出雲国譲り

 瓊々杵命の活躍により九州に派遣されている出雲の人々は大方納得し、分割後は出雲に引き揚げることとなった。国譲り会議の決定事項を実行するのにあたって、 障害となるのは、決定事項に逆らい、鹿児島神宮の地に居座っている出雲から派遣されていた人々のみとなった。高皇産霊神は話し合いを継続したが、埒があかないので、 ついに武力に訴えて解決することを決意した。
 瓊々杵命を総大将として鹿児島神宮の近くの石体社の地に集結し,鹿児島神宮の地にある出雲屋敷を急襲し,南九州から出雲勢力を追い出した。これが高千穂旗揚げである。 鹿児島神宮の地は後に晩年の日子穂々出見命が住んでいた地でもある。

 出雲屋敷から出雲勢力を追い出し、猿田彦命が天穂日命の子武夷鳥命と神宝(青銅器)を持って、出雲に移動した。一方大和の10歳前後の積葉八重事代主命は、三穂津姫に導かれて、美保関町の美保神社の地に移り住んだ。

 この結果倭国は西倭(九州・南四国)と東倭(中国・北四国)に分裂することになった。猿田彦命は出雲に移住し素盞嗚尊祭祀を始めた。 九州北西部は瓊々杵命、東九州一帯は日向津姫が治めることになった。AD47年ごろのことである。このとき穂日命の子武夷鳥命も猿田彦命が作っていた青銅器(後の出雲神宝)を 持って出雲に同行している。
 出雲に来た猿田彦命の滞在地が明確にならない。伝承上は佐太大社の地であろうと思われるが、当時の出雲国の中心地から少しずれているのである。猿田彦が事代主命の後見人として出雲の地を治めていたのはAD47年頃からAD50年頃までの数年間と思われる。 

日向女王日向津姫の誕生

武夷鳥命の出雲行き

 神話では出雲国譲りの時穂日命と武夷鳥命(武夷鳥命)が高天原から派遣されている。穂日命は神話の通り国譲りの前と考えられるが,穂日命の子武夷鳥命は北九州に行動の足跡があることと,穂日命が出雲に行ったころまだ20に満たない幼さがあったものと考えられ,かなり後からではないかと思われる。

武夷鳥命が出雲に行ったのはいつ頃のことであろうか,日本書紀では,穂日命が出雲に行ってから国譲りが起こる前となっている。しかし,武夷鳥命は, 日本書紀崇神天皇の条に「出雲に神宝を持ち込んだ。」と記録されており,この天皇の頃までその神宝が保存されていたらしいのである。この神宝が,少なくとも 200年以上保存されている。大抵のものは朽ち果ててしまうことから,この神宝は青銅器であると考えられる。北九州地方で青銅器を大量生産をしていたのは猿田彦命であると いうことと,猿田彦命が青銅器を持って出雲に行っていること、猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を行うことから考えて,武夷鳥命は父の穂日命を 頼って,猿田彦命と共に出雲に行ったのではないかと想像する。その時期は国譲りの直前(AD45年ごろ)と思われる。猿田彦命は出雲で素盞嗚尊祭祀を始めるため、 九州地方で盛んな素盞嗚尊祭祀器具である青銅祭器を持ち込む必要があったのである。武夷鳥命は出雲に着くと飯石神社の地に住んでいたようである。

