欽明天皇

 欽明天皇即位事情

 欽明天皇は天国排開広庭天皇ともいい、継体20年(AD529年頃)生誕である。父は継体天皇、母は仁賢天皇第三皇女手白香皇后である。継体天皇が傍系の天皇位であるために、正統の仁賢天皇の血筋の人物を次の天皇として即位させようとしていた。

 継体天皇即位時、手白香皇后はおそらく他の皇后と結婚しており、仁賢天皇の皇女で未婚は2人のみであり、その皇女を安閑・宣化両天皇と結婚させ、少しでも皇位を正統の系統に継がせようと考えていた。

 継体18年頃手白香皇女の嫁ぎ先の豪族が死去したため、手白香皇女が自由の身となり、継体天皇と結婚した。この二人の間に生まれたのが天国排開広庭命(欽明天皇)である。安閑・宣化天皇の系統が皇位継承するより天国排開広庭命の系統に皇位継承させた方が正統に近いために天国排開広庭命が次の正統な皇位継承者となるはずであった。しかし、継体25年継体天皇が崩御した時、天国排開広庭命はまだ5歳であり、皇位継承には若すぎるために、安閑天皇が即位したが、次の年、この天皇も崩御した。正統の天国排開広庭命はまだ6歳であり、宣化天皇が繋ぎの天皇として即位した。しかし、宣化天皇も4年で崩御した。

 宣化天皇が崩御した時、天国排開広庭命は11歳頃であった。即位するにはまだ若すぎると判断され、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退することになった。そして、まだ若い天国排開広庭命が539年(宣化天皇4年12月5日)に即位し欽明天皇となり、この天皇が傍系が解消され現皇統へと続く祖となったのである。

 欽明天皇の在位中は朝鮮半島の戦乱時代である。必然的に欽明天皇と朝鮮半島の情勢とは深い関係が出てくる。まずは朝鮮半島の情勢から考えてみよう。

 欽明天皇即位時期の朝鮮半島の情勢

 高句麗の南下

 百済と高句麗はAD313年の帯方郡滅亡の時から犬猿の仲であった。高句麗は遼東西部にある国から侵入を受けている時期はそちらに勢力を割かれるので、百済の方には出てこないのであるが、遼東西部が安定している時には百済を攻めてくるのである。このころは高句麗の西側には東魏が存在していた。534年(継体25年)北魏が東魏と西魏に分裂したのである。高句麗は早速東魏に使者を派遣し、東魏から驃騎大将軍の称号を受けた。驃騎大将軍は反乱の征伐の将軍としての意味がある。東魏からこの将軍位を受けることにより、高句麗は西側の安全を確保することができたのである。以降高句麗は毎年のように東魏に朝貢している。

 これにより、高句麗は早速恨み重なる百済を攻めることとなったのである。日本書紀では宣化2年(537年)に「百済を救う」と記録されているが、その詳細は何も書かれていない。おそらく、高句麗が百済を攻めたので日本が援軍を送ったのであろう。

 しかし、次の宣化3年(538年)百済本紀によると、百済はそれまでの都である熊津から、泗沘(所夫里)に移し国名を南扶余としている。都を南に移しているのである。百済の都は建国以来ソウル市付近の漢城(慰礼城)であったが、雄略13年(AD475年)に高句麗の侵攻を受けて百済は一度滅亡しているが再興した百済の都がAD476年以降熊津であった。熊津は漢城の南方120km程の位置であり、泗沘はさらに50kmほど南である。遷都の理由は百済本紀に記録されてはいないが、おそらく、高句麗の侵攻によるものであろう。百済は高句麗によって北方の地を奪われ、南に追いやられているのである。

 大和朝廷は宣化2年に百済に援軍を送ったが、戦果が得られず、百済の北辺を高句麗に奪われる結果となったのであろう。そのために百済は都を熊津から泗沘に移したものと考える。

 新羅の台頭

 新羅は倭国領域内に誕生した自治区から出発している。次第に勢力を増し、倭国からの独立を願って倭国に対してさまざまな策略を練って領土拡大を図ろうとしたが、倭国の勢力の強い時代はそれもかなわず、ほとんどが失敗していた。ところが雄略天皇の死後短命の天皇が続き、倭国内での勢力争いが起き、倭国が朝鮮半島にあまり干渉しなくなってきた。これに乗じて新羅は国内体制を充実させ、武烈天皇の時代に倭国から事実上独立した。新羅王はこれまでは「干」という称号を用いており王ではなかったが、継体5年(AD514年)に即位した法興王からは正式に新羅国王となった。

 新羅は百済に任那を割譲したことに不満を持っていた伴跛国に干渉し日本と伴跛国を仲たがいさせ戦争状態にすることに成功した。これをはじめとして日本の勢力圏内にある伽耶諸国に干渉し、継体15年(524年)には新羅が金官国へ侵攻し、金官国の喙己呑を新羅領に編入した。また、伴跛国の北側の卓淳国に侵入し継体19年(528年)、卓淳国も新羅領に編入されることとなった。伴跛国も新羅の侵攻に手を貸していたのではないかと思われる。このようにして伽耶諸国を混乱に陥れた。そして、伽耶諸国を安定化させようとした大和朝廷軍を筑紫の君磐井を誘惑することによって、継体22年(AD531年)筑紫で反乱を起こさせ、大和朝廷軍を日本列島内にくぎ付けにした。

 このような策が成功し伽耶諸国の盟主であった金官加耶国を新羅に取り込むことに成功し、継体23年(AD532年)金官加耶国は滅亡した。欽明天皇が即位したAD540年新羅の法興王が死去し、7歳の真興王が即位したのである。

 欽明天皇在位中の出来事

 宣化4年(539年)

 宣化天皇崩御、若干11歳の欽明天皇が皇位を継ぐこととなった。大連は大伴金村と物部尾輿。大臣は蘇我稲目とした。新羅では第23代法興王が死去した。百済は第26代聖明王17年にあたる。

 欽明元年(540年)

 欽明天皇が第29代天皇として即位した。欽明天皇はまだ若干12歳程と思われる。この年、新羅では第24代真興王が即位した。欽明天皇は任那(伽耶諸国)が不安定状態になっていることを憂えていた。欽明天皇は任那復興を最大の目標に掲げた。任那混乱の原因は新羅にあるので新羅を討とうとしたが、新羅は強大化しており、現在の朝廷の力では勝つことができないことが予測され、新羅を討つことは断念した。しかし、新羅の任那への干渉を許した遠因は大伴金村の実施した、百済への任那割譲が原因であることははっきりしているので、大伴金村は謹慎した。

 この年、百済は牛山城を攻めているが牛山城は以前の都熊津の近くの城である。高句麗にこのあたりまで土地を奪われていることになる。領地奪回をはかって牛山城を攻撃したが、勝てなかったのである。 

 欽明2年(541年)

 外国人の来日

 日本書紀
「(欽明)元年二月、百済人己知部、投化けり。倭国の添上郡の山村に置(はべらし)む。今の山村の己知部の先なり。」
「三月に蝦夷・隼人・並びに衆を率て帰附ふ。」
「八月に、高麗・百済・新羅・任那並に使いを遣して献り。並に貢職脩る。秦人、漢人等、諸蕃の投化する者を召し集へて国郡に安置(はべらし)めて、戸籍に編貫く。秦人の戸の数、総べて七千五十三戸。大蔵掾を以て、秦伴造としたまふ。」

 百済だけではなく、高麗、新羅、任那などからの渡来者が急増し、旧来の帰化人の秦人や漢人が新しく来た人々を集めて戸籍を与えている。朝鮮半島が戦乱状態にあるために、多くの人々がその難を逃れて日本にやってきたものと考えられる。

 任那復興会議

 百済の聖明王が伽耶諸国と任那日本府の代表者を百済に呼んで任那復興会議が開かれた。

日本書紀
 「欽明二年(541年)夏四月に百済の聖明王が天皇の意志として、任那諸国(安羅、加羅、卒麻、散半奚、多羅、斯二岐、子他)の代表者と任那日本府の 吉備臣を百済に呼んで、任那復興について討議した。任那諸国の代表者たちは、『新羅と何度も交渉を重ねたが新羅からは何ら反応がない。使いを倭国に 派遣して天皇に奏上しましょう。任那復興は百済聖明王の意志でもあり異議はありません。しかし任那は新羅と境を接しており、卓淳国と同じ禍を受けて、 滅亡させられる恐れがありますことを。』と言った。」

百済聖明王は、
新羅に滅ぼされた任那諸国の使者たちを集めて、天皇のもとに集結し、任那復興を成し遂げようと呼びかけた。
聖明王は言った。
「私の祖先の肖古王、貴首王の世には、安羅、加羅、卓淳の諸国と使者の往来があって厚く親交を結んでいた。子弟関係にあっていつもお互いの隆盛を願っていた。しかし新羅に欺かれて天皇を怒らせてしまったのはわたしのあやまりだった。私は深く反省して使者を加羅に派遣して、任那日本府で同盟を結んだ。任那再興の思いは忘れたことはない。今、天皇は『すみやかに任那を再興せよ』と詔している。私は諸国と力を合わせて任那を再興しようと思う。首尾よく遂行しよう。
任那との境に新羅を呼んで、任那再興を承知するかどうか問いただそう。共に使者を倭国に派遣して天皇に謹んで奏上することを承知させよう。使いが帰ってくる前に、新羅がスキをついて任那を侵略したなら私が自ら行って任那を救いましょう。心配はいりません。しかし、守備を怠ってはいけません。

