神功皇后熊襲征伐

 仲哀天皇関連地図

 仲哀天皇崩御伝承地

仲哀天皇殯斂地 大保伝承地 小郡市大保1032 仲哀天皇の殯斂地伝承地。御勢大霊石神社境内にある。「御本体所」と称している。御勢大霊石神社社伝によると、仲哀天皇は熊襲征討で負傷し、この地で崩御して、ここに殯葬されたという。神功皇后は凱旋後、神社創建のときに御剣・御衣をここに埋納したという。「史跡 仲哀天皇殯葬伝説地」の碑がある。
香椎宮 福岡市東区香椎4丁目16-1 宮跡・崩御地に鎮座する仲哀天皇の霊廟。もともと神社ではなく、「廟」であったと記録されている。
香椎宮 古宮神社跡 福岡市東区香椎3丁目12 仲哀天皇・神功皇后橿日宮跡。仲哀天皇が神託を伺った「沙庭斎場」跡。仲哀天皇崩御地。香椎宮の旧鎮座地。香椎宮摂社古宮神社跡。仲哀天皇はここで崩御したが、棺を椎の木に立てかけたところ、良い香りが漂ってきたため、この地を香椎と名付けたという。天皇崩御後、神功皇后は直ちに宮跡に仲哀天皇を祭り、香椎廟(香椎宮)を創建した。
仲哀天皇陵 長野伝承地 糸島市川付787 仲哀天皇の陵墓伝承地。糸島の宇美八幡宮(長野八幡宮)境内の長嶽山にある。宇美八幡宮上宮(奥の院)が鎮座している。筑紫帰還後、神功皇后が武内宿祢に香椎宮にあった仲哀天皇の棺を当山に納め、陵墓を築いたという。古墳としては「奥の院古墳(長嶽山1号墳)」と呼ばれ、長嶽山古墳群の1基である。
忌宮神社 下関市長府宮の内町1-18 仲哀天皇殯斂地 長府伝承地に関連する神社。当地は仲哀天皇が熊襲征討のために滞在した豊浦宮の跡地で、仲哀天皇崩御後、神功皇后は遺骸をこの地の土肥山(仲哀天皇殯斂地)に殯葬した。
仲哀天皇殯斂地 長府伝承地 下関市長府侍町1丁目10-1 仲哀天皇の殯斂地伝承地。豊浦宮跡にある忌宮神社向かいの土肥山にある。
仲哀天皇殯斂地 華山伝承地 下関市菊川町上岡枝 仲哀天皇の殯斂地伝承地。華山・西の嶽(伏拝の峯)の頂上にある。仲哀天皇の祠が建てられており、「嶽の宮」とも称す。仲哀天皇崩御後、神功皇后が武内宿祢と諮って、喪を秘して、豊浦宮の北三里の山中に殯葬し、天神地祇に戦勝を祈願したという。

 仲哀天皇は仲哀9年2月に小郡市の御勢大霊石神社の地で布陣をして、宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。仲哀天皇死後遺体は香椎宮古宮跡に遷されて安置されている。

 仲哀天皇の崩御の情報を得た神功皇后は嘆き悲しんだと思われるが、彼女は仲哀天皇とは異なり剛毅な性格だったと思われる。早速仲哀天皇の葬儀を行うと同時に、仇打ちを考えていた。

 神功皇后は熊襲の残党を征伐する間、仲哀天皇を糸島市の長野伝承地に一時仮埋葬していたと思われる。熊襲の残党を征伐後、下関の忌宮神社の地に戻り、大和に帰るまでの間、忌宮神社向かいの土肥山に埋葬した。

 斎宮

 神功皇后は群臣と百寮に命ぜられ、罪を払い過ちを改めて、さらに斎宮を小山田邑に造らせた。三月一日、皇后は吉日をえらんで斎宮に入り、自ら神主となられた。<日本書紀>

 対応伝承地 伊野天照皇大神宮 福岡県粕屋郡久山町猪野

 祭神、天照大神 手力雄神 萬幡千々姫 神の神託を疑って死んだ仲哀天皇に祟られる神を知るため、神功皇后は罪を払い過ちを改めて、 この地の小山田邑に斎宮を造って入り、自ら神主となったという。

熊襲征伐

 吉備臣の祖、鴨別を遣わして熊襲の国を討たせた。いくらも経たぬのに自然に服従した。<日本書紀>

 熊襲の国はどこであろうか。

印鑰神社 八代市鏡町 仲哀天皇の御代、武内宿禰の子石川宿禰、筑紫の兇徒鎮定のため、当国に下向し、この地に薨ずる。土人その徳を仰ぎ、崇め奉祀するという

 仲哀天皇の重鎮である石川宿禰がこの地で戦死している。その戦った相手とは熊襲以外には考えられない。石川宿禰程の人物が戦死するとなれば、この戦いは相当な激戦であり、大和朝廷側は相当苦戦をしたことになるが、神功皇后の向けた軍にはあっさりと降伏している。これも石川宿禰は戦いに赴いたのではなく、交渉のために八代に赴いたが、八代の熊襲が追い返す目的で射た矢に命中して亡くなったのであろう。

