用明天皇

 仏教公伝と蘇我物部の確執

蘇我氏の系図(古代史の復元)

                             ┏仁賢天皇━武烈天皇
               ┏履中天皇━━市辺押磐皇子━┫
       ┏仁徳天皇━━━╋反正天皇 ┏安康天皇   ┗顕宗天皇
       ┃       ┗允恭天皇━┫                                              ┏孝徳天皇
━━応神天皇━┫             ┗雄略天皇              ┏阿豆王━━━━━━━広姫┓         ┏茅渟王━┫
       ┃                                ┃            ┣押坂彦人大兄皇子━┫    ┗皇極斉明天皇┓┏天智天皇
       ┗稚野毛二派━━━意富本杼━━乎非王━━━━━彦主人王━継体天皇━┻欽明天皇━┳┳━敏達天皇┛         ┃           ┣┫
                                              ┃┃               ┗舒明天皇━━━━━━━┛┗天武天皇
                                              ┃┃┏推古天皇         
                                              ┃┣┫
                                        ┏堅塩媛━━┃┛┗用明天皇━┓
                                        ┃     ┃       ┣━聖徳太子
                                        ┃     ┃ ┏穴穂部皇女┛
                                        ┃     ┃ ┃
                                        ┃     ┣━╋穴穂部皇子
                                        ┃     ┃ ┃
━武内宿禰C━━石川宿禰━━━━蘇我満智━━蘇我韓子━━━━蘇我高麗━蘇我稲目━╋小姉君━━┛ ┗崇俊天皇
                                        ┃
                                        ┗蘇我馬子━━━━蘇我蝦夷━━━蘇我入鹿

 用明天皇生誕の謎

用明天皇は585年に即位したが、疱瘡のため、在位2年足らずの用明天皇2年(587年)4月9日に崩御した。享年は『水鏡』36、『神皇正統記』、『如是院年代記』、『和漢合符』41、 『仁寿鏡』、『東寺王代記』48、鴨脚本『皇代記』67、『皇年代略記』、『興福寺略年代記』69など諸説ある。 父である欽明天皇の年齢から『水鏡』36歳か、『神皇正統記』、『如是院年代記』、『和漢合符』41歳が正しいと思われる。

 享年36歳だとすると、551年生誕となり欽明24歳の時である。敏達天皇が549年生誕なので、敏達天皇より2歳年下となる。享年41歳の場合、546年生誕で、欽明天皇19歳の時となる。敏達天皇より年上となる。同母妹・推古天皇の生年(554年)から、最も自然なのは、『水鏡』の享年36歳で、AD551年生誕である。

仏教伝来

仏教公伝

 欽明13年(552年)10月、聖明王が釈迦の金銅仏像・経典などを献上してくる。蘇我稲目大臣が仏像を礼拝し、向原の家を寺にして安置する。物部大連尾輿・中臣連鎌子は折り しも発生した疫病を仏像の為と称し、奪って難波堀江に捨てさせ、さらに寺を焼き討ちにする。
(日本書紀)

 仏教が日本に入ってきた最初の記事である。朝鮮半島では仏教を取り入れた時期と一致して新羅が強大化しており、百済聖明王は梁に朝貢しており、梁に援護を求めていた。梁の武帝は仏教に心酔していた関係で、百済にも仏教を導入した。武帝の援護をもらうためか百済は伽耶諸国にも欽明6年(545年)仏教を伝えた。この時に任那日本府へも仏教が伝わっている。百済に仏教が導入されてから伽耶諸国がまとまり百済と連合を組んで高句麗と戦えるようになり、これも仏教の力であると信じたのであろう。これをもとに百済聖明王は日本にも仏教を伝えたのである。

 欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、仏像の見事さに感銘し、群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、八百万神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。稲目は小墾田に仏像を安置して礼拝した。その後、疫病が起こり、民に死する者が多く出た。尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだとして、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、伽藍には火をかけられた。すると、風もないのに大殿が炎上してしまった。しかし、これで仏教が完全に排除されたわけではなく、翌欽明天皇14年(553年)には海中から樟木を引き上げて、天皇は仏像2体を造らせている。

