雄略天皇
雄略天皇関連年表
西暦 | 雄略 | 日本書紀 | 修正 | 中国史 | 新羅本紀 | 百済本紀 | 高句麗本紀 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
462 | 0 | 安康天皇の暗殺を疑い、多くの皇子を殺害 | |||||
463 | 1 | 即位 丁酉 | この時新羅と不和であった。(雄略7) | 春二月、倭人が梁山の城を侵して勝てずに帰った。王は倭人がしばしば国土を侵すので海に沿って二つの城を築いた。 | 魏は王に車騎大将軍に冊命した | ||
464 | 2 | 百濟の池津媛を石川楯と通じた罪により処刑。 百済蓋鹵王即位(455)。天皇は美女を乞うた。百済は美女を送る。 |
宋孝武帝が464年に崩御 | ||||
465 | 3 | 皇女流言により自殺 | 新羅は貢物を送らないばかりか、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取ったりするので、新羅を攻めた。(雄略9) | 宋、長男の劉子業が跡を継いだが殺害され、明帝即位。 北魏献文帝即位 |
使者を魏に使わして朝貢した | ||
466 | 4 | 葛城山で狩をする | 使者を魏に使わして朝貢した | ||||
467 | 5 | 百済加須利君の弟軍君及び自らの婦を倭に仕えさせた。婦は筑紫で後の武寧王を出産 | 戦艦を修理した | 使者を魏に使わして朝貢した | |||
468 | 6 | 養蚕奨励 呉が使いを使わして貢物を奉った。 |
高句麗は靺?と共に北辺の悉直城を襲った。 | 王は靺?の兵一万を率い新羅の悉直城を攻めとった。使者を魏に使わして朝貢した。 | |||
469 | 7 | 吉備下道前津屋の乱 吉備上道臣田狭を任那国司に任命する。この時新羅と不和であった。 |
高句麗の南辺を侵した | 使者を魏に使わして朝貢した。8月に百済が南に侵入した。 | |||
470 | 8 | 呉に使いを出す。天皇即位以来新羅が朝貢してこなかった。新羅は天皇を恐れて高麗に守ってもらった。高麗の守りは偽りであった。 新羅は任那に救援要請。新羅を救援する。新羅・高麗間が以降不和となる。 |
三年山城を築造した | 使者を魏に使わして朝貢した | |||
471 | 9 | 新羅は貢物を送らないばかりか、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取ったりするので、新羅を攻めた。 | 北魏孝文帝即位 | ?老城を築造した | |||
472 | 10 | 身狹村主靑等、呉の獻れる二の鵝を將て、筑紫に到る | 宋、明帝崩御 | 魏に朝貢し高句麗が辺境を侵すので何とかしてほしいと願い出たが聞き入れてもらえなかった。 | 使者を魏に使わして朝貢した(2月9月)。8月に百済が南に侵入した。これ以降貢物を倍にしたが、返礼も多くなった。 | ||
473 | 11 | 百濟國から逃げてきたものがあった。貴信と名乗った。呉國の人とも云う。 | 明活城を修理した | 使者を魏に使わして朝貢した(2月9月) | |||
474 | 12 | 身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す | 高句麗が百済を攻めた。百済王子文周を新羅に派遣して救援を乞うたので、王は兵を出してこれを救ったが、新羅軍が至る前に百済は既に落ち、百済王蓋鹵王は殺された | 使者を魏に使わして朝貢した(2月8月)。使者を宋に派遣した。 | |||
475 | 13 | 文石小麻呂が傍若無人であったので、100人の兵士に攻めさせた。 | 高麗王が大軍を持って百済を滅ぼした。高麗の将が百済の生き残りを追い払おうとしたが、高麗王は百済は日本の宮家であり、日本に仕えており、周りの国々もそのことを知っているので追い払ってはならないとした。(雄略20) | 王が明活城に移った。 | 高句麗の南辺を侵した謀略により、百済王は華美に走り、貧窮した。この期を待っていた高句麗は三万の軍を派遣して、漢城を包囲した。王は逃げようとして殺害された。王子文周は新羅に援軍を頼み一万の兵を得て帰ってきたが間に合わなかった。 | 使者を魏に使わして朝貢した(2月9月)。9月に兵三万を率いて漢城を落とした。王を殺害し、捕虜八千名を連れ帰った。 | |