 またあなた方は卓淳らが受けた災難を自分たちも受けるだろうと恐れているというが、新羅は国力が強いために 侵略することができたわけではない。㖨己呑(トクコトン)は加羅と新羅の間にあって毎年攻撃されているのに、任那が救うことができなかったので滅ぼされた。南加羅は小国で自分で守ることができず身を寄せる国がなかったので滅ぼされた。卓淳は君臣の心が離れてお互いに疑い合い、国王が自ら新羅に内応して服従したために滅ぼされた。
この三国が滅亡した理由は明確だ。新羅は高麗の援けを受けて任那と百済を攻撃したが、まだ勝利を得てはいない。新羅は独力で任那を滅ぼすことはできない。今私はここにいるあなた方と共に天皇の霊威を頼りにして力を合わせて任那を復興しようと思う。」
と述べた。

 この時点で新羅に併合された任那に所属する国は金官加耶国、㖨己呑(とくことん)、南加羅国、卓淳国である。強大化した新羅が伽耶諸国の国々を次々と併合しており、それを防止し、併合された伽耶諸国を取り返すための会議である。新羅は武力において伽耶諸国を併合したのではなく国内の混乱に乗じて策を巡らせて併合しているのである。伽耶諸国がまとまれば新羅に付け込まれることはないことを確認している。

 欽明天皇は新羅が策を弄して伽耶諸国を併合しているのに危機感を感じていた。そのために百済の聖明王に命じて任那復興会議を開かせたのであろう。

(欽明二年)秋七月、聖明王は、安羅日本府と新羅が通じ合っていると聞いて、使者を安羅に派遣して新羅に遣わされている任那の管理を召還し任那再興を促した。安羅日本府の河内直等が新羅と通じていることを指摘して責めて罵った。

百済本記には、加不至費直(かふちのあたひ)、阿賢移那斯(あけえなし)、佐魯麻都(さろまつ)等と書いてある。詳細はわからない。

聖明王は任那諸国に対して、
「昔、私たちの先祖の肖古王、貴首王と任那諸国の国王とは初めて和親同盟を結んで兄弟となった。それによって百済は任那諸国を子とも弟とも思い、任那諸国は百済を父とも兄とも思っていたはずだ。どちらも天皇に仕えて協力して強敵を防いだ。その結果、国家安泰で今日に至った。改めて隣国の好を修めて同盟関係を強化しようではないか。きっとお互いにとって恩恵があるはずだ。今は何故当初結んだ時の志を失っているのかわからない。古人は言ったではないか、「追ひて悔ゆれども及ぶことなし。」と。
上は天国から下は地の国に至るまで神に誓ってこれまでの罪を悔い改めようではないか。隠し事はやめてすべて明らかにしようではないか。誠意を以て自責することは大切なことだ。我々は、家督を継承する者は父祖の家業を受けて盛んにして家業を栄えさせて成功することを尊ぶ、と言われている。我々は先祖たちが結んだ和親同盟を尊重して、天皇の詔に従って、新羅に侵略された南加羅、トクトコン等を奪い返し再び任那領として、永遠に父として兄として日本に仕えようではないか。
このことはいつも私の心を離れない。過ぎたことを悔やみ、今を戒めて、いつも気を配っていこうと思う。
 新羅が甘いことを言って欺こうとしていることは皆知っていることではないか。皆は騙されているのだ。任那の境界は新羅に接している。常に防備を固めて警戒を緩めてはならない。事実を曲げてだまそうとする謀略に引っかかって国を失い家をなくして新羅の捕虜にならないようにしよう。私は、新羅の謀略のことを思うと心配で心が休まることがない。任那と新羅の間で行われている謀略は災いの兆しだ。災いの兆しは今後の行動を戒めるために現れる。まさに天の告戒、先霊の徴表である。災いが起こって国が滅びてから悔いても後の祭りだ。
今あなた方はわたしの言うことに従って、天の勅を聴いて任那を再興すべきだ。なぜ初めから何もできなかった時のことを心配するのか。自国を滅ぼさずに永遠に保ち民を治めようと望むなら、私の言うことを聞いて、新羅から奪われた諸国を取り戻そうではないか。」

 肖古王、貴首王は第5代6代の百済王肖古王、仇首王であろうと思われる。肖古王はAD255年即位、仇首王はAD279年即位である。百済が漢城に移り倭国と交流を始めたのがAD205年卑弥呼の時代である。伽耶諸国と百済がその50年後程になり、崇神天皇の時代である。AD255年に新羅と百済が敵対関係となり、AD279年に伽耶諸国と新羅が敵対関係になっている。この時に百済と伽耶諸国は利害が一致しているので同盟関係になったといえる。

 聖明王の言葉から新羅が策を弄して伽耶諸国を併合している様子がうかがわれる。聖明王が任那復活に積極的に動いているがこれはなぜだろうか?任那は対馬の対岸地方であり、日本との交易の中心となる地域である。ここを新羅に占領されてしまえば、百済と日本との交流が難しくなることが最大の理由であろう。何としても任那は新羅に支配させてはならないのである。この時点で新羅の工作は任那日本府にも及んでいたようである。任那日本府の長官が新羅に内通しているようである。聖明王はそれに危機感を持って、欽明天皇に上表文を送っている。

 日本書紀聖明王上表文(概略)
 我々百済は天皇の詔勅に従って任那を再興しようと日本府に協力を呼びかけた。再三協力要請したにもかかわらず、任那及び日本府の協力は得られなかった。日本府には、阿賢移那斯(あけえなし)、佐魯麻都(さろまつ)という名前の親新羅派の役人がいて、任那は彼らの指示に従っている。その二人は新羅に通じていて、日本府の政治を思いのままに牛耳っている。彼らは新羅寄りの考え方をもっているので、彼らを排除しない限り任那復興はできない。彼らを日本府から排除した後で、日本府と任那に対して再度任那復興を命令して欲しい。
 私は、前の詔勅で日本府の的臣(いくはのおみ)、吉備弟君臣、河内直等が新羅と通じていることが天皇の命令によるものではないことを知って安心した。新羅はかつてトクジュンを侵略した。侵略した後、安羅の近い地域は安羅が、新羅に近い地域は新羅が管理した。このことを的臣は自分が新羅と交渉した成果だと主張して天朝を欺いている。新羅派の的臣が日本府にいる限り任那復興は難しい。佐魯麻都は日本府の役人であるにもかかわらず新羅の冠衣を身にまとっている。はばかることなく新羅と行き来している。
 トク国は国王が加羅国(任那)を裏切り新羅に内通したため滅ぼされた。卓淳も同様に国主が新羅と内応していたために滅びた。今日本府の麻都たちは新羅と通じている。このまま彼らに任せていれば任那は滅亡するだろう。彼らを早く日本府から追い返してほしい。

 しかし、任那を復興したいはずの欽明天皇は日本府の内通者をそのままにしている。これはどうしたことであろうか。欽明天皇は日本府の新羅に内通していると思われる的臣、河内直、移那斯、麻都などにその実態を問いただしたと思われるが、これらの人物は「はい、内通しています。」等というはずもなく、「内通していると見せて新羅の実情を探っている」とでも報告したのではないだろうか。

日本書紀
 天皇は「的臣や吉備臣・河内直らが新羅に通うのは朕の意に反する。だが、昔、新羅に攻め られて田を耕せない時期があった。百済に救援を求めるにしても道が遠いので、一応新羅に従うことによって、急場はしのいだ。このことは先代から聞いて知っている。しかし任那が復興しさえすれば、新羅にへつらっている移那斯や麻都もおのずから帰ってくるであろう」

 天皇は日本府の新羅内通者を信じていたのである。

 これらの日本書紀の記事は欽明2年から欽明5年にかけての記事である。欽明天皇が12歳から15歳のころと考えられる。欽明天皇が少し若すぎると思われるが、朝鮮半島は欽明2年から欽明7年の間は一応平穏を保っており、聖明王が任那復興に動けるのはこの期間意外にはない。

 百済仏教導入

 百済は高句麗から旧領の奪回をしようとしたが今の戦力ではどうしても勝てない状況にあった。百済は弱体化しているが新羅は次第に強大化しているのである。新羅がなぜ強くなったのかを分析してみると、新羅は継体19年(528年)に仏教を導入しており、仏教導入後の新羅は国内が安定し強大な国へと成長している事が分かった。百済もそれに倣い、仏教信仰を強化することに決し高句麗の背後に東魏がいるので、東魏と対立関係にある梁に使者を送り朝貢した。そして、仏教の教義、仏教関係の技師、絵画師等を導入し国内を安定化させて高句麗に対抗しようとしたのである。そして、高句麗の侵攻に対して新羅に援助してもらう目的をもって欽明2年(541年)新羅と和を講じた。

 聖明王は新羅と和を講じている間に、国内に仏教を普及させ、任那復興に奔走していたのである。

 日本書紀 
欽明六年 百済、倭国の使者の往来が相次ぐ。秋九月には百済は任那に中部護徳菩提(ちうほうことくぼだい)等を派遣して呉(梁)の財を日本府の臣、及び任那諸国に贈った。

 高句麗と戦うためには背後に援助する国があることを知らしめる必要がある。百済は梁に使者を送り、梁と交流を図り、梁の支援をもらっていたのであろう。そのために梁の財を伽耶諸国に配ったものと考えられる。

日本書紀
 欽明6年秋九月、「百済丈六の仏像を造る。」、「丈六の仏像の功徳は大きい。この功徳によって天皇が徳を得て、任那諸国が繁栄することを願う。普天の下の一切衆生が解脱することを願って造った。」

