顕宗・仁賢天皇
顕宗・仁賢天皇時代の年表
天皇 | 日本書紀 | 中国史 | 新羅本紀 | 百済本紀 | 高句麗本紀 | |
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491 | 顕宗1 | 弘計王即位 父の御陵を築く |
民が飢えて新羅に逃げた | 使者を魏に派遣して朝貢した。王が崩じた | ||
492 | 2 | 魏に使者を派遣。 | ||||
493 | 3 | 阿閉臣事代を任那に派遣。高皇産霊神を祀る。 天皇崩御 紀生磐宿禰、三韓の王になろうとして、百済で乱をおこしたが失敗した。 |
武帝が崩御後南斉は大混乱 北魏は都を平城から洛陽に遷した |
百済王が婚姻を乞うた。 臨界と長峰の二鎮を設置して倭賊に備えた |
使者を新羅に送り結婚を乞うた | |
494 | 仁賢1 | 仁賢天皇即位 | 高句麗と薩水で戦ったが勝てなかった。百済王が救援したので高句麗は引き揚げた。 | 高句麗は新羅と戦ったが、新羅は勝てなかった。王は兵3千を送り新羅を救った | 新羅と戦った。百済が応援したので引き揚げた。 | |
495 | 2 | 難波小野皇后の自殺 | 高句麗が百済を攻めたので救援した | 高句麗が侵攻してきて雉壌城を包囲した。王は新羅に救援要請した。新羅が応援に駆け付けたので高句麗は引いた | 百済の城を包囲すると新羅が応援するので引き揚げた | |
496 | 3 | 石上部の舎人を置く | 伽耶国が白い雉を送った。 高句麗が牛山城を攻めてきたが、泥河上でこれを破った。 |
新羅の牛山城を攻めたが、新羅軍が泥河に出撃してきたので敗退した。 | ||
497 | 4 | 的臣鹿島、穂瓮君は罪があり獄内で死んだ | 倭人が辺境を侵した。 高句麗が牛山城を落とした |
新羅の牛山城を攻めとった | ||
498 | 5 | 散り散りに逃げていた佐伯部を探し出し、押磐皇子に仕えた佐伯部仲子の子孫を佐伯造とした。 | 耽羅が貢物を治めないのでこれを征伐しようとすると謝罪したので許した。 | 使者を魏に派遣した | ||
499 | 6 | 日鷹吉士っを高麗に遣わし、工匠を召す | 民が飢えたが王は民を救わなかったので民は高句麗に逃げた。 | 百済の民が飢えて2千名が投降してきた | ||
500 | 7 | 皇太子を小泊瀬稚鷦鷯尊に決定 | 倭人が長峰城を攻め落とした。王が崩じた | 王が贅沢をした。臣の換言を聞かなかった。 | 使者を魏に派遣して朝貢した | |
501 | 8 | 五穀豊穣で繁栄した。 | 王は民に殺された。 | 使者を魏に派遣して朝貢した | ||
502 | 9 | 南斉王から禅譲を受け、梁が成立 | 殉死を禁じた | 武寧王即位。高句麗の水谷城を襲撃 | 梁の高祖が王を車騎大将軍に封じた。 百済が辺境を侵した 使者を魏に派遣して朝貢した |
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503 | 10 | 正式国名を新羅とした | 靺鞨が高木城に侵攻してきたが撃退した | 百済が水谷城に攻めてきた | ||
504 | 11 | 天皇崩御 |
仁賢天皇の最後の3年間は、天皇崩御以外の出来事の記載がない。これ以前の天皇の最後の部分の記載がない場合、その部分は年数の追加部分であった。仁徳天皇紀では、追加される直前の年に、以降は平穏になったと記録されている。仁賢天皇の最後の3年間も全く同じである。
允恭天皇の崩御時に日本書紀の年代と古代史の復元年代に6年のずれがあった。允恭天皇より後の天皇のどこかでこの6年の修正が行われているはずである。仁賢天皇の最後の3年間が、その6年のうちの3年と判定できる。
仁賢天皇の実際の崩御は501年と思われる。
年齢推定
顕宗天皇は崩御時古事記に38歳とある。仁賢天皇は崩御時水鏡に50歳とある。11年を差し引くと仁賢天皇は顕宗天皇崩御時(493年)に39歳となり、二人の年齢差は1歳となる。生誕は允恭天皇17年(454年)に億計王(455年)が、続く18年に弘計王が誕生したことになる。
億計・弘計兄弟の逃避事情
安康天皇3年(462年)10月1日、父である履中天皇皇子の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺された。億計王・弘計王兄弟は自らに危険が及ぶことを察知し、逃亡して身を隠した。この時、億計王が8歳、弘計王が7歳となる。二人だけで逃げられる年齢ではなく、近習の者とともに逃避生活に入ったものと思われる。まず、丹波国与謝郡(大虫神社)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室(兵庫県三木市志染町窟屋)に隠れ住んだといわれている。兄弟共に名を変えて丹波小子と名乗り、縮見屯倉首に使役され、長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜んで迎えを遣わし、清寧3年(488年)、2王を宮中に迎え入れて、4月7日に億計王を皇太子に、弘計王を皇子とした。
日本書紀ではこのように記録されているが、古事記では清寧天皇没後に二皇子が召されたことになっている。清寧天皇が健在の時は、天皇に子が生まれる可能性が十分に存在知るはずであり、そのような時に、この二皇子を皇太子として向かい入れることはあり得ないと思われる。よって、この記述は古事記の方が正しいといえる。
岐阜県本巣市薄墨桜の伝説(本巣市ホームページより)
今から1550余年の昔、17代履中天皇の第一皇子市邊押盤皇子(いちのへのおしはのみこ)が皇位継承をめぐって大泊瀬皇子(おおはつせのみこ・21代雄略天皇)に殺害された。