476 | 14 | 身狹村主靑等、呉國の使と共に、呉の獻った手先の工人、漢織・呉織及び衣縫兄媛・弟媛等を率いてもどる。これらの人々を重用する。 | 天皇は久麻那利を百済文州王に賜って、その国を救い興した。(雄略21) 呉に使いを出す。(雄略8) |
宋、順帝即位するも実権は実力者蕭道成が握った | 倭人が東辺を侵した。 | 使者を魏に使わして朝貢した(2月7月) | |
477 | 15 | 秦氏重用 | 11月、遣使して貢物を献ずる。(『宋書』順帝紀)これより先、興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。(『宋書』夷蛮伝) | 倭人が兵をあげて五道に侵入したが功なく帰った。 | 使者を魏に使わして朝貢した(2月9月) | ||
478 | 16 | 養蚕と紡織を庸調とする秦酒公の手法を、桑に適した地に拡げる策が執られた | 身狹村主靑等、呉の獻れる二の鵝を將て、筑紫に到る(雄略10) | 詔を以て武を使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙爵した。 (『宋書』順帝紀) 宋の順帝に倭王武の上表文を上程する。 |
文周王は暗殺された | 使者を宋に派遣した。百済の燕信が投降した | |
479 | 17 | 朝夕の御膳盛るべき清器を作らせる | 百濟の文斤王、亡くなる。天皇は昆支王の5人の子の中から二番目の王が聡明なので筑紫の兵士500名に守らせて百済に送った。東城王である。 百済の貢物は例年以上であった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが高麗を討った。(雄略23) 百濟國から逃げてきたものがあった。貴信と名乗った。呉國の人とも云う。(雄略11) |
南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王の武を鎮東大将軍(征東将軍)に進号。(『 南斉書』倭国伝) 順帝は蕭道成に禅譲し、蕭道成は斉王朝を開く。宋滅亡 |
王が崩じた | 三斤王崩ず | |
480 | 18 | 伊勢朝日郎を征伐する | 身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す(雄略12) | 靺?が北辺を侵した | 南斉の太祖道成が高句麗長寿王を驃騎大将軍に冊命した。王は南斉に朝貢 | ||
481 | 19 | 安康天皇の名を残す穴穗部を設ける。 | 天皇即位以来新羅が朝貢してこなかった。新羅は天皇を恐れて高麗に守ってもらった。高麗の守りは偽りであった。 新羅は任那に救援要請。新羅を救援する。新羅・高麗間が以降不和となる。(雄略8) |
高句麗が靺?と共に北辺に入り、狐鳴城等7つの城を取り、また、興海に進撃してくるので、我軍は百済、伽耶の援兵とともに防戦した。 | 使者を南斉に派遣して朝貢 | ||
482 | 20 | 高麗王が大軍を持って百済を滅ぼした。高麗の将が百済の生き残りを追い払おうとしたが、高麗王は百済は日本の宮家であり、日本に仕えており、周りの国々もそのことを知っているので追い払ってはならないとした。 | 身狹村主靑等、呉國の使と共に、呉の獻った手先の工人、漢織・呉織及び衣縫兄媛・弟媛等を率いてもどる。これらの人々を重用する。(雄略14) | 倭人が辺境を侵した | 靺?が漢山城を襲った。 | ||