 仏教の力を信じる聖明王は仏像を作り伽耶諸国を援護してくれることを願った。聖明王は色々と手を尽くし、伽耶諸国が新羅の工作に乗らないようにしたのであろう。

 高句麗内乱

 高句麗本紀安原王15年(545年、欽明6年)
王が崩じた。号を安原王とした。
陽原王の名は平成で、安原王の長子である。生まれつき聡明で知恵があり、成長するにおよび雄豪がひとよりすぐれた。安原王の在位3年に太子となり、15年王が薨じて即位した。冬12月に使者を東魏に派遣して朝貢した。

 高句麗本紀には記録されていないが、日本書紀にはこの年、高句麗で内乱があったことを伝えている。高句麗の細群と麁群が宮廷で戦い、細群が破れた。この戦いの後に安原王が薨じている。高句麗は541年(欽明2年)から547年(欽明8年)まで百済に手を出していない。内政事情が不安定だったために、百済に手を出せなかったのであろう。しかし、内乱が終結し、聡明な陽原王のもとで高句麗はまとまったのである。早速百済に対する攻撃が再開された。

 百済と高句麗の戦い

欽明8年(547年) 高句麗百済攻略の準備をする。

 高句麗本紀(547年=欽明8年)
 秋7月、白厳城(遼東城南安平付近)を改築し、新城(撫順付近)を修理した。使者を東魏に派遣して朝貢した。

 日本書紀(欽明8年)
 4月、百済が使者を立て救援軍を乞う。

 高句麗が領域の西側の城の防備を固めている。これは百済侵攻に備えて、背後を突かれないようにしたものであろう。同じ年百済が日本に援軍を求めているが、高句麗が百済攻撃の準備をしていることを知った聖明王が、日本に援軍要請したものと考えられる。

欽明9年(548年) 高句麗独山城攻撃、新羅、百済を救援

百済本紀
 春正月高句麗王の平成がワイと共に共謀して漢北の独山城(忠清北道槐山郡)を攻めたので王は使者を遣わして新羅に救援を乞うた。
新羅王は将軍の朱珍に命じて武装兵 3千名を率いていかせた。朱珍は昼夜を分かたず行軍して独山城の下に至り高句麗軍と戦ってこれを大いに破った。

新羅本紀
春2月高句麗がワイ人たちと共に百済の独山城を攻撃したので、百済が救援を乞うてきた。王は将軍の朱令を派遣した。彼は屈強の兵 3千を率いていってこれを討ち、殺したり捉えたりした者その数が極めて多かった。

高句麗本紀
 春正月に濊(ワイ)兵6千をもって百済の独山城を攻撃したが新羅の将軍朱珍が来援したので勝てずに退いた。
秋9月に丸都から瑞稲を進上してきた。 使者を東魏に派遣して朝貢した。

日本書紀
 10月、百済の再三の要請に応え、370人を派遣し、城をトクジシ(得爾辛)に築く手助けをさせる。

 独山城は百済の北東部に位置し新羅との国境付近の城で、百済旧都熊津の東に位置する。熊津付近は既に高句麗領となっているため、その東側を攻略したのである。新羅との国境付近であるために新羅としてもそのままにしておくわけにはいかず、百済に援軍を送った。日本も援軍を送ったようである。この戦いに高句麗は破れた。

欽明11年(550年) 新羅、百済高句麗の戦いに乗じて城を取る

東魏
 549年、東魏高澄が梁からの降人・蘭京に殺された。高澄の弟である高洋(文宣帝)が後を継ぎ、翌550年に東魏孝静帝から禅譲を受け北斉を建てた。

 百済本紀
春正月、王は将軍の達巳を派遣して兵1万を率いさせて高句麗の道薩城を攻めとった。 3月高句麗軍が金峴城を包囲した。

 新羅本紀
春正月、百済が高句麗の道薩城(忠清北道槐山郡)を抜き、三月には高句麗が百済の金峴城(忠清北道鎮川郡)を陥とした。王は両国の兵が疲れているのに乗じて異斯夫に命じてこれを討たせた 。異斯夫は二つの城を取って増築し兵数千名をそこにとどめてこれを護らせた。

 高句麗本紀
春正月に百済が攻めてきて道薩城を陥した。3月に百済の金峴城を攻めたが新羅軍がその隙に乗じて二つの城を取った。夏6月に使者を北斉に派遣して朝貢した。
秋9月に北斉が王を封じて『使持節侍中驃騎大将軍領護東夷校尉遼東郡開国公高句麗王』とした。

 日本書紀
2月、百済から高句麗との戦いで捕虜にした者を送ってくる。

 道薩城は独山城の近くの城で高句麗の支配下にあったが、百済はこの城を落とした。金峴城はその北西部にある城であるが、この当時の百済・高句麗の国境線の戦いである。国境近くの城の奪い合いをして互いの兵士が疲れているのを知った新羅は兵数千名で一挙に両方の城を取った。この直後に高句麗兵が反撃をしてきたが持ちこたえ、逆に追撃して高句麗兵を大敗させた。

 東魏が倒れ北斉になった。その途端高句麗が弱体化したようである。東魏の後ろ盾を失ったために、高句麗兵の戦意が喪失したのであろう。高句麗は早速北斉に使者を送り、東魏同様に後援を依頼したのである。

欽明12年(551年) 百済新羅連合軍、高句麗より領土奪還

 新羅本紀
 春3月元号を開国と改めた。三月王は国内を巡幸して民情を視察した。 王は高句麗を侵し勝ちに乗じて十郡を取った。

 高句麗本紀
 夏5月に使者を北斉に派遣して朝貢した。秋9月に突厥が新城へ攻めてきて包囲したが勝てずして白厳城へ攻撃を移したので王は将軍に兵1万を率 いさせて派遣し、これを防がせて勝ち、1千名を惨殺した。新羅が攻めてきて十の城を取った。

 日本書紀
 3月、百済の聖明王、みずから兵を率い、新羅・任那と連合して高句麗を討ち、漢城を獲る。また北上して平壌まで攻略する。

 東魏が北斉に代わり、高句麗の背後が不安定になったようである。この期を逃さず百済・新羅・任那の連合軍は高句麗を攻め立て、漢城を奪還し、一挙に平壌まで攻略した。

 9月に突厥が高句麗を攻めたのに乗じて新羅はさらに軍を出し、高句麗の10の城を取った。

 新羅の戦略は実に巧妙である。他国の隙をついて上手に領土を拡大している。これは、新羅が各地に工作員を送り込んでおり、その工作員からの情報をもとに的確に動いているためと考えられる。

欽明13年(552年) 新羅、高句麗と組んで百済任那を襲撃

 日本書紀
4月、箭田珠勝大兄皇子が死ぬ。
5月、五月、百済と加羅と安羅から使者が来た。「高麗と新羅が連合して、我々の国と任那とを滅ぼそうとしています。救軍を派遣してください。先手を打って相手の不意を衝いて攻撃しようと思います。派遣軍の規模は天皇にお任せいたします。」と奏上した。
天皇は詔して、
「百済王、安羅王、加羅王、日本府の臣が一緒になって使者を派遣し言ってきたことは了解した。任那と心を一つにして対処するように。そうすれば必ず天の恵みがあるだろう。また天皇の霊威も及ぶだろう。」
と言った。

 欽明12年には高句麗対百済新羅任那連合軍だったはずであるが、その次の年には高句麗新羅連合軍対百済任那連合軍に変わっている。これはどうしたことであろうか。これも新羅の策略ではないかと考える。

 この頃の新羅は朝鮮半島統一を考えており、百済任那の領域をすべて併合する計画だったようである。追い詰められた高句麗に使者を送り、戦闘で疲弊している百済の領域を一挙に併合しようと協力を要請したのであろう。高句麗としては一挙に10城を奪取されており新羅の戦力には恐れをなしており、新羅の要請を受け入れたものであろう。新羅としては百済を攻撃している時に背後から高句麗に狙われたのではたまったものではないので、高句麗と連合することになったものであろう。

 そのことを察知した百済聖明王はまともに戦っては勝てないと思い日本に援軍を要請したのである。

 仏教公伝

日本書紀
 欽明十三年冬十月、「百済聖明王西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣して、釈迦仏の金銅像一体、幡蓋若干、経論若干巻を献る。」
聖明王は使者に表文をもたせて仏教の功徳を礼讃している。
「この法はいろいろな法の中で最も優れています。理解しにくく入りにくいところがあり、(儒教の)周公や孔子でさえも知ることができませんでした。この法の及ぶところは限りがないようです。福徳果報をもたらし、さらには仏果を得て浄土に往生することができます。如意宝珠をもっているかのように祈り願うことによって心のままに満足を得ることができます。インドから三韓に至るまでどこでも仏教を信奉しています。謹んで帝国に伝えることで浸透することを願っています。仏(釈迦)が我が法は東に伝わらん、と記していることを私は実行することになります。」
聖明王からの表文を読んで天皇は群臣たちに意見を求めた。
蘇我大臣稲目宿禰は
「西隣の諸国が皆仏教を受け入れているのに倭国だけ背くわけにはいきません。」
と述べた。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は、
「天皇が王として君臨しているのは百八十神を以て春夏秋冬の祭りを行っているからです。今さら外国から来た神を拝んだら国の神々の怒りを受けるでしょう。」
と言った。
天皇は、
「それでは仏像や経典を稲目に渡すので試しに礼拝してみるように。」
と伝えた。
蘇我稲目は喜んで小懇田の家に安置し、向原の家を寺とした。その後国中に疫病が流行した。多くの人が亡くなりなかなか治まらなかった。
物部大連尾輿と中臣連鎌子は、
「仏教を受け入れたためにこんなことになってしまった。元のように百八十神を敬えば治まるだろう。仏像や経典を投げ捨てて元通りにしようではないか。」
天皇は尾輿と鎌子の主張を認めた。仏像を難波の堀江に流し、寺に火をつけて残らず焼き尽くした。

