文贇(宣帝)が即位。宣帝は暗愚であり、武帝が皇太子時代に心配して厳しい躾を行なったほどであった。宣帝は淫欲のままに行動し、武帝を支えていた一族群臣を自らにした躾に賛成していたとして粛清し、貴重な人材を失う結果となった。
 隋の祖楊堅は長女の楊麗華を北周の宣帝の皇后として立てさせ、自身は上柱国・大司馬となって権力を振るった。

579年
 宣帝は、皇太子の宇文闡(静帝)に譲位し、天元皇帝と称した。北周は人心を失いだし、政治の実権は外戚の随国公楊堅が掌握した。 

580年
 宣帝は22歳で崩御。8歳の静帝が即位した。この幼帝の下で楊堅は兵権を掌握し、さらに隋王の称号を与えられた。

581年
 楊堅は静帝より禅譲を受けて隋を建て文帝として即位し、北周は滅亡した。静帝を初めとして多くが、楊堅によって皆殺しにされた。
南朝の陳では宣帝が江北への進出を試みていたが、文帝は陳の間諜を捕縛しても衣服や馬を給して厚く礼をして送り返し、陳とは友好関係を保つようにした。
 隋の建国により、百済・高句麗は早速使者を送った。

582年
 文帝は陳に対して討伐軍を送り出したが、宣帝の崩御により、討伐を中止し使者を派遣して弔意を表し軍は撤退した。
 北の突厥に対し長城を修復して防備を固める。

584年
 突厥が北方で暴れた。文帝は長城を越えて突厥を攻撃し、その後突厥内部に巧みに介入して東西に分裂させた。そして淮河と長江を結ぶ邗溝(かんこう)を開削して補給路を確保した。

587年
 後梁を併合して前線基地を作る。
 文帝は連年に渡り農繁期になると軍を南下させる気配を見せて陳軍に常に長江沿岸に大軍を配置させる事を繰り返させる事で陳の国力は急速に衰退した。皇帝が宣帝の子陳叔宝でこれが愚帝だったため、陳は内部からも次第に崩壊の色を深めた。 

588年
 文帝は陳へ、51万8000という過大とも思える大軍を派遣した。

589年
 陳の都建康はあっけなく陥落し、ここに西晋滅亡以来273年、黄巾の乱以来と考えると実に405年の長きにわたった分裂時代が終結し、中国全土が統一された。 

 任那復興作戦

 敏達天皇の決意

 AD562年、任那は新羅に併合された。それ以降欽明天皇は任那復興を考えて色々と努力をしたが、なかなか目的達成には至らなかった。敏達天皇の時代になっても復興は叶わなかったのであるが、576年、新羅第25代真智王が任那復興交渉に応じてくれたのであるが、すぐに退位させられ、579年、第26代真平王に変わってしまった。真平王は交渉の窓口を一方的に断ち切ったのである。

 新羅は任那の事はそのままにした状態で日本との友好関係を維持しようとしたようであるが、敏達天皇としては折角の交渉の窓口を断ち切られてしまい、以降の新羅からの調の受け取りは拒否することとなった。

 その後も新羅との任那復興交渉を続けていたが、解決の見通しが立たないので、敏達12年(583年)、具体的計画を立てようとした。

天皇は詔して言った。
「欽明天皇の世に新羅は任那の国を滅ぼした。欽明天皇の23年に任那は新羅のために滅ぼされました。それで新羅が我が内官家を滅ぼしたと言った。前の天皇は任那を復興したいと謀っていた。果たせずに崩御して、その志を成すことができなかった。それで朕は、神のように不思議な妖しい謀略で助けて、任那を復興しようと思う。今、百済に居る、火葦北國造阿利斯登の子の達率日羅は賢くて勇猛だ。朕はその人と計画を立てようと思っている」
すぐに紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して百済に呼び寄せた。

 日羅とは

 日羅は、宣化天皇の時代に新羅が任那を侵略しようとしたとき、大伴金村の息子狭手彦と共に任那へ行き、任那がなくなった後も、そのまま百済へ留まって百済に帰化した日本人である。火葦北国造刑部靫部阿利斯登の子で、父親と一緒に百済に留まり、達率(だちそち)という百済で2番目の位まで昇った人物である。おそらく、日羅の名声は、大和まで届いていたのであろう。

 日羅を迎えに行かせたが、百済の威徳王はその申し出を断った。達率にまでなった日羅は百済にとって相当重要な人物であり、その人物が日本に帰ってしまえば百済にとって大打撃だったのであろう。

 この頃、王から最も信頼される能力とは外国との交渉能力ではないだろうか。日羅は新羅との交渉能力に優れていたのであろう。新羅本紀に578年百済に閼也山城(全羅北道益山市)を与えたと記録されており、翌年、百済は熊峴城と松述城を築いて、蒜山城、麻知峴城、内利西城の道をふさいでいる。この実績が日羅の実績ではないだろうか。

 新羅に城を譲らせるというのはこの時代においては、相当な交渉能力と考えることができる。百済王としては手放したくはないであろう。それと同時に大和朝廷にとっても、任那を奪還するために是非とも必要な人材だったのである。