483 | 21 | 天皇は久麻那利を百済文州王に賜って、その国を救い興した。 | 秦氏重用(雄略15) | 高句麗が北辺を侵した。新羅・百済連合軍がこれを破った。 | 南斉の太祖道成が高句麗長寿王を驃騎大将軍に冊命したと聞き、使者を派遣して内属を請い許された。 | ||
484 | 22 | 白髮皇子を以て皇太子とす | 養蚕と紡織を庸調とする秦酒公の手法を、桑に適した地に拡げる策が執られた(雄略16) | 使者を魏に派遣して朝貢する | |||
485 | 23 | 百濟の文斤王、亡くなる。天皇は昆支王の5人の子の中から二番目の王が聡明なので筑紫の兵士500名に守らせて百済に送った。東城王である。 百済の貢物は例年以上であった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが高麗を討った。 天皇崩御 新羅討伐から帰ってきた吉備臣尾代は新羅から帰還途中の蝦夷が、天皇崩御を知り反逆を企てたので、平定した。 |
百済が来て修交した。 | 使者を新羅に派遣して和を結んだ | 使者を魏に派遣して朝貢 |
雄略天皇紀の年代のずれ
雄略天皇の時代は日本書紀の記事が多いうえに対外記事が多く、それらを統一するのには苦労する。雄略天皇の即位年は日本書紀より6年遅くて、463年である。同時に崩御年も日本書紀より6年遅くて485年となる。允恭天皇時代に生じた日本書紀の年代の6年のずれは、雄略天皇の時代ではそのままになっている。外国記事も6年ずれに合わせて編集されているようで、前後に6年ずれの記事が多い。
上の表の第1列は日本書紀の記述そのままであるが、第2列は対外記事に合わせて調整したものである。一部を例外として、前に6年ずれている記事と、後に6年ずれている記事があることが分かる。
前に6年ずれた記事は、外国資料を6年ずれた日本書紀の年代に合わせて挿入したものと考えられる。ずれを6年繰り下げて日本書紀本来の年代では外国記事と年が一致しているのである。
逆に6年ずれているのは、最初本来の年に挿入していたものを後で、6年遡らせてしまったために生じたと考えられる。国内のみの記事は調整する必要がないので、そのままの年代ではないかと思われる。
雄略天皇は允恭天皇7年(444年)生誕で、485年に亡くなっているので、崩御時の年齢は42歳である。雄略天皇は19歳で即位し42歳まで皇位についていたといえる。
雄略天皇の時代
雄略天皇は大泊瀬幼武命という。その性格にはたくましいものがあり、何事も即決で決断し、それを実行するが、思い込みの激しいところがあり、その関係で多くの人を処刑している。そのため人々から悪い天皇との評価を受けている。雄略天皇は多くの皇族や豪族を殺したため、その遺族より恨まれ、日本書紀に悪く書かれたという可能性もある。しかし、ここでは、日本書紀の記述は最大限事実を伝えていると仮定して、雄略天皇時代の出来事を追ってみることにする。
即位前
459年允恭天皇が報じた時、新羅がその死を悼んで、弔問団を派遣してきた。その時の新羅人が発した言葉を聞き間違え、新羅人が采女と通じたと勘違いして新羅人を責めた。後で間違いであることが分かったのであるが、これを境に新羅は倭と仲たがいすることになった。
462年8月5日安康天皇が眉輪王に暗殺された。その報を聞いた安康天皇の弟である大泊瀬幼武命(当時19歳)は、兄弟の誰かが暗殺したのだと思い込み、兵を率いて、八釣白彦皇子、坂合黒彦皇子、眉輪王などを問い詰めた。問い詰められた方は大泊瀬幼武命の勢いに恐れをなし何もしゃべらなかったので、大泊瀬幼武命に惨殺されてしまった。
安康天皇が履中天皇の皇子市辺押磐皇子を皇太子にと考えていたようなので、市辺押磐皇子を殺害、また、市辺押磐皇子の弟御馬皇子も同様に殺害した。皇位継承権を持つ皇子をすべて殺してしまった後に、皇位につくことになった。雄略天皇である。
市辺押磐皇子暗殺の理由
大泊瀬幼武命が市辺押磐皇子を暗殺したのが後の世の皇位継承に複雑なものを遺すことになったのであるが、大泊瀬幼武命は皇位継承を狙って市辺押磐皇子を暗殺したのであろうか、それとも兄を殺された怒りにまかせて暗殺したのであろうか?
