継体天皇

 継体天皇の年表(以降倭を日本と表記する)

西暦 継体 半年一年暦干支 干支 日本書紀 修正 百済 新羅 高句麗
510 1 己未 庚申 庚寅 葛葉宮に移り即位 干山国(鬱陵島)を服属させた 使者を魏に派遣して朝貢
511 2 辛酉 壬戌 辛卯 耽羅人百済に行き来する
512 3 癸亥 甲子 壬辰 使(久羅麻致支弥:くらまちきみ)を百済に遣わす。任那に逃亡してきた百済人を百済に移し戸籍に入れた 使者を梁に派遣
高句麗が攻めてくる
使者を梁に派遣して朝貢
使者を魏に派遣して朝貢
百済の加弗城と円山城を落とす。
513 4 乙丑 丙寅 癸巳 5月12月に使者を魏に派遣して朝貢
514 5 丁卯 戊辰 甲午 都を山城に移した。 法興王即位
この王より正式に王を襲名
515 6 己巳 庚午 乙未 百済、使を遣わして調貢。
任那4県(上多利、下多利、娑陀、牟婁)割譲を請う。
大伴金村、これを了承。
使者を魏に派遣して朝貢
516 7 辛未 壬申 丙申 百済から五経博士・段楊爾が来朝。
任那の伴跛国、珍宝を献って己文の地を乞う。
任那から更に2県(己文、帯沙)を百済に割譲。
使者を魏に派遣して朝貢
517 8 癸酉 甲戌 丁酉 伴跛国日本との戦いに備える。新羅を攻める 使者を魏に派遣して朝貢
518 9 乙亥 丙子 戊戌 物部連伴跛国に敗れる。 株山城を築く 4月と5月に使者を魏に派遣して朝貢
519 10 丁丑 戊寅 己亥 百済・高麗使安定来朝 安蔵王即位
520 11 己卯 庚辰 庚子 律令を発布、初めて百官の公服を制定し、朱紫の序列を決めた 梁から寧東将軍都督営二州諸軍事高句麗王に任じられる。
魏から安東将軍領東夷校尉遼東郡開国公高句麗王に任じられる。
521 12 辛巳 壬午 辛丑 都を山城乙訓に移した 飢饉になり民が新羅に逃げた 使者を梁に派遣し朝貢した
522 13 癸未 甲申 壬寅 伽耶国王が結婚を乞うた
523 14 乙酉 丙戌 癸卯 百済武寧王が亡くなった 武寧王崩ず 百済を侵す
使者を魏に派遣して朝貢
524 15 丁亥 戊子 甲辰 百済聖明王即位 伽耶との国境を拓定した。伽耶国の王が来て会見した。
525 16 己丑 庚寅 乙巳 新羅と修好 百済と修好
526 17 辛卯 壬辰 丙午 百済武寧王が亡くなった 熊津城を修理 使者を梁に派遣して朝貢
527 18 癸巳 甲午 丁未 百済聖明王即位 使者を梁に派遣して朝貢
528 19 乙未 丙申 戊申 初めて仏法を行った。
529 20 丁酉 戊戌 己酉 都を大和の磐余に移した 高句麗が自ら兵馬を率いて侵入し北辺の穴城を落とした。
王は五谷原で防戦したが勝てなかった。
百済と五谷で戦って勝つ
530 21 己亥 庚子 庚戌 大和の磐余玉穂宮に移る
531 22 辛丑 壬寅 辛亥 磐井の乱
近江毛野臣の任那派遣軍を筑紫君磐井が遮る。
堤防の修理
上大等の官を決め国事を総理させた。
安蔵王崩ず。安原王即位
532 23 癸卯 甲辰 壬子 加羅の多沙津を百済に譲る。加羅は新羅と結んだ。
近江毛野臣、任那の安羅に赴任。
任那王来朝し新羅の侵略を訴える。
新羅金官加耶国を加羅娶る
金官国国主投降 使者を梁と魏に派遣して朝貢した
使持節散騎常侍領護東夷校尉遼東郡開国公高句麗王に任じられる。
533 24 乙巳 丙午 癸丑 使者を梁と魏に派遣して朝貢した
使持節散騎常侍領護東夷校尉遼東郡開国公高句麗王に任じられる。魏に派遣して朝貢
534 25 丁未 戊申 甲寅 崩御 東魏は驃騎大将軍の称号を加えた。

