スサノオ・ニギハヤヒの抹殺

 人々の信仰を集めていたスサノオ・ニギハヤヒも時の流れに勝てず抹殺されるときが来た。

 丁未の乱の戦後

 丁未の乱の戦後、蘇我軍は徹底して物部の残党を狩りを行った。物部守屋の部下である「資人捕鳥部萬」という人物は、難波の守屋邸を守っていたところ、理由も告げられず蘇我軍に攻められたことに憤慨し、蘇我軍の多くの兵士を一人で倒した後に自害したとされている。
 そうした状況の中、物部一族は次々と蘇我軍に捕らえられて奴隷とされていったが、逃げ延びた者も多く、名を変え別人となって各地に散ったともいう。
 その後、物部の領地と奴隷は、半分は蘇我馬子のものとなり、もう半分は四天王寺に寄進されたとされている。蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、妻が物部一族の財産の相続権を主張したため、馬子が領地などを引き継いだ。

 物部氏の抹殺

 物部氏は饒速日尊を始祖とする豪族であり、饒速日尊の日本列島統一事業のために地方豪族が饒速日尊を崇敬している。その信仰の力は非常に強いものがある。

 丁未の乱で、仏に仏教を広めることを誓って勝利を収めることができたのである。厩戸皇子はその誓い通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子は法興寺(元興寺)を建立した。

 仏教をさらに地方に広めるためには、どうしても地方の饒速日尊信仰が邪魔である。饒速日尊信仰を弱める必要が出てきたのである。その時の蘇我氏の動きを示す伝承をもつ神社が存在している。

矢田八幡神社
 祭神「應神天皇、神功皇后、武諸隅命 配 孝元天皇、内色姫命」
「崇神天皇10年。四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民を して祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。当初の祭神は饒速日命、孝元天皇、その奥后内色姫命であったが、奈良朝に至り、当時の物部氏と蘇我氏の争いからついに物部氏亡び蘇我氏の探索は当地にまでおよび矢田部一族はそれを恐れ、宇左八幡宮を勤請して社名を矢田八幡と改めた。」
豊岡県神社神主書状一巻。(式内社調査報告による)
京都府熊野郡久美浜町大字佐野字地シワ38

 この神社の記事には饒速日尊を祭神とする神社に蘇我氏の追求が来て祭神を変更しなければならない状況が伝えられている。これが饒速日尊が抹殺された実態であろう。

 おそらく、この頃までに全国の神社で饒速日尊が祀られていたと思われるが、蘇我氏が地方まで圧力をかけて、饒速日尊を祭神から外すことを指示したのである。

 しかし、地方にとっては饒速日尊信仰は非常に大切にすべきものなので、何らかの形で残そうと図ったのであろう。そのために、饒速日尊を別の神名として残し、わけのわからない名の祭神を祀った神社が増えたのである。

 大物主神

 大和での饒速日尊を祀っている最重要視されている神社は大神神社である。この神社からも饒速日尊を外さなければならないが、あまりに有名であり、その神威は強烈であったので、蘇我氏の力をもってしても、饒速日尊を外すことができなかったのであろう。

 蘇我氏自身最初は協力に饒速日尊の抹殺を行おうとしたが、地方の信仰の強さを無視したのでは、蘇我氏の地位自体も危なくなるほどのものであった。そこで、饒速日尊を大物主神を名を変え、その実体を饒速日尊から大国主命に変えさせたのである。

地方豪族の反発がかなり強いので、一度の改革ではなく、少しずつ変えていったものと推定している。

 前方後円墳の終焉

 初期の大和朝廷はスサノオ・ニギハヤヒの神威を利用して政治を行っていた。気候が寒冷化し,生活が苦しい時期は, 苦しいときの神頼みで信仰が強かった。この時代の大和朝廷は,神の力を使って巨大な古墳を築造し,その神の力を利用するこ とで政権の安定に努めた。六世紀になると長かった寒冷期は終わり,温暖な時代がやってきた。温暖期になると作物もよくとれ 生活が安定してくる。人心も収まってくるので,神の力を使った政治をする必要もなくなり,人々も神をあまり意識しなくなってくる。そのため,権威を誇示するための巨大な古墳は必要なくなり,また,古墳を作るからといって多くの人々を神の力でかき集めるのも難しくなってきて,古墳は次第に小さくなっていった。そして,それまで特別な階層の人物のみ作っていた古墳である が,生活が豊かになってきたために,あまり力を持っていなかった多くの豪族が古墳を作るようになり,古墳の築造数は増えてい くことになった。古墳時代後期の始まりである。(年表)

 中期まで最も重要視されていた前方後円墳は饒速日尊を意識しているものであり、前方後円墳を作らないように指示が回ったと考えられる。前方後円墳は畿内では6世紀後半頃消滅しており、まさに、丁未の乱の頃より消滅したことになる。

 歴史の改ざん

 日本中の神社から饒速日尊を抹殺するには、歴史自体を改ざんする必要が出てきた。しかし、この時点ではまだその流れになっておらず、祭神を変えさせるのが精いっぱいだったようである。

 それを実行するのが、古事記・日本書紀の編纂である。これはまだ大分後のことである。

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