允恭天皇崩御時新羅からの弔使が畝傍山と耳成山の素晴らしさをたたえて「うねめはや、みみはや」と言ったのを、大泊瀬幼武命は新羅人が采女に通じたと勘違いして新羅人を取り調べた。この後対新羅関係が複雑化している。
このことは、大泊瀬幼武命が冷静に考えず直情的に行動する人物であることを意味している。冷静に考えて行動する人物には思えない。おそらく大泊瀬幼武命は兄を殺された怒りにまかせて、その疑いのある人物を碌に調べもせず次々に殺害したと考えられる。その結果皇位継承者がいなくなり、雄略天皇として即位したと判断する。
しかし、殺された皇子の子孫からは恨まれて、皇位継承を狙っての皇子殺害と記録されたと思われる。
463年(雄略元年)
新羅本紀に、「春二月、倭人が梁山の城を侵して勝てずに帰った。王は倭人がしばしば国土を侵すので海に沿って二つの城を築いた。」と記録されている。倭人はこの頃頻繁に新羅を襲っていたようである。
允恭天皇崩御時の事件で新羅は雄略天皇に敵対していた。その関係で即位時の挨拶にも来ず、雄略天皇からの指図もすべて無視したのであろう。そのため、雄略天皇は新羅に対して頻繁に攻撃を仕掛けたと思われる。しかし、この戦いは小規模なものが多いので、本格的な戦闘ではなく、脅しをかける程度のものだったのであろう。
雄略9年の「新羅は貢物を送らないばかりか、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取ったりするので、新羅を攻めた。」というのは6年遡って雄略3年の記事と思われ、この頃の新羅を責めた記事であろう。
ただ、この頃は百済と新羅は友好関係にあり、新羅が百済の城を取っているとは思われない。高麗(高句麗)が雄略天皇の即位を祝って倭に貢物を送っているようである。高句麗は百済や新羅を狙っていたようであるが、背後の倭の存在が邪魔だったのであろう。倭の機嫌を取って降りて百済や新羅を狙おうと画策していたようである。
464年(雄略2年)
「蓋鹵王が即位した時(455年=允恭18年)、天皇は阿礼奴跋を遣わして美女を乞わせた。百済は適稽女郎を天皇に貢いだ。」と日本書紀は記録しているが、この天皇は雄略天皇である。この媛が雄略2年に記録されている池津姫であろう。この媛は石川楯と通じてしまったため、天皇は怒って、処刑した。
468年(雄略6年)
この頃の高句麗は毎年のように北魏に朝貢している。倭の援護を受けている新羅・百済を狙うということは倭の攻撃を受けることを意味している。倭国軍は強力で、404年の戦いでは高句麗は倭に勝利をしたが、その時は好太王の天才的戦術があったため勝てたにすぎない。431年の平西将軍・履中天皇の派遣した大軍には簡単に破られており、その時以来、高句麗は百済・新羅に手を出せない状態になっているのである。倭は宋から安東将軍の称号をもらっているので、倭の影響を排除するには北魏の協力が必要だったのである。
北魏も宋の影響を受けている倭は敵として扱い、毎年朝貢してくる高句麗を支援していた。百済・新羅を狙っていた高句麗は、北魏の支援が確かなものになったのを確認して、遂に行動を起こし,靺鞨と共に一万の兵を率い新羅の悉直城を攻めとったのである。
これ以降、新羅は国内に城を築き、国防を強化している。高句麗の侵入に備えたものであろう。
469年(雄略7年)
高句麗の侵攻を防ぐために百済は、高句麗の南辺を侵したが、高句麗の勢力の前に簡単に駆逐された。
472年(雄略10年)
高句麗の侵入に耐えられなくなった百済は、高句麗の支援国である北魏に朝貢し、高句麗の支援をやめる様に要請したが、北魏はこれを断った。このことを知った高句麗は貢物を2倍にして、より強い支援を求めたのである。
