応神天皇時代の年代推定

 日本書紀の応神天皇の時代の記事は、年代が複雑に絡み合っており、その解明は極めて難しい。中国暦の干支と半年一年暦の干支の混乱に加え、神功皇后の時代を120年遡らせたための調整が行われているようである。外国の記事と照合を図りながら、日本書紀の年代を調整してみよう。

 神功皇后の日本書紀の記録

神功年 西暦 記事
46 366 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。
47 367 百済と新羅が共に朝貢に来た。誉田別命は、先王の望んでおられた国の人々がやってきたことを喜んだ。
新羅の貢物に比べて百済の貢物が劣っていた。新羅が百済の貢物を奪ったためであった。新羅を討つことを決意。
48 368
49 369 荒田別、鹿我別を以て將軍とす。則ち久氏一等と共に兵を勒へて度りて、卓淳國に至りて、新羅を襲撃。
加羅国をはじめとする7カ国を平定し、南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼして百済に与えた。
百済王肖古と皇子の貴須は兵を率い、4つの邑を降伏させ、荒田別、鹿我別の軍と合流し百済国に行く。
50 370 荒田別等、百濟より戻る。
51 371 百濟の王、久氏一を遣して朝貢。千熊長彦を百済国に派遣す。
52 372 久氏一等は千熊長彦、に従ってやってきた。七枝刀をはじめとする種々の重宝を奉った。
53 373
54 374
55 375 百濟の肖古王薨(百済本紀375年)
56 376 百濟の王子貴須、立ちて王と爲る(百済本紀376年)
57 377
58 378
59 389
60 380
61 381
62 382 新羅が朝貢しなかった。即年、襲津彦を遣して新羅を撃たせた。

 372年の七枝刀は奈良県天理市石上神宮に保存されていた。明治時代初期、当時の石上神宮大宮司であった菅政友が刀身に金象嵌銘文が施されていることを発見した。その銘文は、

 浜田耕策による2005年における研究では、次のとおり発表された[3]。

〔表面〕泰和四年五月十六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供侯王永年大吉祥
〔裏面〕先世以来未有此刀百濟王世□奇生聖音(又は晋)故為倭王旨造傳示後世

浜田耕策氏による解釈では
〔表面〕
泰和四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。
〔裏面〕
先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

 ここでいう、泰和四年とは369年であり、年代的にも合致している。

 百済本紀とも年代が一致しており、日本書紀の神功皇后の記事は特に年代に矛盾が見当たらない。おそらく、事実そのままの記事であろう。

 ところが、同時代と思われる応神天皇の記事が複雑になっているのである。

 応神天皇紀と海外資料の比較

応神 西暦 日本書紀 海外資料
1 367 即位 庚寅
2 368 仲姫 皇后
3 369 蝦夷朝貢
百済辰斯王即位
紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。
高句麗百済を襲うも敗れる(三国史記)
4 370
5 371 海人部・山守部を定める。
伊豆国に船を作らせる。
6 372 近江国巡幸 晋に朝貢(百済本紀)
7 373 高麗・百済・任那・新羅人来朝、池を作らせる
8 374 百済人来朝。皇子直支を遣わす。
9 375 武内宿禰を筑紫に派遣 百済・高句麗の戦い(三国史記)
百済近仇首即位(百済本紀)
10 376
11 377 池を作った 百済・高句麗の戦い(三国史記)
12 378
13 379 日向髪長姫を召す。
14 380 百済王が真毛津という女を奉った。
弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが帰ってこなかった。
15 381 百済王阿直支を遣わす。
16 382 王仁がやってきた。
木菟宿禰新羅を打つ
阿花王死去。百済に戻って直支王即位
17 383
18 384
19 385 吉野巡幸 高句麗遼東を奪取(高句麗本紀)
百済辰斯王即位(百済本紀)
20 386 阿知使主やってきた 百済・高句麗の戦い(三国史記)
21 387
22 388 難波巡幸
吉備国巡幸。吉備国を分割す。
23 389 百済・高句麗の戦い(三国史記)
24 390 百済・高句麗の戦い(三国史記)
25 391 直支王没、久爾辛即位 倭が百済新羅加羅を破る(好太王碑文)
26 392 百済阿?王即位(百済本紀)
高句麗好太王即位(高句麗本紀)
新羅、高句麗に実聖を人質として送る(三国史記)
百済の城の大半を高句麗に落とされる。(三国史記)
27 393 倭人が金城を包囲(新羅本紀)
28 394 高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。 百済・高句麗の戦い(三国史記)
29 395 百済・高句麗の戦い(三国史記)
30 396
31 397 塩を作る。
新羅の使いが失火により船を焼く。新羅はすぐに優れた工匠を奉った。
32 398
33 399 倭が新羅を攻めたので好太王が救援(好太王碑文)
34 400 好太王が倭を攻めると安羅国が新羅を占領(好太王碑文)
高句麗燕の襲撃を受ける(高句麗本紀)
35 401 高句麗の人質実聖が戻ってくる(新羅本紀)
36 402 倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質とした。(新羅本紀)
五月、使臣を倭国に遣り、大珠を求めた。(百済本紀)
37 403 阿知使主、呉を訪問
38 404 倭が帯方界まで攻めるも撃退(好太王碑文)
39 405 直支王妹を遣わす。 倭の人質となっていた百済王子の腆支が、倭の護衛により帰国し百済王に即位した(百済本紀)
百済腆支王即位(百済本紀)
夏4月、倭兵が明活城を攻めたが、これを打ち破った。(新羅本紀)
40 406 菟道稚郎子を皇太子にする。
41 407 天皇崩御
42 408
43 409
44 410 菟道稚郎子自害