 継体天皇の没年の謎について

 『古事記』には丁未4月9日、『日本書紀』には辛亥2月7日または甲寅とされている。日本書紀では在位25年とされており、15年間の記録が記載されている。次の安閑天皇の即位が甲寅で在位2年、安閑天皇の没年は古事記・日本書紀共に乙卯とされている。

 安閑天皇の在位期間は534年(甲寅)と535年(乙卯)の2年間で、古事記日本書紀共に一致しているので、確実と判断してよいであろう。雄略天皇の没年が辛亥(531年)であるなら、その後空位が存在することになる。これが、日本書紀の紀年の矛盾点であったが、古代史の復元では日本書紀の年代より3年後へずれているので、そのまま繋ぐと、継体天皇は510年即位で、継体25年は534年(甲寅)となり、矛盾はなくなる。また、この年の半年一年暦の干支は丁未であり、古事記の干支でもある。

 これ以降古代史の復元と日本書紀の紀年は一致する。允恭天皇崩御時の6年のずれは仁賢天皇で3年、継体天皇で3年の加算があることで解消されたことになる。

 朝鮮半島情勢

 継体天皇の時代は朝鮮半島に大きな異変が起こった時代である。朝鮮半島の情勢を中心に調べてみよう。

 512年(継体3年)
 任那に流れてきた百済人を調べて百済に送り返している。この頃の百済は高句麗から頻繁に侵略を受けており、かなり疲弊していたと思われる。百済王は人民を徴兵しており、その上に飢饉が発生して、百済の人々は大変苦しい状況に追い込まれていたようである。百済の人々は百済から新羅や任那に逃げ込んだのである。日本管理下にあった任那の人々と流れ込んだ百済の人々との間に衝突が頻繁に発生していたと思われる。そのために、継体天皇は強硬策に出て百済人を百済に追い返したのである。

任那割譲 

 515年(継体6年)<日本書紀記事概略>

 百済が使者を派遣してきて 任那四県(朝鮮半島南西部。上多利、下多利、娑陀、牟婁)の割譲を申し出てきた。
 上多利、下多利の長官であった押山は継体天皇に進言した。
「この四県は百済に隣接し、日本からは遠く離れています。放っておけばすぐに新羅に奪われましょうが、百済領にしておけば、しばらくは安心です」
 これに大連・大伴金村も同調したが、反対論もあった。
「住吉大神は三韓をまだ胎内にいた応神天皇にお譲りになりました。そこで神功皇后は武内宿祢とともに各所に役所を置き、三韓経営の拠点にしてきた。もし、他国にこれを与えれば、我が国は衰退し、長く後世まで国民の非難を受け続けることになる」
しかし、継体天皇の了承をえて、任那四県は百済に割譲されたのである。

 このことを後で知った太子・勾大兄皇子(後の安閑天皇)は怒った。
「応神天皇以来統治してきた四県を、そう簡単に百済に渡してはならない」
 勾大兄皇子は難波に新羅系外交官・日鷹堅磐を遣わし、四県割譲は承認できない旨を伝えさせた。
 が、百済使は取り合わなかった。
暫らくして
「大伴金村と穂積押山は百済から賄賂をもらっている」との流言が流れた。

 雄略天皇存命中は朝鮮半島諸国は倭の戦力を恐れて安定した状況にあった。しかし、雄略天皇崩御後短命の天皇が相次ぎ、朝鮮半島の統治がゆるくなっていたのである。百済も新羅も高句麗が頻繁に侵略してくる中、自らで国を守らなければならなくなり、逆に国の体制を充実させようとする意識が強くなった。

 新羅は正式国名を「新羅」と決定し、それまで「干」と呼ばれていた国の代表者を正式に「王」とした。律令を発布し、役人に序列をつけるなど国の体制を固め、独立国として自立する体制が固められた。さらに国の充実を図るために領土拡張を考えるようになってきた。鬱陵島はこの頃新羅領に編入された。さらに伽耶諸国にも手を出してきたのである。