473年(雄略11年)
高句麗は百済本格進攻のために策略を練った。工作員を百済に送り込み、代々の王の墓や城が貧弱であることを説き、もっと優雅なものにした方がよいことを伝えた。百済蓋鹵王はそれを信じ込み、百済の財産を使い、明活城(慶州市普門里)の修復をするとともに、墓を豪勢なものに作り替えた。人々は困窮し、百済の倉は空になった。
474年(雄略12年)
百済の困窮状態を見た高句麗は侵攻の好機と判断し、倭の支援国である宋に使いを送り、百済を攻めることを伝えさせた。宋も今の倭王武(雄略天皇)はこの時まだ朝貢してこず、安東将軍の称号を授けていないので、高句麗の百済襲撃を黙認したのであろう。高句麗は倭にも朝貢しており、倭も百済侵攻を黙認すると思っていたとおもわれる。これにより百済を攻撃する準備が整った。
475年(雄略13年)
百済侵攻準備が整ったので、高句麗は三万の軍勢で百済の首都を襲った。百済の財産は底を突いていたので、兵が集められず、やむなく王子文周を新羅に派遣し救援要請をした。百済軍のみでは高句麗軍を防ぐことができず、漢城は高句麗軍に包囲されてしまったのである。文周は新羅に赴き、新羅王の救援を得て一万の兵を預かり、百済に戻った。
蓋鹵王は逃げることを考え、数十騎の配下と共に城から飛び出したが、待ち構えていた高句麗軍に見つかり、射殺された。文周の率いる新羅の救援軍一万は間に合わなかったのである。これによって、百済は滅亡した。
漢城周辺には百済の生き残りが残存していた。高句麗の将は百済の残党を追い払おうとしたが、高句麗王はそれを止めた。雄略20年の記事。
高麗の将が百済の生き残りを追い払おうとしたが、高麗王は百済は日本の宮家であり、日本に仕えており、周りの国々もそのことを知っているので追い払ってはならないとした。(雄略20)
がその時の高句麗王の気持ちを表している。
高句麗としては倭が怖かったのである。百済は滅ぼしたが、倭の面子をつぶしてしまっては倭の襲撃を受けることになるので、百済の生き残りはそのままにするように指示したのであろう。
476年(雄略14年)
百済は高句麗によってあっという間に滅ぼされてしまったので、雄略天皇は援軍を送ることができなかった。倭を恐れていた高句麗王も、倭の救援が来る前に速攻で百済を滅ぼしたのである。
百済は倭の宮家なので、まずは、雄略天皇は滅亡した百済を復興させることを考えた。
雄略21年の記事、「天皇は久麻那利を百済文州王に賜って、その国を救い興した。」がそれを伝えている。雄略天皇は蓋鹵王の王子文周に伽耶地方の一地域久麻那利(忠清南道公州市熊津)を分割して与え、文周を百済王にした。これによって百済の再興ができたのである。
それと同時に雄略天皇は百済救援に間に合わなかった新羅を攻めたとおもわれる。476年~478年にかけて、新羅本紀には倭人が攻めてきたことが記録されているのである。
雄略天皇は高句麗攻撃を考えていた。雄略天皇は他の天皇が宋から安東将軍の称号を得ていたのとは違い、この時点で安東将軍の称号を得てはいなかった。これが、高句麗の百済攻撃を招いたとして早速宋に朝貢することにした。これが、雄略8年の呉に使いを出したという記録である。使者は身狹村主靑等である。
477年(雄略15年)
雄略天皇は使者に倭の上表文を持たせた。これが下の文章である。