 この比較表を見ればまったく一致していないことが分かるが、共通の事象が見られるので、修正は可能である。

 (1) 応神天皇3年の記事「紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。」とあるが、阿花王が即位したのは392年である。応神天皇3年のこの記事は392年の記事を示している。日本書紀では神功皇后が389年に亡くなっており、392年はその3年目にあたる。神功皇后の死後に応神天皇が即位したとして挿入されたものと思われる。

 (2) 応神天皇7年(373年)の記事「高麗・百済・任那・新羅人来朝、池を作らせる」とあるが、高麗(高句麗)と倭が和解したのは海外記事から判断してほんの一瞬の時期である。それは、402年~404年までの期間しかない。これは403年の記事ではあるまいか。373年と403年は半年一年暦で同じ干支(前半辛丑、後半壬寅)である。

 (3) 応神天皇8年(374年)「皇子直支を遣わす。」とある。直支は阿花王の王子なので、(1)の継続で397年の記事と思われる。

 (4) 応神天皇14年(380年)「弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが3年間帰ってこなかった。」の襲津彦は神功皇后62年の記事と重なる。襲津彦が帰ってきたのは応神天皇16年(382年)木菟宿禰が新羅を討ってからである。

 日本書紀の百済記の引用文では沙至比跪(サチヒコ=襲津彦)は新羅人に欺かれ加羅を討った。天皇は怒り加羅を回復した。沙至比跪は天皇から許されないことを知り自害して果てたという。

 百済記の引用文は襲津彦が新羅人に欺かれ加羅を討ったことが記されているが、加羅を討つということは当時の倭からしてほとんどあり得ないことであろう。襲津彦が帰ってこなかった3年間に何をやっていたかは不明であるが、この時期のことが拡大解釈されて伝わっているのであろう。

 (5) 応神天皇16年の「阿花王死去。百済に戻って直支王即位」は百済本紀の記録より405年のことと判断される。この年は神功皇后死去後16年である。

 (6) 応神天皇25年「直支王没、久爾辛即位」は百済本紀によると420年のことである。この記事は420年の記事と考えられる。

 (7) 応神天皇28年「高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。」。菟道稚郎子は応神天皇崩御(394年)後に亡くなっている。この記事は394年の応神天皇崩御前の記事となる。

 (8) 応神天皇40年「菟道稚郎子を皇太子にする。」は応神天皇崩御の前年である。応神天皇崩御は394年なので393年と考えられる。

 これらを元に応神天皇在位期間の出来事を年表にまとめると

 