 朝鮮半島では仏教を取り入れた時期と一致して新羅が強大化しており、百済聖明王は梁に朝貢しており、梁に援護を求めていた。梁の武帝は仏教に心酔していた関係で、百済にも仏教を導入した。武帝の援護をもらうためか百済は伽耶諸国にも欽明6年(545年)仏教を伝えた。この時に任那日本府へも仏教が伝わっている。百済に仏教が導入されてから伽耶諸国がまとまり百済と連合を組んで高句麗と戦えるようになり、これも仏教の力であると信じたのであろう。これをもとに百済聖明王は日本にも仏教を伝えたのである。ところが日本では疫病が流行したようである。

欽明14年(553年) 新羅、百済領を奪い取る

百済本紀
 秋7月新羅は東北の辺地を攻めとって新州を置いた。冬10月王女を新羅の王に嫁がせた。

新羅本紀
春2月皇竜寺を建築。秋7月百済の東北の辺境を攻め取って新州を置いた。冬10月王は百済の王女を娶って小妃とした。

日本書紀
欽明十三年、百済、漢城と平壌とを棄つ。新羅、此に因りて、漢城に入り居り。今の新羅の牛頭方、尼弥方なり。地の名、未だ詳ならず。
欽明十四年正月になると、百済は倭国に使者を送り、軍兵の派遣を要請する

 百済本紀・新羅本紀と照合すると、日本書紀は欽明13年と14年の記事が逆のようである。高句麗と組んだ新羅の作戦は見事成功し、百済の北東部を一挙に新羅領とすることができた。高句麗に奪われていた土地は高句麗から取り返したのもつかの間ですぐに新羅に奪われてしまったのである。これにより新羅は朝鮮半島西海岸を手に入れたのである。

欽明15年(554年) 百済聖明王戦死

 日本書紀
欽明十五年夏五月、倭国の内臣(うちのおみ)が正月に約束した援軍を率いて百済へ向かった。
冬十二月、百済は下部杆率汶斯干奴(かほうかんそちもんしかんぬ)を倭国に派遣し上表した。
「百済の王臣明と安羅にいる倭国の臣達、任那諸国の王は『新羅は道に背いて何ともなし難く、天皇をも恐れず高麗と共謀して海北の倭国領土を侵略して滅ぼそうとしております。安羅・任那の臣達と協議し、使者を倭国に派遣して援軍をお願いして新羅を征伐しよう。』ということになりました。天皇が遣わした内臣が援軍を率いて6月に到着しました。
我々は皆大喜びしました。12月9日には新羅を攻撃に出陣しました。まず東方の指揮官である物部莫奇武連(もののべのまがむのむらじ)が兵を率いて函山城を攻めました。倭国から派遣されてきた兵の中に筑紫の物部莫奇委沙奇(もののべのまがわさか)が火矢の名手でした。天皇の威霊のおかげで、9日の夕方には函山城を焼き払い占領しました。とりあえず急ぎで報告いたします。」
さらに、
「もし相手が新羅だけなら今の兵力で十分です。しかし新羅は高句麗と手を握っています。戦果を挙げるのは非常に難しい状況になっています。伏してのお願いですが、速やかに筑紫にいる軍兵を派遣して助けていただけませんでしょうか。任那を助けることができれば事は全てうまく運びます。」
と言ってきた。
また百済(聖明王)は、
「私は大軍を派遣して任那を助けましょう。さらに申し上げますが、事は急を要していますので急使を派遣しました。良質の錦二匹、毛氈一領、斧三百口と函山城攻撃で捕えた男二名、女五名を奉ります。略式のお願いで誠に恐縮ですがよろしくお願いいたします。」
と申し述べた。
余昌は新羅を攻撃しようとしていた。百済の重臣たちは諌めて、
「天はまだわが軍に味方していません。今動けばおそらく禍を蒙るでしょう。」
と言った。
しかし余昌は新羅へ軍を進めて久陀牟羅(慶尚北道西北部か)に山城を築いた。父の聖明王が息子余昌の動向を心配していた通り余昌軍は苦戦が続き寝食も取れない状態になっていた。父の慈悲心も息子の孝行心も成就することが少ないのが世の常というものだ。
聖明王は自ら出陣し余昌を慰労しようとした。新羅は聖明王の出陣を聞いて全兵力を挙げて進路を遮り百済軍を撃破した。新羅には佐知村に馬飼の苦都(こつ)という者がいた。
「苦都は身分の低い男で、聖明王は有名な国王だ。身分の低い男が有名な国王を殺せば、後々まで人々の口に伝わり続け忘れられることはないだろう。」
と言われた。
苦都は聖明王を捕えて言った。
「王の首を斬らせていただきたい。」
聖明王は答えて言った。
「王の頭はお前のような者の手で受けることはできない。」
苦都は、
「新羅と交わした盟約を破って侵攻してきたので、国王と言えども私に殺されてしかるべきだ。」
と言った。
一本には、聖明王は床几に腰かけて持っていた刀を谷知(やち、苦都のこと)に渡して斬らせたという。
聖明王は天を仰いで大声を上げて泣いた。苦都を許して、
「私はいつも骨に食い入るような痛みを感じていた。もうこれ以上生きることはないだろう。」
と言って、自ら首を出して斬られた。苦都は首を斬って殺し、穴を掘って埋めた。一本に云う。新羅は聖明王の頭骨を留めて、他の骨を礼に従って百済へ送った。新羅王は聖明王の骨を北庁の階段の下に埋めた。この庁は都堂であるという。
余昌は新羅に囲まれて身動き取れなくなり、どうしようもなくなった。日本から派遣された兵の中に弓の名手筑紫国造という者が弓を引いて狙いを定めて新羅の騎馬兵の中の最も勇ましいものを射落とした。発射する矢は鋭く、鞍を射通してさらに鎧の首に突き刺さった。続いて発射する矢も雨のように激しさを増しとどまることがないほどで、囲んでいた敵軍を後退させた。
余昌や諸将たちは間道を通って逃げ帰ることができた。余昌は囲んだ敵軍を射散らした国造を褒めて鞍橋君と名付けた。新羅の敵将たちは百済が疲れ切ってしまったことを見て取って、徹底的に滅ぼしてしまおうと画策していた。しかし一人の将軍が、
「それはするべきではない。天皇が任那のことでしばしば我が国を非難している。ここでまた百済を滅ぼそうとしたら、必ず後になって災いを招いてしまうだろう。」
と言って百済攻撃をとどめた。

百済本紀
 秋7月王は新羅を襲撃しようとして自ら歩兵と騎兵50を率いて夜中狗川に到着したが新羅の伏兵が起こって乱戦となり、王は害を受けて亡くなった 。贈り名を聖と言った。
冬10月高句麗軍が大挙して熊川城を攻めてきたが破れて帰った。

新羅本紀
 秋7月明活城を修築した。百済王の明禮が加羅と共に管山城を攻めてきたので、軍主である角干の干徳や伊食の耽知などが迎え撃って戦っ たが戦局は不利であった。そこで、新州の軍主金武力が州兵率いて交戦すると、副将の三年山郡の高干である郡刀が急に攻撃を仕掛けて百済王を殺した。こうなると諸軍は勝ちに乗じて大勝を博し佐平4名と士卒2万9千6百人を斬ったので1匹の馬も帰るものはなかった。

高句麗本紀
 冬に百済の熊川城(忠清南道公州市)を攻撃したが勝てなかった。

 日本は百済から要請のあった援軍を送った。援軍を得て百済聖明王は新羅を攻撃したが、破れて戦死した。その状況は日本書紀が詳しい。新羅は百済・任那を併合しようとしているがその背後にいる日本を恐れているようである。これで戦いは休戦状態になった。結果は領土を拡大した新羅の一人勝ちと言ったところであろう。

 任那滅亡

欽明16年(555年) 新羅、国境の拓定

日本書紀
・2月、百済王子・惠(ケイ=余昌の弟)が渡来し、聖明王の戦死を告げる.。
・7月、蘇我稲目、吉備の五郡に白猪屯倉を置く。

新羅本紀
春正月完山州を置いた。王は北漢山を巡幸して国境を拓定した。

高句麗本紀
使者を北斉に派遣して朝貢した。

 新羅は現ソウル周辺地域を百済から奪い編入した。その領域の統治体制を固めたようである。

欽明17年(556年) 多数の帰化人来日

日本書紀
・正月、百済王子・惠を百済に送るため、阿部臣・佐伯連・播磨直らを派遣し、筑紫の水軍を徴収した。中でも筑紫の火君は勇士千人を率い、百済まで惠を護送した。
・7月、蘇我大臣稲目宿禰等を備前児嶋郡に派遣して、屯倉を置いた。葛城山田直瑞子を田令(屯倉の監督者)に任命した。
冬十月、蘇我大臣稲目宿禰を倭国高市郡に遣わして韓人大身狭屯倉(おおむさのみやけ)言ふこころは韓人は百済なり、高麗人小身狭屯倉(をむさのみやけ)を置いた。紀国に海部屯倉を置く。
一本に云はく、処々の韓人を以て大身狭屯倉の田部にす。高麗人を小身狭屯倉の田部にす。是は韓人、高麗人を以て田部にす。因りて屯倉の号(な)とすといふ。
・10月、蘇我稲目らを遣わし、大和の高市郡に韓人大身狭屯倉・高麗人小身 狭屯倉を、また紀の国に海部屯倉を置かせた。