 物部氏の祖は饒速日尊であり、饒速日尊をはじめとする日本古来の神を崇敬する保守的な豪族であり、蘇我氏の祖は武内宿禰であるが、朝鮮半島との深いかかわりのあったため、国際的視野の広い豪族であった。しかし、物部氏の本拠であった河内の居住跡から、氏寺(渋川廃寺)の遺構が発見され、神事を公職としていた物部氏も氏族内では仏教を私的に信仰していたと思われる。また、蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、百済の聖明王の死を伝えに倭を訪れた王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。

 これ以前にも帰化した人々が仏像を崇敬していたと思われ、物部氏と蘇我氏との論争は朝廷として仏教を受容するかどうかの論争であったと判断される。物部氏も試しに仏像を崇敬していたものであろう。ところが、疫病が流行したために仏像を破棄することになったのである。

仏教再度伝来

 敏達13年(584年)9月、百済から来た鹿深臣が石像一体、佐伯連が仏像一体を持っていた。それを馬子が請うてもらい受け、司馬達等と池邊氷田を派遣して修行者を探させたところ、播磨国で高句麗人の恵便という還俗者を見つけ出した。馬子はこれを師として、司馬達等の娘の嶋を得度させて尼とし善信尼となし、更に善信尼を導師として禅蔵尼、恵善尼を得度させた。馬子は仏法に帰依し、三人の尼を敬った。馬子は石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。

 敏達14年(585年)2月、蘇我大臣馬子宿禰は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得て、大野丘の北に塔を建てた。このとき国内に疫病がはやり、死ぬ者が多かった。

 敏達14年(585年)3月、守屋と中臣勝海(中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、達等の娘善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣をはぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち、現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。物部弓削守屋大連が奏して、仏法を宜断した。ところが疱瘡で死ぬ者が国に満ち、仏像を焼いた罪だと密かにいわれた。

 敏達14年(585年)6月、馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。

 疱瘡(天然痘)の流行と仏像の崇拝と破棄の関係が繰り返された。物部氏と蘇我氏は仏教を受け入れるかどうかという視点に立って、次第に対立関係となっていったのである。

敏達天皇崩御と皇位継承問題

 敏達14年(585年)8月、天皇は大殿で病死した。殯宮を広瀬に建てた。敏達帝が崩御すると、通常なら第一皇子である押坂彦人大兄皇子が次の天皇として即位するはずであったが、まだ年若く、皇位継承に必要な15歳まであと少しであった。そこで、皇位継承問題が起こったのである。

 蘇我稲目の二人の娘が共に欽明天皇の妃となっていた。その二人の妃の子が皇位継承候補者となった。最有力なのは欽明天皇第二皇子で蘇我稲目の長女堅塩媛の子である豊日皇子である。豊日皇子は欽明天皇と小姉君の子で穴穂部皇子の姉である穴穂部皇女を妻としていた。穴穂部皇子の妻は伝わっていない。蘇我馬子にとって、大兄皇子の方がより蘇我氏に近いうえに、欽明天皇の第二皇子であるために、皇位継承者候補者に問題はないと思われるが、穴穂部皇子の行動に不可思議なところがある。

 穴穂部皇子は天皇になりたかったようであるが、豊日皇子との間には条件に大差があるように思える中で、なぜ、穴穂部皇子は自分が皇位継承できると思ったのであろうか。 

子宿禰大臣は刀を帯びて誄を述べた。物部弓削守屋大連は馬子宿禰を矢で射られた雀烏のようだとあざ笑った。弓削守屋大連は手足をふるわせて誄を述べた。馬子宿禰大臣は、鈴をつけろと笑った。敏達帝の寵臣三輪君逆は隼人に殯の庭を守らせた。穴穂部皇子はなぜ死んだ王の庭に仕え、生きている王に仕えないのだと怒った。 