 再び天皇は吉備海部直羽嶋を百済に遣わした。今度は百済王に頼むのではなく、直接日羅に会うことにした。しかし、百済王の監視があり、気安く日本人と会うわけにはいかず、日羅は、羽嶋に女を買うふりをして家に入ることを示唆した。

 日羅は、天皇の詔に応じ、母国である日本へ行くことを希望した。羽嶋に「百済王は、日本の朝廷が、自分を日本に留めたまま帰さないだろうと疑っている。日本へ行くことは、許してもらえないだろう。だから、厳しい態度で急いで自分を召すようにせよ。」と、策を授けた。
 百済王は、仕方なく日羅の帰国を許すが、百済人の部下を、一緒に付けてよこした。おそらく、日羅の行動を監視すると共に、日羅を百済へと連れて帰るためだったと思われる。

 難波に着いた日羅は、父のかつての主君の息子である、大伴糠手子のねぎらいを受けるが、うやうやしく糠手子を拝しながらも、嘆き恨んで語った。欽明元年に任那の割譲を責められ、大伴金村が失脚したことにより、阿利斯登が、戦が終わっても日本へ帰れなくなった事を恨んでいるのであろう。

 日羅の作戦

 大和朝廷は百済から無理をして帰朝させた。日本人でありながら百済の高官になった日羅に、「国の政」を問うた。大和朝廷が日羅に「任那の回復策」を訪ねた。これに対する日羅の答えは、

1 民を養い、国を豊かにした後、船を造って津(港)ごとに置き、すぐにも百済へ出兵するように見せかけよ。そして百済の王を呼びつけ、もし王が来なかったら、王子を呼べ。そうすれば百済は日本を恐れて、自然と日本に従うようになるだろう。
2 百済人は、「300艘の船がある。筑紫に行こうと(侵略しようと)思っている」と言っていたが、もし本当に「筑紫に来たい」と言ってきたら、来ることを許すふりをせよ。必ず最初に、女子供を多く船に乗せてやってくるだろう。大和朝廷は壱岐・対馬に秘かに兵を伏せ、やってきた百済人を殺すのだ。けして欺かれることなく、要所に強固な城塞を築くのだ」

 これは任那復興策とは関係のないものである。日羅が「百済よりも日本人としての心を大切に思っている」ことが、同行の百済人に「裏切り」と見なされてしまい、殺されるのであるが、この作戦はその理由造りのために書き換えられたものと考えられる。

 おそらく上の答えの「百済」を「新羅」と書き換えると、意味が自然とつながる。1は日本は強いことを見せつけて新羅を日本に従わせる作戦。2は人質を取って任那を解放させる作戦と考えられる。

 ここで、なぜ、「新羅」と「百済」が入れ替わったかが謎であるが、百済から派遣された高官が恩率・参官が新羅から派遣された工作員だったと考えれば説明がつくのである。新羅としては日羅のために城を奪われており、日羅は新羅にとって大変不都合な人物である。百済国内で日羅を殺してしまえば新羅が疑われるのがはっきりしているので、日本を利用して百済人の手で日羅を殺させれば、新羅にとって最も都合のよい流れとなるのである。

日羅暗殺

 百済から派遣された新羅の工作員恩率・参官が日羅の「新羅」を「百済」に書き換えて配下の者に伝えた。血は日本人とはいえ、今や日羅は百済の高官であり、日羅についてきた百済人にとっては、許し難い祖国への裏切りである。そこで、日羅と共に来日した百済の高官が、徳爾という低い身分の百済人に、自分たちの船出のあと、日羅を殺すように命じた。

 百済の高官恩率・参官が、徳爾・余奴に「秘かに日羅を殺せば、国に帰ってお前達の働きを王に申し上げ、高い位を授かろう。そして、妻や子供たちを良いようにしてやろう」と言い残して日本を去った後、日羅は桑市村から難波の館へと移った。

 徳爾らは日夜日羅をねらい、殺そうとするが、日羅には「身の光、火焔の如きもの」があり、恐れて殺すことが出来なかった。しかし、12月の晦に、「光失ふを候て」殺された。殺された日羅は蘇り、「日羅を殺したことは、私と共に来た使者がやったことだ。新羅の者がしたことではない」と言い、言い終わると死んでしまいました。

 日羅は新羅にとって都合の悪い人物だったので、新羅が日羅を殺すことは十分に考えられ、疑われることを新羅の工作員は知っていたのであろう。そのために、別の工作員に日羅が殺されるのを確認した後、「新羅人が殺したのではない。」ということを他の人々に吹聴したものと考えられる。

 天皇は物部贄子と大伴糠手子に、日羅を小郡(おごおり)の西の丘に埋葬させた。と同時に徳爾らを捕らえ、問いただすと、自分の罪を認めたので、朝廷は日羅の親戚にあたる葦北君らに徳爾らを引き渡し、好きなように処分して構わない、と言い渡した。葦北君たちは、徳爾らを殺し、弥売嶋に捨て、日羅を葦北へと運び、埋葬し直した。

 大和朝廷としては日羅の作戦を実行するつもりはなかったようであるが、結果として日羅が殺されてしまい。任那復興作戦は失敗したのである。

 敏達14年(585年)8月敏達天皇は大殿で崩御した。

 

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