市邊押盤皇子の長男億計王(おけのみこ・24代仁賢天皇)、二男弘計王(おけのみこ・23代顕宗天皇)、三男橘王(たちばなのみこ)並びに母親の荑媛(はえひめ)は、大泊瀬皇子の迫害から身を守るため、倭(やまと)から丹波へ市川大臣等に護られて避難した。しかし、更に追っ手急なるを知り、億計王と弘計王は、母親の実兄吾田彦(われたひこ)と共に尾張一宮へと落ち延びた。吾田彦というのは応神天皇5世の彦主人王(ひこうしのおおきみ)のことで、彼も大泊瀬の迫害を受け一族離散の悲運に陥り、名前を変えていたのである。夫人や娘の豊媛(とよひめ)とは離れ離れになってしまったが、後に豊媛とは再会し、ここ一宮で一緒に暮らすようになった。また、億計王と弘計王は市川大臣と彦主人王等に護られながら別々の家で暮らすことになった。
歳月が流れ、弘計王(史実では彦主人王)と豊媛(史実では振姫)も成長し、二人の間に男大迹王(おおどのおおきみ・26代継体天皇)が生まれた。彦主人王は男大迹王を安全な所に隠して養育しようと思い、最近嬰児を亡くした草平(そうへい)夫婦と、同じく女児を出産したばかりの兼平(かねへい)夫婦に、生後僅か50日の男大迹王を託し、人里離れた土地へ出発させた。二夫婦はそれぞれ嬰児を背負い、苦難の末美濃の山奥へ辿り着いた。
その後は言語に絶する生活を強いられたが、王は立派に成長し、乳兄弟の目子姫(めのこひめ)と結婚された。そして勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ・27代安閑天皇)と檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ・28代宣化天皇)が誕生された。
その頃、男大迹王等は都からの招きで根尾谷を去ることになった。そこで王は、住民との別れを惜しみ檜隈高田皇子の産殿を焼き払った跡に1本の桜の苗木をお手植えになり、次の詠歌一首を遺された。
身の代と遺す桜は薄墨よ千代に其の名を栄盛(さか)へ止むる
ずっと後日、男大迹王は丹波の押盤(おしば)邸に入られた。王の御父弘計王は、23代の顕宗天皇であったが在位3年で崩御され、続いて億計王が24代仁賢天皇として即位された。仁賢天皇は在位11年で崩御、次いで即位した25代武烈天皇は、皇継者が無いまま若くして亡くなられた。その後を受けて男大迹王が即位され、ここに26代継体天皇が誕生したのである。継体天皇は82歳で崩御されるまでの25年間が在位であった。その後、長男の勾大兄皇子が27代安閑天皇に、二男の檜隈高田皇子が28代宣化天皇に即位されたという。
この伝承は「真清探當證」(尾張一宮真清田神社にかかわる土田氏が古記録を書き写したものといわれている。)=小椋一葉氏「継体天皇とうすずみ桜」より、まとめられたものである。
「真清探當證」の伝承は古事記・日本書紀の伝承とは異なるものであるが、古事記・日本書紀の記録と照合すると、矛盾点が解消する面があるので、古代史の復元に「真清探當證」の記録も採用してみようと思う。
「真清探當證」は安康天皇の崩御をAD444年としているが、他の記録と合わないため、18年ずらしてAD462年とする。以降18年ずつずらして考えることにする。ちなみにAD444年の中国干支は甲申であるが、AD462年の新半年一年暦干支が同じ甲申である。「真清探當證」も本来は干支で記述されていたと思われ、年数換算時に混乱したものと考えられる。
「真清探當證」における年代設定
「真清探當證」は安康3年紀元1104年(甲申)より始まり、仁賢11年紀元1158年(戊寅)で終わっている。この年代設定は、日本書紀と似ているようで若干の狂いがある。この年代設定を探ってみよう。
まず、各天皇の在位年数であるが、安康天皇3年、雄略天皇23年、清寧天皇5年、飯豊摂政3年、顕宗天皇12年、仁賢天皇11年となっている。飯豊摂政3年と顕宗天皇の12年を除けば、日本書紀とまったく同じである。日本書紀では顕宗天皇は3年在位である。
「真清探當證」の始まりの紀元1104年甲申は中国干支ではAD444年となるが、仁徳天皇の始めた新半年一年暦の干支ではAD462年となる。「真清探當證」の元資料に甲申とあったものを中国干支の甲申と勘違いして紀元1104年をAD444年と考えて年代設定したものと考えられる。
その後の年代は18年ずれのまま記録されているようであるが、記録の最後において、日本書紀の年代との食い違いを修正する必要が出てくる。顕宗天皇の没年丁卯、仁賢天皇の没年戊寅は日本書紀と一致しており、顕宗天皇の在位年と飯豊摂政を追加することによって、「真清探當證」と日本書紀との年代のずれを修正しているようである。
その証拠に、「真清探當證」における顕宗天皇の在位年は12年であるが、そのうち何か出来事が記録されているのは、最初の2年間と崩御年の3年分である。あと継体天皇の結婚年が顕宗10年に記録されているが、これは逆算してはめ込んだものと考えられる。仁賢天皇の記録も最期の三年間は崩御の記録があるのみで日本書紀と同じく追加年と考えられる。
「真清探當證」による二皇子の逃避行
AD462年8月5日 安康天皇が従弟の眉輪王に暗殺された。
8月8日 大泊瀬王(後の雄略天皇)に履中天皇の長子市辺押磐皇子が殺害される。同日家臣市川大臣は市辺押磐皇子の御子弘計、億計を落ち延びさせる。
8月9日 宮宅(天理市丹波市町)→市坂(京都府山城町)→神童子(京都府山城町)→井手(京都府井手町)→藤森(京都市伏見町)
最初の野宿をした地は京都市伏見区藤森神社の地、大津市逢坂山は落ち延びた者全員が一同に逢うことができた地と記録されている。