皇帝の冊封をうけたわが国は、中国からは遠く偏って、外臣としてその藩屏となっている国であります。昔からわが祖先は、みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉し、安んじる日もなく、東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、北のかた海を渡って、平らげること九十五国に及び、強大な一国家を作りあげました。王道はのびのびとゆきわたり、領土は広くひろがり、中国の威ははるか遠くにも及ぶようになりました。
わが国は代々中国に使えて、朝貢の歳をあやまることがなかったのであります。自分は愚かな者でありますが、かたじけなくも先代の志をつぎ、統率する国民を駈りひきい、天下の中心である中国に帰一し、道を百済にとって朝貢すべく船をととのえました。 ところが、高句麗は無道にも百済の征服をはかり、辺境をかすめおかし、殺戮をやめません。そのために朝貢はとどこおって良風に船を進めることができず、使者は道を進めても、かならずしも目的を達しないのであります。 わが亡父の済王は、かたきの高句麗が倭の中国に通じる道を閉じふさぐのを憤り、百万の兵士はこの正義に感激して、まさに大挙して海を渡ろうとしたのであります。しかるにちょうどその時、にわかに父兄を失い、せっかくの好機をむだにしてしまいました。そして喪のために軍を動かすことができず、けっきょく、しばらくのあいだ休息して、高句麗の勢いをくじかないままであります。いまとなっては、武備をととのえ父兄の遺志を果たそうと思います。正義の勇士としていさをたてるべく、眼前に白刃をうけるとも、ひるむところではありません。 もし皇帝のめぐみをもって、この強敵高句麗の勢いをくじき、よく困難をのりきることができましたならば、父祖の功労への報いをお替えになることはないでしょう。みずから開府儀同三司の官をなのり、わが諸将にもそれぞれ称号をたまわって、忠誠をはげみたいと思います。 |
これは、使者を送りだした時の雄略天皇の気持ちそのものであったように思われる。この上表文は478年の宋の朝貢記事となって記録されている。
478年(雄略16年)
宋に遣わした使者が戻ってきた。雄略10年の記録「身狹村主靑等、呉の獻れる二の鵝を將て、筑紫に到る」
479年(雄略17年)
この年、宋が滅亡した。宋の皇帝順帝は宋の実力者蕭道成に位を禅譲し、蕭道成は斉王朝を開いた。
雄略11年の記事「百濟國から逃げてきたものがあった。貴信と名乗った。呉國の人とも云う。」は宋の滅亡により、宋の高官貴信が百済を経由して、倭にやってきたものであろう。
雄略23年の記事「この年、百濟の文斤王、亡くなる。天皇は昆支王の5人の子の中から二番目の王が聡明なので筑紫の兵士500名に守らせて百済に送った。東城王である。」
百済がまだ安定していないので、雄略天皇が百済王の王位継承にかかわることになったのである。高句麗の刺客が新しい王の命を狙うことも予想されたので、兵士の守護のもと百済に送った。
雄略23年の記事「筑紫の安致臣・馬飼臣らが高麗を討った。」
雄略天皇は高句麗を征伐する準備が整ったので、筑紫の安致臣・馬飼臣を将軍とする倭国軍を大陸に送り、高句麗征伐を行った。
480年(雄略18年)
雄略12年の記事「身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す」
雄略天皇は宋が滅び、斉が成立したので、すぐに朝貢した。雄略天皇は済王より、鎮東大将軍の称号を受けることになった。鎮東大将軍は安東大将軍とはことなり、戦いにて反乱軍を取り沈める将軍という意味である。戦う相手は高句麗であろう。国内の治安維持の安東将軍とは称号が異なる。
