清寧天皇

 清寧天皇の事績も允恭天皇の時に生じている日本書紀との年代のずれが解消していないので、日本書紀とは6年ずれたあままである。

西暦 清寧 日本書紀 新羅本紀 百済本紀 高句麗本紀
485 0 星川皇子の乱 百済が来て修交した。 使者を新羅に派遣して和を結んだ 使者を魏に派遣して朝貢
486 1 即位 三年山城、窟山城を改築した。倭人が辺境を侵した。 使者を南斉に遣わして朝貢した。牛頭城(春川)を築いた。 使者を魏に派遣して朝貢
487 2 播磨国で履中天皇の市辺押磐皇子の子億計及び弘計を発見 月城を修理した 魏が兵を派遣して攻めてきたがこれを破った。 使者を魏に派遣して朝貢
488 3 億計及び弘計を宮中に入れ、億計王を皇太子とした。 王は月城に移住。
刀那城を築いた
使者を魏に派遣して朝貢
489 4 海外の使者たちを集め宴会を開く 高句麗が北辺を侵した。狐山城を落とされた。 大豊作 使者を魏に派遣して朝貢
新羅の北辺を侵して狐山城(礼山)を落とした。
490 5 天皇崩御 鄙羅城を重築した。 沙見と耳山に城を築く 使者を魏に派遣して朝貢

 清寧天皇の時代は、朝鮮半島は小規模な戦闘があったのみで大きな動きは見られない。高句麗は相変わらず、百済や新羅を狙っているようであり、新羅は城を築き国力を強くしているようである。

 雄略天皇が即位時に皇位継承の資格を持つ人物を皆殺しにしているので、皇位継承者が少なくなっている。清寧天皇には子がなく、皇位継承の危機が迫っていた。

 清寧2年(487年)播磨国で雄略天皇に殺害された履中天皇の皇子である市辺押磐皇子の忘れ形見である二皇子が見つかった。二皇子は雄略天皇に殺害されることを恐れて、姿を隠していたのである。

 清寧4年(489年)、海外からの使者を集めて宴会を開いているが、百済や新羅の使者であろうと思われる。

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