四道将軍派遣

日本書紀の記事

四道将軍派遣

崇神10年冬10月。天皇は群臣に言いました。
「今、背いた者にことごとく、罰を下した。
畿?は無事だったが、畿外には荒ぶる俗人が、まだまだ騒いでいて、まだ止んでいない。その四道将軍は今、たちまち出発しろ」
22日に将軍はみな出発しました。

崇神天皇11年夏4月28日。四道将軍は戎夷(ヒナ=周辺の異民族の蔑称)を平定した状況を天皇に報告しました。この年、異俗の人たちが多数やってきて、国内は安寧であった。

御肇國天皇

崇神天皇即位12年春3月11日。崇神天皇は詔をした。
「わたしは初めて天位を受けて、宗廟を運営しているが、光が当たらない場所もあるし、徳も上手くは広がらない。そこで陰陽は間違って錯乱して、暑さや寒さが亡くなってしまった。疫病が沢山発生して、百姓が災いを負った。しかし、今、罪を祓い、過失を改めて、厚く神祇を敬った。また教を広めて、荒ぶる俗人を従わせ、兵を挙げて不服を討った。これによって官は廃れることなく、下々に隠れるものは居ない。教化は広がり、衆庶は生活を謳歌している。異俗は何度も訳をしてまで、訪れ、海外からも帰化する。このとき、ついでに人民の小口調査をして、長幼を調べて、課役を知らせよう」
と言った。

秋9月16日 初めて人民の小口調査をして、人民に調役を科しました。男からは動物の肉や皮などの狩猟生産物を、女からは絹・布などの手工業生産品を課した。これで天神地祇に納めて、風雨を神の心にまかせたので、百穀がなった。家には物が溢れて、人が増え、天下は太平になった。そこで崇神天皇は御肇國天皇と呼ばれた。

四道将軍派遣の事情

 四道将軍の派遣は卑弥呼が亡くなる直前(崇神10年10月)に決定されている。実際に派遣されたのは卑弥呼が亡くなった直後である。卑弥呼が亡くなった直後はさまざまな混乱があったと思われるが、その時に派遣されている。これは当時の大和朝廷にとってはほとんど最重要課題と考えてよいと思われる。

 四道将軍は崇神10年10月に派遣され、崇神11年4月には復命している。半年一年暦で6カ月(現行暦で3カ月)という短い期間である。実際はもっと長かったのではと思われるが、何れにしてもかなりの短期間で実行されている。これは、四道将軍派遣は順調に行われたことを意味している。戦いが主であれば、これほど短期間で終了することなど考えられない。

 四道将軍が復命した後人民の小口調査を行って課役を課している。これは地方に大和朝廷の勢力が強く及んだことを意味している。これらをもとに四道将軍派遣の目的と成果について考えてみよう。

 大和朝廷初期の中央と地方の関係

 素盞嗚尊・饒速日尊が全国統一を成し遂げたのは海外の新技術の伝授を利用してのものであった。当時地方に住んでいた人々は、素盞嗚尊や饒速日尊から新技術を伝授してもらえることを条件として素盞嗚尊や饒速日尊に従っていた。特に東日本地方の国々は近畿地方の人々の集団移住による開拓で発展した国々である。当然ながら、その元の近畿地方(大和朝廷)の意向に従っていたのである。

 各地方の首長は朝廷から派遣された人々が新技術を伝授してくれたお礼にということで地方の産物を朝廷に献上し、その献上品によって朝廷は運営されていたと考えている。大和朝廷が地方に派遣した技術者は、地方に技術を伝授することによって地方から物資を受け取ることを任務としていたのである。

 しかしながら大和朝廷が成立し年数が経過すると伝授する新技術も尽きてくる。二世紀後半になると天候不良による不作が続くようになり、朝廷から派遣された新技術だけでは対応できなくなり、地方の人々の生活が苦しくなり、地方で反乱が多発するような状況になってくる。このような中で倭の大乱が発生したのである。

 倭の大乱終結後卑弥呼は新技術の伝授だけでは長期にわたって安定して地方を統治するのは難しいと感じ、祭祀の強化を考え、新しい祭祀法を吉備国に研究させ、AD200年頃、纏向遺跡の建設により大和で実践し成功を収めた。

 地方に対しても,饒速日尊祭祀を強化し,国長自身を神聖化した。そして,スサノオ祭祀を全国に広めるために,出雲の素盞嗚尊祭祀者を全国に派遣した。さらに,全国に数多くの神社を建てた。このようにして,神の祭礼を強化し,併せてそれを実行する人物の身分を高くした,それにより,階級がピラミッド構造をしてくるようになり,墳墓周辺での祭礼も一方向からの祭礼に変わってきた。これが前方後方墳の誕生する引き金になっている。

 安定した中央と地方の関係

 卑弥呼は朝廷と地方との関係が今の状態のままでは何れ国が分裂するという危機感を感じていたのではあるまいか。安定して全国を治めるには朝廷の任命した役人が直接地方を統治する必要があると感じていたのであろう。

 崇神天皇初期(AD240年~250年頃)になると、地方の状況も改善され、地方も落ち着きを取り戻していた。朝廷が任命する役人が地方を統治する体制固めをしようと、決意したのである。

 各地方を治めている国長を排除し、朝廷から役人を派遣すれば地方の反発が強いと予想されるので、地方の国長をそのまま朝廷の役人に任命する事を考えたと思われる。そのために、四道将軍の派遣期間は短かったのであろう。

 各地方の国長をそのまま朝廷の役人(国造)に任命するとなれば、その任命証のようなものが必要になってくる。それが、鏡ではなかったのであろうか。卑弥呼は大和で、鏡を使った祭祀を行っている。卑弥呼の夫である大物主神(饒速日尊)は飛騨国の最高神であった天照大神と同一視され、太陽神となっていた。鏡はその太陽の光を反射するのである。古墳時代に全国に広まった鏡は凸面鏡であり、自分の姿を見るには不向きな鏡であるが、太陽の光を反射し、その姿を多くの人々に見せるに目的のためには最適の鏡である。

三角縁神獣鏡

 国造のシンボルとなる鏡は特殊な鏡である必要があった。大物主のシンボル(三角形=三輪山の形)を彫り込んだ特別製の鏡を造り,それを地方の役人に配り,国造自体をさらに神聖化するために,巨大墳墓を造ることを考えた。それに必要な新技術導入のため,238年に魏に使いを出し,魏の各種技術者を呼び寄せた。これは,中国側で魏志倭人伝として記録されている。

 239年,その技術者によって各所に三角形を彫り込んだ鏡(三角縁神獣鏡)が完成し,地方の有力者に配布した。このような状況で完成した鏡であるから,三角縁神獣鏡が中国で出土しないこと,鋳造技術的に難しい三角縁を持っている理由,鋸歯紋が多用されている理由,中国に存在しない景初四年の年号を持った鏡が存在する理由が説明できる。

 三角縁神獣鏡の文字は最初漢字であるが,次第に文様のようなものに変わっていっている。三角縁神獣鏡は,最初中国人が作っていたが,中国人からその作り方を学んだ日本人が作るようになってきて,その日本人が漢字を文字として認識せず,文様として認識していたためではないかと考える。

鏡の役割

 三角縁神獣鏡以外の鏡は,内行花文鏡や方格規矩鏡などであるが,これらの鏡も朝廷によって連れてこられた中国の技術者が作ったものと考える。これらの鏡は,最初,鋸歯紋が入っていないが,古墳出土の国産鏡は,その後,すべてに鋸歯紋が入れられるようになる。これらの鏡も大物主のシンボルが入れられているのである。地方の有力者は,鏡をもらうことにより,自らが神聖化され,権力を振るいやすくなるために,鏡をもらおうと朝廷に協力し,朝廷にしても,鏡を配ることにより,地方権力者を意のままに扱うことができたのである。四道将軍の行動した地域から,方格規矩鏡がよく出土することから,四道将軍は地方の有力者に鏡を配って協力をさせたと考えられる。

鏡の作成と収集

 卑弥呼は地方統治の計画を新羅が降伏したAD234年頃から考えていたのではあるまいか。各地方の有力者に大和朝廷の支配下に下ることを約束させ、承諾した有力者をそのまま国造に任命し、その任命証として鏡を渡そうとしたのであろう。

 国造任命証としての鏡は大和朝廷のシンボルである鋸歯紋が欠かせない。鋸歯紋を彫りこんだ鏡の製作技術者を中国から呼び寄せ239年に最初の三角縁神獣鏡が完成したのである。合わせて卑弥呼はその材料の銅の輸入も促進し、四道将軍の派遣に合わせて鏡を集めていたのであろう。

 鏡を任命証とするためには鏡の価値を高める必要がある。大和朝廷は集まった鏡を大和朝廷の直接の支配下にある特定地域の有力者に配布し、大和朝廷から特別な権限を委譲し、地方の人々に鏡を特別の価値のあるものとして認識させたのであろう。

 弥生時代後期中葉(大和朝廷成立後)には墳墓から鏡の出土がほとんどないが、終末期から古墳時代にかけては、漢式4期(1世紀後半)以降の鏡が出土するようになる。弥生時代後期前葉(大和朝廷成立前)には鏡の鋳造時期と副葬時期がほとんどずれていないのに対して、終末期から古墳時代に副葬される鏡は200年以上ほどずれている鏡も存在している。