8月10日 逢坂山→膳所(膳所市)→天孫神社(京都市京町)→鞍馬→貴船
貴船で猪狩と出会い、匿う。
8月11日 猪狩を先導として灰屋→墨田→井戸→辻→田貫(京都府京北町)→胡摩(日吉町)→綾部(綾部市)→来有路(大江町)→丹波与佐久邸着
大虫神社 与謝郡加悦町温江1821
清寧天皇の朝 (或は人皇二十代安康天皇とあり)億計(仁賢天皇)弘計(顕宗天皇)の二皇子を当社に匿し奉りしが(大虫神社神主細目氏)播磨の国之供奉せりと言われている。<平成祭りデータ>
丹波与佐久邸は空き家だったので夜を徹して与謝峠を越え雲原(福知山市)を経て丹波与佐久の隠居所(養父町)に着いた。
この与佐久邸にも大泊瀬王の探査の手が迫っていたので、尾張の黒田神宮の葦田宿禰の元に身を寄せることになり、翌日出発。総勢51名。
8月13日 同じ道を引き返し、大布施(京都市左京区)→尾越→還来神社(大津市伊香立)→今宿(滋賀県志賀町) 今宿村長宅に宿泊
8月14日 舟で琵琶湖を渡り、舟着(近江八幡市)に着く→押立(湖東町北菩提寺) 夜道を急行、北蚊野(滋賀県秦荘町)→胡宮神社(多賀町敏満寺)→醒ヶ井(米原市)に着く。
8月15日 醒ヶ井→柏原(滋賀県山東町)→垂井(岐阜県大垣市)→昼井→墨俣(墨俣町)→曲利(岐阜羽島市正木町)→南及→松枝郷
8月16日 尾張黒田大神の元に着く。
これは大変な逃避行である。一日の行程が直線100kmを超える日も存在している。これはほとんど不可能と考えてよいのではないだろうか、実際はこの二倍以上の日数がかかっていると思われる。「真清探當證」ではそれぞれの地での出来事が地名の由来となり、神社創始の理由になったと伝えている。
尾張一宮真清田神社はこの当時「黒田大神」と呼ばれていたが、神主の葦田宿禰は二皇子を匿うことを約束し、真黒田大神と改称した。二皇子はこの神社の地で以降20年ほど過ごすことになる。
「真清探當證」の記録は真偽がはっきりしないが、その記述が極めて具体的であり、一部を除いて、合理的でもある。よって、最大限この記録を参考としたい。
男大迹王(後の継体天皇)生誕
「真清探當證」では弘計王と彦主人王の娘豊姫との間に、後の継体天皇となる男大迹王が雄略15年(AD477年)に生誕したことになっている。記紀に依ると継体天皇は彦主人王の子である。どちらが正しいのであろうか。
継体天皇は即位後仁賢天皇の娘手白香皇女と結婚しその皇子を欽明天皇として即位させている。以降欽明天皇の系統が元皇室までつながっているのである。継体天皇の子である安閑・宣化両天皇は欽明天皇への繋ぎの天皇として位置づけられている。これは顕宗・仁賢の系統を受け継ぐ意志の表れであり、継体天皇が弘計王(顕宗天皇)の子であればそのようなことをする必要がない。また、彦主人王は応神天皇4世であり、顕宗・仁賢天皇が応神天皇4世であることから考えると、彦主人王は顕宗・仁賢天皇と同世代と考えられる。継体天皇は彦主人王の子であり、記紀の記録の方が正しいと判断する。
継体天皇に関する「真清探當證」との照合は継体天皇の項で行う。
「真清探當證による二皇子の舞
AD485年雄略天皇が崩じた。翌年正月清寧天皇が即位した。AD486年3月3日真黒田大神へ奉幣勅使が差し遣わされた。勅使は伊豫来目部小楯であった。このころ天皇が即位した時真黒田大神に奉幣使を遣わすのが慣例であった。雄略天皇の奉幣使は吉備尾代であり、それから23年が経過していた。
二皇子も30歳程になっており、見つかった時のために戦闘準備もしていたが、舞を舞うことで正体を明かした。
「武人の我が兄上が取り佩いている太刀の柄に、赤い模様を塗りつけ、その紐(ひも)には赤い旗をつけ、その赤い旗を立てて見れば、隠れて見えない山の尾の竹を刈り、その竹の先をを押しなびかせるように、八絃(はちげん)の琴を奏でるが如く、天下を治めになられた伊邪本和気(いざほわけ)の天皇(履中天皇)の、御子の市辺押歯王(いちのへのおしはのみこ)の、今は奴となった子です」
小楯は驚き、二皇子の棲家を訪ねたが、その家がみすぼらしく、皇子に相応しくないので、新御殿を立ててそこに住まわせた。新御殿は真黒田大神の境内より千間離れていたので千間殿と称されるようになった。
このとき、継体天皇の父とされている彦主人王がこの地で亡くなり、夫婦塚が大正時代までこの地に残っていたが、大正6年尾西鉄道の延長工事に伴い、消滅した。
億計王はこの時32歳であったが日陰の身のため妻を娶ってはいなかった。新御殿に移り住んだ億計王は神主葦田宿禰の娘春日姫を娶った。AD489年(清寧4年)正月13日小泊瀬稚鷦鷯(後の武烈天皇)が誕生した。このとき、産前で一羽の鷦鷯が飛来したのでこの名がつけられたという。
王子が生まれた地を子生和(稲沢市子生和町)、産殿設置場所を子生和村字子安賀(稲沢市島子安賀)と名付けたという。
「真清探當證」による皇太子選定
AD489年(清寧4年)2月、清寧天皇が病に伏した。まだ皇太子のいないのを憂慮していた天皇は群臣に相談した。このとき、小楯にも天皇からの相談があった。小楯は、「故市辺押磐皇子の子が行方不明になっているが、この皇子を探し出してはどうか」と奏上した。
大喜びの天皇は、早速群臣に諮り、もし皇子が壮健で在所が判明したら、直ちに帰還を歓迎することを伝えた。小楯はこのとき、天皇から皇子の所在を聞かれたが、慎重に知らないと答えた。そして、「天皇の威光で諸国の国主に下命し、各所に立札を立てるなどして探索すれば、直ちに見つかるであろう」と言った。
そうしておいて、直ちに真黒田神宮の神主と国主に書簡を送った。この書簡が届いたのがAD489年2月10日だったという。このようにして億計王が皇太子として決定された。
