安康天皇

 安康天皇関連年表

西暦 安康 日本書紀 外国史書
460 1 大草香皇子処罰
即位 甲午
461 2 皇后決定
462 3 眉輪王に暗殺される 倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり
夏5月、倭人が活開城を襲い破り、一千名を捕え連れ去った。(新羅本紀)
使者を魏に使わして朝貢した(高句麗本紀)

 あらすじ

 允恭天皇が決定した皇太子の木梨軽皇子は近親相姦の前科が有ったために、廃太子扱いされていたが、允恭天皇の崩御後、次の皇位を狙い、弟の穴穂皇子を討ち殺そうとして兵を集めたのである。

 しかし、その前科のために群臣が離反していき、動きがとれなくなった軽皇太子は、物部大前宿禰の家に潜んだが、これを知った穴穂皇子が率いる兵に包囲され、大前宿禰の計らいで戦は避けられた。軽皇子は自害して果てたと伝えられている。(『古事記』では伊余湯に流罪となったと記される)。

 穴穂皇子は460年安康天皇に即位した。

 460年(安康元年)、根使主の讒言を信じて仁徳天皇の皇子である大草香皇子を誅殺し、翌461年、その妃であった中蒂姫を皇后に立てた。

 462年8月9日、天皇は中蒂姫の連れ子眉輪王により就寝中に刺殺された。『古事記』『旧事紀』に享年56と伝えられている。眉輪王は父の仇を討ったのである。

 安康天皇の年齢

 安康天皇の誕生は享年56といわれているが、允恭天皇の年代と会わない。允恭天皇は433年に11歳で即位したので、安康天皇はその後の生まれのはずである。弟の雄略天皇が允恭7年に生まれているので、安康天皇はそれより少し前の允恭5年頃生まれているのではないかと推定する。崩御時の年齢は20歳となる。安康天皇は17歳頃で即位し20歳頃で暗殺されたのである。

 対外政策

 安康天皇は在位3年で暗殺されているので、対外的な実績はほとんどないが、462年に宋書に朝貢記録があり、安東将軍に任じられている。

 安康天皇も、朝鮮半島の警察的役割を果たす必要を感じており、即位直後にあたる461年に宋に朝貢し、462年に朝貢記録が残ったものであろう。

 462年新羅本紀に倭人の侵入記録があるが、倭国軍とは考えられず規模も小さいので、海賊の仕業と判断する。

 日本書紀における安康天皇の記録も古代史の復元の年代とは6年のずれがあると思われる。

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