 これは、それまで伝世されていた鏡が、個人の持ち物になり副葬されたことを意味しているが、大和朝廷が鏡を収集し国造に配ったものと考えられる。

四道将軍派遣の目的

 卑弥呼は何年も時間をかけて鏡が国造の任命証となるように下準備をしていたのである。AD249年頃になり、鏡の意義が地方に浸透したと判断し、卑弥呼は四道将軍の派遣を決定した。

 卑弥呼は四道将軍の派遣を決定した直後に亡くなった。卑弥呼が亡くなった後は、国中が混乱している状況ではあったが、卑弥呼の遺命であるために、崇神天皇は四道将軍を計画通りに派遣を決行したのである。

 四道将軍は各地を巡回し、各国の国長と面談し、大和朝廷の支配下に下ることを要請し、承諾した国長を、その国の国造に任命し、その任命証として鏡を渡したのではあるまいか。

 四道将軍が地方に派遣された時は、気候不順の時期を過ぎて安定した時期になっており、地方の国長の大和朝廷に対する感情も良好な時期だったのである。地方の国長は権威の象徴である鏡をほしがっており、四道将軍は行く先々で歓迎を受け、ほとんどの国長はあっさりと国造になったのである。

 ごく一部に承諾しない国長がいたと思われるが、大和朝廷の武力によって平定し、周辺の国々に大和朝廷の力を見せつけたのであろう。

 四道将軍の活躍で全国が大和朝廷の直接の支配下に下ったのである。以降朝廷の意向が直接地方に及ぶようになり、それまで、地方の意向に左右されていたことも朝廷の意向で計画的に行えるようになった。

 朝廷は早速、地方の小口調査をし、その人口に合わせて課役を課し、税の徴収を行った。気候が温暖な時期と重なり、人々の生活が向上した。

 崇神天皇は地方を直接支配した最初の天皇ということで、御肇國天皇と呼ばれることになった。

 銅剣・銅矛・銅鐸の消滅

青銅器祭祀の終焉

 三角縁神獣鏡は,時代が経っても,その大きさにほとんど変化が表れないのに対して,内行花文鏡や方格規矩鏡などの,その他の鏡は少しずつ小さくなっていく。そして,この頃,銅鐸を初めとする鏡以外の青銅祭器が,全国から一斉に姿を消すのである。そして,これらの青銅器は,人里離れたところへ一斉に埋められている。唐古・鍵遺跡の出土品を見ても巨大な銅鐸を作った直後に銅鐸が作られなくなっている様子がうかがわれる。これは徐々に衰退していったのではなく,何か突発的なことが起こって作られなくなったと推定される。それが全国一斉に起こっていることから考えて,外部からの侵入ではなく,大和朝廷の政策変更によるものと考えられる。

鏡作神社

 畿内に鏡を造った跡と考えられる鏡作り神社がいくつも存在している。そのひとつは唐古・鍵遺跡のすぐ近くにある。また,銅鐸の紋様と鏡の紋様に共通点が見られることから,銅鐸を作っていた工人が鏡を作ったと判断され,技術者の継続性がうかがわれる。

 また鏡の方も,当初は漢字が入っていたが,次第に文字が紋様化している。これは当初は中国人が作っていたものが,日本人が引き継ぎ,漢字を文字としてではなく紋様として認識することになったものと解釈される。これらの事実を元に,その理由を考えてみることにする。

 大和朝廷は,三角縁神獣鏡を初めとするこれらの鏡を,最初は中国から呼んだ技術者に作らせ,同時に国内の銅鐸工人にその技術を学ばせた。朝廷では,継続して相当枚数配っていることになり,鏡作りに忙しかったと推定される。これらの鏡に使われている青銅の科学分析により,これらの青銅は,いずれも輸入品であることが分かっている。輸入する青銅の量には限りがあり,大量に消費すると不足してくることが考えられる。そのため,大きな鏡を多量に作ることは難しく,内行花紋鏡や方格規矩四神鏡は徐々に小さくなっていったものと考えられる。しかし,三角縁神獣鏡は古墳築造には欠かせない鏡であるし,国造の身分証明にもなっていたので,小さくするわけにはいかなかったと考える。

青銅器没収

 民衆が,この時期におこなっていたのは,西日本地域ではスサノオの銅矛祭祀,東日本地域では饒速日尊の銅鐸祭祀をおこなっていた。大和朝廷は,スサノオ祭祀は出雲系に,饒速日尊祭祀は鏡でおこなうという方針を固め,祭祀形態を統一することと,鏡を作るための青銅不足を補うために,全国の銅剣・銅矛・銅鐸などの青銅祭器を没収することにした。民衆は祭器を没収されるのには抵抗を感じ,その祭器を埋めてしまったと考えられる。   

 朝廷側では没収した青銅器を破壊して鋳潰し,錫を追加して三角縁神獣鏡を作ったのではないだろうか。纒向石塚の周辺から破壊された銅鐸が見つかっているが,これは,潰すのを目的に破壊したのではないかと考える。

 この推量を確認するために,三角縁神獣鏡の鉛同位体比の分析結果を調べてみると,三角縁神獣鏡の鉛同位体比は,個々のばらつきが大きく,銅鐸の成分と後漢の成分の中間あたりに位置している。多量に使われているはずなのに,鉛同位体比が一致する産地が存在せず,鉛同位体比によって,その青銅の産地が全く特定できないのである。これはどうしたことであろうか。

 銅鐸を鋳潰したのならば,銅鐸の錫の成分比は鏡よりもはるかに少ないので,錫を加えなければならない。銅鐸を鋳潰したものに,錫を加えて三角縁神獣鏡を作ったとすれば,鉛同位体比のばらつきが大きくなることも説明が付き,それが,銅鐸と華中産の青銅の成分の中間あたりにくるのも説明可能である。さらに国産の鏡は輸入品に比べて一般に錫の量が少ないようであり,三角縁神獣鏡は他の鏡よりも割れやすく,同じ鋳型で作られた鏡も成分がだいぶ違うという事実も説明できる。

遺跡の消滅

 そして,この時期の多くの畿内の遺跡からしばらくの間,人の気配が消えるのである。新型土器が入ってくることといい,遺跡の多くが消えることといい,これらのことが,外部からの新勢力の侵入により,新王朝ができたという考えに繋がっているようであるが,そうだとすると,今までの事実は,すべて,矛盾点となって戻ってくる。矛盾点が多すぎるのである。さらに,多くの遺跡から人々が姿を消しても,その中心と考えられる遺跡(纒向遺跡)は人々が継続して生活している。外部勢力の侵入があったのであれば,まず中心遺跡に大きな変化があって,周辺の遺跡には変化が少ないはずである。事実は,これと逆で,中心遺跡に大きな変化がなく,周辺の遺跡が変化しているのである。

 これは,大和朝廷は,そのままで,朝廷の政策によって起こった変化と考えた方が良さそうである。それでは,消えた集落に住んでいた人々はどこへいったのか。畿外に出たという様子はないことから,畿内のどこかへ移動したものと考えられる。それを纒向遺跡の周辺の集落ではないかと想像する。纒向遺跡は,これまでの集落とは違って,都市構造を有している。朝廷の本拠地として,人々を集めて都市を作ったものと考えられる。