 敏達帝の忠臣であった三輪君逆は、隼人と共に殯の庭を守っていた。そこへ穴穂部皇子が現れ「どうして死んだ王の庭に仕えて、生きている王(=自分)に仕えないのか」と言ったと「日本書紀」にある。穴穂部皇子はこのとき、「次の大王は自分だ」と言っている。このことから次の天皇が決まっておらず、有力な皇子もいなかったということになる。

 天皇の継承権は、身分の高い母親から生まれた皇子が高く、15歳以上の皇子に決まる。まず、父から子と継承され、子に継承者がいなかった場合には、兄から弟へと継承された。穴穂部皇子は欽明帝の皇子ではあるが、母親は蘇我の出とはいえ勢力が劣る小姉君の三男で、欽明帝の皇子皇女全体の中ではおそらく第9子あたりである。欽明帝には后(1人)妃(5人)との間に16男9女をもうけているが、次の天皇に即位した用明帝(豊日皇子)は欽明帝第4子、その次の天皇である崇峻帝(泊瀬部皇子)は第12子である。

故穴穂部皇子は天皇の座を(自分より年上の皇子を差し置いて)主張することが出来たのであろうか。 

 穴穂部皇子よりも年上の皇子と言えば、34歳の豊日皇子と小姉君の長男である茨城皇子と思われる。堅塩媛の長男豊日皇子は、「書紀」の敏達7年に「莵道皇女(押坂彦人皇子の同母妹)を伊勢の斎宮に任命したが、池辺皇子におかされたため解任した」という記述がある。「法王帝説」「元興寺縁起」などで豊日皇子は「池辺皇子」という名で記されており、池辺皇子というのは豊日皇子であるらしい。また小姉君の長男である茨城皇子も、伊勢の斎宮である磐隈皇女を犯したという前歴がある。このことから、自分より年長の蘇我腹の皇子がそろってスキャンダルを起こしていたという事実と、「日出処の天子」で描かれているように気性が強く知恵があり、行動力もあった有能な皇子であると、まわりから認められていたという理由で、「我こそが次の大王である」と名のりを上げることが出来たのだと思われる。

 そのような中、豊日皇子が最有力で、豊日皇子に決まりそうだという噂が流れてきたと思われる。そこで、不自然なのが次に記事である。

 用明天皇元年(586年)5月、炊屋姫(敏達天皇の皇后、後の推古天皇)を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとした。これに対し先帝の寵臣三輪逆は門を閉じて拒み、穴穂部皇子は7度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子らはこれに同意。守屋は兵を率い磐余池で三輪逆を包囲するが、三輪逆は逃れて炊屋姫の後宮に隠れた。しかし、密告により居所を知ると穴穂部皇子は三輪逆とその子らを殺すよう守屋に命じ、守屋は兵を率いて向かった。その後、報告を聞こうと守屋のもとへ赴こうとするが、これを知りかけつけた馬子と門前で出会い「王者は刑人に近づくべからず」と諫言されるが、穴穂部皇子は聞き入れようとしなかった。馬子は仕方なくついて行き、磐余に至ったところで再度諫言、穴穂部皇子もこれ従い、胡床に座り守屋を待ち、戻ってきた守屋から三輪逆を斬ったと報告を受けた。なお、馬子は「天下の乱は近い」と嘆くが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えている。

 亡くなった敏達天皇の遺骸の前で穴穂部皇子が炊屋姫(敏達天皇の皇后で後の推古天皇)を犯そうとすることは、通常では考えられないことである。仮にそのような気持ちがあったとしても、公になることはないはずである。さらに、それを阻止した逆が不遜であり、それに馬子・守屋が同意するということなどさらにあり得ないことである。あり得ないことが堂々と記載されているということは、ここに重要な意味が隠されているということである。

 皇位継承に最も強い発言力を持っていたのが炊屋姫ではないかと思われる。敏達天皇の遺骸の前で炊屋姫が自分を推してくれれば、自分が天皇になれると思って、穴穂部皇子は殯宮に押し入ろうとしたのであろう。それを三輪逆に阻止されたのである。