「真清探當證」による大和帰還
翌AD490年(清寧5年)正月早々、清寧天皇の病が重くなり、いよいよ億計王が大和に帰還することになった。正月20日億計王は尾張を出発した。総勢は春日姫及び小泊瀬稚鷦鷯王を含む42名である。
千間殿→起(尾西市)→飯柄(羽島市)→古宮(大垣市)→飯積(養老町)で1泊→柏原(山東町)→梓(米原町)→醒ヶ井(米原町)→多和田(近江町)→飯村(近江町)→船崎(近江町)→琵琶湖を渡る→草津→関津(大津市)→大和
この途中で、清寧天皇崩御の報告密使がやってきた。また、姉の飯豊青媛の密使と出会った。飯豊青媛は市辺押磐皇子殺害事件後伯母の家に下女として隠れ住んでいたようであるが、先年の国主による皇子探索の立札を見て名乗り出ていたのである。億計王はまず飯豊青媛の元へたどり着き、弟の弘計王を呼び寄せるために尾張に使者を遣わした。
正月26日弘計王は少人数で千間殿を出発した。このとき、豊姫と別れた。
日本書紀と「真清探當證」の系図の比較
仁賢天皇の皇后春日姫について
日本書紀では春日姫は清寧天皇の妹であり、「真清探當證」では武内宿禰の孫葦田宿禰の娘となっているが世代が合わないので、葦田宿禰の子蟻臣の娘と考える。仁賢天皇は清寧3年に皇太子となっているが、古事記の通り仁賢天皇が皇太子となったのは清寧天皇5年と考えられるので、その妹との結婚は清寧天皇死後となり、その子武烈天皇の生誕はそれよりさらに遅れることになり、仁賢天皇が日本書紀の記述で三年追加されていることから考えると、武烈天皇即位が多くとも11歳となり、若すぎるのである。
「真清探當證」の方が自然であり、この場合武烈天皇はもう少し高齢で即位できることになる。
顕宗天皇の皇后難波小野王について
日本書紀では雄略天皇の磐城皇子の子丘稚子王の娘、古事記では磐城皇子(石木王)の娘とされている。世代を考慮すると、磐城皇子が顕宗天皇と同世代なので共に世代が合わない。また、顕宗天皇は雄略天皇の陵墓を破壊しようとしたように雄略天皇を相当恨んでおり、その孫娘を妻にすると云うのも不自然である。この皇后との間には子がなくは顕宗天皇の死の直後仁賢天皇2年に億計王に無礼をはたらき処分を恐れて自殺したと伝えられている。
顕宗天皇は顕宗3年38歳で亡くなっている。即位したときは35歳なので、それまで妻がいなかったとは考えにくい。「真清探當證」では、日本書紀で継体天皇の父とされている彦主人王の娘豊姫と結婚して、継体天皇の父となっている。
この伝承の真実性はどうなのであろうか。継体天皇は即位後仁賢天皇の娘手白香皇女との間の欽明天皇を後継者とし、目子姫との間の子安閑天皇と宣化天皇は繋ぎの天皇として位置づけられており、継体天皇が顕宗天皇の子であるならばそのようなことをする必要がなく、継体天皇が顕宗天皇の子とは考えにくい。また、継体天皇が顕宗天皇の子であるならば、もっと簡単に武烈天皇からの皇位継承が起こっていると思われる。やはり日本書紀の通り、継体天皇は彦主人王の子と考えるべきであろう。
しかし、彦主人王は億計王・弘計王と共に尾張で過ごしており、その関係者との間で婚姻関係ができることは十分に考えられる。「真清探當證」では、彦主人王は吾田彦とも云い、億計王・弘計王が雄略天皇から逃避行する時、成人しており、逃避行を補佐している。彦主人王は億計王・弘計王より1世代ほど程年上であり雄略天皇と同世代と思われる。継体天皇生誕はそれより20年ほど後になるので、彦主人王が継体天皇の父となるには少し年が違いすぎるように思える。
そこで、億計王・弘計王が雄略天皇から逃避行する時、補佐した人物は彦主人王の父である乎非王ではあるまいか。乎非王は雄略天皇と同世代と思われ、彦主人王は顕宗天皇と同世代となり、顕宗天皇より数歳年上と考えられる。
顕宗天皇は乎非王の娘で彦主人王の妹が豊姫ではないだろうか。顕宗天皇と豊姫との間には男子はなく、女子があったのではないだろうか。男子があったら、皇位継承者となっているので、継体天皇に継承されることはなかったであろう。
皇位の譲り合い
億計王は先に弘計王を天皇にしたいと皇位を継承しなかった。二人は譲り合ったのである。その間飯豊青媛が摂政をしていた。この摂政期間は「真清探當證」では3年間となっているが、実際はAD490年1月から11月までの11ヶ月間と思われる。
翌AD491年正月弘計王が即位した。顕宗天皇である。「真清探當證」では顕宗天皇の在位は12年、古事記では8年、日本書紀では3年である。三者全く異なるが、前後関係から日本書紀の3年を取らざるを得ない。
清寧天皇5年1月16日に天皇が崩御した。皇太子の億計は身分を明かした大功を理由として弟の弘計に皇位を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇位の相譲が続いた。その間は飯豊青皇女が執政した。しかし、飯豊青皇女は清寧天皇5年(490年)11月45歳(水鏡)で亡くなった。その後、兄の説得に折れる形で翌491年、顕宗天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、顕宗天皇がわずか3年で38歳で崩御したので、39歳の億計が仁賢天皇として即位することになった。
皇位の譲り合いはなぜ起こったのであろうか。皇太子は兄である億計王で、この当時の継承ルールによると弟である弘計王には皇位継承権がないのである。顕宗天皇は仁賢天皇の弟であり、弟の方が長生きをする可能性が高く、顕宗天皇に皇位を譲るということは自分は永久に天皇になれない可能性があることになる。皇太子として認定された人物がそのような選択をすることは先王の意向に逆らうことにもなる。また、顕宗・仁賢・武烈3天皇時代は日本書紀、古事記共に時代が新しい割に記述が少なく、都合の悪い真実が隠されていると思われる。その都合の悪い真実とは飛騨国にかかわる内容である。皇位の譲り合いも飛騨国にかかわる何かが隠されているのではないかと推定する。