 大彦命

 大彦命を祀る神社

神社名 祭神 鎮座地 県名 由緒
幣羅坂神社 物主命,大毘古命 相楽郡木津町市坂幣羅坂100 京都府 大毘古命は、第10代崇神天皇10年9月9日四道将軍の一人に任命され、27日に高志国(越の国、福井、富山、新潟の北陸3県)へ赴く途中、ここ山城国幣羅坂(奈良街道の市坂)で、腰裳(こしも)を着けた少女(天津乙女命)に出会い、少女が詠っていた歌の詞に「御真木入日子(みまきいりびこ、崇神天皇)」と云う言葉があったので、不審に思った大毘古が取って返し、天皇に奏上すると、建波邇安王(たけはにやすノみこ)が謀反を起す事が判って、建波邇安王が討たれました。
大津神社 建南方富命,大彦命,武渟河別命 吉城郡神岡町大字船津1823番地の2 岐阜県 大彦命は、崇神天皇の御代に北陸へ派遣された四道将軍。武渟河別命は、その御子で、大和から当地へ赴き、ここで、親子二手に分かれたという。
広野神社 大彦之命 坂井郡三国町陣ケ岡33-35 福井県
松阜神社 間部詮房,大毘古命 鯖江市旭町1丁目2-14 福井県
舟津神社 大彦命,猿田彦命 鯖江市舟津町1丁目3-5 福井県
池鯉鮒神社 大彦命 丹生郡清水町清水山26-22 福井県
日吉神社 大彦命 武生市横根町25-11-1 福井県
川崎神社 天照皇大神 金沢市北森本町ル46 石川県 崇神天皇の10年、高志道将軍大彦命の臣、喜多某がこの地に留まった時、伊勢内宮の皇神を奉祀し、神明宮と称した。
加須加美神社 大彦命,日本武尊 小松市軽海町1-5-1 石川県
道神社 大彦命 高岡市五十里字沼田3721 富山県 大彦命は、崇神天皇の朝、国内が乱れた時、勅命を受けて北陸方面を平定した神。郷土の人々は命の善政を敬い、祠を建てて、後に道神社と称した
日枝社 大山咋命,大毘古命 新湊市宮袋299ノ1 富山県
道神社 大彦命,彦屋主田心命 新湊市作道1846 富山県
日枝社 天照大神,大山咋命,大彦命 新湊市松木759 富山県
金屋神明宮 天照皇大神 東砺波郡庄川町金屋1285 富山県 此の地方開墾の元祖大彦命越中国御下向
鵜坂神社 淤母陀琉神,訶志古泥神 婦負郡婦中町鵜坂559番地 富山県 崇神天皇の御代、大彦命によって勧請された神社
布勢神社 大彦命 富山県氷見市布施1826 富山県 本社では、大彦命を祀る。ともに、当地へ赴任してきた開拓者
布制神社 天照大神,大彦命 長野市篠ノ井大字山布施1 長野県
布制神社 大彦命,豊受姫命,健御名方命,八坂斗女命 長野市篠ノ井布施五明235 長野県 大 彦命です。伝承によれば、命は布施五明海道 北山(瀬原田)の長者窪を本拠に、北陸道や北 信濃を鎮撫し当地で薨じられたといわれて います。
唐崎神社 大彦命,軻遇突智命 佐渡郡金井町大字吉井本郷1264番地 新潟県
中興神社 大毘古命,軻遇突智命 佐渡郡金井町大字中興乙698番地 新潟県
金北山神社 大毘古命,軻遇突智命 佐渡郡佐和田町大字真光寺1133番地 新潟県
金北山神社 大彦命 佐渡郡佐和田町大字沢根五十里758番地 新潟県
小布施神社 大彦命,素盞嗚尊 佐渡郡真野町大字西三川1074番地 新潟県 古代よりの神で、本殿裏の御食石(ミケイシ)という御神体をめぐり今も古式な祭祀が行なわれている。祭神は大彦命といわれその氏孫である佐々木氏一族が祀ったものであろう。境内付近からは子持勾玉が発見され神宝となっている。また勾玉剣の模造品も発見されており、古代祭祀遺跡でもある。
戸宮神社 大彦命 佐渡郡相川町大字小川1211番地 新潟県
神明宮 天照大神,豊受大神,猿田彦大神,大彦命 新潟市古町通1番町500番地 新潟県
高志王神社 大彦命 新発田市大字五十公野4686番地 新潟県
神明宮 豊受大神,大鷦鷯命,健御名方命,高倉下命,大山祇命,大彦命 中蒲原郡村松町大字別所1079番地子 新潟県
神明社 天照大御神,大彦命,大山祇命 中魚沼郡川西町大字霜条715番地 新潟県
三宅神社 大彦命 長岡市妙見町215番地1 新潟県 大彦命の子の波多武日子命が、新羅国王子の天日桙命の娘・天美明命を婚り、越の国を賜ってこの地に来り、神名倉山に三つの殿を造られた。
高志王神社 大毘古命 東蒲原郡津川町大字津川古四王1489番地 新潟県 大毘古命(大彦命)は四道将軍の1人で、北陸道を進軍し越国(越後、越中、越前)の豪族を支配下にした、まさしく越王で、それが転じて高志王、胡四王、古四王と呼ばれるようになったとされます。
若宮八幡宮 品田和気命,比売大神,息長帯比売命,日本武命,大毘古命,建御名方戸美命,大己貴命 南魚沼郡六日町大和町大字一村尾128番地 新潟県
神明社 天照大神,大彦神 豊栄市笠柳958番地 新潟県
片野尾神社 大彦命 両津市大字片野尾99番地1 新潟県
古四王神社 大毘古命,武渟名川別命 喜多方市慶徳町松舞家字馬坂4202 福島県
伊佐須美神社 伊弉諾尊,伊弉冉尊,大毘古命,建沼河別命,塩土翁命,品陀別命 大沼郡会津高田町字宮林甲4377 福島県 四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。この時、国家鎮護のため国土開拓の神様であるイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を新潟県境の御神楽岳に奉斎しました。これが伊佐須美神社の起源とされています。
古四王神社 大毘古尊,建沼河別尊 耶麻郡西会津町野沢字荒田甲1585 福島県
古四王河内神社 大毘古命 西田川郡温海町大字五十川字安土124(甲124) 山形県
薬師神社 大彦命,大己貴命,少彦名命 西田川郡温海町大字五十川字黒瀧64 山形県
古四王神社 大彦命 西田川郡温海町大字五十川字鳶ケ坂3 山形県
古四王神社 武甕槌神,大彦命 鶴岡市由良字古四王田11 山形県
古四王神社 大彦命 鹿角市八幡平字長根11 秋田県
古四王神社 武甕槌神,大彦命 秋田市寺内字児桜81 秋田県 往古のことは詳かならねど、我が北門の鎮護として大毘古命先づ武甕槌神を奉祀し、齶田浦神と称し次いで阿部比羅夫将軍下向の砌り、大毘古命を合祀して、古四王と崇めたりと、斎明天皇紀に齶田浦神見え、又彼地の神を祭るなどあり。
五社神社 天照大御神,大物主神,大彦命,誉田別命,高神 秋田市土崎港西3-12-3 秋田県
古四王神社 大彦命 大曲市字古四王際30 秋田県
馬場目神社 伊邪那美命,手力雄命,大彦命,大山祇神,豊受姫命,大山咋命,誉田別尊,大己貴命,天照皇大神,武甕槌命 南秋田郡五城目町馬場目字蓬内台109 秋田県
桧山神社 大彦命,加遇突智神,天照皇大神 能代市桧山字越王下21 秋田県
古四王神社 大彦命 平鹿郡十文字町植田字宮前6 秋田県
日住白山神社 天照皇大神,伊邪那岐神,伊邪那美神,菊理姫神,瀬織津姫命,大彦命,天宇津女命 本荘市鮎瀬字石橋山124 秋田県
古四王神社 大彦命 由利郡大内町中館字提台204 秋田県
山祇神社 大山祇命,出雲大神,山神 稗貫郡石鳥谷町大瀬川第2地割65 岩手県 第十代崇神天皇の時代、大彦命が当地方の蝦夷平定の際、蝦夷の頭目五郎丸を討った。五郎丸は当地を掠め荒し五郎舘に拠っていたが、舘を棄て三倉の岩穴に逃げ抵抗したが、遂に攻め亡ぼされた。大彦命は、常に大山祇命を信仰し、奥内に一祠を建てて祀った。
敢國神社 大彦命,少彦名命,金山媛命 上野市一之宮877 三重県 御神徳 大彦命は第八代孝元天皇の第一皇子にましまして東北未開の地を教化の後、一族を率ゐてこの地に永住し給ひ、伊賀の国の開発に尽し給うた。伊賀開拓教化の祖神と仰ぎまつる所以である。その後裔は阿部・阿閉・敢・名張・伊賀等を氏として諸国に繁栄し、世にアベ姓を称するものの総祖神にまします。
川俣神社 大毘古命 鈴鹿市中富田町5 三重県

 大彦命と武渟名川別命は親子である。大彦命50歳、武渟名川別命は20歳程と推定する。この2名は、大和を同時に出発し、大和→山城→近江→美濃→飛騨の経路を通り、先ず飛騨国に赴いている。大和朝廷の外戚である飛騨王への挨拶と思われる。飛騨王に挨拶した後、大彦は北陸路を武渟名川別命は東海道を進んだと思われる。

 大彦命は飛騨から油坂峠を経て、九頭竜川沿いに出る。越前国(福井)へ出て、鯖江あたりを拠点としてその周辺を巡回した。その後加賀国・能登国・越中国と巡回し、北信濃を巡幸後、越後国(新潟県)に入る。越後国には長期滞在したようである。そのため、大彦は越王の異名を持つようになった。越後国を拠点として山形・秋田を巡回後越後に戻った。

 その後福島の会津に渡り、東海道を回ってきた武渟名川別命と出会った。大彦命は宮城・岩手県と北上した。岩手県は饒速日尊が立ち入らなかった唯一の県で、まだ、大和朝廷の支配下に入っていなかったと思われる。

 その後大和に帰還し、その後は三重県に移動し、その地で薨去した。

 神社伝承には戦いの伝承は岩手県以外にはない。また、崇神10年に出発して崇神11年には大和に帰還している。約半年の巡回である。非常に速いため、戦いはほとんどなく、地方では大彦命を好意的に受け入れたものと考えられる。

 大彦をはじめとする四道将軍の役割は地方平定ではなく、地方情勢の確認にあったと思われる。地方の役人は大彦命が到着すると、もてなし、中央の技術を伝授してもらった。大彦命はその代表者を国造に任命し、大和朝廷の名のもとで地方統治を任せたのであろう。