西暦 和暦 中国干支 半年一年干支 換算干支 日本書紀 修正・推定 百済本紀 新羅本紀 中国 高句麗本紀
364 神功
44
甲子 癸未 甲申 丁卯 戊辰 第二次新羅征伐 夏四月、倭兵が大挙して侵入してきた。王は草人形を数千個作らせて衣服・兵器を持たせ、吐含山の麓に並べさせた。さらに勇士千人を伏兵として待ち受けさせ、敵をおびき寄せてから不意打ちを仕掛けさせたところ、首尾よく倭兵を打ち破った。(364) 前燕、東晋から洛陽を奪う
365 45 乙丑 乙酉 丙戌 己巳 庚午
366 46 丙寅 丁亥 戊子 辛未 壬申 斯摩宿禰を卓淳國に遣す。(神功46年) 忍熊王の反乱(神功1) 使臣を新羅に使わして修交した(366)
367 47 応神1 丁卯 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 百済と新羅が共に朝貢に来た。新羅は百済の貢物を横取り(神功47年) 応神天皇即位。百済と新羅が共に朝貢に来た。誉田別命は、先王の望んでおられた国の人々がやってきたことを喜んだ。新羅の貢物に比べて百済の貢物が劣っていた。新羅が百済の貢物を奪ったためであった。新羅を討つことを決意。(神功47) 慕容評が前燕の実権を握り、国内を腐敗させた。
368 神功48 応神2 戊辰 辛卯 壬辰 乙亥 丙子 仲姫 皇后(応神2) 新羅に使いして、良馬2頭を送った。(368)
369 49 3 己巳 癸巳 甲午 丁丑 戊寅 蝦夷朝貢(応神3) 3月、荒田別、鹿我別を以て將軍とす。則ち久氏一等と共に兵を勒へて度りて、卓淳國に至りて、新羅を襲撃。加羅国をはじめとする7カ国を平定し、南蛮の耽羅(済州島)を滅ぼして百済に与えた。百済王肖古と皇子の貴須は兵を率い、4つの邑を降伏させ、荒田別、鹿我別の軍と合流し百済国に行く。(神功49) 高句麗、兵2万で民家を掠奪するも、太子がこれを破った(369) 高句麗、兵2万を持って、百済を襲撃するも敗れる。(369)
370 50 4 庚午 乙未 丙申 己卯 庚辰 荒田別等、百濟より戻る。(神功50) 前秦の苻堅による侵攻を受けて前燕滅亡。高句麗は前秦に臣従。 秦王の猛が燕を征伐してこれを破った。燕の慕容評が逃げてきたが、秦に送った。(370)
371 51 5 辛未 丁酉 戊戌 辛巳 壬午 海人部・山守部を定める。(応神5)
伊豆国に船を作らせる。
百濟の王、久氏一を遣して朝貢。千熊長彦を百済国に派遣す(神功51) 高句麗が兵をあげて攻めてきた。逆襲すると逃げた。太子と共に兵3万を率いて平壌城を攻めた。高句麗王は流れ矢にあたって死んだ(371) 百済王が兵3万を率いて平壌城を攻めた。王は流れ矢にあたって戦死した。第17代高句麗王小獣林即位(371)
372 52 6 壬申 己亥 庚子 癸未 甲申 近江国巡幸(応神6) 久氏一等は千熊長彦、に従ってやってきた。七枝刀をはじめとする種々の重宝を奉った。(神功52) 使者を晋に使わして朝貢した(372) 秦王と交流(372)
373 53 7 癸酉 辛丑 壬寅 乙酉 丙戌 使者を晋に使わして朝貢した。禿山城主が新羅に逃げた(373) 百済の禿山城主が新羅に投降。新羅はこれを受け入れる。百済王は抗議した。(373)
374 54 8 甲戌 癸卯 甲辰 丁亥 戊子
375 55 9 乙亥 乙巳 丙午 己丑 庚寅 武内宿禰を筑紫に派遣(応神9) 百濟の肖古王薨(神功55) 7月高句麗が攻めてきて水谷城を陥落させたので、将兵を派遣してこれを防いだが勝てなかった。第14代百済王近仇首即位(375) 7月百済の水谷城を攻めた(375)
376 56 10 丙子 丁未 戊申 辛卯 壬辰 百濟の王子貴須、立ちて王と爲る(神功56) 11月高句麗が北辺を侵した(376) 前秦の苻堅、華北統一政権樹立 百済の北辺を侵した(376)
377 57 11 丁丑 己酉 庚戌 癸巳 甲午 池を作った(応神11) 10月将兵3万を率いて平壌城に侵攻した。11月高句麗が攻めてきた(377) 百済が将兵3万で平壌城を侵してきた。11月に百済を南伐した。王は秦に朝貢した(377)
378 58 12 戊寅 辛亥 壬子 乙未 丙申
379 59 13 己卯 癸丑 甲寅 丁酉 戊戌 日向髪長姫を召す。(応神13)
380 60 14 庚辰 乙卯 丙辰 己亥 庚子 百済王が真毛津という女を奉った。(応神14)
弓月君百済からやってくる。
弓月君百済から倭へ渡ろうとしたが新羅が邪魔をした。襲津彦を派遣したが帰ってこなかった。(応神14)
381 61 15 辛巳 丁巳 戊午 辛丑 壬寅 百済王阿直支を遣わす。(応神15) 衛頭を前秦の苻堅に遣わす