比那神社   島根県出雲市姫原町394  
当社は出雲風土記(七三三年)及び延喜式に所載の 古社にして御祭神は比那鳥命。別名を 武夷鳥命、武日照命とも申し日本書紀に明らかなり 即ち 天照大神の御子天之穂日命を父神として天孫降臨に先立ち この出雲国に降りて 大国主命に対し国土奉献の使者の任務を平和裡に遂行された軍使の神で後、此処比那原の地に宮造りし鎮座し給う 。   案内板より
飯石神社  飯石郡三刀屋町大字多久和1065
 出雲国風土記に飯石社、延喜式に飯石神社とみえる式内社で、出雲国風土記に飯石郡の条に「飯石と号くる所以は、飯石郷の中に伊毘志都幣命坐せり。故飯石と云ふ。」また「郡家の正東12里なり。伊毘志都幣命天降り坐しし処なり。故伊毘志と云ふ。」(神亀3年に字を飯石と改む)とあり、伊毘志都幣命の天降りましたと伝える磐石が御神体となっているので、本殿はなく、幣殿、通殿、拝殿を配している。即ち磐境、磐座という自然信仰の形態をそのままの姿で現在に伝えている。又、この地を命の降臨の聖地として、古来注連縄を用いないのも特殊の習慣である。明治44年8月の遷宮工事の際、御霊代の本殿磐石のかたわら境内の字迫から、古墳時代の祭祀用遺品とみられる高坏、壷などの須恵器類が出土した。御祭神伊毘志都幣命は天照大神の第二の御子天穂日命の御子で、天夷鳥命、武夷鳥命とも云い、国譲りに際して三穂之崎に事代主神を尋ね国土奉還の大業を成就された神であるとされている。その時に使用された船を熊野諸手船という。伊毘志都幣命は、出雲国造家の祖神にあたるため、古来正遷座祭には出雲国造御参向のうえ、奉幣を奉られる習わしであったが、近年(昭和42年以降)に至り、例祭にも国造御参向が慣習となっている。
             <平成祭データ>

 武夷鳥命は父天穂日命の子としてAD35年頃、吾勝野で誕生し、AD47年頃猿田彦命とともに、出雲に移動したと考えられる。その経路は飯石神社(三刀屋町)→比那神社(出雲市)→神魂神社(松江市)のようである。

 出雲国造家の謎

 天穂日命の子孫の出雲国造家に系図が伝わっているが、この系図には謎が多い。皇室系図と代数が合わないのである。

 天穂日命─天夷鳥命─櫛瓊命───津狭命───櫛甕前命───櫛月命────櫛甕鳥海命─櫛田命──知理命──毛呂須命─阿多命──出雲振根命
               (出雲建子命) (都我利命) (久志和都命) (久志和都命) (久志和都命)                               (阿多命)
               (伊佐我命)

 櫛瓊命が神武天皇と同世代で、出雲振根命が第7代孝霊天皇と同世代である。古代史の復元では神武天皇を1世とすると孝霊天皇は5世となる。ところが出雲国造家の系図では、櫛瓊命を1世とすると、出雲振根命は10世となるのである。日本書紀の通りの年代(出雲振根命が第10代崇神天皇と同世代、神武天皇から崇神天皇まですべて直系)であるとすれば一致するが、これは、他の豪族系図と一致しなくなる。櫛瓊命を1世とすると出雲振根命は5世前後でなければならないのである。

 ほかの系図を調べてみると、櫛甕前命、櫛月命、櫛甕鳥海命はいずれも久志和都命の別名を持っていること、久志和都命の子が知理命であるという伝承もあることから、櫛甕前命、櫛月命、櫛甕鳥海命、櫛田命は同一人物ではないかと思えるのである。また、出雲振根命も阿多命の別名を持っているのでこれも同一人物ではないかと考えられる。さらに伊佐我命と津狭命も同一人物との伝承がある。

 これをもとにして出雲国造家の系図を作りかえると、

(出雲王朝)
大国主━━━━鳥鳴海━━━国忍富━━佐波夜遅奴美━甕主日子━多比理岐志麻流美━美呂浪━布忍富鳥鳴海━天日腹大科度美━遠津山岬多良斯

素盞嗚尊━┓ (出雲国造家)                            ┏出雲振根命
     ┣━天穂日命━━天夷鳥命━━津狭命━━久志和都命━━━━知理命━━毛呂須命┫               ┏━来日曰維積
     ┃                                    ┗飯入根命━━鵜濡淳━━襲髄━━┫
日向津姫━┫                                                    ┗━野見宿禰
     ┃           
     ┃                ┏━神八井耳━━武宇都彦━━武速前━━孝元天皇━━開化天皇━崇神天皇━━垂仁天皇
     ┃                ┃
     ┣━━━鵜茅草葺不合尊━━神武天皇╋━綏靖天皇━━孝昭天皇━━孝安天皇━孝霊天皇
     ┃                ┃ 
高皇産霊神┛                ┣━安寧天皇
                      ┃
                       ┗━懿徳天皇