 いくらか戦いはあったかもしれないが、大彦命の北陸巡幸は順調に言ったと考えられる。

 武渟名川別命

 武渟名川別命関連神社

神社名 祭神 鎮座地 県名 由緒
健田須賀神社 武渟川別命,須佐之男命 結城市結城195 茨城県 当社は結城市大字結城195番地に鎮座しており、タケヌナカワワケノミコトならびにスサノオノミコトを祭神とする。タケヌナカワワケノミコトは第10代崇神天皇の勅命により四道将軍の一人として東国地方を開拓、鎮定の大功をたてられ、開拓殖産興業、交通運輸の途を授け衣食住等人間生活の根源を開発指導せられ、所謂結城地方の文化の親神である。この地方に生を享ける者としては夢うつつにも忘れる事のできない一切生業の大恩神にましますのである。健田神社の創建は古く、竹田臣一族、結城の国造が祖神タケヌナカワワケノミコトを奉齋した
大津神社 建南方富命,大彦命,武渟河別命 吉城郡神岡町大字船津1823番地の2 岐阜県 大彦命は、崇神天皇の御代に北陸へ派遣された四道将軍。武渟河別命は、その御子で、大和から当地へ赴き、ここで、親子二手に分かれたという。
津神社 県須美命,武渟川別命 岐阜市曽我屋字屋敷1631番地 岐阜県
晴明神社 建沼河別命,安倍晴明 養老郡上石津町下山2730番地 岐阜県
諏訪神社 建御名方命 北巨摩郡小淵沢町下笹尾359 山梨県 紀元561年4月四道将軍武渟川別命諏訪明神建御名方命を祀ると、当地は八ケ岳の南麓にあり未だ村落非ざりし上代には広漠たる原野にて、諏訪國に接するを以て建御名方命諏訪國に在り給ひし時当地を御狩場とせられ、殊に小丘に篠生え居るを以て御狩矢に奉れり、故に将軍はこの丘に大神を奉るという
富知六所浅間神社 大山祇命 富士市浅間本町5-1 静岡県 富知六所浅間神社は通称三日市浅間神社と呼称されその創建は人皇五代孝昭天皇の御宇にして崇神天皇が建沼河別命を東国に御派遣の際、命は当神社を崇敬の余り奏聞して、勅幣を奉られ、爾後御代々このことが続けられた
八幡神社 武渟川別命,大彦命,吉備津彦命,大山祇命,豊受姫命,誉田別命 安蘇郡葛生町豊代1129 栃木県
古四王神社 大毘古命,武渟名川別命 喜多方市慶徳町松舞家字馬坂4202 福島県
伊佐須美神社 伊弉諾尊,伊弉冉尊,大毘古命,建沼河別命,塩土翁命,品陀別命 大沼郡会津高田町字宮林甲4377 福島県 四道将軍の父子がそれぞれの道をたどり、東北道各地を平定した後、この地で出会ったことから「会津」という地名が起こったと伝えられています。この時、国家鎮護のため国土開拓の神様であるイザナギノミコト、イザナミノミコトの二神を新潟県境の御神楽岳に奉斎しました。これが伊佐須美神社の起源とされています。
高志王神社 建沼河別命 会津若松市湊町大字共和字小滝原甲1048 福島県
古四王神社 大毘古尊,建沼河別尊 耶麻郡西会津町野沢字荒田甲1585 福島県

 武渟名川別命を祀る神社は大彦命関連神社程は多くないが、東海道を中心として分布している。推定経路は飛騨→美濃→三河→遠江→駿河→甲斐→関東地方→福島のようである。

 武渟名川別命はこの当時若いため大彦命程効率よく回れなかったのであろう。当時の東海道は前方後方墳が出現しており、纏向遺跡・吉備国の上東遺跡において東海系土器の出土率が異常に高いことから、大和朝廷に対して好意的な地方であったためにまだ若い武渟名川別命が派遣されたものであろう。神社伝承に戦いの記述が全くなく、大彦同様地方の統治者は武渟名川別命を好意的に出迎え、武渟名川別命より、国造の地位を貰ったのであろう。地方の統治者も大和朝廷から受けた国造の称号は地方統治をたやすくするものであり、積極的に受け入れたものと考えられる。

 五十狭芹彦命

 五十狭芹彦命は百襲姫の年の離れた弟である。AD200年頃備後国南宮神社の地で隠棲していた孝霊天皇の最後の皇子として誕生している。姉の卑弥呼がAD220年頃、自分の唯一の血縁者ということで大和に呼び出し、卑弥呼の宮殿内で男弟として卑弥呼の言葉を伝達させた。

 武埴安彦が卑弥呼の死後反乱をおこすであろうという卑弥呼の遺言を聞いており、大彦命と共に武埴安彦の反乱を鎮めた。その直後吉備国に派遣されたのである。

 四道将軍の一人ではあるが、他の将軍とは異なり、吉備国の平定が目的ではなく、吉備国を統治していた彦狭島命から統治権を引き継ぐために派遣されたと思われる。派遣されたのも他の将軍とは異なり、箸墓が完成し卑弥呼が箸墓に葬られた後であろう。箸墓築造の技術を吉備国にもたらし、その後も吉備国と大和との連絡役を行っていたと考えられる。五十狭芹彦命の子孫は吉備国で繁栄し、五十狭芹彦命は吉備氏の祖となっている。

吉備津彦の系図にはいろいろな謎がある。

吉備津彦系図
孝元天皇──開化天皇──崇神天皇──垂仁天皇──景行天皇──成務天皇──仲哀天皇──応神天皇

孝霊天皇─┬倭迹迹日百襲姫
孝霊天皇─
孝霊天皇─├──────大吉備津彦
孝霊天皇─
孝霊天皇─└若建吉備津彦────────────御鋤友耳建彦---吉備武彦

上の系図は一般にいわれている吉備津彦の系図に、古代史の復元で使っている天皇系図を重ねたものである。 御鋤友耳建彦は姉が景行天皇の妻になっているため、御鋤友耳建彦自身も景行天皇と同世代でなければならない。また吉備武彦は日本武尊の東国征伐に副将として参加しているので、成務天皇と同世代と考えられる。しかし、御鋤友耳建彦の父は若建吉備津彦といわれており、若建吉備津彦は 孝霊天皇の皇子(古代史の復元では兄である大吉備諸進命の子)で開化天皇と大体同世代と考えられる。その間2世ほど空いているのである。 この謎を解くのに大分苦労した。かなり系図の作為があるのか。あるいは、吉備津彦が普通名詞なのか。と、さまざまな案が出ては消えた。
 よく調べてみると、若建吉備津彦の別名がかなり多いことに気づかされる。
 稚武彦、弟稚武彦、吉備津武彦、吉備津稚武彦、 吉備津稚彦、彦狭島命、吉備津彦狭島命、歯黒皇子、若武彦、吉備稚武彦、伊豫皇子、吉備武彦、吉備彦などである。これらが同一人物であるのか 否かは定かではない。いずれにしてもかなり複雑なのである。この謎を少しずつ解いていこうと思っているが、現在の仮説を紹介しておく。
 備前一ノ宮吉備津彦神社社務所発行の「吉備津彦神社要覧」によると、大吉備津彦の御子が吉備津彦でこの吉備津彦は稚武吉備津彦ともいうが、 孝霊天皇の皇子である若建吉備津彦とは別人であると伝えられている。これが事実だとすれば孝霊天皇の皇子の若建吉備津彦と大吉備津彦の御子 である稚武吉備津彦との間に混乱が起こることは充分に予想できる。系図にある若建吉備津彦が稚武吉備津彦であるとすれば、系図の謎は解けるのである。
つまり、下の系図のようになる。

    
  新吉備津彦系図(古代史の復元)
                                                     ┏成務天皇
    ┏神八井耳命━武宇都彦━━武速前━━孝元天皇━━開化天皇━━崇神天皇━━垂仁天皇━━━景行天皇━━┫
神武天皇┫                                                ┗日本武尊
    ┃                      ┏稚武彦
    ┃                ┏大吉備諸進┫
    ┃                ┃     ┗彦狭島命
    ┗綏靖天皇━━孝昭天皇━━孝安天皇┫
                     ┃     ┏倭迹迹日百襲姫
                     ┗孝霊天皇━┫           ┏稚武吉備津彦━御鋤友耳建彦━吉備武彦
                           ┗━━━━━━五十狭芹彦┫
                                       ┗台与
   

 考古学的に見てもこの方が自然となる。大吉備諸進命の子である稚武彦は主に吉備下道で活躍していたために、彼が生きていた頃は吉備下道が発展しており、さまざまな遺跡が残されている。しかし、古墳時代になってからは吉備上道がむしろ発達していて吉備下道は衰退している。大吉備津彦(五十狭芹彦)が吉備に派遣されてきたのが260年ごろでその後吉備上道が発展しているのである。大吉備津彦の功績と考えられる。 大吉備津彦が吉備国に260年ごろ赴任してきた理由も稚武彦の系統が絶えたため、あるいは稚武彦の系統に任せて置けない理由があったためと考えられる。吉備武彦につながる系図が、稚武彦の系統であるならば吉備下道が継続して発展してもよさそうである。吉備上道が継続して発展していることから考えると、大吉備津彦の系統が残ったと考えてもよいのではないだろうか。若建吉備津彦と稚武吉備津彦が極めて良く似た名であるために、神社伝承でも混乱が生じているのではあるまいか。

浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳

浦間茶臼山古墳

 浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳はいずれも吉備上道(備前南部)に存在する。古墳時代直前の大型墳丘墓はいずれも吉備下道に多いのに古 墳時代に入ると吉備上道に初期の巨大古墳が多くなる。大吉備津彦が吉備上道に赴任してきたためと思わ れる。浦間茶臼山古墳は箸墓の二分の一、網浜茶臼山古墳は箸墓の三分の一と共に、箸墓の相似形をしている。箸墓は後で述べるが、日本最初の 巨大古墳で魏の技術者の指導の下作られたものである。その技術を最初に畿外に持ち出したのが大吉備津彦であろう。

備前車塚古墳

 備前車塚古墳は古墳時代初期の前方後方墳である。三角縁神獣鏡が多量に出土したので有名な古墳である。出土した土器に弥生終末期の様 相を示すものがあることから古墳時代と弥生時代の境目の時期に築造されたと見るべきであろう(推定250年ごろ)。備前地域の極初期は前方後方 墳が中心である。前方後方墳は素盞嗚尊祭祀者の墳丘墓と推定しているが、三角縁神獣鏡は饒速日尊祭祀を強化するための鏡である。吉備国は 素盞嗚尊祭祀の強いところで饒速日尊祭祀はなかなか根付かなかった。倭の大乱の講和条件により素盞嗚尊祭祀を全国に広めるようにした関係上、 饒速日尊祭祀も旧倭国地域は受け入れなければならない。素盞嗚尊祭祀者が饒速日尊の鏡を配ることにより吉備国に 饒速日尊祭祀を広めようと諮ったものではあるまいか。その結果浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳を築造することが可能になったので あろう。被葬者は大吉備津彦と共に大和から派遣されてきて、吉備上道の周辺で饒速日尊祭祀を広めた人物ではあるまいか。

中山茶臼山古墳

中山茶臼山古墳は当時の聖地であった吉備中山の山頂に築かれた崇神天皇陵の二分の一サイズの古墳である。この位置に築かれること自体が 吉備にとって重要な存在の人物であったはずで、その時期も崇神天皇陵が築かれたのとほぼ同じ時期(三世紀後半)と考えられる。崇神天皇60年に亡くなったといわれている五十狭芹彦の墓であろう。

彦坐王・丹波道主命

 丹波に派遣されたのは丹波道主命か彦坐王か

 日本書紀では開化天皇の子が彦坐王で、その子が丹波道主となり、その子が日葉酢姫で第11代垂仁天皇の皇后である。日葉酢姫が垂仁天皇と同世代となるので、彦坐王、丹波道主ともに崇神天皇と同世代となる。しかし、この両者は親子であるとされている。あり得ないことではないが、ここで世代が合わなくなっている。

 亀岡市の小幡神社の伝承では、
 彦坐王は開化天皇の御子であり、丹波道主命もやはり開化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏の遠祖意祁都比売との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝がまつる天之御影神の娘息長水依比売との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。

 この神社伝承が真実だとすれば上記の矛盾は解消する。

 伝承によって両者の伝承を比較すると、

 彦坐王

丹後風土記残欠
 甲岩ハ古老伝テ曰ク、御間城入彦五十瓊殖天皇ノ御代ニ、当国ノ青葉山中ニ陸耳御笠ト曰フ土蜘ノ者有リ。其ノ状人民ヲ賊フ。故日子坐王、勅ヲ奉テ来テ之ヲ伐ツ。即チ丹後国若狭国ノ境ニ到ニ、鳴動シテ光燿ヲ顕シ忽チニシテ巌岩有リ。形貌ハ甚ダ金甲ニ似タリ。因テ之ヲ将軍ノ甲岩ト名ツク也。亦其地ヲ鳴生ト号ク
 爾保崎。爾保ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王勅ヲ奉リ土蜘ヲ遂ス時ニ、其採持所ノ裸劒ハ潮水ニ触テ以テ銕精ヲ生ツ。即チにほ鳥忽チ雙ビ飛来テ、其劒ノ為ニ貫キ徹サレ死ス。之ニ依テ銕精ハ消テ故ニ復ル。故其地ヲ爾保ト曰フ也。
 志託郷。 志託ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王官軍ヲ以テ陸耳御笠ヲ攻伐ノ時、青葉山ヨリ墜シ之ヲ遂ヒ、此地ニ到ル。即チ陸耳忽チ稲梁中ニ入テ潜匿レル也。王子急デ馬ヲ進メ其稲梁ノ中に入テ、殺サントセントキ、即チ陸耳忽チ雲ヲ起シ空中ヲ飛ビ走ル。南ニ向テ去ル。是ニ於テ、王子甚ク稲梁ヲ侵テ荒蕪シタキ為ス。故其地ヲ名ツケテ荒蕪シタカト云フ

 川守郷。川守ト号ル所以ハ、往昔、日子坐王土蜘陸耳匹女等ヲ遂ヒ、蟻道郷ノ血原ニ到ル。先ニ土蜘匹女ヲ殺ス也。故其地ヲ血原ト云フ。トキニ陸耳降出セント欲シ時、日本得玉命亦下流ヨリ之ヲ遂ヒ迫ラントス、陸耳急チ川ヲ越テ遁ル。即チ官軍楯ヲ列ネ川ヲ守リ、矢ヲ発ツコト蝗ノ飛ブガ如シ。陸耳党矢ニ中リ、死スルモノ多ク流テ去キ。故其地ヲ川守ト云フ也。亦官軍ノ頓所ノ地ヲ名ツケテ、今川守楯原ト云フ也。其時、舟一艘忽ニ(十三字虫食)其川ヲ降ル。以テ土蜘ヲ駆逐シ、遂ニ由良港ニ到リ、即チ土蜘ノ往ク所ヲ知ズ、是ニ於テ日子坐王陸地ニ立チ礫ヲ拾ヒ之ヲ占フ。以テ与佐大山ニ陸耳ノ登リタルヲ知覚シキ。因テ其地ヲ石占ト云フ。亦其舟ヲ祀リ楯原ニ名ツケテ舟戸神ト称ス。

舞鶴の民話
若狭富士といわれる京都府と福井県にまたがる青葉山は、かつて活火山として、煙をはいていたが、若狭の島々は陸つづきであり、人も住んでいた。対馬海流に乗って百済の方から来たのか、現地に住んでいた原住民が勢力をはっていた。ある説によると出雲から北へ来た人たちともいう。
大和の勢力が勢力拡大のため、若狭の方へ攻めてきた、その騎兵隊の一行が、青葉山に住んでいる豪族を攻め現在の田井の方へ攻めていったとき,馬が一斉に立ちあがった。それでここを馬立と名づけた。何年前か分からないが青葉山が噴火し、それぞれの土地に海水が流れてきて、島となってしまったという。

舞鶴の民話(あわび)
 
若狭富士といわれる青葉山を根城に、多くの党徒を率いる陸耳御笠、但馬馬琴川下流の西北一嶺岳には、土蜘匹女という首領が一党を率いていた。陸耳御笠と連絡をとり一勢力をふるい、若狭、丹後、丹波をおさえていた。 そして城崎郡主櫛岩竜が殺された。
 この様子は県主穴目杆が大和朝廷に奏上した。天皇は彦坐王命に陸耳御笠、土蜘匹女を平定するように命を授けられた。彦坐王命は、丹波道主命、丹波国造倭得王などを召して、追討軍を組ませ、丹波に兵を進められた。陸耳御笠は攻めてくる軍の勢の強いのを知り、船で海より逃げた。
 彦坐王は早速船を仕立てて追った。南風が強く、波は荒れ、時と共に暴風雨となり、船は進む自由を失い波のままに岩角にあたるなどして穴があき、船に海水が浸水した。陸耳御笠の船も勢いをさげ、もう少しで追いつくのだが、なかなか先へ進まない。彦坐王は両手をあわせ海神に祈りをあげた。しばらくすると船に侵入してきた海水がへってきた。アワビの大群が現われ、船底の穴をふさいでくれたのだ。また沖には美保大神が天下り、戦況は一変し陸耳御笠の船はちりぢりになり、海に沈むものもあり、賊徒を平定することができた。
 これは天祖の加護と美保八千戈の助力の賜であると、出雲にいき神に参った。帰途に大きなアワビが現われ、船の先導をしてくれた。陸についた後、船をあらためると九穴には大きなアワビが横たわっていた。このことは阿良須神社誌にかかれている。

日子座王伝説後日談(下見谷)
 四道将軍日子座王に追われた、陸賀耳御笠(士蜘蛛童子)は、志託の戦で潰滅し、由良石浦の地に上陸して与謝郡と境の大山に逃げた。石浦、和江、八戸地の何れから逃げこんでも、漆原の地に辿りついたことであろう。
 日子坐王は源蔵人を将として、四名の若武者を撰び追跡させた。選り抜きの屈強な若武者に追いたてられた土蜘蛛は、漆原の地に落ち着くことができず、下見谷に逃げ込んだが、追跡の手はいよいよ厳しく、童子は遂に赤岩越えを決意し再び山入りを試みた。追いつめられた土蜘蛛童子は、赤岩山のゴラ場に逃げこんだ。ゴラ場は家のような大石から小石まで、累々と積み重なっていて、樹木も育たぬ石ゴラの原で独特の奇観を呈しているところである。さすがの若武者も彼等の姿を見失い取り逃してしまった。岩場はもちろんのこと付近の山中もくまなく詮索したが、杳として足取りをつかむことができなかった。
 源蔵人は疲労も加わり病のため整れてしまった。やがて、土地の人はこの地を源蔵と呼び、長く蔵人の武威を偲ぶことにした。他の四人の若武者は土蜘蛛を退治する目的は達したものの、その首級を取ることのできなかったことを面目なく思って、都に帰ることを断念し、野に下ることを決意した。四人は、姓に田の字を入れる約束をして土着したので、太田、河田、池田、藤田等の姓が当地に残っているのはこの勇士の末裔ではないかと言い伝えられている。