飛騨国の伝承とのかかわり
「真清探當證」には真清田神社の縁起が記録されている。
三千有余年前の事績、(天火明命は)この大八島を平定なし、首長に昇進、首務をこの地にて取り扱いのため、首府も俱にこの地の南方なる木曽分流、石野磧の上りに城郭を築き設置せり。この城郭内にて、事務扱い執行ありたり。然るに首長は若き時、鬼神を倒す勢いの者にて、この八島平定なるが、すでに老齢に及び首務職倦怠に陥り、臣下に任し置き、自分は城郭よりやや北方少し西寄りに別荘を造営なし、隠居同様国常立尊を奉祀なし、常にこの別荘に在住しけり、ゆえに首府庁舎は欠勤同様、この時、四海の大八島住人共蜂起、臣下乱脈の兆しあり、これを日夜憂い給う。大神大奮発心を誓い給う時、大日靈尊なりしけり。
尊思想なし給うは先ず首長に会見し、然る後、事を計り天下統治の目的を遂げんと心密かに時期の来るのを待ち給いけり。・・・
この記録は長いので以降を割愛するが、以降尾張の語源(小波里)、火明命の大神(大日靈尊)への国譲り、猿田彦命の登場、大神の尾張訪問と続き、天火明命の宮跡を真清田神社とすることに及んでいる。
大まかには、大神(大日靈尊)がこの地にやってきて、火明命の平定した国を大神に譲るという内容である。この大神(大日靈尊)は飛騨国(ウガヤ王朝)67代春建日媛天皇のことと考えられ、火明命は饒速日尊の別名である。
古代史の復元とは異なっているがこの記録は飛騨国の伝承とよく似ている。このことは、「真清探當證」に飛騨国伝承が入り込んでいることを意味し、億計王・弘計王がこの地に滞在中、飛騨国伝承に触れていることを示している。
弟が皇位継承をした理由の推定
飛騨国の存在
次の武烈天皇が日本書紀によって悪く書かれている。その理由は竹内古文書により、飛騨国の歴史を残そうとしたことによると思われる。武烈天皇が飛騨国に関してそのような思想を持つということは、それ以前にそういう考え方に至る環境があったことを意味している。
父の仁賢天皇の時代がその環境であり、その環境下で武烈天皇が育ったと考えるべきであろう。これと皇位の譲り合いが関係していると推定している。
億計王・弘計王は尾張に隠棲中に飛騨国に人々に触れ、飛騨国が日本古来からの国であることや、神武天皇が飛騨国王の王位を継承しているが、飛騨国にはその祭祀がまだ継承されていることなどを知ったことであろう。
億計王の皇位簒奪計画
億計王は市辺押磐皇子の長子である。履中天皇が早世しなかったとすれば、市辺押磐皇子が第18代天皇に即位しており、億計王が第19代天皇として即位しているはずだった。また、安康天皇が暗殺されなかったならば、市辺押磐皇子が第21代天皇に即位しており、億計王が第22代天皇に即位することになっていたはずである。億計王は大和朝廷の正統の後継者だったのである。それが、雄略天皇に父を暗殺されており、雄略天皇に対する恨みの念がなかったとはいえない。
また、配下の者が正式な皇位継承者であることを億計王に伝えていることも考えられ、暗殺者である雄略天皇が大和朝廷を支配していることに対して怒りを覚えることをあり得ない話である。
古代史の復元では億計王が雄略天皇から、皇位を奪い返す算段をしていたのではないかと推定してみた。
その理由は第26代継体天皇の父である彦主人王の行動にある。億計王・弘計王は雄略天皇の追求の目から逃れて尾張国に隠棲している身である。その配下である彦主人王が越前国や近江国に滞在している伝承継体天皇の即位前伝承と共に残されている。これは、彦主人王が越前や近江を巡回していたことを意味しているのである。
彦主人王は何のために越前や近江を巡回していたのであろうか。これを雄略天皇から大和朝廷を奪い返す下準備をしていたためではないかと判断する。その作戦として、飛騨国の祭祀者を協力者として担ぎ出し、その権威を利用して地方豪族に大和朝廷打倒の協力者になるように彦主人王が説得に回っていたと考えている。
祭祀者としての飛騨国王は履中天皇の時代に廃止されているが、飛騨国の人々は細々と飛騨国の祭祀(日抱の儀式)を継承していた。億計王に協力すれば、昔のように祭祀王を復活させてもらえるとなれば、飛騨国としては積極的に行動をすると思われる。
そのようにして、大和朝廷打倒の準備を少しずつ進めていったのであるが、まだ準備が整わないAD485年雄略天皇が崩御し、清寧天皇が即位したのである。その即位奉幣使小楯が真清田神社に来た時、億計王・弘計王は考えた。その会話を推定してみると次のようになる。
弘計王:「我々の敵とすべき雄略帝は亡くなった。その子清寧帝には罪はない。」
億計王:「しかし、大和朝廷打倒の準備は少しずつ進んでいる。」
弘計王:「いま皇位継承者がいない状況である。清寧天皇にも皇位継承者が今のところいない。清寧天皇が我々の存在を認めてくれるなら、大和朝廷を打倒しなくてもよいではないか?正体を明かそうではないか。」
億計王:「そのようなことをすれば、殺されるかもしれない。」
弘計王:「朝廷を倒そうとすると、また、多くの人たちが死ぬことになり、われわれみたいな目に逢う人が出てくるのではないか。奉幣使の小楯は信頼できる人みたいだ。小楯を信じて任せてみないか。」
億計王:「そうだな、殺し合いはしない方がいい。小楯を信じてみよう。」
このような会話があったかどうかは定かではないが、二人の意志が決まり、舞を舞うことによって、二人は正体を明かした。