櫛瓊命が神武天皇と同世代で、出雲振根命が第7代孝霊天皇と同世代、鵜濡淳は第10代崇神天皇の時代に出雲国造に任命されているがおそらく第8代孝元天皇の時代であろう。世代的にはほぼ一致している。

 出雲王朝、出雲国造家、天皇系図の照合 

天皇 出雲王朝 出雲国造家
大国主 天穂日命 饒速日尊
鳥鳴海 天夷鳥命 猿田彦
事代主
神武天皇 国忍富 津狭命
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
佐波夜遅奴美 久志和都命
孝昭天皇 甕主日子 知理命
孝安天皇 多比理岐志麻流美 毛呂須命
孝霊天皇
孝元天皇
美呂浪 出雲振根
飯入根命
開化天皇 布忍富鳥鳴海 鵜濡淳
崇神天皇 天日腹大科度美 襲髄
10 垂仁天皇 遠津山岬多良斯 野見宿禰

国譲り後の出雲

 AD47年頃国譲り騒乱の結果、猿田彦命は出雲の統治者として赴任してきた。この後の出雲の統治者は色々と変わっているようである。ここではその分析をしてみよう。

国譲り後の出雲関係推定年表

年代 事項
AD35年頃 武夷鳥命九州にて誕生
AD47年頃 出雲国譲り完結。事代主命東倭初代国王として赴任
武夷鳥命、猿田彦命と共に出雲に来る。神宝(荒神谷の青銅器)を持ち込む。
数年後猿田彦命は伊勢地方開拓に出発。
AD58年 狭野命(神武天皇)日向で誕生
AD60年頃 武夷鳥命長男櫛瓊命誕生
AD60~65年頃 饒速日尊大和で死去
AD83年 神武天皇大和にて即位。大和朝廷成立
AD85年頃 神武天皇全国巡幸。
このころ事代主命、出雲王家に東倭王の位を譲位。
AD107年 第2代綏靖天皇、後漢に技術者(生口)を派遣する。
AD121年 神武天皇崩御

 広島県葦嶽山に伝わる伝承では、神武天皇がここに滞在中使者を使わして出雲国事代主命に東征の協力を申し出たことが伝えられている。このことは、AD80年頃の出雲の統治者は事代主命であることを意味している。倭の大乱のあったAD160年頃は出雲振根命が出雲の統治者となっている。出雲振根命は出雲国造家の系統である。
 大国主命の系統である出雲王家の系統はどうなっているのであろうか。出雲王家は第15代遠津山岬多良斯までつながっている。推定年代はAD300年頃である。出雲の統治者はそのまま出雲王家に継承されていると考えてよいであろう。国譲り騒乱後の出雲統治者は事代主命→出雲国造家と変遷しているようである。この過程を検討してみよう。
 神武天皇即位直前の出雲の統治者は事代主命である。事代主命の後が伝承されていない。事代主から出雲国造家に政権が移ったと思われる。その時期は事代主命の年齢から判断して神武天皇即位後暫らくしたAD85年頃ではあるまいか。
 猿田彦命はいつ頃まで事代主命の後見人をやっていたのであろうか。事代主命は大和国鴨都波神社の地で饒速日尊命を父として誕生している。饒速日尊が葛城地方に勢力を伸ばしてしばらくしたAD35年頃誕生であろう。AD50年頃には成人していると思われる。猿田彦命は出雲国から伊勢国に移動しているが、事代主命が成人した後と思われるのでAD50年頃となる。猿田彦が後見人をやっていたのは数年程度であろう。
 天穂日命の子の天夷鳥命と饒速日尊の子の事代主は同世代で年齢も近いものがあったと考えられる。共に同時期に出雲にやってきて出雲で生活をしている。この両者は仲が良かったとも考えられ、互いの子が結婚していると考えられる。天夷鳥命の嫡子櫛瓊命と事代主命の娘が結婚すれば、櫛瓊命は事代主命の後継者となることができ、以降天穂日命の系統(出雲国造家)が出雲国の統治者となったと考えられる。両者が結婚したのはAD80年頃と考えられ、その直後AD85年頃に事代主命から出雲国造家に東倭の政権が移ったと考えられる。 