 岐阜市岩田西鎮座 伊波乃西神社伝承
 「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。

 滋賀県余呉町 草岡神社伝承
 国造本紀に「淡海の国造は日子坐王命」とあり、姓民録には「開化天皇第三王子彦坐王命」とあり、丹波国より淡海国造となられ余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神としてあまねく祟敬せらる。

 丹波道主命

 舞鶴市阿良須神社伝承
丹波道主王が青葉山の凶賊蜘蛛征伐に当たり豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りしたのを創祀とする。

 京都府久美浜町矢田八幡神社伝承
丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。

 京都府久美浜町神谷神社伝承
丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をもうけ給い、その御一人日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。

 兵庫県西紀町川内多々奴比神社伝承
 丹波道主命丹波に遺されし時蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに東山の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動して止まざること數日命大いに訝り怪みて是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し彼の水邊に至り給へば白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば彼の老翁左右の玉剱を命に授け白玉は是れなん天神國神として齋き奉れ剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ命大いに喜び懇に天神國神を祭りて其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて國中平安となれり爰に於て命この由を朝廷に言上して勅命を受け宮地を相して白玉を天照皇大神神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて此地に勸請せられたり斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊なるにより社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり是れ即ち當社鎮座の起因なり因って郷民社地の名を川内原と呼び光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればとて東の山を御光嶺南の山を南光山と謂ひ氏子を川内の郷と謂ふ 

日子坐王と陸耳御笠・匹女との戦いの推定あらすじ

 第十代崇神天皇の御代、若狭青葉山を拠点とする陸耳御笠と但馬一嶺岳(兵庫県和田山周辺?))を拠点とする匹女を首領とする土蜘蛛が一党を率いていた。彼らは連携し合って、若狭・丹後・但馬に勢力を張っていた。彼らは人々を苦しめ、ある時、城崎郡主櫛岩竜を殺害した。この様子を県主穴目杆が大和朝廷に奏上し、大和朝廷は開化天皇皇子日子坐王に土蜘蛛を討伐するように命じた。
 日子坐王は官軍を編成し敦賀を拠点とし、東から青葉山を攻撃した。陸耳御笠は官軍が攻めてくることを知り匹女に援軍を依頼した。
 陸耳御笠は長期間持ちこたえることは不可能と知り、匹女のの援軍が来るであろう海を目指して逃走した。官軍はそれを追撃することとなった。
丹後国と若狭国の境に到った時、忽然と光り輝き鳴動する巌石があった。形が金甲に似ている事から、日子坐王はこれを将軍の甲岩と名付け、以後甲岩のある地域は鳴生(現成生)と呼ばれるようになった。
 敗走を続ける陸耳御笠軍は由良川に逃げ込んだ。由良川上流から匹女の援軍がやってくる手はずとなっていたのであろう。陸耳御笠は匹女の援軍を待つつもりであったが、く川下から日本得魂命の軍勢が攻めてきた為、志託(現志高)の地で一か八かの勝負に出ざるを得なかった。
 しかし、戦力には大きな開きがあり、陸耳御笠軍はたちまち壊滅した。陸耳御笠は北側の漆原の地に逃げ込んだ。日子坐王は源蔵人を将として、四名の若武者を撰び追跡させた。選り抜きの屈強な若武者に追いたてられた陸耳御笠軍は、漆原の地に落ち着くことができず、下見谷に逃げ込んだが、追跡の手はいよいよ厳しく、陸耳御笠は遂に赤岩越えを決意し再び山入りを試みた。追いつめられた陸耳御笠は、赤岩山のゴラ場に逃げこんだ。ゴラ場は家のような大石から小石まで、累々と積み重なっていて、樹木も育たぬ石ゴラの原で独特の奇観を呈しているところである。さすがの若武者も彼等の姿を見失い取り逃してしまった。岩場はもちろんのこと付近の山中もくまなく詮索したが、杳として足取りをつかむことができなかった。

 陸耳御笠が官軍に攻められているという情報を受け取った和田山近辺を拠点としていた匹女は軍を編成して、由良川上流域に援軍を送った。陸耳御笠と匹女は普段から由良が和を介して連携を取っていたものと考えられる。
 匹女は軍を由良川に沿って下らせた。官軍は匹女が由良川上流から攻めてくるとの情報を得て河守の地に本陣を構えていた。そこを匹女が急襲した。不意を突かれた官軍だったが、河原(現楯原)に楯をズラリと並べて防備を固め、矢を射掛けた。この戦闘で匹女が討ち取られ、その血は辺り一面を赤く染めた事から当地は血原(現千原)と呼ばれるようになった。
 陸耳御笠は行方不明になってしまった。日子坐王は由良の港を拠点として、陸耳御笠の行方を探ったところ、与謝の大山(現大江山連峰)に登った事が解った。しかし、その行方は依然不明のままだった。
 その後、陸耳御笠は海岸伝いに丹後から但馬に敗走し、最期但馬海岸の鎧浦(現香住町鎧)にて日子坐王に討ち取られたとの記録が残っている。逃走中にその所在が知れ、打ち取られたのである。

陸耳御笠の背景

 丹波国は秦徐福と共に日本列島にやっていた人々の一派が上陸し、その勢力が始めた国である。AD20年頃饒速日尊が統一しており、有力な国ではあるが、大和朝廷の支配下の国である。国自体が反乱をおこすことは考えにくい。実際に饒速日尊子孫である日本得魂命が協力しており、丹波国自体の反乱ではないようである。では、陸耳御笠とは何者であろうか。

 倭の大乱が収まった弥生時代終末期のみ出雲系土器が全国に分布するようになっている。出雲国から素盞嗚尊祭祀を広めるために全国に出雲の人々が広がっている。丹波の民話でも出雲か百済の人々が流れ着いたとされている。おそらく、倭の大乱後出雲の人々がこの地に流れ込んだのであろう。匹女も同じであろう。

 陸耳御笠も匹女も丹波国一帯に住みつき素盞嗚尊祭祀を広めようと努力をしたと思われるが、この周辺は饒速日尊祭祀が非常に強い地域であり、また、秦徐福の系統なので、素盞嗚尊祭祀は受け入れにくい地域であったと思われ、彼らは次第に周辺から浮いていったのではあるまいか。

 これを裏付ける考古学上の事実として素盞嗚尊祭祀の祭祀者の墓とされる四隅突出型墳丘墓が山陰地方・越地方には見られるが、その中間である丹波・若狭地方にはほとんど存在しないのである。これは、この地域が素盞嗚尊祭祀を受け入れなかったあかしであろう。

 また、反乱軍は忌み嫌われる意味を持つ漢字が使われることが多いが陸耳御笠は「御」が使われている通り、唯の反乱軍ではないようである。素盞嗚尊祭祀者であるためにこのような字が用いられたのではあるまいか。

 陸耳御笠や匹女は素盞嗚尊祭祀を広めようとこの地の有力者と交渉を持ったが相手にされず、遂には城崎郡主櫛岩竜を殺害するに至ったのであろう。当時の丹波国の国造は饒速日尊直系の日本得魂命であったと思われるが、陸耳御笠は出雲からの客人である。丹波国が出雲からの客人と単独で戦うのは、倭の大乱のこともあり躊躇したのではあるまいか。そこで、大和朝廷に相談したのである。相談を受けた大和朝廷はそのままにしていたのでは余計問題が複雑化すると判断して征討軍を派遣したのであろう。

 行方不明になった陸耳御笠は何とか出雲に帰りたいと思ったのではあるまいか。出雲に戻れば援軍を得ることもでき呂と考えたことが想定できる。大江山から海岸に出て海岸沿いを西に向かって逃避行していたが、その情報が日子坐王に伝わり、鎧浦(現香住町鎧)で追い詰められて討伐されたのである。

 丹波道主命がこの戦いの後出雲を訪れ、出雲の神を丹波地方に招いている。これは、出雲系の陸耳御笠を殺害した結果、出雲との戦いが再発するのを恐れたためではあるまいか。

 日子坐王が陸耳御笠と戦った時期

 日子坐王と陸耳御笠が戦ったのは、日本書紀では崇神10年(AD249年)となっているが、真実はどうなのであろうか。卑弥呼が亡くなった直後に武埴安彦の乱が起こっているが、この戦いに参加している四道将軍は大彦命と五十狭芹彦である。日子坐王と武渟川別命は参加していない。日子坐王は卑弥呼が亡くなった直後は大和にいなかったと推定される。

 大彦命と武渟川別命は親子であり、四道将軍として派遣された時、飛騨までは行動を共にしており、また、会津で出会っている。よって、この両者はほぼ同時期に派遣されたと考えることができる。

 五十狭芹彦は崇神10年に一度吉備国に派遣されていると思われるが、吉備国の古墳が箸墓(浦間茶臼山古墳・網浜茶臼山古墳)と相似形のものがあることから、本格的に吉備国に赴任したのは箸墓ができた後と思われる。