小楯は信頼に足る人物であり、先ずは二人の存在を秘密にしておき、時期を見て天皇に奏上すると約束してくれた。AD489年(清寧4年)、億計王が清寧天皇から皇太子として選定されることになり、大和朝廷打倒計画はなかったことになった。
しかし、飛騨国をその協力者として担ぎ出しており、また、協力を申し出た豪族たちが存在していた。億計王が皇太子となれば、この人たちをどうするかが課題となる。億計王には各豪族を訪問して、計画がなくなったを伝え、合わせて、新しい朝廷に協力するように要請する必要があった。それを億計王自身が行うために、弘計王に皇位継承をさせたものと判断する。
弘計王即位
互いに譲り合って空位状態が生じることになった。これはきわめてまずいことなので、二人の姉の飯豊青媛が摂政をすることで間をつないだ。皇女の摂政期間はAD490年(清寧5年)1月から彼女が亡くなる11月までのほぼ1年間であった。11月に飯豊青皇女が亡くなり、いよいよどちらかが皇位を継承しなければならなくなった。この時、億計王は自分の考えを明かしたのであろう。弘計王はそれを承諾し、翌年AD491年顕宗天皇として即位した。おそらく顕宗天皇は3年間の期限を切った天皇だったのではあるまいか。
この期間に億計王は大和朝廷打倒に協力を申し出た豪族たちを回り、新しい大和朝廷に協力するように巡回したことであろう。巡回を終え、これら豪族たちの協力を得られた億計王は3年後、約束通り顕宗天皇から皇位を継承し、仁賢天皇として即位したのである。顕宗天皇は亡くなったわけではなく、仁賢天皇を補佐したのではないかと思われる。仁賢2年に顕宗天皇の皇后難波小野王が億計王に無礼をはたらき、その処分を恐れて自殺したと伝えられているが、顕宗天皇の退位の理由を知らない小野王が仁賢天皇に怒りをぶちまけることは十分に考えられ、彼女の自殺の理由に関係していると思われる。
顕宗天皇が亡くなったのはAD498年ではあるまいか、そのために古事記に顕宗天皇の在位は8年と記録され、仁賢天皇の実際の在位は8年であるが、日本書紀での在位年は11年となっているのも最後の3年間が追加の年と考えているが、在位11年は、顕宗天皇の在位年を合わせたものと考えることができる。
仁賢天皇の後三年間は日本書紀の附け加えと思われ、実際の在位年は8年と推定する。仁賢天皇は仁賢8年(501年)に47歳で崩御したことになる。
飛騨国の扱い
億計王の巡回の中で対応が難しくなったのは、飛騨国であろう。履中天皇の時代に祭祀王が廃止され、細々と祭祀を継続していたものが、やっと日の目を見られると思ったあげく、その計画がなくなったわけである。億計王の交渉も難航したことが予想される。
この状況を打開するために、億計王は飛騨国の歴史を正しく残すことを約束したのではあるまいか。飛騨国とすれば、飛騨国の歴史が正しく残されれば、祭祀の継承も永遠に伝えられることができ、交渉が成立したのであろう。
後の武烈天皇もこれを継承したが、重臣の反対勢力に押されて、暗殺されることになったのである。
┏菟道稚郎子 ┏飯豊青皇女 ┃ ┃ ┏武烈天皇 仲哀天皇━応神天皇╋大山守皇子 ┏履中天皇━━市辺押磐皇子╋仁賢天皇━┫502 328~333 367 ┃ ┃428 ┃494 ┗手白香皇女━┓ ┣仁徳天皇━━╋反正天皇 ┗顕宗天皇 ┃ ┃397 ┃433 ┏安康天皇 491 ┃ ┃ ┗允恭天皇━┫460 ┣━欽明天皇━━━┓ ┃ 438 ┗雄略天皇━━━清寧天皇 ┃ 540 ┃ ┃ 463 486 ┃ ┣敏達天皇 ┗稚野毛二派━━意富本杼━━乎非王━━━━彦主人王━━継体天皇━━┫┏安閑天皇 ┃572 510 ┣┫534 ┃ 尾張目子姫━━┛┗宣化天皇━石姫┛ 536 |
顕宗・仁賢天皇の尾張に置ける事象の抹殺
「真清探當證」にこれだけ詳しい記録があるのに、古事記・日本書紀はなぜそれを黙殺したのであろうか、次の武烈天皇の治世、継体天皇の出自と合わせてこの時代は謎が異常に多いのである。
他の時代の伝承から考えて、この時代の出来事が失われていたとは考えにくく、後の世代によって抹殺されたと考えてよいであろう。では、その抹殺された理由は何であろうか。
その理由として考えられるのが飛騨国とのかかわりである。尾張は飛騨国への玄関口にあたる。尾張で隠棲中飛騨国にかかわる人物と交流があり、顕宗・仁賢天皇が飛騨国の影響を強く受けて成長していれば、飛騨国を擁護する政策を実行することは十分に考えられる。そして、次の武烈天皇がそれを強硬に実行したことが予想されるのである。
飛騨国を抹殺したい勢力は顕宗・仁賢・武烈3天皇から飛騨国にかかわる部分を抹殺することになり、そのために尾張に滞在していた頃の伝承を抹殺し播磨国の伝承に書き換えさせたものと、考えられないだろうか。
これに関する神社伝承も数多く抹殺されており、尾張国に言い伝えられているのはごくわずかにすぎないが、「真清探當證」の地名説話が非常にすっきりとつながっており、地名まで創作するのは難しいと思われ、「真清探當證」が単なる創作ではないことは明らかである。
大陸の事情
一方朝鮮半島では、相変わらず高句麗が新羅・百済を狙っているようであるが、新羅と百済は連合して高句麗を撃退している様子が分かる。倭人は497年と500年に新羅を攻めているようであるが、大規模なものではなさそうである。朝貢しないのが理由であろうか
西暦 | 天皇 | 在位 | 新干支 | 中国干支 | 日本書紀(修正) | 紀元 | 真清探當證(一部修正) | 顕宗年齢 | 仁賢年齢 | 継体年齢 | 武烈年齢 | |
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462 | 安康 | 3 | 癸未 | 甲申 | 壬寅 | 1104 | 安康天皇没 | 7 | 8 | |||