 新羅は、昔より武力で持って土地を奪うのではなく、策略で持って土地を奪ってくるのである。工作員を目的の国に派遣して、国内を混乱させ、その混乱に乗じてその国に圧力をかけ国を奪うのである。

 一方、百済も自ら国を守るという状況を余儀なくされたが、以前より日本の保護のもとにあった関係上、百済は日本に従属するという意識が強かった。国としての体制を固めている新羅に対抗するのに、日本の協力のもとで対抗しようとしてきたのである。日本から離れている朝鮮半島南西部の地域は、この当時日本の政治力がほとんど及んでいない状態で、不安定な状況にあった。ここを領土拡張を意図している新羅に狙われた場合、対抗するすべもない。

 新羅は任那4県に工作員を送り込み、この地の確保を狙っていたのであろう。百済は新羅のこの動きに大変警戒していた。百済自身国民が多量にこの地域に逃げ込んでおり、国の強化のためには、この地域を百済領にするのが最も良いと感じ日本に、領土割譲を申し出たのである。

 百済自身は過去何回か日本から領土の割譲を受けており、そのたびに倭によって救われているのである。今回もそれを狙ったのであろう。日本としても百済は頻繁に朝貢してきて珍しいもの・最新の大陸の文化をもたらしてくれる重要な国であった。

 日本としても朝鮮半島統治のわずらわしさから解放され、その上に確実にその地域の貢物が得られることから、それを承諾することになるのである。これが任那割譲の実態であろう。

 加羅国(伴跛国)の台頭

 加羅国は高霊地域にあった国で、建国当初の国名は彌烏邪馬国または半路国といった。この小国が次第に成長して加羅国と呼ばれ、400年代以降大きく発展し、加耶諸国を代表するようになってから大加耶国になった。

 加羅国の始祖は伊珍阿?王であり、伝承によると金官伽耶国(南加羅国・狗邪韓国)の首露王の兄である。建国は金官加耶国とほぼ同じ200年頃であろう。

 伽耶諸国は統一王権というものが存在せず、小国の連合という状況であった。倭国の支配領域であり、倭国の保護のもと存在したと考えている。その中の有力国が伽耶諸国の盟主として存在したようである。以前は金官加耶国が伽耶諸国の盟主であったが、5世紀半ば以降加羅国が伽耶諸国の盟主となっていった。

 5世紀半ばと云えば、履中天皇が531年朝鮮半島を一挙に制圧する大遠征をおこなっており、それ以降、倭の支配力が強化されている。倭王珍438年は宋より倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国の安東将軍に任じられていたが、倭王済の451年には、この6国に加羅が加わっている。この時、日本側から求めた称号には「加羅」が入っていないのに、中国側が「任那」と別に「加羅」の称号をつけたのである。この間の時期に加羅国が台頭してきたものと考えられる。

 南斉書は、大伽耶国の荷知王(第8代王?)が建元元年(479)、南斉に使者を送って貢ぎ物を献じ、南斉は輔国将軍・本国王に叙した、と伝えている。この頃は加羅国が伽耶諸国の盟主となっていったのである。

 515年任那割譲を受けた百済は、さらにその方向を東に転じて伴跛国(加羅国)に所属していた己文を侵し確保した。怒った伴跛国王(第9代異脳王)は倭国に調停を要請した。

 継体7年(516年)、6月、百済は使者を遣わし、五経博士を奉り、伴跛国は百済の己文の領土を奪ったので、返すように言ってくれるよう願い出た。さらに11月、百済の文貴将軍は、新羅、安羅、伴跛国の使いを引き連れ来朝した。己文の地の所属に関して会議を持ったようである。伴跛国は珍宝を献って己文の地を乞うたが、会議の結果は百済の思い通りになり、百済は日本から己文・滞沙の割譲を受けた。

 朝鮮半島を統治していた日本としては、百済と伴跛国の領土争いに口を出さなければならないことになった。この時、倭国は百済の肩を持ち任那から更に2県(己文、帯沙)を百済に割譲したのである。倭としては伴跛国領にしておくより、百済領にしておいた方が、朝鮮半島が安定すると考えたのであろうが、伴跛国から恨みを買う結果となった。判断基準は両国の貢物の差であったのかもしれない。