素盞嗚尊祭祀の中心地はどこか

   神都 神魂神社
 その中心地であるが、猿田彦命が中心として祭られているのが出雲国二ノ宮である佐太大社である。佐太大社前の広場には毎年10月(神有月)には各地から代表者が集まって 会議が開かれていたと伝えられている。この神事は現在出雲大社で行われているが、その元はこの佐太大社にある。しかし、当初の佐太大社の位置は西側の朝日山の麓にあったようで ある。猿田彦命がこの地で政治を行っていたためであろう。この地は当時の出雲の中心地から大きくずれているが、猿田彦命が出雲を統治していたのはAD47年頃からAD50年頃と思われるのでありえないことでもないと思われる。当時の出雲は素盞嗚尊祭祀が強化され、祭政一致であった。猿田彦命以上に出雲国造家の方が権力があったと思われる。多くの人々を集めて政治を行うためには中心地周辺でなければならない。そこで、ほかの神社で該当するところを探してみると、松江市の神魂神社が該当するようである。 神魂神社は主祭神が伊弉冊大神で

 「当社は大庭大宮とも云ひ出雲国造の大祖天穂日命が、此地に天降られて御創建、伊弊冊大神を祀り、出雲大神、出雲国の総産土大神、として天穂日命の子孫は元正天皇霊亀二年に 至る二十五代果安国造迄祭主として奉仕、斉明天皇の勅令により、出雲大社の創建なるや、杵築へ移住したる。しかし、国造就任の印綬とも云ふべき神代ながらの神火相続式、並 に新嘗祭を執行の為め、現在も当社に参向されている。 従って大国主命の国譲も、出雲朝廷のもと国造として祭政を執った当社が古代出雲の神都であり、毎年十月には全国の八百 万の神々が集ひ給ふ神在祭も行はれている。」

 と記録されている。神在祭が行われていること、神火相続式、並に新嘗祭を執行、熊野山に近いこと、松江市大庭周辺は古代出雲の中心地のひとつであることなど、 政治の中心地としての条件を兼ね備えている。松江市大庭の地こそが古代出雲の中心地となっていたのであろう。

   熊野神社の素盞嗚尊祭祀 

 素盞嗚尊祭祀はどのようなものだったのであろうか。祭祀者は素盞嗚尊の言葉を聞く立場にあるので、 素盞嗚尊の磐座のある熊野山あるいは熊野山がよく見えるところと考えられる。この地は出雲国一ノ宮である熊野大社の元宮があったところで、熊野大社にいたものと判断する。 熊野大社は当初出雲国最大の神社であったが、次第に衰退して現在の形になっている。熊野大社は天文11年(1542)大内氏の富田城襲撃の際全焼し、 また、元禄11年(1698)意宇川の氾濫によって社地の大半を失うなどして、神社の記録はすべて失われており、どういった由緒があるのかはわからないのである。 しかし、古代の崇敬の規模からして相当の由緒があることは間違いないであろう。熊野山がその元宮で素盞嗚尊の磐座であると推定している。それ以外にこれほど崇敬の対象になる理由がない。古代は熊野山頂に元宮があり、意宇川に沿っていくつかの摂社が存在していたようであるが、明治になりそのすべてが現在の熊野大社に合祀されている。 熊野大社崇敬会 川島扶美子氏著 「熊野の大神様」によると、神社は次のように配置されていたそうである。