463 | 雄略 | 1 | 乙酉 | 丙戌 | 癸卯 | 1105 | 雄略即位 | 8 | 9 | |||
464 | 2 | 丁亥 | 戊子 | 甲辰 | 百濟の池津媛を石川楯と通じた罪により処刑。 | 1106 | 真黒田大神前で雄略天皇即位式を行う | 9 | 10 | |||
465 | 3 | 己丑 | 庚寅 | 乙巳 | 新羅は貢物を送らないばかりか、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取ったりするので、新羅を攻めた。(雄略9) | 1107 | 二皇子は学問と馬術を習う | 10 | 11 | |||
466 | 4 | 辛卯 | 壬辰 | 丙午 | 葛城山で狩をする | 1108 | 11 | 12 | ||||
467 | 5 | 癸巳 | 甲午 | 丁未 | 百済加須利君の弟軍君及び自らの婦を倭に仕えさせた。婦は筑紫で後の武寧王を出産 | 1109 | 12 | 13 | ||||
468 | 6 | 乙未 | 丙申 | 戊申 | 養蚕奨励 呉が使いを使わして貢物を奉った |
1110 | 13 | 14 | ||||
469 | 7 | 丁酉 | 戊戌 | 己酉 | 吉備下道前津屋の乱 吉備上道臣田狭を任那国司に任命する。この時新羅と不和であった。 |
1111 | 億計王農事を始める | 14 | 15 | |||
470 | 8 | 己亥 | 庚子 | 庚戌 | 天皇即位以来新羅が朝貢してこなかった。新羅は天皇を恐れて高麗に守ってもらった。高麗の守りは偽りであった。 新羅は任那に救援要請。新羅を救援する。新羅・高麗間が以降不和となる。 |
1112 | 15 | 16 | ||||
471 | 9 | 辛丑 | 壬寅 | 辛亥 | 新羅は貢物を送らないばかりか、高麗の貢物を邪魔し百済の城を取ったりするので、新羅を攻めた。 | 1113 | 真清田神社で盆踊りの始まり | 16 | 17 | |||
472 | 10 | 癸卯 | 甲辰 | 壬子 | 1114 | 17 | 18 | |||||
473 | 11 | 乙巳 | 丙午 | 癸丑 | 百濟國から逃げてきたものがあった。貴信と名乗った。呉國の人とも云う。 | 1115 | 18 | 19 | ||||
474 | 12 | 丁未 | 戊申 | 甲寅 | 身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す | 1116 | 19 | 20 | ||||
475 | 13 | 己酉 | 庚戌 | 乙卯 | 高麗王が大軍を持って百済を滅ぼした。高麗の将が百済の生き残りを追い払おうとしたが、高麗王は百済は日本の宮家であり、日本に仕えており、周りの国々もそのことを知っているので追い払ってはならないとした。(雄略20) | 1117 | 弘計王土器を製作 | 20 | 21 | |||
476 | 14 | 辛亥 | 壬子 | 丙辰 | 天皇は久麻那利を百済文州王に賜って、その国を救い興した。(雄略21) 呉に使いを出す。(雄略8) |
1118 | 21 | 22 | 継体 | |||
477 | 15 | 癸丑 | 甲寅 | 丁巳 | 1119 | 継体生誕 | 22 | 23 | 1 | |||
478 | 16 | 乙卯 | 丙辰 | 戊午 | 身狹村主靑等、呉の獻れる二の鵝を將て、筑紫に到る(雄略10) | 1120 | 23 | 24 | 2 | |||
479 | 17 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 百濟の文斤王、亡くなる。天皇は昆支王の5人の子の中から二番目の王が聡明なので筑紫の兵士500名に守らせて百済に送った。東城王である。 百済の貢物は例年以上であった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが高麗を討った。(雄略23) 百濟國から逃げてきたものがあった。貴信と名乗った。呉國の人とも云う。(雄略11) |
1121 | 市川大臣没、市川大臣は億計王に素盞嗚尊ゆかりの宝剣と勾玉を渡す。 | 24 | 25 | 3 | ||
480 | 18 | 己未 | 庚申 | 庚申 | 身狹村主靑と檜隈民使博德とを、呉に出使す(雄略12) | 1122 | 25 | 26 | 4 | |||
481 | 19 | 辛酉 | 壬戌 | 辛酉 | 天皇即位以来新羅が朝貢してこなかった。新羅は天皇を恐れて高麗に守ってもらった。高麗の守りは偽りであった。 新羅は任那に救援要請。新羅を救援する。新羅・高麗間が以降不和となる。(雄略8) |
1123 | 26 | 27 | 5 | |||
482 | 20 | 癸亥 | 甲子 | 壬戌 | 身狹村主靑等、呉國の使と共に、呉の獻った手先の工人、漢織・呉織及び衣縫兄媛・弟媛等を率いてもどる。これらの人々を重用する。(雄略14) | 1124 | 27 | 28 | 6 | |||
483 | 21 | 乙丑 | 丙寅 | 癸亥 | 秦氏重用(雄略15) | 1125 | 28 | 29 | 7 | |||
484 | 22 | 丁卯 | 戊辰 | 甲子 | 養蚕と紡織を庸調とする秦酒公の手法を、桑に適した地に拡げる策が執られた(雄略16) | 1126 | 29 | 30 | 8 | |||