 日本書紀には四道将軍を派遣したのは卑弥呼が亡くなる直前、崇神10年9月9日と直後の10月22日である。卑弥呼はこの間に亡くなっている。9月9日に命令を受け10月22日に出発したとも考えられるが、日子坐王が丹波に派遣されたのが9月9日で、大彦命・武渟川別命・五十狭芹彦命が10月22日に派遣されたと考えることもできる。そうすれば、陸耳御笠が城崎郡主櫛岩竜を殺害したのは卑弥呼が亡くなる直前ということになる。そのため、卑弥呼が亡くなった直後日子坐王は大和にいなかったのであろう。

 陸耳御笠は出雲の系統なので、倭の大乱の再来を予感させる戦いとなり、大和朝廷としても、日子坐王の派遣は慎重にならざるを得ないところがある。丹波道主命が戦いの後出雲を訪問し、出雲の神を丹波に招いており、戦後の対策も綿密であることから、日子坐王の派遣は生前の卑弥呼が命じたものではないだろうか。

 陸耳御笠が城崎郡主櫛岩竜を殺害したとの情報を受けた卑弥呼は、この事件を長引かせては、倭の大乱の再来になると考え、即決で日子坐王に陸耳御笠を急襲するように命じたのであろう。そして、後々のことを考えて、丹波道主命に出雲の神を丹波に招くことを命じたとおもわれる。

 その後

 これらの伝承をまとめると、彦坐王と丹波道主命は共同して青葉山を根城としていた豪族と戦ったようである。その後、二手に分かれ、彦坐王は滋賀県余呉で国造りをした後、美濃国岩田郷に移り住み、ここで世を去った。丹波道主命は西に向かい出雲国で人々の心を和らげた後、久美浜町に至りそこで亡くなったようである。