 517年(継体8年)、伴跛国は日本を恨み日本との戦いを決意した。子呑・帯沙に城を築き、満奚に連ね、のろし台・兵糧庫を設け日本との戦いの準備をした。そのとき、新羅はこれをチャンスととらえ、工作員を派遣し伴跛国を支配下にしようと画策してきた。伴跛国王は日本を恨みこそすれ、新羅の支配下に下る気はなく、新羅に対して武力攻撃をした。

 518年(継体9年)、百済の文貴将軍が帰国するというので物部連を副えて百済に遣わすことにした。物部連が巨済島に達した時、伴跛国が日本に対して戦争準備をしていることを知った。
 これを知った物部連は船軍500を率いて、帯沙江に赴いた。滞在すること6日目、伴跛国が突如として船団を襲ってきた。散々に打ち破られ、物部連は命からがら逃げかえったのである。

 519年(継体10年)、百済は物部連らを引き連れて国に入れた。群臣たちはそれぞれに貢物を出した。そして、物部連について朝廷を訪れ、貢物と共に己文・帯沙を百済に賜ったことに対する礼を述べた。

 日本書紀には518年の戦いの顛末については記録されていないが、519年の記事から類推すると、物部連が敗退した時、百済が救援軍を送ったのではないかと思う。物部連は百済の救援軍によって伴跛国を打ち破ったのではないかと考える。

 この年、百済は日本に使いを送った。この使いには高句麗の安定が副えられており、日本は百済の仲介により高句麗と好を結ぶことができたのである。百済としても任那の割譲を受けた感謝の念を最大限表したのであろう。

 日本書紀継体23年の条に百済が「加羅国の多沙津を、百済に譲ってくれ」と申し出てきた。しかし、加羅国(伴跛国)王は「この津は宮家が置かれて以来、朝貢の時の寄港地にしているところです。簡単に隣の国に与えられては困る。境界侵犯である。」と反対した。しかし、後に百済に与えた。

 この記事は伴跛国と新羅が同盟を結ぶ前の記事である。519年頃の記事であろう。継体23年の記事は過去の記事が、この年にまとめられているようである。

 523年(継体14年)百済武寧王が崩じた。

 新羅の侵攻

 521年(継体12年)から530年(継体21年)の間の朝鮮半島情勢が日本書紀には記録されていない。しかし、継体21年には近江の毛野臣が兵を6万率いて任那に赴かなければならない状況になっていたようである。この時には南加羅(金官加耶国)のトク己呑を新羅に奪われていたのである。この間に何があったのであろうか。記録にないので類推してみよう。

 新羅は520年~521年にかけて、律令を制定し、官吏を任命し、梁に朝貢するなど、国としての体制を急激に整えている。新羅はこの頃急激に強国に成長したのである。

 一方百済は倭の強力な支援のもと伴跛国に干渉を始めた。伴跛国は追い詰められ、やむなく、新羅に救援を求めることにした。522年(継体13年)第9代異脳王は新羅の娘に対して結婚を申し出たのである。新羅の娘と結婚することにより新羅と結婚同盟を結ぼうとしたのである。新羅もこれを承諾し伊サン・比助夫の妹を送った。異脳王とこの娘との間に伴跛国最後の王月光が生まれた。新羅伴跛同盟が成立したのである。

 百済は新羅と同盟関係になった伴跛国に手を出せなくなった。そのような時、523年(継体14年)、百済武寧王が亡くなったのである。その機を逃さず高句麗が百済の貝水に侵入してきた。即位した聖王は騎兵1万を率いて、高句麗軍を撃退した。しかし、この高句麗の攻撃で、百済の意識は北に向き、南に対しては手薄となったのである。

 新羅と伴跛国は友好関係になり、その国境を明確にしておく必要が出て来た。524年(継体15年)に王どおしが会見し、国境を拓定した。

 百済の意識が北に向いているこの時、新羅は伽耶諸国に手を出し始めたのである。新羅は伽耶諸国で最も勢力を持った伴跛国との同盟関係により伽耶諸国に手を出しやすくなった。さっそく、この年(524年)には新羅が金官国へ侵攻し、金官国の喙己呑を新羅領に編入した。また、伴跛国の北側の卓淳国に侵入し(528年頃)、卓淳国も新羅領に編入されることとなった。伴跛国も新羅の侵攻に手を貸していたのではないかと思われる。