 それでも、それだけで不遜だという穴穂部皇子に馬子・守屋が同意するとも思えない。おそらく、三輪逆は敏達天皇の忠臣であるために、生前の敏達天皇に忠誠を尽くしており、それが、馬子や守屋の反感を買っていたのであろう。

 用明天皇即位後ではこの記事に意味が亡くなることから585年の即位前の記事が586年に挿入されたものと考える。物部守屋も豊日皇子が皇位継承者になると蘇我氏の勢力がますます強大化するので、都合が悪く、穴穂部皇子を推していたと思われる。そして、穴穂部皇子の命に従い三輪逆を斬ったのであろう。

 しかし、最有力の豊日皇子がそのまま皇位を継ぐことになる。皇太子は押坂彦人大兄皇子である。

 用明天皇即位

 ここまで皇后は皇族から選ばれていた。豪族が外戚となったのは第22代清寧天皇の母が葛城氏の娘であり、清寧天皇の時葛城氏が外戚であった時以来である。これをきっかけとして蘇我氏が朝廷内で勢力を拡大することになったのである。

 用明天皇は皇后に蘇我稲目の娘小姉君の子泥部穴穂部皇女を迎えた。小姉君は堅塩媛の妹である。穴穂部皇女との間に厩戸・来目・殖栗・茨田の皇子をもうけ、さらに蘇我稲目の娘で皇妃の石寸名(いしきな)との間に田目皇子。また、当麻倉首比呂(葛城直磐村)の娘飯之子との間に当麻皇子、須加手姫(酢香手姫)皇女をもうけた。この須加手姫皇女は後に用明天皇の詔により伊勢神宮の斎宮となった。

 即位時、用明天皇は35歳と思われ、即位前にこれら皇子を設けていた。長子の厩戸皇子(聖徳太子)は敏達3年(574年)に生誕しており、用明天皇23歳の時となる。即位前に用明天皇は蘇我氏と深い関係にあったことが分かる。蘇我稲目は用明天皇の擁立に積極的に動いたのであろう。

 同年9月に大臣・蘇我馬子の推す豊日皇子(用明天皇)が即位した。

 用明天皇仏教に帰依

 用明2年4月 用明天皇は疱瘡にかかった。快癒祈願のために仏教への信心を深め、帰依をしようとした。臣下の私的信仰と違い、神祇の祭司長である天皇の仏教帰依は国の一大事である。これは、欽明天皇、敏達天皇、用明天皇の三代、約半世紀にわたる難問であった。用明天皇は臣下を病床に集め、「朕は三宝(仏法僧)に帰依したい。皆で是非を論ずべし」と命じた。
 排仏派の大連(おおむらじ)物部守屋は帰依に猛反対したが、崇仏派の大臣(おおおみ)蘇我馬子は「天皇の御心(みこころ)に異を唱えてよいはずがない」と反対論を制し、穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り睨みつけた。その後、守屋は群臣から命を狙われていると知らされて、別業の阿都(河内国)へ退いた。

 しかし、豊国の快癒祈願もむなしく、物部守屋と蘇我馬子の対立が決定的となる中、587年4月、用明天皇が崩御した。

 天皇は崩御したが天皇自身が仏教に帰依したことが以降の仏教隆盛に大きくかかわってくるのである。

 蘇我氏と物部氏の確執

 穴穂部皇子の暗殺

 翌・5月
 物部守屋は用明天皇が亡くなったこの時、再び兵を挙げ、穴穂部皇子を天皇に擁立し、政界の実権を握るべく動きはじめた。
守屋は穴穂部皇子を天皇に立てようとし、密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るよう願った。しかし、この時、密使の連絡が、馬子に漏れたのである。
馬子は、すかさず炊屋姫を奉じて、額田部皇女から
「速やかに、穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺せよ」
との詔を取りつけた。
 穴穂部皇子は許可なきクーデターで、馬子は正統な官軍という事になった。
用明天皇二年(587年)6月7日、詔を受けた馬子は、佐伯連丹経手らの軍をさしむけ、穴穂部皇子の宮を囲んだ。穴穂部皇子は楼を登ってきた衛士に肩を斬られると、楼から落ちて隣家へ走り入ったが、灯をかかげた衞士らによって探し出され殺害された。なお、翌8日には穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺され、穴穂部皇子と宅部皇子を殺害した。この宅部皇子は、第20代宣化天皇の皇子で、穴穂部皇子と大変仲が良かったとされる人である。
守屋は、この事件で次期天皇候補という大きな旗印をなくしてしまった。