 熊野山から意宇川に沿って下ると、市場・宮内・稲葉・森脇・大田・大石・元田と呼ばれる地が続いている。熊野大社の摂社は意宇川に沿う参道の要所要所に配置されていた。 熊野山山頂にあった元宮は市場の地に移されたようである。次の宮内に現在の熊野大社が存在している。次の稲葉地区の盆地が狭くなる西側に前社(さきしゃ)の跡地がある。 この前社は「雲陽誌」には熊野御崎社と記されており、祭神は少彦名命といわれている。現在もこの参道は残っている。谷間の切れ目から熊野山が遥拝できる。次の森脇地区には 楯井社の跡があり、大田命が祭られていた。この地からは熊野山が見えない。次の大石地区に田中社の跡地がある。この地からも熊野山は見えない。次の大石地区の北端部に 意宇川を挟むようにして布吾弥社(ふごみしゃ)と能利刀社(のりとしゃ)の跡地がある。この地は出雲の政治の中心地である 松江市大庭町周辺から熊野山へ参詣する参道の入り口に当たりここより谷間に入っていくのである。布吾弥社の跡地は少し高台にあり、その社地は他の摂社とは比べものにならない ほど広い。北側が開けており、さまざまな建物が建っていたことが予想される。当時の人々がこの周辺に集まって祭礼をしていたことが伺われる。反対側の能利刀社は大岩があり その岩を背にして社が建っていたようである。「御祓所」といった雰囲気を持っている。この地からはよく熊野山を遥拝できる。祭神は天児屋根命であったようである。 事代主命は素盞嗚尊の言葉を聞くという神聖な儀式を行う必要があったのでこのいずれかの地にいたと思われる。熊野山が遥拝できない場所ではないと思われるので、 最有力候補地は能利刀社ということになる。雰囲気からして熊野大社の摂社の中では最も神聖な神社のようである。また祭神の天児屋根命の語意は、「天は天神に対する称辞で、 兒屋根は言綾根である。言綾とはこの神の言辞が誠に麗しく綾あるによっての称で、根はモト、根本の意の称辞である。古事記伝(本居宣長)には、招祖泥(こやね)の義で 石屋の中の大神を招き出し奉りし行蹟を称えた名であるとも説いている。書紀には、天兒屋根命は神事を主る宗源なり」

と言われている。猿田彦命は素盞嗚尊の言葉を聞く言綾根という職を作り、この言綾根にこの能利刀社の位置で熊野山を遥拝し素盞嗚尊の言葉を聞く儀式を行い、猿田彦命にその言葉を伝え、 猿田彦命は神魂神社の地でそれを人々に伝えるとともに祭祀を行っていたものと考える。熊野大社に熊野銅鐸(菱環紐式)が伝わっているがこれは全国でほとんど出土例がないほど 旧式の銅鐸である。荒神谷でも同じ形式の銅鐸が見つかっており、猿田彦命が出雲に持ち込んだ銅鐸のひとつであろう。以後代々事代主として熊野大社の神職につながり、 猿田彦命は穂日命一族にその地位を譲り、出雲国は栄えていった。

  出雲王朝

 これに対して八島野命に始まる出雲王朝はどのような地位を占めているのであろうか。大国主命までの間が風土記などに国土開発をしたなどと伝えられているが、 それ以降はまったく記録がない。祭神としてもほとんど祭られていないのでその実態は不明である。前後の状況から推理をするしかない。
 事代主命の祭政一致の政治体制が確立した関係上、出雲王朝はその体制からはみ出してしまう。風土記・古事記などの記録では出雲から外に出た形跡がまったく ない。また、初代の八島野命は素盞嗚尊の長子となっているが、出雲王朝の始祖であり素盞嗚尊につながれたものであろう。実際はBC100年頃朝鮮半島からの流入者が作った王朝ではあるまいか。事代主命の体制は東倭全体に及び、 出雲王朝は出雲国内のみであったのではないかと想像する。第6代大国主命のあと第7代鳥鳴海命のとき、猿田彦命・事代主体制で東倭国を統治しており、この時代に統治体制を確立させ、以降で出雲王朝が統治していたのであろう。
 この出雲王朝の本拠地はどこ なのであろうか。大国主命の時代は三刀屋町の三屋神社の地を本拠地としていたようである。 また、倭の大乱終了後大和系の墳墓が斐伊川河口を避けて出現している。斐伊川河口付近は少し離れたところの神庭の荒神谷に多量の青銅器が見つかり、河口付近に四隅突出型墳丘墓 が出現している。これらのことから斐伊川河口付近の神庭あたりにその本拠地があったのではないかと推定している。