 日本としてはこの新羅の侵攻を黙って見ているわけにもいかず、新羅に対して伽耶諸国に手を出さないように要求したと思われるが、いつもの通り新羅はのらりくらりとかわしたのであろう。

 いつまでたっても解決の糸口が見られないので、継体天皇は530年(継体21年)、新羅征伐の決意をした。近江の毛野臣に命じて、兵6万を任那に送り、新羅に奪われた地域を任那に戻そうとした。久しぶりの倭国軍の派遣となる予定だった。

 筑紫君磐井の反乱

 しかし、その動きを察知した新羅王は筑紫君磐井に賄賂を送り、倭国軍の動きを妨害するように要求した。筑紫君磐井もこのような要求をすぐに受け入れるとは思えず、新羅は数年前から日本国内に工作員を送り込み、日本国内に混乱を起こす画策をしていたと思われる。

 新羅の最終目標は朝鮮半島の統一である。その統一を邪魔するのは、日本と百済である。新羅はまず、任那地域の新羅編入を目標としていたが、最大の邪魔者は日本である。任那地域は日本の統治領域である。任那を攻撃するということは日本と戦争をすることを意味している。この当時の新羅の国力では日本に勝てないことははっきりとしていた。

 日本が大軍を任那に送りこんでくれば、新羅は対抗できず、逆に百済領にされてしまう可能性もあった。何とかして日本の動きを封じる必要があったのである。その第一の計略が日本国内に騒乱を起こすことである。日本国内に騒乱が起これば、大和朝廷はその騒乱の鎮圧に兵力を使い、朝鮮半島に兵力を送り込む余裕がなくなるのである。

 その作戦に利用されたのが筑紫君磐井である。工作員を派遣して国を混乱させるのは新羅の常とう手段であった。新羅は磐井に使者を送り丁重に扱い、日本国からの筑紫国独立を示唆したのではないだろうか。新羅の援護のもと筑紫国国王になれると思った磐井は新羅の工作に乗ってしまったのである。新羅は磐井にとってかなり良い条件を提示したと思われる。

  530年(継体21)6月3日、大和朝廷の毛野臣は兵6万を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、磐井へ贈賄し、倭国軍の妨害を要請した。

 その要請を受けた磐井は挙兵し、肥国と豊国を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、倭国軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井は毛野臣に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では鎮定軍の派遣について協議し、継体天皇は物部麁鹿火を将軍に任命し、同年8月1日、麁鹿火は平定軍を率いて出発した。

 531年(継体22年)11月11日、磐井軍と麁鹿火率いる反乱鎮定軍が、筑紫三井郡にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。敗北した磐井は豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだとされている。同年12月、磐井の子、筑紫君葛子は連座から逃れるため、糟屋の屯倉を大和朝廷に献上し、死罪を免ぜられた。

 金官加耶国滅亡

 日本国内が新羅の狙い通り騒乱状態になった機会を、新羅は逃さなかった。伴跛国との同盟関係を破棄したのである。そして、この期に乗じて伽耶諸国に侵入し、新羅は金官伽耶の4村(金官・背伐・安多・委陀)攻め取った。

 531年(継体22年)、磐井の反乱を平定した大和朝廷は毛野臣を任那の安羅に派遣した。新羅領になっていた金官国の喙己呑を奪回し、詔して、新羅・百済の将軍を呼び寄せ、領土交渉を行った。

 この頃の日本の朝鮮半島の統治は、神功皇后の倭国軍侵攻以降、倭国が支配しているが、実際は元の国王がその地を統治するというものであった。ところがこのところ、新羅が伽耶諸国に侵入して、新羅領に編入しているのである。

 伽耶諸国の王は、来朝し、「このところ新羅がその時決められた境界を無視して領土侵害をしているので何とかしてほしい」と訴えている。継体天皇は任那の毛野臣に詔し、「任那王の奏上するところをよく問いただし、任那と新羅が疑い合っている点を和解させよ」といわれた。