新羅本紀
 比列忽州を設置して成宗をそこの軍主に任じた。

 この年、多数の百済人、高句麗人、おそらく新羅人も来日して帰化したようである。激しい戦争が終わって落ち着いた時である。百済にとって高句麗人は敵国のはずであるが、同じように来日している。これはどうしたことであろうか。

 この時期は朝鮮半島が戦乱期にあたり、一時的な平穏な状態ではあったが、根本的に解決していないため、数年後、戦乱が起こることは明らかな状態である。この一次的な平穏時を利用して、政治的に安定している日本に移住することを多くの人々が望んだためと思われる。

 倭の五王の時代に日本(当時の倭)が朝鮮半島を統治していた。欽明天皇の時代は勢力が衰えたとはいえ、朝鮮半島の人々にとっては昔の倭のイメージが残っており、日本の勢力をまだ恐れていたところがある。そのために、日本に移住すれば安定した生活が得られると思ったのであろう。日本側もそれらの人々を積極的に受け入れた。労働力の確保が大きな目標であったと思われる。そのために帰化人を集めて各地に屯倉を作ったのである。それが、ますます多くの人々を引き付ける要因になったものであろう。

欽明21年(560年) 新羅朝貢

日本書紀
秋九月、新羅弥至己知奈末(みちこちなま)を遣わして調賦を献った。歓迎の宴や賜物はいつもよりも優れていた。
奈末は大変喜び、帰国してから、
「調賦を献上する使者は国家にとって重要な役割なので、私情をもつことを軽んじて、賤しまなければならない。使者は民の命に係わる使命があるので、選ばれた時はおごらずに自らを卑下していなければならない。王の政治はこのこと(外交関係)によって支えられてきた。今後は使者となる人は(私のように)良家の子息であるべきで、卑賤の人を使者にするべきではない。」
と言った。

 新羅が日本へ朝貢している。新羅は朝鮮半島で最も勢力を持つ国に成長した。百済に敵対しており、日本にとって都合の悪い存在のはずである。そこへ新羅が朝貢してきたのである。新羅はその昔倭国領域内にできた自治地域が発展して国になったものである。昔より倭国から独立したい思いから倭国と対立していた。実質的に独立できたのは武烈天皇の時代なので、独立後半世紀ほどたった時期である。

欽明22年(561年) 新羅と日本との対立

日本書紀
新羅は久礼叱及伐干(くれしきばっかん)を遣わして調賦を貢いだ。日本の外客接待役の歓迎の宴は今までよりも質が悪かった。及伐干は怒って、恨み骨髄に達して帰国した。同じ年に、奴氐大舎(ぬてださ)を遣わして、前回久礼叱が持ち帰った調賦を献上した。難波の大郡の迎賓館で外国の使者が揃った時に、外客接待役の額田部連、葛城直等は(新羅の使者を)百済の下位に列するように案内した。大舎は怒って帰ってしまった。客舎に入らずに船に乗って穴門に帰って行った。そこで穴門の客館を修理した。
大舎は、
「どの客のために造っているのだ。」
と問うた。工匠の河内馬飼首押勝は、偽って
「西の方の国の礼をわきまえない使者を問責するために遣わされた使者を宿泊させる施設です。」
と言った。
大舎は帰国して言われたことを報告した。
そのことがあった後、新羅は阿羅波斯山(安羅の波斯山)に城を築いて日本の攻撃に備えた。
 

百済本紀
秋7月王は兵を派遣して新羅の辺境を侵し略奪した。新羅軍が出撃してこれを破り死者が1千名であった。

高句麗本紀
使者を陳に派遣して朝貢した。 

陳について
梁の重臣、陳霸先は555年9月に梁の皇帝に蕭方智を敬帝として即位させた。陳覇先は梁の実権を掌握し、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、ここに梁は滅亡した。

 任那の滅亡は日本書紀でも欽明21年と欽明23年とで迷っている。この記事の中に安羅波斯山に城を築いていることが記されている。安羅国はこの時点では日本府のあるところで日本の統治下にあったはずである。そこに城を築くことは普通はあり得ない。このことから安羅国は欽明21年に新羅に併合されたと判断する。

 任那日本府は欽明21年に滅亡していることになる。この場合新羅は任那日本府を滅亡させた後、日本に朝貢したことになる。これも普通はあり得ないことである。任那日本府の併合過程にその理由があるのではないかと考えられる。任那日本府の長官は以前より新羅に籠絡されており、新羅よりの人物であった。日本もそのことは知っていて、知っていながら任那日本府の長官を任せていたのである。任那日本府の長官は新羅と百済の調整役も兼ねていたのであろう。その任那日本府を新羅得意の工作によって、金官加耶国の滅亡と同様に、任那日本府の長官の方から「新羅に所属させてくれ」と言わせたものと考えられる。

 日本としては戦闘で奪われたものであるなら、軍を送って奪い返すことも可能であったが、日本府の方から新羅へ併合を願い出たのでは攻めようがなかったのではあるまいか。欽明21年の新羅からの朝貢は、日本府を併合する挨拶だったのではないかと考える。

 新羅が任那日本府を併合することは日本にとって大きな痛手である。ここを併合しては日本からの攻撃は尋常のものではないと覚悟していたことであろう。しかし、日本が併合を認めれば新羅は安泰である。百済も新羅も過去の歴史をたどれば共に倭国領であった地域である。倭国領を百済に割譲し、新羅は倭国領内の自治区が発展したものである。当時の日本としては日本の一地域という考えがあったのではないだろうか。そのために新羅は敵国という考えではなく、新羅と百済が仲良くしてくれたらと思っていたことであろう。

 継体天皇の時代に百済に任那4県を割譲したことを新羅は根に持っていて、再三任那地域の割譲を新羅にもしてくれるように要望していたのではないだろうか。日本としてはそれを拒否し続けてきたが、任那日本府の方から新羅に所属願いが出されたのではどうしようもなく、それを認可することになったと思われる。新羅の方もそのお礼に最大限の礼を尽くして日本に朝貢したものと考える。これが欽明21年の新羅の朝貢であろう。日本側も交換条件に何かを要求したことも考えられる。

次の年欽明22年も新羅は最大限の礼を尽くして日本に朝貢した。ところが、百済の下に置かれてしまった。これは新羅としては許せないことであった。日本としては今までの経緯からそうしなければならなかったのであろうが、力をつけた新羅としては、それは許せないことであった。

 欽明23年(562年) 任那滅亡

日本書紀
 春正月、新羅任那官家を攻撃し滅ぼした。一本に云はく、二十一年に任那滅ぶといふ。総ては任那と言ひ、別ては加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古嵯国、子他国、散半下国、乞飡国、稔礼国と言う。合せて十国なり。

 秋七月、新羅使者を遣わして調賦を献上した。その使者は新羅が任那を滅ぼしたことを聞き、倭国の恩に背いたことを恥じて、あえて帰国することを求めなかった。倭国に留まって帰らずに帰化した。河内国更荒郡(さららのこほり)鸕野邑(うののさと)の新羅人の祖先となった。
 大将軍紀男麻呂宿禰を遣わして、兵を率いて哆唎から出陣した。新羅が任那を滅ぼした状況を視察しようとした。任那に到着した後、薦集部首登弭(こもつべのおびととみ)を百済に遣わし、新羅攻撃の軍事作戦を共にする約束をしようとした。登弭は妻の家に宿泊した。その途中封印をした機密の所信と弓箭を落としてしまった。新羅は軍事作戦を知った。すぐに大軍を送ったが、敗れ去り降服を申し出た。紀男麻呂宿禰は新羅軍を打ち破った後百済の軍営に入った。
全軍に対して、
「勝っても敗けた時のことを忘れるな。安らかな時に危うい時のことを考えよというのは昔からの良い教えだ。今は山犬と狼がうろついている危険な場所にいる。軽々しい行いで後に難を受けることがないように気をつけろ。どんな平安な世の中でも刀剣を身から離すな。君子は武備を怠ることはないものだ。皆、このことを深く心に刻んで警戒するように。」
と言った。
兵卒たちは皆その命令に従った。

 (副将)河辺臣瓊缶は軍を進めてさらに戦った。向かうところを全て占領した。新羅は白旗を挙げて武器を捨てて降服した。河辺臣瓊缶は元々戦法のことをよく知らないので白旗に向った進軍した。
新羅の闘将は、
「将軍河辺臣はもうすぐ降伏するだろう。」
と言って軍を進めて迎撃した。鋭く攻撃し河辺臣を破った。前線での戦死者が非常に多く、倭国造手彦は救いようがないと判断して軍を離れて逃げた。新羅の闘将は鉾戟(ほこ)を手に持って追撃し、城の堀まで追いつめて攻め立てた。手彦は駿馬に乗って堀を渡って辛うじて逃げた。闘将は城の堀を望んで嘆き、
「久須尼自利。」
と言った。河辺臣は軍を引いて野営した。ここではすでに兵士たちは河辺臣を軽蔑していて、軍の統率はとれていなかった。新羅の闘将は自ら倭軍の野営の中に入っていき、河辺臣や同行していた婦人を捕虜にした。