382 62 16 壬午 己未 庚申 癸卯 甲辰 新羅朝ず。即年、襲津彦を遣して新羅を撃たしむ(神功62) 王仁がやってきた。木菟宿禰新羅を打つ。新羅が朝貢しなかった。即年、襲津彦を遣して新羅を撃たせた。(応神16)
383 63 17 癸未 辛酉 壬戌 乙巳 丙午 東晋、前秦の南下を撃退
384 64 18 甲申 癸亥 甲子 丁未 戊申 百濟國の貴須王薨りぬ。王子枕流王立ちて王と爲る。(神功64) 第15代百済王枕流即位(384) 慕容垂、後燕を建国した。 第18代高句麗王故国壌即位(384)
385 65 19 乙酉 乙丑 丙寅 己酉 庚戌 吉野巡幸(応神19)
百濟枕流王薨りぬ。王子阿花年少し。叔父、辰斯奪ひて立ちて王と爲る。(神功65)
百済辰斯王即位(応神3) 第16代百済王辰斯即位(385) 前秦事実上滅亡 王は兵4万で遼東を襲った。遼東・玄菟を落とした。(385)
386 66 20 丙戌 丁卯 戊辰 辛亥 壬子 8月高句麗が攻めてきた(386) 8月、兵を出して南の百済を征伐した。(386)
387 67 21 丁亥 己巳 庚午 癸丑 甲寅
388 68 22 戊子 辛未 壬申 乙卯 丙辰 難波巡幸(応神22)
389 69 23 己丑 癸酉 甲戌 丁巳 戊午 神功皇后没 高句麗の南の辺境を侵略した(389) 9月に百済が来侵して、南辺の辺鄙な部落を掠奪して帰った。(389)
390 24 庚寅 乙亥 丙子 己未 庚申 高句麗を征伐。都押城を占領(390) 9月に百済が都押城を攻め破った。(390)
391 25 辛卯 丁丑 戊寅 辛酉 壬戌 倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。(碑文) 19代好太王は後燕と戦って遼東に勢力を伸ばし、南に百済を討って一時は首都漢城(現ソウル特別市)のすぐ傍まで迫り、百済王を臣従させた。そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった
392 26 壬辰 己卯 庚辰 癸亥 甲子 紀角宿禰辰斯王を攻め、殺害、阿花を立てて王となす。(応神3) 7月高句麗兵4万を率いて北辺を攻めた。漢水以北の諸部落はほとんど落ちた。10月関弥城を落とされた。第17代百済王阿花即位(392) 高句麗に使者を派遣。実聖を人質として送った。(392) 後燕、?魏滅ぼす。
好太王は百済の石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させた。
新羅に使者を派遣し、修好した。新羅王が実聖を派遣して人質とした。第19代高句麗王広開土即位(392)
393 27 癸巳 辛巳 壬午 乙丑 丙寅 菟道稚郎子を皇太子にする。(応神40) 8月関弥城奪回を図ったが勝てずに帰る 倭人が来て金城を包囲したが、打ち破った。 秋8月、百済が南辺を侵したのでこれを防いだ
394 28 甲午 癸未 甲申 丁卯 戊辰 高麗王朝貢。菟道稚郎子は無礼な表書きを怒った。(応神28) 天皇崩御(応神41)
武内宿禰没(仁徳55)
高句麗と水谷城と戦って敗れた(394) 後燕、西燕を滅ぼし、東晋と戦って山東半島を奪回し、西は山西から東は山東・遼東に至る広大な勢力圏を築き上げる。
好太王は水谷城を築いた
秋7月に百済が攻めてきたので、逆襲しこれを破った。(394)
395 空位 乙未 乙酉 丙戌 己巳 庚午 8月王は高句麗を征伐しようとしたが破れた。(395) 後燕は北魏を攻撃したが、参合陂の戦いで大敗
好太王は礼成江まで反撃する百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した。
王は百済と貝水(大同江)の上流で戦ってこれを破った。(395)
396 空位 丙申 丁亥 戊子 辛未 壬申 菟道稚郎子自害 後燕王広開土王を遼東、帯方二国王に封じる。北魏は後燕王が死んだのを好機とし山西省全土を制圧した。
好太王は漢江を越えて侵攻して百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。
397 仁徳1 2 丁酉 己丑 庚寅 癸酉 甲戌 塩を作る。(応神31)
仁徳天皇即位(仁徳1)
磐之姫皇后(仁徳2)
百済人来朝。皇子直支を遣わす。(応神8) 倭国と友好関係を結び王子腆支を人質とした(397) 百済の阿華王は王子腆支を人質として倭に送り通好する。

 

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