斉王は同時に高句麗にも使いを送った。高句麗本紀「南斉の太祖道成が高句麗長寿王を驃騎大将軍に冊命した。」に記録されている。敵対する双方の王に将軍の称号を与えているのである。斉王も周辺諸国に早く認めてもらいたいとの思いから将軍の称号を乱発したのであろう。
『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する将軍の意味である。倭王の鎮東大将軍とは少し意味が異なるようである。驃騎大将軍は小規模な反乱制圧。鎮東大将軍は大規模な反乱制圧のような意味であろうか。名前からのみ判断すると、倭王の方を重要視しているようである。それも高句麗は北魏とのつながりが強いことを意識しているのであろうか。
481年(雄略19年)
雄略8年の記事「天皇即位以来新羅が朝貢してこなかった。新羅は天皇を恐れて高麗に守ってもらった。高麗の守りは偽りであった。
新羅は任那に救援要請。新羅を救援する。新羅・高麗間が以降不和となる。」
この記事は雄略8年の記事である。6年ずれているとすれば雄略2年か雄略14年と思われたが、調べてみると状況があまりに異なり、新羅本紀に「伽耶の援軍と共に高句麗と戦う」という記事があったので、この年に挿入した。
480年から高句麗の攻撃目標は百済から新羅に変わったようである。高句麗は新羅に頻繁に侵入するようになっていった。高句麗は先年百済を攻撃して倭から激しい反撃にあったのである。新羅は雄略天皇の即位から一度も倭に朝貢していない。天皇の要求も毎回無視していたようである。雄略天皇もいい加減我慢の限界に達していたようである。そのような情勢から、高句麗は新羅なら攻撃しても倭の反撃はないであろうと思ったのかもしれない。
高句麗は新羅王が倭の攻撃を恐れていることがわかったので、「新羅王に高句麗が倭から守ってやる」ということで、高句麗兵を100人ほど新羅に送った。その高句麗の兵士が、新羅人に高句麗の本音を漏らしてしまい、新羅王は高句麗が新羅を狙っていることを知った。
早速新羅王は兵を集め、新羅国内の高句麗兵を殺害した。しかし、この難を逃れた一人の高句麗兵が本国に戻り、王にこのことを伝えた。高句麗王は兵を集め、新羅領内に侵入させ高句麗の歌を歌わせることで、新羅国内の動揺を引き起こした。
新羅王は新羅国内は既に高句麗に支配されていると思い込み、任那日本府に救援を依頼した。百済、伽耶、新羅の連合軍が高句麗と戦い、高句麗の勢力を新羅領内から追い出したのである。
倭はこういうことがあるから、倭に朝貢することを忘れないようにと、新羅にくぎを刺した。
482年(雄略20年)
新羅は「倭に朝貢せよ」という倭の要請をまたもや無視したようである。この年、新羅本紀に倭人襲来の記録がある。
483年(雄略21年)
高句麗は再び新羅に攻撃を仕掛けた。今度は百済・新羅連合軍でこれを防いだようである。
484年(雄略22年)
雄略天皇は新羅が相変わらず朝貢してこないのに腹を立て、遂に新羅征伐の軍を派遣した。吉備国の軍が主力だったようである。
485年(雄略23年)
7月1日に体調を崩した雄略天皇は、8月7日崩御した。
吉備臣尾代は新羅討伐から帰ってきて、自分の家に帰った。この時、雄略天皇崩御の情報が入ってきた。新羅征伐軍の中に蝦夷がいたが、蝦夷は後からの帰還軍の中に含まれていた。蝦夷は娑婆(山口県佐波)にいた時、雄略天皇崩御の情報を得て、「大和朝廷に反逆するのは今だ」と決意し、反乱をおこし、周辺の村々を襲撃した。尾代はその情報を受け佐波に出撃した。蝦夷は丹波国の浦明の湊(京丹後市久美浜町)まで逃げたがここで、滅ぼされた。
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