 八代市は人吉盆地の入口である。神功皇后はこの地に鴨別を遣わしたのであろう。あっさりと降伏したのである。神功皇后は仲哀天皇とは異なり大軍を八代の熊襲に向けたのである。八代の熊襲は大和朝廷の大軍を見てあっさりと降伏したのではあるまいか。

 羽白熊鷲征伐

 荷持田村に羽白熊鷲という者があり、その人となりは強健で、翼がありよく高く飛ぶことができる。皇命に従わず常に人民を掠めている。十七日に皇后は熊鷲を討とうとして、香椎宮から松峡宮に移られた。そのときつむじ風がにわかに吹いて、御笠が吹きとばされた。ときの人はそこを名づけて御笠といった。
 二十日、層増岐野(そそきの)にいき、兵をあげて羽白熊鷲を殺した。そばの人に「熊鷲を取って心安らかになった」といわれた。それで、そこを名づけて安という。<日本書紀>

 この羽白熊鷲というものは仲哀天皇を殺害したいわば仇である。神功皇后は最初に仲哀天皇の仇討をしたのである。

大根地神社 嘉穂郡筑穂町大字内野字大根地2507-3 人皇第十四代仲哀天皇の9年3月8日神功皇后羽白熊襲御征伐のとき、大根地山に登り天神七代、地神五代の大根地大神を祭り、親ら神楽を奏し勝ち軍を祈り宿陣す、その霊験著しく容易に熊襲の諸賊を誅滅す」と伝えられ、いとも御由緒の顕著なる神社
御笠 大野城市御笠の森 武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、筒井村の辺りまで進まれた時に、いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。<大野城市の伝説>
 松峡八幡宮 筑前町栗田605 神功皇后の遠征の折りに行宮とされた松峡宮に推定されている。
美奈宜神社 福岡県朝倉市荷原 仲哀天皇の死後、神功皇后は新羅出兵に先だち熊襲征伐に乗りだした。強健で翼があり高く飛ぶことのできる羽白熊鷲と、ここで対峙し討ち果たした。これはお告げをうけた三神の助であるとして戦勝奉告したこの地に、後の仁徳天皇の勅願によりに祭られた。
砥上岳

福岡県朝倉郡筑前町

神功皇后が武運を祈るために登ったというこの山には山頂の「武宮」をはじめ「かぶと石」「みそぎの原」や「ひづめ石」など神功皇后関連の話が伝わる。「砥上」は兵士が武器を砥いだことからこの名になったと言い、この地の「夜須 」は、神功皇后が羽白熊鷲を討って「心安らかになった」と言ったことから名づけられたという。
羽白熊鷲塚 福岡県朝倉市矢野竹あまぎ水の文化村内 層増岐野である。
 羽白熊鷲の塚 由来記
  「水の文化村」建設時、ここに羽白熊鷲の遺跡あり。 せせらぎ館の建設地と重なりし為に70m南に移転せり。 平成14年4月 甘木商工会議所施設運営の委託を受けし後、羽白熊鷲の存在を知る。 仲哀天皇の御代、領土を統治せし豪族 羽白熊鷲の塚とは余りに貧弱、不敬に亘るとし、ここに再度移転せるものである。

 神功皇后は、大根地山に登り戦勝祈願をした後、筑前町栗田に赴き松峡宮に滞在した。羽白熊鷲は本拠地の秋月野鳥を出発し神功皇后と戦うために弥永の大己貴命神社の地周辺に出てきた。神功皇后はその動きを察知し、羽白熊鷲軍に総攻撃をしかけた。羽白熊鷲軍はたちまち南東方向に敗走し、佐田川を遡って逃走した。神功皇后軍はそれを追撃し、美奈宜神社の地で追い詰めた。ここで、羽白熊鷲を討ち果たした。羽白熊鷲を討ち果たし、心が安くなったということでこの地を夜須と名付けた。羽白熊鷲はあまぎ水の文化村内にある羽白熊鷲塚に葬られた。

 神功皇后は一刻も早く仲哀天皇の仇打ちをしたいという気持ちが強かったのであろう。大軍を向けて一挙に殲滅したようである。

 田油津姫征伐

 二十五日、移って山門県にいき、土蜘蛛―田油津媛を殺した。田油津媛の兄夏羽が兵を構えて迎えたが、妹の殺されたことを聞いて逃げた。<日本書紀> 

鷹尾神社 福岡県柳川市鷹ノ尾 神功皇后が土蜘蛛田油津姫を征伐したとき、陣営の置かれたとするこの地に、清和天皇の勅宣で869年に建てられた。境内には 神功皇后腰掛石がある。
権現塚 福岡県みやま市大草 神功皇后が田油津姫を征伐したときに戦死した自軍の兵士を埋葬した場所であるといわれている。また女王「卑弥呼」の墓ではないかともいわれているが、「魏志倭人伝」には径百余歩と記されており、明らかに小さい。
若八幡神社 福岡県田川市夏吉 景行天皇(12代)の熊襲征伐に寄与したこの地の祖神、神夏磯姫の後裔、夏羽は、神功皇后の暗殺を企てた妹、田油津姫を助けるため軍勢を差し向けるが、途中で妹の敗戦を知り、逃げ帰って館にたて篭るが、追ってきた皇后の軍勢に焼き殺される。後に夏羽の亡霊の祟りを鎮めるため宇佐より八幡宮が勧請された。