 この年、金官加耶国の王一族は財産を持って新羅に投降している。新羅は王一族を丁重に扱って新羅国内で重要な地位を占めており、以降新羅で活躍しているのである。そして、新羅は日本に対して旧金官加耶国で得られた物を日本に貢いでいるのである。これはどうしたことであろうか。

 新羅が戦って土地を手に入れたのであれば王家は滅ぼされるであろうし、強行すれば、日本が反発するであろうが、日本と戦った形跡はなく、逆に日本に貢いでいるのである。どのような経過を経てこのようなことになるのであろうか。

 日本が新羅と戦わず、新羅が日本に貢いでいるということは、日本は金官加耶国が新羅に編入されるということを承知していたことを意味している。金官加耶国は朝鮮半島の入口にある日本にとっては重要地域のはずである。どうして、日本は金官加耶国を新羅に渡したのであろうか。日本書紀は日本の立場で描かれているので、ここに日本にとって都合の悪い何かがあったのであろう。

 ここまでに置いて、百済には任那を2回で6県割譲している。新羅は割譲を受けていないので、その扱いの差に抗議したのではないだろうか。百済への任那の割譲は伽耶諸国からかなりの反発を買っており、伽耶諸国が日本の指示を聞かなくなっていたのではあるまいか。伽耶諸国各地で反乱がおこり、当時の日本にはそれを鎮圧する程の力がなかった。新羅がそれを申し出たということは考えられないだろうか。

 新羅の工作活動は巧妙であり、金官加耶国にも工作員が入り込んで、日本から離れ新羅の支配下になることに関して、第10代金官伽耶国王仇衡王に交換条件を示していたのではあるまいか。
 「新羅に投降すれば、一族の財産、身分は保障するが、抵抗すれば日本はいつまでも金官加耶国を守ってはくれない。任那割譲を見てもわかるだろう。」
とでも言ったと思われる。

 同時に日本に対しては、
 「金官加耶の土地を新羅が治めたい。王家の一族は新羅で面倒を見て財産・身分は将来にわたって保障する。新羅は伽耶諸国の反乱を治め、日本に対しては、この地で取れた貢物を今まで以上に贈る。」

 とでも言ったらどうであろうか。金官伽耶国王も日本の百済びいきには、辟易としていたようであり、将来の保障がなくなったと思ったのであろう。このような時に新羅からの申し出があり、伽耶国王もそれに乗ったと思われる。

 このような流れで、金官加耶国が滅亡したと考えれば、その前後の状況が矛盾なく説明できるのである。

 調停役の毛野臣も新羅の工作に騙されたのであろうと思われる。

 この会議の結果を受けて、金官加耶国の仇衡王は妃や子供達とともに国の財宝を持って新羅に投降した。これによって金官加耶国は532年(継体23年)滅亡したのである。

 毛野臣反乱

 毛野臣は新羅に上手くあしらわれて、すべてが新羅の思い通りになった。毛野臣は新羅に懐柔されてしまったのである。任那を復興するどころか、逆に金官加耶国を滅ぼしてしまったのである。大和朝廷からは帰朝命令が来たがこれを無視して任那に居ついてしまった。朝廷を裏切ってしまったために、帰れなくなったのである。

 安羅国王阿梨斯等は交渉時は毛野臣の指示に従っていたが、毛野臣が任那復興の約束を実行しないばかりか、任那に居ついてしまい、その放漫な態度に怒りを覚え、帰朝することを勧めたが、毛野臣は聞き入れなかった。

 523年(継体24年)、阿梨斯等は百済と新羅に使者を送り、毛野臣を攻めさせた。毛野臣は百済が襲ってくるのを聞き、迎え撃ったが、敗北し、城にこもった。百済軍・新羅軍は連合して城を取り囲んだ。毛野臣は城の守りを固めたので、連合軍は破ることができなかった。1ヶ月経って連合軍は引き揚げたが、この時、怒りに任せて道すがらの城を落とした。

 毛野臣は任那を大混乱にしたのである。大和朝廷は事の重大性に気付き、毛野臣に帰還命令を出した。毛野臣は帰還途中の対馬で亡くなった。

 524年(継体25年)継体天皇は崩じた。

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