 八月、天皇、大将軍大伴連狭手彦(さてひこ)を遣わして、兵数万を率いて高麗を攻撃させた。これは百済の作戦で百済と共に高麗を攻略した。
高麗王は墻(かき)を飛び越えて逃げた。狭手彦は勝った勢いで宮中に入り、宝物、七織帳(七色の糸で織った錦帳)、鉄屋を奪って(倭国に)帰還した。旧本に云はく、鉄屋は高麗の西の高楼の上に在り。織帳は高麗の王の内寝に張れりといふ。七織物を天皇に奉献した。甲(よろひ)二着、金飾の刀二口、青銅製の鐘三口、五色の幡二竿、美女媛媛は名なりとその従女を蘇我稲目宿禰大臣に送った。大臣は二人の女性を召しいれて妻として軽にある曲殿に住ませた。鉄屋は長安寺に在り。是の寺、何の国に在りといふことを知らず。
一本に云はく、十一年に、大伴狭手彦連、百済と共に、高麗王陽香を比津留都(ひしるつ)に駆ひ却く(おひしりぞく)といふ。

 冬十一月、新羅は日本に使者を派遣し、調賦を貢った。使者は新羅が任那を滅ぼしたことを天皇が激怒していることを知って、帰国することを申し出ることができなかった。罪に問われることを恐れて本国に戻らなかった。その従者たちも同様に日本に残り、摂津国三嶋郡埴廬(はにいな)の新羅人の先祖となった。

新羅本紀
 秋7月百済が辺境に侵入して掠奪をはたらいたので、王は兵を出してこれを防ぎ、1千余名を殺したり捕えたりした。
 9月に伽耶が叛いたので、 王は異斯夫に命じてこれを討たせ、斯多含をその副将に任じた。斯多含は騎兵五千名を率いて先発し、梅檀門に入ってそこに白い旗を立てた。 城中ではこれを見て恐れおののいてなすところを知らなかった。そのとき、異斯夫が兵を率いて攻め入ったので、敵は皆降伏した。斯多含は王から良田と 捕虜二百名を賞として賜ったが、捕虜は解放して良民とし、田地は自分の部下たちに分け与えた。

 高句麗本紀
春2月に陳の文帝が証書を送って王に寧東将軍を授けた。

 欽明22年(561年)、日本で百済の下に置かれたことを恨み、欽明23年正月、伽耶諸国に一挙に武力進攻し任那を新羅に編入した。あまりにも急激な行動だったために、日本・百済ともに対応できず、任那は一挙に新羅に編入されてしまった。

 欽明23年7月、任那を取り返そうと日本軍を朝鮮半島に派遣した。日本軍は百済と共に新羅を攻撃した。日本書紀には戦勝したように書かれているが、任那を取り返していないこと、新羅本紀に新羅が防衛に成功していることなどから、この戦いは新羅の勝利であったと思われる。

 日本書紀の7月の記事と新羅本紀の9月の記事が内容がよく似ている。この戦いは7月の戦いの一連の戦いと思われるので、9月ではなく7月の戦いと思われる。滅亡前の伽耶諸国の盟主は加羅国(高霊郡)であった。正月の新羅軍の急襲により滅亡したが、百済・日本軍が連合して加羅国を復興させようとしたものと考えられる。それが、新羅から見れば、伽耶が叛いたことになるのであろう。新羅軍は策を用いて日本・百済連合軍を虜にし、新羅が勝利を得たものと判断する。

 しかし、このような状態でも新羅は日本に対して朝貢しているのである。この朝貢はこの後も白村江の戦いまで継続されている。これはどうしたことであろうか。これは、推古31年(623年)の記事が参考になる。この年新羅が任那を討ち、任那は新羅に属している。この時、日本側が新羅にその真意を質した言葉である。

 「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い使える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内宮家と定め、心配なさいませんように」

 さらに大化2年9月の記事
「小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出せせるとともに、新羅から任那の調を奉らせることを取りやめさせた。」

 これらの記事から新羅は任那を虜にし、任那から調を差し出させることにしたことがわかる。しかし、日本との全面戦争はまずいとの考えから、内宮家は尊重し、大切に扱ったのである。そして、毎年のように日本に朝貢し、決して日本と敵対しているわけではないことを示したと考える。

 もうひとつ重要な事がある。推古31年(623年)は任那が滅亡した欽明23年(562年)と同じ干支の次の年である。推古31年の記事を欽明23年の記事と考えれば、前後関係がスムーズにつながるのである。新羅は任那を滅ぼしたが、このような扱いをしたからこそ、日本は新羅を本気で攻撃しなかったのであろう。新羅も日本の本格的攻撃には耐えられないと思って、このようなことを言ったのであろう。それが真実であることを日本に知らせるためにも、以降新羅は日本に対して朝貢を続けることになったと推定する。推古31年の記事は本当は欽明23年の記事ではないかと思われる。

 謎なのが欽明23年8月の記事である。日本・百済連合軍が高句麗を攻撃し勝利を治めるというものである。この記事が何の前触れもなくいきなり登場しているのは余りにも不自然である。このとき、百済の北側は新羅領となっており、百済と高句麗は国境を接していない。また、この年以降高句麗から人々が多量に日本に帰化しているのである。そして、欽明25年、新羅は北斉に朝貢し、翌欽明26年春二月、北斉から『使持節東夷校尉楽浪郡公新羅王』に任じられている。

 この地域が楽浪郡となっていることに注目したい。欽明25年に楽浪郡が新羅領になっていることを示している。この欽明23年8月の記事は欽明24年8月の記事であり、攻め込んだのは日本・百済連合軍ではなく新羅軍ではないだろうか。そうすれば、以降の出来事とスムーズにつながるのである。

 「玖珂郡志」に、欽明天皇(540~571)が当地を通行の際、「御興しをたて玉ふ故欽明寺と云。」とある。現在の寳光山欽明寺で、山口県岩国市玖珂町l欽明路1708番地に所在している。この寺は欽明天皇が九州から山陽道を通って都(現在の奈良県桜井市)に帰られるときに休まれた場所とされている。欽明天皇が在位中に九州を訪問しているとのことであるが、日本書紀にはそのような記録はない。日本書紀の記述の中で、欽明天皇が九州を訪問しそうな年は、やはり任那が滅亡した562年が最もありうる年である。

任那滅亡後の日本書紀任那関連記事

和暦 西暦 日本書紀記事
欽明 32年 571 3月 坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。
4月 天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。
敏達 12年 583 7月 天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
13年 584 2月 難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った
崇峻 4年 591 8月 天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。
11月 紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
推古 8年 600 新羅と任那が戦った。天皇は任那を助けようと思われた。
9年 601 3月 大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。
11月 新羅を攻めることをはかった。
18年 610 3月 高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。
7月 新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。
9月 使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。
10月 新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。人を遣わして新羅・任那の使者を呼ばれた。
19年 611 8月 新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
31年 623 この年新羅が任那を討った。任那は新羅に属した。
     この時、新羅国王が日本の使者倉下に申し伝えた言葉
 「任那は小さい国でありますが、天皇につき従い使える国であります。どうして新羅の国が気ままに奪ったりしましょうか。今まで通りの天皇の内宮家と定め、心配なさいませんように」
舒明 10年 638 百済・新羅・任那が朝貢した。
皇極 元年 642 正月 百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。
2月 百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。
3月 新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。
5月 百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。
10月 新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
大化 元年 645 高麗・百済・新羅の使いを遣わして調を奉った。百済の調の使いが任那の使いを兼ねて任那の調も奉った。
2年 646 高麗・百済・任那・新羅等が使いを遣わして調を奉った。
9月 小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出せせるとともに、新羅から任那の調を奉らせることを取りやめさせた。
3年 647 正月 高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
4年 648 2月 三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。 
5年 649 5月 小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
白雉 元年 650 4月 新羅が遣使して貢調した。(※注の或本には、この天皇の世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた、とある。)
2年 651 6月 百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。
3年 652 4月 新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
4年 653 6月 百済と新羅が遣使して貢調し、物を献じた。
5年 654 10月 天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔った。

 任那が滅亡した後の日本書紀内の任那関連記事は以上のとおりである。562年任那滅亡後に任那が日本書紀に頻出している。これはどうしたことであろうか。崇峻4年591年の記事を境に任那の様子が変わっている。この年までは天皇は任那の復興を気にしていることが記録されているが、この年より後は任那自身が独立して動いている様子が記録されている。日本書紀の記事をそのまま解釈すると、任那は一度562年に滅亡したが、任那が復活したことが考えられる。

 その後大化2年(646年)まで任那の記事が記録されている。同年9月、小徳高向博士黒麻呂を新羅に遣わして、人質を差し出せせるとともに、新羅から任那の調を奉らせることを取りやめさせた。

 この記事により新羅は任那王の人質を取り、任那を従わせていたことが分かる。

 高句麗からの帰化

 欽明26年(565年)

欽明26年(565年) 夏五月、高麗人頭霧唎耶陛(づむりやへ)等、筑紫に投化し、山背国に置り。今の畝原、奈羅、山村の高麗人の先祖なり。

 欽明31年(570年)