485 | 23 | 己巳 | 庚午 | 乙丑 | 百濟の文斤王、亡くなる。天皇は昆支王の5人の子の中から二番目の王が聡明なので筑紫の兵士500名に守らせて百済に送った。東城王である。 百済の貢物は例年以上であった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが高麗を討った。 天皇崩御 新羅討伐から帰ってきた吉備臣尾代は新羅から帰還途中の蝦夷が、天皇崩御を知り反逆を企てたので、平定した。星川皇子の乱 |
1127 | 雄略没 | 30 | 31 | 9 | ||
486 | 清寧 | 1 | 辛未 | 壬申 | 丙寅 | 清寧天皇即位 | 1128 | 真黒田大神へ小楯が即位奉幣使としてやってくる。その前で二皇子が舞を舞い正体を明かす。 小楯は二皇子の棲家として千間殿を建て、二皇子を住まわせる。 彦主人王亡くなる。 億計王は葦田宿禰の娘春日媛と婚姻 |
31 | 32 | 10 | |
487 | 2 | 癸酉 | 甲戌 | 丁卯 | 播磨国で履中天皇の市辺押磐皇子の子億計及び弘計を発見 | 1129 | 父の25年祭 | 32 | 33 | 11 | ||
488 | 3 | 乙亥 | 丙子 | 戊辰 | 億計及び弘計を宮中に入れ、億計王を皇太子とした。 | 1130 | 億計王雨乞い祈願をする。 | 33 | 34 | 12 | 武烈 | |
489 | 4 | 丁丑 | 戊寅 | 己巳 | 海外の使者たちを集め宴会を開く | 1131 | 武烈生誕 天皇病に伏し、皇太子を選定、億計王が皇太子となる。 |
34 | 35 | 13 | 1 | |
490 | 5 | 己卯 | 庚辰 | 庚午 | 天皇崩御(1月) 飯豊摂政・11月没 |
1132 | 天皇の病が重くなり億計王大和帰還 清寧天皇没 弘計王も大和に帰還以上(1月) |
35 | 36 | 14 | 2 | |
491 | 顕宗 | 1 | 辛巳 | 壬午 | 辛未 | 弘計王即位 父の御陵を築く |
1134 | 飯豊摂政をするも9月没・顕宗即位 | 36 | 37 | 15 | 3 |
492 | 2 | 癸未 | 甲申 | 壬申 | 37 | 38 | 16 | 4 | ||||
493 | 3 | 乙酉 | 丙戌 | 癸酉 | 阿閉臣事代を任那に派遣。高皇産霊神を祀る。 天皇崩御 紀生磐宿禰、三韓の王になろうとして、百済で乱をおこしたが失敗した。 |
1147 | 顕宗没 | 38 | 39 | 17 | 5 | |
494 | 仁賢 | 1 | 丁亥 | 戊子 | 甲戌 | 仁賢天皇即位 | 1148 | 仁賢天皇即位、男大迹王大和に旅立つ。薄墨桜を植える。 | 40 | 18 | 6 | |
495 | 2 | 己丑 | 庚寅 | 乙亥 | 難波小野皇后の自殺 | 41 | 19 | 7 | ||||
496 | 3 | 辛卯 | 壬辰 | 丙子 | 石上部の舎人を置く | 42 | 20 | 8 | ||||
497 | 4 | 癸巳 | 甲午 | 丁丑 | 的臣鹿島、穂瓮君は罪があり獄内で死んだ | 43 | 21 | 9 | ||||
498 | 5 | 乙未 | 丙申 | 戊寅 | 散り散りに逃げていた佐伯部を探し出し、押磐皇子に仕えた佐伯部仲子の子孫を佐伯造とした。 | 44 | 22 | 10 | ||||
499 | 6 | 丁酉 | 戊戌 | 己卯 | 日鷹吉士を高麗に遣わし、工匠を召す | 45 | 23 | 11 | ||||
500 | 7 | 己亥 | 庚子 | 庚辰 | 皇太子を小泊瀬稚鷦鷯尊に決定 | 46 | 24 | 12 | ||||
501 | 8 | 辛丑 | 壬寅 | 辛巳 | 五穀豊穣で繁栄した。 | 1158 | 仁賢没 | 47 | 25 | 13 | ||
502 | 武烈 | 1 | 癸卯 | 甲辰 | 壬午 | 武烈天皇即位 | 男大迹王目子姫と結婚(1144) | 26 | 14 | |||
503 | 2 | 乙巳 | 丙午 | 癸未 | 27 | 15 | ||||||
504 | 3 | 丁未 | 戊申 | 甲申 | 安閑天皇生誕 | 28 | 16 | |||||
505 | 4 | 己酉 | 庚戌 | 乙酉 | 宣化天皇生誕 | 29 | 17 | |||||
506 | 5 | 辛亥 | 壬子 | 丙戌 | 30 | 18 | ||||||
507 | 6 | 癸丑 | 甲寅 | 丁亥 | 31 | 19 | ||||||
508 | 7 | 乙卯 | 丙辰 | 戊子 | 32 | 20 | ||||||
509 | 8 | 丁巳 | 戊午 | 己丑 | 平群真鳥・鮪親子を暗殺したとして富山に落ち延びさせる。 武烈天皇暗殺 |
33 | 21 | |||||
510 | 継体 | 1 | 己未 | 庚申 | 庚寅 | 34 |
葛城氏の系図(古代史の復元) ┏━━黒媛━━━┓ ┃ ┣市辺押磐皇子━┓┏仁賢天皇━武烈天皇 ━仲哀天皇━━応神天皇━━仁徳天皇┓ ┃ ┏履中天皇━┛ ┣┫ ┃ ┃ ┃ ┏━━━荑媛━━━┛┗顕宗天皇 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋反正天皇┃┏安康天皇 ┃ ┃ ┃ ┃┃ ┏磐之姫━┛ ┃ ┗允恭天皇━┫ ┃ ┃ ┃┗雄略天皇━┓ ┃ ┃ ┃ ┣━━━清寧天皇 ┃ ┃ ┃┏韓媛━━━┛ ┃ ┃ ┃┃ ┏葛城襲津彦╋葦田宿禰━━┻━━━蟻━━┻━━伊呂尼 ┃ ┃ ┃ ┃ ┗玉田宿禰━━━━━円大臣━━┻━磐田 ━武内宿禰B┫ ┃ ┗紀角宿禰━━白城宿禰━━━━━紀小弓━━━紀大磐━━━━━━紀小足 |
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