 出雲神話に大国主命が良く登場するが、それらの伝承の中には倭の大乱の頃(倭国大乱参照)のものと思われるものも存在する。 おそらく、出雲国王の行動はすべて大国主命の行動にまとめられたのではあるまいか。
 出雲王朝第14代天日腹大科度美命(第10代崇神天皇のころと推定)に関する伝承のみ神社に伝わっている。大東町の日原神社と木次町の大森神社である。日原神社の地を宮跡とすると他地域との交流に 不便と思われ、日原神社が誕生地で大森神社が宮跡ではないかと推定する。

  猿田彦命の晩年

 事代主命は、AD60年頃、猿田彦の後を引き継いで、素盞嗚尊祭祀を行い素盞嗚尊の言葉として東倭をまとめた。事代主命の最後は石見国二宮の多鳩神社に伝えられている。

 出雲における事代主命の記録

惠比須神社 《主》大国主命,事代主命 出雲市古志町994-1
 故事代主命の命により、諸国農産物交易のため日を定め市を立てさせ給う市の根元也と。今商人の売買する時手を打事も即ちこの神の教え也と。<平成祭データ>
三保神社 事代主命,三穂津姫命 八束郡美保関町福浦
 事代主神天照大神の御弟須佐之男命の御子孫で、出雲大社に鎮ります大國主神の第一の御子神様にましまして、天神の系を承けさせられた尊い大神様である。夙に父神を御扶けなされて國土の経営産業福祉の開発におつくしになった。天孫降臨に先だち天つ神の使の神が出雲にお降りになって大國主神にこの國を天つ神に献れとお傳へになった時、事代主神はたまたまこの美保碕で釣魚をしておいでなされたが、父神のお尋ねに対し、畏しこの國は天つ神の御子に奉り給へと奉答せられ、海中に青柴垣(あをふしがき)をお作りになり、天逆手(あめのむかへで)を拍っておこもりになり、大國主神はそのお言葉通り國土を御奉献になったと傳へてゐる。かくて事代主神は多くの神神を帥ゐて皇孫を奉護し我國の建國に貢献あそばされた。又神武天皇綏靖天皇安寧天皇三代の皇后はその御子孫の姫神で、國初皇統外戚第一の神にあたらせられ、なほ古来宮中八神の御一柱として御尊崇極めて篤い神様である。當神ミ古傳大祭である4月7日の青柴垣(あをふしがき)神事、12月3日の諸手船(もろたぶね)神事は、悠遠の昔、わが大神様が大義平和の大精神を以て無窮の國礎を祝福扶翼なされた高大な御神業を傳承顕現し奉るものである。三穂津姫命高天原の高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の御姫神にましまして、大國主神の御后神として、高天原から稲穂を持って御降りになり庶民の食糧として、廣く配り與へ給うた有難い大神様で、美保といふ地名はこの神の御名にゆかりありと古書は傳へてゐる。御神徳そもそも事代主と申す御神名は事知主の義であって、すべて世の中に生起するあらゆる事を辧ヘ知しめて是非曲直を判じ邪を避け正に就かしめられる事の大元を掌り給ふ意味で、平たくいへば人の世の日常の行為や行動を教導し主宰せられる偉大な御神徳を頌へ奉ったもので、大神様は実に叡智の本躰、誠(真実、真事)の守神と拝し奉る。又大神様を明神様・ゑびす様と申上げ釣竿を手にし鯛を抱かれた福徳円満の神影をゑがいて敬ひ親しみ、漁業の祖神、海上の守護神と仰ぎ、水産海運の御霊験の廣いことはあまねく知られて居る通りである。