 欽明三十一年(570年)夏四月、天皇は泊瀬柴籬宮に行かれた。越人江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)が京に詣でて奏上し、
「高麗の使人が風と荒波に遮られて進路を迷い目的の港に行くことができず、波のまにまに漂流を続け岸に着いたので、郡司が保護した事を報告します。」
と言った。
天皇は詔して、
「私は即位してから今日に至るまでで、高麗の使いが初めて倭国の岸にやってきた。漂流して苦しんだようだが、何とか命を失わずに済んだようだ。天皇の良いはかりごとは広く行き渡り、高い徳はいよいよ盛んで、恵みの教化はあまねく行われ、天皇の広大な恩は至って遠くまで届くものなのではあるまいか。山背国相良郡に館を建てて、迎える準備を整えて厚くもてなしなさい。」
と述べた。
是月に天皇は泊瀬柴籬宮より、東漢氏直糖児(やまとのあやのうぢのあたひあらこ)、葛城直難波(かづらきのあたひなには)を派遣して高麗の使いを迎えに行かせた。
五月には、膳臣傾子(かしはでのおみかたぶこ)を越に派遣して、高麗の使人に対するもてなしをさせた。大使(高麗の使人)は膳臣が天皇の使者であることを知り、道君(国造)に対して、
「あなたが天皇でないことは私が疑いを持ったとおりでした。あなたは膳臣に対して、伏して拝礼をしていました。天皇の臣民であることがいよいよ明らかになりました。以前に私をだまして調貢品を奪って、自分のものにしてしまいましたがすぐに返してください。」
と言った。
膳臣はそれを聞いて、その調貢品を探させて使人に返した。京に戻ってそのことを報告した。

秋七月、高麗の使者は近江に到着した。是月に許勢臣猿と吉士赤鳩を派遣して、難波津を出発し船を引き上げて狭狭波山を越え、船を飾りたてて、琵琶湖北岸まで迎えに行かせた。山背の相楽館まで船を引きいれて、東漢坂上直子麻呂、錦部首大石を派遣し、守護として高麗の使者をもてなした。

欽明32年(571年)

春三月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那を滅ぼした理由を聞かせた。
翌夏四月十五日天皇は病の床に就き、その月に内寝で崩御した。