 仲哀天皇の仇である羽白熊鷲を討った神功皇后は、次にその背後にいた球磨国を総攻撃することにした。田油津姫は福岡県みやま市で神功皇后と戦って敗れている。この地は球磨国本拠地と思われる菊池川流域より少し北の位置にある。田油津姫は球磨国王に従った夏羽の妹である。先祖の神夏磯姫は景行天皇に従ったと伝えられているが、景行天皇によって平定させられた一族ではあるまいか。球磨国王は田油津姫を差し向けたが、あっさり破れてしまい、球磨国王はあっさりと神功皇后に降伏したのであろう。

 玉島里

 夏四月三日、北方の肥前国松浦県にき、玉島里の小川のほとりで食事をされた。
 皇后は針を曲げて釣針をつくり、飯粒を餌にして、裳の糸をとって釣糸にし、河の中の石に登って、釣針を垂れて神意をうかがう占いをして、「私は西の方の財たからの国を求めています。もし事を成すことができるなら、河の魚よ釣針を食え」といわれた。
 竿をあげると鮎がかかった。皇后は「珍しい魚だ」といわれた。ときの人はそこを名づけて梅豆羅国めずらのくにという。今、松浦というのはなまったものである。
 それでその国の女の人は、四月の上旬になるたびに、針を垂れて年魚あゆをとることが今も絶えない。ただし男は釣っても魚を獲ることができない。<日本書紀>

神后御立石 佐賀県唐津市南山 「記紀」に記されている、玉島の里にある神功皇后が鮎を釣るため上にあがった石。釣針を垂れて新羅出兵の神意を伺う占いをして竿をあげると鮎がかかった。皇后は「珍しい魚だ」と言ったので、そこを名づけて「めずらの国」と言ったが、なまって「松浦」になったという。道路を挟んで玉島神社がある。

 裂田溝

 自ら西方を討とうと思われた。そこで神田を定められた。
 那賀川の水を引いて、神田に入れようと思われ、溝を掘られた。迹驚岡に及んで、大岩が塞がっており、溝を通すことができなかった。
 皇后は武内宿禰を召して、剣と鏡を捧げて神祇に祈りをさせられ溝を通すことを求められた。そのとき急に雷が激しく鳴り、その岩を踏み裂いて水を通じさせた。時の人はそれを名づけて裂田溝といった。<日本書紀> 

裂田神社 筑紫郡那珂川町安徳 神社の横を流れる小川が「裂田の溝」と言われ、神功皇后が、ここを神田と定めて那珂川の水を引くために、 「一の井堰」を造り溝を掘った。途中で大岩があって掘り進めなくなったが、皇后が祷ると雷がその大岩を裂き水を通したと伝える。
現人神社 福岡県筑紫郡那珂川町仲 本来は姿を現さない神(住吉三神)が、神功皇后が三韓に向かうときに、姿を現して軍船を導いたので現人神といい、皇后はここを訪れ、神田に水をひく為に山田の一の井堰を造り、裂田の溝を掘り通水したと伝える。攝津の住吉大社、福岡の住吉宮の元宮である。

 大神神社

 秋九月十日、諸国に令して船舶を集め兵を練られた。ときに軍卒が集まりにくかった。
皇后がいわれるのに、「これは神のお心なのだろう」と。そして大三輪の神社をたて、刀・矛を奉られた。すると軍兵が自然に集まった。<日本書紀>

大己貴神社 福岡県朝倉郡筑前町弥永 神功皇后は諸国に命じて船舶と兵を集めようとしたが、兵が集まらなかった。そこで大三輪の神社を建て、刀矛を奉ると、軍兵が自然に集まったと書紀は伝えている。大己貴(おおなむち)神社は、大神神社とも言い、地元の人は「おんがさま」と呼ぶ。
目配山 福岡県朝倉郡筑前町栗田 日本で最も古い神社だといわれる大己貴神社の裏山になる目配山は標高405mであるが、山頂からは耳納連山や夜須高原の砥上岳、 甘木市街等が一望に見渡せる。神功皇后は筑紫平野を平定して、ここから支配地を眺めたことから目配山の名が付いたといわれる。山頂には 神功皇后腰掛石がある。

 以上のように日本書紀の記述と神社伝承地は対応している。

 神功皇后は筑紫一円の熊襲の残党を征討した後、下関の豊浦宮に帰還した。

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