 押坂彦人大兄皇子の謎

 ここで、皇太子であったはずの押坂彦人大兄皇子の消息がわからなくなっているのである。用明天皇が亡くなれば皇太子であるはずの押坂彦人大兄皇子が次の天皇になるはずである。ところが、物部守屋は穴穂部皇子を次の天皇にしようとしており、物部氏滅亡後は崇峻天皇が即位している。押坂彦人大兄皇子はどうなったのであろうか。

 妹とされる莵道皇女は敏達天皇の7年に伊勢の斎王になったが、池邊皇子に抱かれ、事が露見して斎王を解任された。この時に子供ができていたのである。斎宮を退いてからすぐのことであった。伊勢の斎王になるには少なくとも7歳程度以上にはなっている必要があり、敏達天皇即位前に生誕していたと思われる。敏達天皇は即位時23歳と思われる敏達天皇としてはあり得ないことはない。広姫は敏達4年に亡くなっているので最も若くて575年生誕である。その場合用明天皇が亡くなった587年には13歳である。まだ皇位継承が可能な年齢にはなっていないことになる。

 面白いことに、物部討伐戦には彦人大兄王の名がない。そればかりか、その後の歴史にも一切登場しない。糠手皇女との間には田村皇子以外にも、二人の子供をもうけている点を考慮すると、600年ころまでは生存していた可能性がある。
 敏達紀によると、推古の末子・桜井弓張皇女も彦人大兄王に嫁ぎ、山背王と笠縫王を産んでいる。弓張皇女は推古の第7番目の子供であり、おそらく敏達の晩年に産まれたものと思われる。敏達は585年の薨去であるから弓張皇女の出生は580年代の前半、従って、彦人大兄王と結婚したのは、早くても590年代の末ころとなる。ということは、推古十年(602)ころまでは、彦人大兄王は確実に生存していたことになる。

 皇太子であった押坂彦人大兄皇子が皇位継承しなかった理由として、用明天皇崩御時15歳に達していなかったことが考えられる。

 丁未の乱

 穴穂部皇子と共謀した物部守屋も逆賊と見なされ、蘇我馬子は逆賊粛清の大義名分を以って兵を起こし、物部守屋と対峙することとなった。

 馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かい物部軍と衝突した。
 物部氏は古来より朝廷の軍事を司ってきた氏族であるため 非常に強かった。その蘇我軍には厩戸皇子(聖徳太子)も参戦しており、軍の後方に控えていた。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た厩戸皇子は蘇我軍の劣勢を覆すべく、白膠の木で四天王像を造り、頭上に掲げて、「今、もし私を敵に勝たせてくださるのであれば、必ず護世四王(四天王)のために、寺塔を建てましょう」と戦勝祈願をし、同じく蘇我馬子も、寺院を建てて仏法を広めることを誓ったとされている。馬子は軍を立て直して進軍させた。
 舎人の迹見赤檮(とみのいちい)の放った矢が大将・物部守屋を射抜き、その矢を以って守屋は討死した。大将を失った物部軍は統制を失い、後に蘇我軍が勝利をおさめて丁未の乱は終戦を迎えた。
 その後、厩戸皇子は誓い通りに四天王寺を建立し、蘇我馬子は法興寺(元興寺)を建立した。

蘇我軍に参戦した武将
 泊瀬部皇子(崇峻天皇)、竹田皇子、廐戸皇子(聖徳太子)、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子
 迹見赤檮、紀男麻呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀施夫、葛城臣烏那羅、大伴連噛、阿倍臣人
 平群臣神手、坂本臣糠手、春日臣、秦河勝

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素盞嗚尊・饒速日尊の抹殺
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半年一年暦の干支
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敏達天皇