 欽明24年(563年)、新羅が高句麗を攻撃し、その領土を新羅領とした。それを嫌った多くの高句麗人が日本にやってきて帰化している。

欽明天皇 西暦 日本書紀 百済本紀 新羅本紀 高句麗本紀
即位前 539  宣化天皇は4年目に崩御し、跡を継ぐことになった。御年は若干であった。  大連は大伴金村と物部尾輿。大臣は蘇我稲目。 夏5月使者を東魏に派遣して朝貢した
1 540 ・正月、石姫(イワヒメ)を立てて皇后とする。
・2月、百済人コチブが投化する。添上郡山村の己知部の先祖である。 ・3月、蝦夷、隼人が衆を率いて帰順した。
・7月、14日に都を磯城郡磯城嶋に遷す。「磯城嶋金刺宮」という。
・8月、秦人の戸数は7053戸になっていた。大蔵掾となっていた秦人を秦伴造と呼称した。
・9月、難波の祝津宮において天皇が「新羅を討つにはどれくらいの軍勢が必要か」と問うと、物部尾輿は「大伴金村が515年に百済に任那の四県を割譲して以来、 新羅は非常に恨みに思っているので、容易には討てません」と返答。大伴金村は自ら謹慎して自宅にいたが、天皇は罪に問うことはなかった。
・秋9月王は将軍燕会に命じて高句麗の牛山城を攻めたが勝てなかった。 真興王即位、歳は7歳。王太后が摂政をした。
8月大赦を行った。冬10月地震があった。
百済が牛山城を包囲したので王は精騎5千を派遣してこれを討って走らせた。
12月使者を東魏に派遣して朝貢した。
2 541 ・春3月、五妃を納れた。
・4月、安羅のイトンケイ・タイフソン・クストリ、加羅のコテンケイ、卒麻の旱岐、散半渓の旱岐の児、多羅のイタ、斯二岐の旱岐の児、子他の旱岐らと、 任那日本府の吉備臣とが百済に行き天皇の詔を提出する。
・秋7月、百済が「安羅の日本府と新羅が謀を行っている」として使者を安羅に遣わした。分けても安羅の日本府にいた河内直を責め罵った。百済の聖明王は任那日本府に対しても「新羅に欺かれてはならない」と、日本からの執政官たちに直言した。
・秋7月、百済が紀臣奈率ミマサ・中部奈率コレンを遣わし、下韓任那の政治について奏上した。
王は使者を梁に派遣して朝貢した。兼ねて書簡を送って詩経博士と涅槃などの教義と合わせて工匠と画師等を乞うたが梁はこれを聞き入れてくれた。 異斯夫を兵部令に任じて内外の軍事を司らせた。
百済が使者をよこして和を乞うたのでこれを許した。
使者を東魏に派遣して朝貢した。
3 542 使者を東魏に派遣して朝貢した。
4 543 4月、紀臣奈率ミマサらが百済に帰る。
9月、百済聖明王が扶南の財物と奴を二人献上してきた。
・11月、天皇は百済に証書を送り、任那の早い復興を呼びかける。
・12月、百済王、佐平ら諸臣に任那の復興を諮る。佐平らは「任那の執事・国々の旱岐らを 召集して言い聞かせ、安羅の日本府にいて新羅と組んでいる河内直・イナシ・マツらを元の所に戻したらよいでしょう」と述べた。
使者を東魏に派遣して朝貢した。
5 544 ・正月、百済は任那と日本府のそれぞれの執事を召集しようとするが、二人ともうまく言い逃れて来ようとしなかった。
・2月、百済、使者を任那に送り「任那日本府の執事および諸国の旱岐は日本に行き、天皇の詔を直接聞くべきである」と言わせる。また河内直に「 汝の悪行によって任那は損なわれた。汝も天皇の下に行き、元の所に戻れ」と言った。
・3月、百済が三人の使者を送ってきた。これに対して天皇は「的臣や吉備臣・河内直らが新羅に通うのは朕の意に反する。だが、昔、新羅に攻め られて田を耕せない時期があった。百済に救援を求めるにしても道が遠いので、一応新羅に従うことによって、急場はしのいだ。このことは先代から聞いて知っ ている。しかし任那が復興しさえすれば、新羅にへつらっているイナシやマツもおのずから帰ってくるであろう」と
・11月、百済王のもとに集まった日本府の吉備臣と任那の諸国旱岐らを前にして聖明王は三つの対新羅策を表明した。
・12月、粛慎人が佐渡の海岸に漂着した。
春2月興輪寺が竣工した。3月人が出家して僧侶や尼僧になって仏を奉じることを許した 使者を東魏に派遣して朝貢した。
6 545 ・3月、膳臣ハテビを百済に遣わす。ハテビ、百済で虎を退治する。
・秋7月、百済、丈六の仏像を造る。
国史を修撰した。 王が崩じた。号を安原王とした。陽原王即位使者を東魏に派遣して朝貢した。
7 546 ・高句麗に内乱が起こり、細群2千人余が死んだという。 使者を東魏に派遣して朝貢した。
8 547 ・4月、百済が使者を立て救援軍を乞う。 春正月日食があった。 秋7月、白厳城を改築し、新城を修理した。使者を東魏に派遣して朝貢した。
9 548 ・10月、百済の再三の要請に応え、370人を派遣し、城をトクジシ(得爾辛)に築く手助けをさせる。 春正月高句麗王の平成がワイと共に共謀して漢北の独山城を攻めたので王は使者を遣わして新羅に救援を乞うた。
新羅王は将軍の朱珍に命じて武装兵 3千名を率いていかせた。朱珍は昼夜を分かたず行軍して独山城の下に至り高句麗軍と戦ってこれを大いに破った。
春2月高句麗がワイ人たちと共に百済の独山城を攻撃したので、百済が救援を乞うてきた。王は将軍の朱令を派遣した。彼は屈強の兵 3千を率いていってこれを討ち、殺したり捉えたりした者その数が極めて多かった。 春正月にワイ兵6千をもって百済の独山城を攻撃したが新羅の将軍朱珍が来援したので勝てずに退いた。
秋9月に丸都から瑞稲を進上してきた。 使者を東魏に派遣して朝貢した。
10 549 ・6月、百済に送った将兵はそのまま留めて置くことにする。 冬10月王は梁の都に賊が攻め入ったことを知らないで使者を派遣して朝貢した。侯景の乱が平定された後帰国した。 梁が留学僧の覚徳とともに使者をよこして仏舎利を送ってきたので王は百官に興輪寺の前の道に出てこれを奉迎させた。 使者を東魏に派遣して朝貢した。
11 550 ・2月、百済から高句麗との戦いで捕虜にした者を送ってくる。 春正月、王は将軍の達巳を派遣して兵1万を率いさせて高句麗の道薩城を攻めとった。 3月高句麗軍が金見城を包囲した。 春正月、百済が高句麗の道薩城を抜き、三月には高句麗が百済の金見城を陥とした。王は両国の兵が疲れているのに乗じて異斯夫に命じてこれを討たせた 。異斯夫は二つの城を取って増築し兵数千名をそこにとどめてこれを護らせた。 春正月に百済が攻めてきて道薩城を陥した。3月に百済の金見城を攻めたが新羅軍がその隙に乗じて二つの城を取った。夏6月に使者を北斉に派 遣して朝貢した。
秋9月に北斉が王を封じて『使持節侍中驃騎大将軍領護東夷校尉遼東郡開国公高句麗王』とした。
12 551 ・3月、百済の聖明王、みずから兵を率い、新羅・任那と連合して高句麗を討ち、漢城を獲る。また北上して平壌まで攻略する。 春3月元号を開国と改めた。三月王は国内を巡幸して民情を視察した。 王は高句麗を侵し勝ちに乗じて十郡を取った。 夏5月に使者を北斉に派遣して朝貢した。秋9月に突厥が新城へ攻めてきて包囲したが勝てずして白厳城へ攻撃を移したので王は将軍に兵1万を率 いさせて派遣し、これを防がせて勝ち、1千名を惨殺した。新羅が攻めてきて十の城を取った。
13 552 ・4月、箭田珠勝大兄皇子が死ぬ。・5月、高句麗と新羅が連合して百済・任那を攻略しようとしたので、百済が援軍を要請してくる。
・10月、聖明王が釈迦の金銅仏像・経典などを献上してくる。蘇我稲目大臣が仏像を礼拝し、向原の家を寺にして安置する。物部大連尾輿・中臣連鎌子は折り しも発生した疫病を仏像の為と称し、奪って難波堀江に捨てさせ、さらに寺を焼き討ちにする。
長安城を築造した
14 553 ・8月、百済から任那の執事「的臣(いくはのおみ)」が死亡したので、代わりを派遣するよう要請がある。 秋7月新羅は東北の辺地を攻めとって新州を置いた。冬10月王女を新羅の王に嫁がせた。 春2月皇竜寺を建築。秋7月百済の東北の辺境を攻め取って新州を置いた。冬10月王は百済の王女を娶って小妃とした。
15 554 ・正月、渟中倉太珠敷皇子を皇太子とする。
・5月、筑紫の内臣、水軍を率いて百済にいたる。
・12月、百済の聖明王、王子の余昌とともに新羅に入って戦うが、聖明王は捕らえられて斬首される。余昌は筑紫の国造「鞍橋君」の強弓に助けられ、 かろうじて生還した。
秋7月王は新羅を襲撃しようとして自ら歩兵と騎兵50を率いて夜中狗川に到着したが新羅の伏兵が起こって乱戦となり、王は害を受けて亡くなった 。贈り名を聖と言った。
冬10月高句麗軍が大挙して熊川城を攻めてきたが破れて帰った。
秋7月明活城を修築した。百済王の明禮が加羅と共に管山城を攻めてきたので、軍主である角干の干徳や伊食の耽知などが迎え撃って戦っ たが戦局は不利であった。そこで、新州の軍主金武力が州兵率いて交戦すると、副将の三年山郡の高干である郡刀が急に攻撃を仕掛けて百済王を殺した。こうなると諸軍は勝ちに乗じて大勝を博し佐平4名と士卒2万9千6百人を斬ったので1匹の馬も帰るものはなかった。 冬に百済の熊川城を攻撃したが勝てなかった。
16 555 ・2月、百済王子・惠(ケイ=余昌の弟)が渡来し、聖明王の戦死を告げる.。
・7月、蘇我稲目、吉備の五郡に白猪屯倉を置く。
春正月完山州を置いた。王は北漢山を巡幸して国境を拓定した 使者を北斉に派遣して朝貢した
17 556 ・正月、百済王子・惠を百済に送るため、阿部臣・佐伯連・播磨直らを派遣し、筑紫の水軍を徴収した。中でも筑紫の火君は勇士千人を率い、百済ま で惠を護送した。
・7月、蘇我稲目らを備前の児嶋郡に派遣し、屯倉を置かせた。
・10月、蘇我稲目らを遣わし、大和の高市郡に韓人大身狭屯倉・高麗人小身 狭屯倉を、また紀の国に海部屯倉を置かせた。
比列忽州を設置して成宗をそこの軍主に任じた。
18 557 ・3月、百済の王子・余(餘)昌が聖明王の後継となった。威徳王である。 国原を小京にした。沙伐州を廃して甘文州を設置し起宗をそこの軍主に任じた。新州を廃してきた北漢山州を設置した。 夏4月に王子の陽成を立てて太子とし群臣を内殿に呼んで宴会を設けた。
冬10月に丸都城の干朱理が叛いて殺された。
19 558 春2月高位高官の子弟や六部の裕福で勢力のある民を国原に移住させた。奈麻の身得が砲弩を製作して王に献じたのでこれを城の上に備え付けさせた。
20 559 夏5月日食があった 王が崩じた。号を陽原王とした。平原王が即位
21 560 ・9月、新羅がミシコチナマを遣わして朝貢して来た。
22 561 ・新羅がクレシクホッカンを遣わして朝貢して来たが、待遇は前年のミシコチマナより劣っていたので、クレシクは恨みに思った。また 、ヌテタサを遣わして来たが、百済の使者よりも劣る序列となった。帰る際に穴門に館を造っていたのでヌテタサが問うと、 「礼無き新羅の使者の宿泊する館だ」と言わたので、それを本国に帰って告げると、本国では新たに城塞を構えて日本に備えた。 秋7月王は兵を派遣して新羅の辺境を侵し略奪した。新羅軍が出撃してこれを破り使者が1千名であった。 使者を陳に派遣して朝貢した
23 562 ・正月、新羅が任那を滅ぼした。
・7月、大将軍・紀男麻呂、副将・河邊臣瓊缶を遣わし、任那の状況を検分させた。河邊臣瓊缶は新羅軍が 降伏の白旗を挙げたのに、自分も白旗を掲げて新羅陣中に入って却って囚われる。
・8月、大将軍・大伴狭手彦に数万の兵を率いらせ、高句麗を攻める。
秋7月百済が辺境に侵入して掠奪をはたらいたので、王は兵を出してこれを防ぎ、1千余名を殺したり捕えたりした。9月に伽耶が叛いたので、 王は異斯夫に命じてこれを討たせ、斯多含をその副将に任じた。斯多含は騎兵五千名を率いて先発し、梅檀門に入ってそこに白い旗を立てた。 城中ではこれを見て恐れおののいてなすところを知らなかった。そのとき、異斯夫が兵を率いて攻め入ったので、敵は皆降伏した。斯多含は王から良田と 捕虜二百名を賞として賜ったが、捕虜は解放して良民とし、田地は自分の部下たちに分け与えた。 春2月に陳の文帝が証書を送って王に寧東将軍を授けた。
24 563
25 564 使者を北斉に派遣して朝貢した。 使者を陳に派遣して朝貢した
26 565 ・高句麗人ツムリヤへら、筑紫に亡命してきたので、山背国に置く。 春二月、北斉の武成皇帝が証書を下して王を『使持節東夷校尉楽浪郡公新羅王』に封じた。
秋8月王は春賦を国原に使わして護るように命じた。
9月完山州を廃して大耶州を設置した。陳が使者の劉思と僧明観を来朝させて礼物を献じ、 仏門の経論七千余巻を送ってきた。
王子の元を立てて太子とした。使者を北斉に派遣して朝貢した。
27 566 祇園寺と実際寺が建立された。王子の銅輪を立てて王太子にした。使者を陳に派遣して土産物を貢いだ。皇竜寺が竣工した。 使者を陳に派遣して朝貢した
28 567 ・諸国で大水が発生して食糧不足になり、人が人を食するほどにもなった。 秋9月使者を陳に派遣して朝貢した。 春3月使者を陳に派遣して土産物を貢いだ
29 568 元号を大昌と改めた。
夏6月陳に使者を派遣して土産物を貢いだ。
冬10月北漢山州を廃して南川州を設置した。また、比列忽州を廃して達忽州を置いた。
30 569 ・詔して、船史・王辰爾の甥・膽津に白猪田部の丁(よぼろ)の籍で脱漏があるかないかを調べさせた。果たして多くの脱漏があり、 すべてを籍に定めたので、膽津に白猪史の姓を与え、田令に任命した。
31 570 ・3月、大臣・蘇我稲目が死亡する。
・7月、越の海岸に漂着した高句麗の使者を、新たに造った山城の相楽館に入れてねぎらう。
高斉の後王が王を使持節中車騎大将軍帯方郡公百済王に冊封した。 使者を陳に派遣して土産物を貢いだ 使者を陳に派遣して朝貢した
32 571 ・3月、坂田耳子郎君を新羅に遣わし、任那滅亡の理由を尋問させた。
・4月、天皇の病は重く、皇太子を呼んで遺言である「任那の再興」を直接話した。この月、天皇は崩御した。御年は若干であった。
高斉の後王が王を使持節都督東青洲諸軍事東青洲刺史に冊封した。 使者を陳に派遣して土産物を貢いだ

 欽明天皇関連系図

              ┏━蘇我馬子
              ┃
        蘇我稲目━━╋━小姉君━━┓ ┏崇峻天皇
              ┃      ┣━┫
              ┃      ┃ ┗穴穂部皇女┓
              ┗━堅塩媛━┓┃       ┣聖徳太子
仁賢天皇━手白香皇女━┓        ┃┃ ┏用明天皇━┛
            ┃        ┣━━┫
           ┣━欽明天皇━━━╋┛ ┗推古天皇
           ┃ 540      ┃
            ┃        ┣━━━敏達天皇━┓
     継体天皇━━┫┏安閑天皇   ┃  572     ┃         ┏舒明天皇━━━━━━━━━━┓
     510     ┣┫534      ┃        ┣押坂彦人大兄皇子━┫     ┏孝徳天皇    ┃┏天智天皇
    尾張目子姫━━┛┗宣化天皇━石姫┛        ┃         ┗茅渟王━━┫        ┣┫
             536               ┃               ┗皇極・斉明天皇━┛┗天武天皇
                息長真手王━━━━━広姫━┛

 

 トップへ  目次へ 
敏達天皇
関連 年代推定
半年一年暦の干支
継体天皇
安閑・宣化天皇