安閑・宣化天皇

 年表

西暦 和暦 半年一年暦
干支
中国暦
干支
日本書紀 百済本紀 新羅本紀 高句麗本紀
534 継体25 丁未 戊申 甲寅 崩御・安閑天皇即位
5月百済が朝貢
使者を梁に派遣して朝貢 東魏は驃騎大将軍の称号を加えた。
535 安閑2 己酉 庚戌 乙卯 屯倉を置く・安閑天皇崩御 使者を梁に派遣して朝貢
536 宣化1 辛亥 壬子 丙辰 使者を東魏に派遣して朝貢
537 2 癸丑 甲寅 丁巳 新羅が任那に害を与えるので任那を助けた。百済を救う 使者を東魏に派遣して朝貢
538 3 乙卯 丙辰 戊午 都を泗沘(所夫里)に移し国名を南扶余とした。
539 4 丁巳 戊午 己未 宣化天皇崩御 使者を東魏に派遣して朝貢
540 欽明1 己未 庚申 庚申 欽明天皇即位 高句麗の牛山城を攻めたが勝てなかった 法興王崩 百済が牛山城を包囲したが打ち破った

欽明天皇誕生について

 継体天皇が天皇に即位することになったのは皇統の断絶の危機があったためである。今後そのようなことを起こさないために数多くの皇后を迎え、数多くの皇子が誕生している。しかし、欽明天皇の誕生年が不明である。

 継体天皇の皇后手白香皇女も父の仁賢天皇が傍系であったために、雄略天皇皇女の春日大娘皇女を皇后として迎え入れた。そのために、互いの祖父の代から2つに分かれていた皇統は統一された経緯がある。この間に生まれたのが武烈天皇や手白香皇女らである。武烈天皇と継体天皇は生年が同じなので、手白香皇女は継体天皇より一つか二つ年上と思われる。

 継体天皇もその故事に習い、自らが傍系であるために、直系の皇女を皇后にして皇統を維持しようとしていたと思われる。そうすれば、継体天皇の次の代の天皇は手白香皇女との間の子である天国排開広庭尊(欽明天皇)になるはずであるが、日本書記によれば、継体天皇崩御時欽明天皇が若すぎるために安閑天皇が間つなぎで即位したようである。

 欽明天皇の皇后となる石姫は義兄となる宣化天皇の子であり、父継体天皇の孫に当たる。石姫皇后は欽明天皇の第一子を出産しているので、欽明天皇とほぼ同年代と考えられる。欽明天皇が石姫皇后よりかなり年上であるなら、それ以前に皇子が何人かいるはずである。

 日本書紀によると、
 宣化天皇が崩御したとき、それを継いだ欽明天皇は群臣に「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后(安閑天皇の皇后)は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決済をお願いするように」といわれた。

 これらのことより即位時欽明天皇は、当時の結婚年齢に達する前だったと考えられる。当時は15歳で成人と考えられていたようなので、欽明天皇即位の540年に15歳より少し若いと考えられる。誕生は継体17年(526年)よりすこし後と考えられる。

 欽明天皇誕生は継体天皇が磐余玉穂宮に遷都する頃である。このことから継体天皇が仁賢天皇の娘手白香皇女を皇后にしたのは継体元年とされているが、継体17年頃という結論に達する。手白香皇女は35歳近くになっているはずである。

 次の安閑・宣化天皇も春日山田皇女、橘仲皇女と共に仁賢天皇の娘を皇后としている。安閑天皇には後継ぎがなく、宣化天皇には1男3女であった。天皇に即位する前に結婚していたのである。

 継体天皇は自分の皇子に仁賢天皇の娘と結婚させている。仁賢天皇の娘は遅くとも500年には誕生しているはずなので、二皇子が結婚したのは520年頃であろう。

 継体天皇は最も重要な結婚であるはずの手白香皇女との結婚がなぜこんなに遅くなったのであろうか。継体天皇は当初自分の皇子を仁賢天皇の娘と結婚させ、直系の系統をつないで、次の天皇としようとしていたのであろう。このころ、手白香皇女は別の豪族と結婚していたのではあるまいか。継体天皇即位時、手白香皇女は20歳ごろと思われるので、もうすでに誰かと結婚している年齢である。仁賢天皇の皇女は7人いた。手白香皇女はその7人のうち、第三皇女なので、ほとんどはすでに結婚済みで、未婚は春日山田皇女、橘仲皇女の二人しか残っていなかったのではあるまいか。その二人を自分の皇子と結婚させたために、継体天皇と結婚できる仁賢天皇の皇女がいなくなったのではあるまいか。

 継体20年頃、手白香皇女と結婚していた豪族が亡くなって、手白香皇女が自由の身になったのを機に手白香皇女と結婚したのではあるまいか。その手白香皇女との間に欽明天皇が生まれたのである。継体17年頃のことであろう。

 安閑天皇の即位事情

 日本書紀では安閑天皇即位が甲寅(534年)であるが、継体天皇崩御が古事記で丁未(527年)、百済記によると辛亥(531年)とばらばらである。

 古事記が半年一年暦の干支を伝えていたとすれば、それは534年で、古事記日本書紀共に継体天皇534年崩御を示していることになる。これが事実であろう。

 百済記(現存せず)には、「辛亥年、日本の天皇・皇太子・皇子皆死んでしまった。」と記録されていたようである。辛亥年は531年であるが、これも半年一年暦の干支であるとすれば536年で、継体・安閑両天皇が2年連続で亡くなった年の次の年にあたるわけで、536年に皇子の誰かが亡くなったことと併せて、百済に伝えられたものと考えられる。

 この時期の日本書紀・古事記の年代にずれがあるために、安閑宣化王朝と欽明王朝の並立説や空位説、辛亥の変があったとする説などが存在しているが、古代史の復元では、特に矛盾点もなく、順調に皇位継承が行なわれていることになる。

 安閑天皇は継体天皇生前に即位している。日本書紀によると継体25年(534年)2月7日、安閑天皇が即位したその日に継体天皇が亡くなっている。この年が安閑天皇元年となっている。安閑天皇31歳の時である。

 安閑天皇は継体天皇生前に譲位されているのである。これはどうしたことであろうか。

 欽明天皇が直系の系統を引き継いでいる手白香皇女の血を受け継いでいるので、次の天皇は欽明天皇になるべきであるが、継体25年当時5歳前後で、天皇の位を継がせるには若すぎたので、その間つなぎに安閑天皇に継がせたと思われる。継体天皇も病が重くなり、安閑天皇を即位させ、何れ、欽明天皇に皇位を譲ることを遺言して亡くなったのであろう。

 宣化天皇即位

 安閑天皇は欽明天皇即位までのつなぎの天皇であったが、即位2年目の535年に若くして亡くなってしまった。欽明天皇に繋ぐには欽明天皇7歳程で、まだ若すぎるために、宣化天皇が間つなぎで即位することになったのである。

 宣化天皇は在位4年で崩御した。この時欽明天皇は14歳ごろであり、なんとか天皇の位を維持できると群臣が判断し、第29代天皇として即位したのである。

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