神社名 祭神 鎮座地 県名 由緒
阿津神社 木花開耶姫命 海部郡海南町相川字阿津1 徳島県 開化皇子日子坐王御子室日古王と云うあり。若狭耳別之祖也。此皇子の后にや。かかる例自余にもあり
伊波乃西神社 日子坐王 岐阜市岩田西3丁目421番地 岐阜県 祭神日子坐王は、人皇第九代開化天皇の皇子で、伊奈波神社の祭神、丹波道主命の父君にあたらせられる。古事記中巻、水垣宮の段(崇神天皇の御代)によれば「日子坐王をば、旦波の国につかわして、玖賀耳の御笠(クガミミノミカサ)を殺さしめ給いき」とある。史上に表れた御勲功のはじめである。なお、クガミミとは、国神の義であって、旦波の国に国神ミカサが住んでいたのである。王は、その後、勅命により東日本統治の大任をおび、美濃国各務郡岩田に下り、治山治水に着手され且農耕の業をすすめられ、殖産興業につくされた。八瓜入日子王(ヤツリイリヒコノミコ)は、日子坐王の皇子である。神大根王(カムオオネノミコ)と申し上げ、父君の後をつがれて、この地方の開発に功が多かった。日子坐王薨去の後、御陵を清水山の中腹に築かれた。当社の西に隣接している。
加茂神社 彦坐命 美濃加茂市山之上町233番地の2 岐阜県
加毛神社 神別雷命 安八郡輪之内町下大榑東井堰13017番地 岐阜県 古代国造時代開化天皇の皇子、鴨君彦坐王の子、神大根王が美濃国の国造となり、その子孫は西南濃地方に繁行した。よって、開拓者たちは、鴨氏の祖神を奉斎した。
高坂神社 神大根王,日子坐命,息永依比売,表邪都比売,美知能宇斯王,水穂之真若王,水穂五百依比売,御井津比売,山代之大筒木真若王,比古意須王,伊理泥王 本巣郡本巣町金原字高坂1079番地 岐阜県
方県津神社 丹生川上摩須郎女命 岐阜市長良八代3丁目13番1号 岐阜県 日子坐王一族はこの地方に深い関係をもち農耕、治山、治水に貢献された。日子坐王の皇子丹波道主命は、崇神天皇の朝命を奉じて、丹波(山陰地方)に赴かれ四道将軍の御一人で、別名彦多都彦命(伊奈波神社)という。その奥方が当式内社方県津神社御祭神丹波之河上摩須郎女命、その御子日葉酢比売命又その御子五十瓊敷入彦命は(伊奈波神社)妃淳熨斗媛命(金神社)、その御子市隼雄命(橿森神社)及び擁烈根命(県神社)である、岐阜市内の総神社の親神様に当る。
阿良須神社 豊受大神 舞鶴市小倉フル宮13 京都府 当社は崇神天皇の御代(前97~前30)四道将軍の一人丹波道主王が青葉山の凶賊蜘蛛征伐に当たり豊受大神を神奈備の浅香の森にお祀りしたのを創祀とする。
芦高神社 丹波之河上麻須郎女 熊野郡久美浜町芦原イケノリ 京都府 当社は、円墳上に奉斎する神社で、字芦原地区の氏神である。ハエヌキ権現と称し、丹波之河上麻須郎女を祀ると伝える。丹波道主命の妃である。古墳より石剣を発掘し文化財として保存する。
意布伎神社 気吹戸主神 熊野郡久美浜町三分 京都府 当社は垂仁天皇の朝丹波道主命の勸請せられた處にして、式内村社で天正4年11月村中大火に際し神社も類焼の厄にかかり、文書寶物等一切焼失せりという。
三嶋田神社 大山祇命 熊野郡久美浜町金谷今ゴ田791 京都府 人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。而して人皇九代開化天皇の御宇に至りて河上の摩須が当社を崇敬した。云々」とある。『丹後舊事記』には、「垂仁天皇の朝川摩須郎勸請なりと國名風土記に見えたり」とある。川上(河上)摩須は古事記の「美知能宇志王娶丹波之河上之摩須良女。生子比婆須比賣命、云々」の河上摩須であり、本居宣長『古事記傳』で「河上之摩須良女、河上は和名抄に丹後國熊野郡川上の郷あり是なり」とのべている。また『丹後舊事記』は河上摩須について「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は摩須良女を娶る」と記している。
珠城神社 垂仁天皇,和気清麻呂 久世郡久御山町大字市田小字珠城2-1 京都府 「玉城神社縁起」によれば、垂仁天皇崩御の後、その御霊を山城大筒城真若王(開化天皇王子日子坐王の子)がこの地に祀ったのがはじまりとし、垂仁天皇の皇居が珠城宮であったことから、珠城神社と称したという。
小幡神社 開化天皇,彦坐王,小俣王 亀岡市曽我部町穴太宮垣内1 京都府 彦坐王(ひこいますのみこ)。『古事記』に日子坐王と記し、『日本書紀』に彦坐王と記す。開化天皇の御子とする。『古事記』によれば、崇神天皇の代、丹波へ派遣されて、玖賀耳之御笠を誅伐したと伝える。『古事記』には若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が丹波の大県主由碁理の娘である竹野媛を娶って、比古由牟須美命を生むと記し、『日本書紀』では稚日本根子彦大日日尊(開化天皇)が丹波の竹野媛を納して彦湯産隅命を生むと記す。『日本書紀』には丹波道主命を丹波へ遣わしたという。『古事記』では日子坐命を旦波へ遣わしたとなっている。彦坐王は開化天皇の御子であり、丹波道主命もやはり開化天皇の御子であった。すなわち開化天皇と和邇氏の遠祖意祁都比売との間に生まれたのが彦坐王であり、開化天皇と近江の三上祝がまつる天之御影神の娘息長水依比売との間に生まれたのが丹波道主命であると伝承する。
象良神社 川上摩須 熊野郡久美浜町須田天王谷132 京都府 『丹後舊事記』には「開化・崇神・垂仁の三朝熊野郡川上庄須郎の里に館を造る。丹波道主命は麻須良女を娶る」とある。明治35年市場村七社神社神職日下部氏は、その著『丹後國古事記略書』に「丹後舊事記ヲ見ルニ衆良神社ハ馬次村ト有リニヨリ、此社ハ久美谷に馬地村有リニヨリ久美谷に有と思らんモアラン、雖レ然馬次ト有ハ驛馬ノ事ニテ須田村ニ有也」とのべている。明治17年の「社寺明細帳」には、その由緒をつぎのやうに書いている。「衆良神社ハ八坂(神社)ト相殿に祭祀ス、須良神社ハ丹後舊事記及丹哥府志ニ須良村ト有、當國式社考ニ、須田村也、此地麻須良王ノ領也ト申傳ウ、コノ王ハ丹波道主命ノ舅也ト有、古ハ須原村ト云トモ有、今ハ須田村也、神名帳私記ニ須田村ト有、扱此須田村川上郷ニテ字下山ト云城跡ノ孤山有テ麻須良王之居所也ト稱シ今ニ平民之此山ニ居住スルヲ忌ム(但シ往事此山ニ居住スルモノ数多ク有シモ神崇リニテ永續スルコト無シト云フ)、又殿垣(塔垣)ト云所有リ、麻須良王ノ居住地ト云傳有リ今ハ此所ハ桑畑之中ニ有リ、此須良村之奥但馬之國ニ越ル山ヲ忍坂ト云ナリ、姓氏録ニ火明命後世ト有、衆良神社ハ八坂神社ト相殿ニ祭祀ス、祭神不詳トイエドモ神軆ハ木像二ツ有テ社の割ニハ大像ナリ、相殿兩神ノ神軆也ト云傳ウ、(後略)」と。衆良神社については、牛頭天王宮(八坂神社)と麻須良皇子との話がある。須田の大雲寺に保存されている奥書天正16年(1588)の『天龍山大雲寺記録』の記述には「(前略)桓武天皇に御皇子豫多在しけり。第一は平城天皇、大同元丙戌に御即位在しなり。第二は弘仁元庚に兄君の位を即せ給ふて嵯峨天皇と奉申なり。第三は、相良皇子と奉申れり。御心悪かりなん兄君の御位を奪んと御媒叛の御企有ければ小野岑守等の計ひにて淡路の國へ渡らせ給ふが遂に彼地にて薨じ給ふ(中略)然るに第四の宮は摩須良皇子と奉號兄君相良天皇(皇子)之御媒叛に組せられければ丹後國に御下り給ふ。後に御料を御許有りて都へ可歸勅使立せ給へども歸り給ふべき御心なかりしや、當所塔垣(殿垣)といふ處に玉關を御立成されて此地に居住成給ふて御年67歳にて薨じ給ふ。後に牛頭天皇宮と奉崇しとなり。御存生の間に國家安全の為に當寺を御建立有りて御代長久を祈り給ふ。(後略)」とある。また同記に同寺の末寺と神社との関係を次のやうにのべている。「當寺末寺三ヶ寺有り、一は猪ヶ島神宮寺とて三島明神の浦にあり、二は長尾山地蔵寺とて牛頭天皇(天王)の口にあり、三は比靈山高山寺とては塔垣の向の谷に有りけれ共、かく迄没落しぬれば彼三ヶ寺をこぼち一ヶ寺と成侍りしかとや」と。牛頭天皇(衆良神社)と長尾山地蔵寺との関係がわかる。摩須、摩須良、麻須良、麻須良王などのあいまいさは、古事記の河上摩須と天龍山大雲寺記録の麻須良皇子との混同から生まれたものである。「社寺明細帳」にいふ小字殿垣は大雲寺記録の塔垣と同じ場所であり、麻須良皇子の居所であったとするのが正しい言い傳へであらう。衆良神社と牛頭天皇宮が相殿に祀られ、河上摩須と麻須良皇子が祭神であったが、のちに牛頭天皇宮が八坂神社と結びつくため祭神が須佐之男命になったとも考へられる。明治になって豊岡懸神社取調の節「式内衆良神社」と定められた。(豊岡懸は明治4年から明治9)明治18年に八坂神社を境内末社として分割し、別に社殿を増營安置した。大正10年上屋を改築し、新に拝殿を設ける。
神谷神社 丹波道主命 熊野郡久美浜町小谷 京都府 神谷神社の主神、丹波道主命はまたの名を丹波比古多多須美知能宇斯大王と伝え、社記・古書によれば、第十代崇神天皇御宇10年9月(BC88)、天皇は天下を征するため、丹波道主命を山陰(丹波)、大彦命を北陸、武淳川別命を東海、吉備津彦命を山陽(西海)に印授を授い4人の将軍を四道に派遣することとなった。世に呼んで四道将軍と総称する。その四道将軍中、随一と言う神谷太刀宮の祭神、丹波道主命が鎮撫のため、山陰地方に向われるに際し、出雲大社を奉斎する出雲地方の人々の心を和らげ、前途の平安を祈願し、但馬の国境である神谷の里に出雲国より、八千予神、天神玉命、天種子命の三座の御魂を迎え、久美谷川の清流の川上に社を創建奉斎されました。丹波道主命は山陰地方平定後、国人となって永くこの久美浜の地に留まり、幽邃の地で海をかけ野をひらき人心の安定に当られ、遠き都人にとって常世につながる幻想の隠国熊野の郷、河上庄(現川上地区)の豪族の娘、河上麻須郎女を妃として四子をもうけ給い、その御一人日葉酢媛は第十一代垂仁天皇の皇后に上がられました。命が去られた後、佩帯されておられた神剣「国見剣」を神璽として奉安し、小谷の里に出雲国の神々を合せ祀り、神谷太刀宮大明神と称え奉るを創始とする。
竹野神社 天照皇大神,竹野媛命,建豊波豆羅和気命,日子坐王命 竹野郡丹後町宮宮谷245 京都府
道相神社 神武天皇 北桑田郡美山町宮脇ヒノ谷43-1 京都府 抑当神社の由来は第十代崇神天皇御宇<前97年~前30年>に四道将軍の一人としてこの丹波地方に遣わされた丹波道主命がこの地方開発のためここ宮脇の地に野々宮御所を創建されたのが起源とされている。
二宮神社 丹波道主命 加佐郡大江町天田内東平65 京都府
鳴生神社 彦坐王 舞鶴市成生成生谷38-6 京都府
網野神社 日子坐王,住吉大神,浦島子神 竹野郡網野町網野789 京都府 延喜式神名帳に坐す式内社。第九代開化天皇の御子神日子坐王を奉り、住吉大神は大阪住吉大社より分霊を受け(1600年頃)浦島子神と共に鎮祭されている。
矢田八幡神社 応神天皇,神功皇后,武諸隅命 熊野郡久美浜町佐野地シワ177 京都府 崇神天皇10年四道将軍の一人丹波道主命は勅命により山陰地方平定のため丹波国(今の丹後国)に至り、比治の真名井に館を構えられたが無事平定を祈願のため矢田部の部民をして祖神を祭らしめられ、熊野郡では矢田神社を祭祀せられた。
六神社 天照皇大神,誉田別命,天津児屋根命,月読神,豊受神,丹波道主命 竹野郡丹後町上野815 京都府
彌加宜神社 天御影大神,誉田別大神 舞鶴市森井根口871-7 京都府 当社の御祭神は天御影命亦の御名は大日一箇命にして創立年代は崇神天皇の御宇11年丹波道主之命の御祭給う所として延喜式内の御社也。
與能神社 事代主命,健御名方命,天照皇大神,天児屋根命 亀岡市曽我部町寺蛇谷1 京都府 延喜式内社で「諸国鎮座神秘抄」の写しによれば、奈良時代の四道将軍丹波道主命が国家鎮護の為、桑田郡に三座の神社を祀った
賀毛神社 彦坐命 員弁郡北勢町大字垣内718 三重県
安孫子神社 天稚彦命 愛知郡秦荘町安孫子348 滋賀県 創祀年代は詳かでないが開化天皇の皇子彦坐王四世の孫白髪王の裔がこの地に住して祀蔦も野と伝えられている。
治田神社 開化天皇,彦坐命,大海直持連,饒速日命 草津市南笠町925 滋賀県
石坐神社 彦坐王命,天命開別尊,弘文天皇,伊賀采女宅子媛命 大津市西の庄15-16 滋賀県
草岡神社 高御産巣日神,神御産巣日神,日子坐王命,菅原道真 伊香郡余呉町国安52 滋賀県 国造本紀に「淡海の国造は日子坐王命」とあり、姓民録には「開化天皇第三王子彦坐王命」とあり、丹波国より淡海国造となられ余呉の庄の荒廃したるを御覧になり、当地区の開拓、殖産に多大の御盡力になり御神徳を讃え、当社に奉祀御祖神としてあまねく祟敬せらる。
古麻志比古神社 日子坐主命 珠洲市若山町経念12-32 石川県
日部神社 神武天皇,彦坐命,道臣命 堺市草部262番地 大阪府
久佐加神社 日子坐王命,大己貴命,海代比古命,海代比女命 出雲市日下町731 島根県
佐佐婆神社 天忍穂耳尊,応神天皇,後鳥羽天皇,春日大神,住吉大神, 多紀郡篠山町畑宮377 兵庫県 第七代皇霊天皇の勅命によりて創立すと伝えられる古社にして、延喜式内神社となり、古来、皇室の崇敬篤く、崇神天皇の御代丹波国平定し給へる日子坐王の長子佐佐君の祖神志夫美宿弥一族の奉齋せられたる社である。
川内多々奴比神社 天照皇大御神,建速素盞嗚命 多紀郡西紀町下板井字川内原坪74 兵庫県 崇神天皇の御宇四道将軍丹波道主命丹波に遺されし時蒙昧の徒皇軍に従はず一勝一敗容易に平定すべくもあらず仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに東山の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動して止まざること數日命大いに訝り怪みて是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと思召し彼の水邊に至り給へば白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧げながら水上に漂へり命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば彼の老翁左右の玉剱を命に授け白玉は是れなん天神國神として齋き奉れ剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ命大いに喜び懇に天神國神を祭りて其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて國中平安となれり爰に於て命この由を朝廷に言上して勅命を受け宮地を相して白玉を天照皇大神神霊剱を建速素盞嗚命と稱し奉りて此地に勸請せられたり斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊なるにより社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり是れ即ち當社鎮座の起因なり因って郷民社地の名を川内原と呼び光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればとて東の山を御光嶺南の山を南光山と謂ひ氏子を川内の郷と謂ふ 

 

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