そして大神様の大義平和叡智推譲の御神徳、産業福祉の道をお拓きになった御神業、庶民慈育愛撫の御神恩を感謝尊崇し、福徳の神と仰ぐ信仰は極めて廣く行きわたってゐる。又當社に古くから傳って居る波剪御幣(なみきりごへい)は大神様の海上守護の神徳に因んで、山なす狂乱怒涛をも推し切って航行を安泰ならしめ給ふ霊徳を表現した御幣で、延いて水災火災病難等原因の何たるを問ふことなく人生に起る狂乱障害を祓除し家内の安全家門の繁栄を守り給ふとしてこれが拝授を願ふ篤信者が多く、そのあらたかなる霊験は数多い開願報賽の絵馬によっても窺ふことができる。又経済商業に福運を授け給ふ神としての信仰は、今もいろいろ土俗に残り、商業の「手拍ち」は天の逆手の故事に起因すると申してゐる。三穂津姫命は高天原の齋庭の稲穂を持ち降って農耕を進め給ふたので、當社には古くから御種を受ける信仰があり、安産守護の御神徳は、特に著しい。稲穂は五殻の第一である米を意味するのは勿論、農作物一切を代表し更に生きとし生けるものことごとくの生命力を表現してゐる。従って大神様は人間は云ふに及ばず一切の生物の生命力を主宰せられる尊い大神様である。故に古人はその御種について、「これを頂いて帰り時に従ってまけば早稲でも晩稲でも糯でも粳でも願望のものが出来る。然かのみならず麦でも大豆でも小豆でも出来る。まことに不可思議な事である」と感嘆してゐるが、田植後には農家の人達の豊穣祈願のお参りが盛んであり、12月3日の諸手船(もろたぶね)神事は一つに「いやほのまつり」ともいひ、豊穣感謝の意味もあってこれまた一般の参拝が頗る多い。世界的文豪小泉八雲(ラフカディオ・ハ-ン)はその紀行文の一節に初夏の田園風景を叙し、美保神社の神札(世にせきふだと申す)が稲田に立てつらねられて居る状を白羽の矢のやうであると感心し青々とした田の中に白い花が点々と咲いたやうであるともいひ、この白羽の矢の立って居る処では蛭が繁殖しないし飢ゑた鳥も害をしないと書いてゐる。これは豊作守護のおかげを端的に言ひ表はしてゐるものである。沿革 さて當美保関は前に述べたやうに大神様の御神蹟地であるばかりでなく、所造天下大神とたたへまつる大國主神がその神業の御協力の神少彦名命をお迎へになった所であり、又その地理的位置は島根半島の東端出雲國の関門で、北は隠岐、竹島、欝陵島を経て朝鮮に至り、東は神蹟地、地の御前、沖の御前島を経て北陸(越の國)、西は九州に通ず。  <平成祭データ>
多鳩神社 祭神 積羽八重事代主命 島根県江津市二宮町神主イ307
 積羽八重事代主命(エビスさん)は神代の昔石見の国開拓のため当地に留り給いその御終焉地と伝えらる
はじめ多鳩山の山上なる古瀬谷に鎮座せられ 北西に面しあたかも日本海の中心を御下瞰御守護ありて御神威は沖を航海中の船舶をしばしば停止せしめ給うと伝う
         <神社 案内板>

 神武天皇時代のAD90年頃と思われるが、事代主命は石見国開拓に精を出していたようである。この最中にこの地で亡くなっている。神武天皇即位直前の本拠地は不明であるが、出雲市古志町かもしれない。

 武夷鳥命は,飯石の郷を開拓した神として尊敬を集めている。出雲地方は,中期末に灌漑・土木技術・農耕具に鉄器が導入され,後期になると意宇平野,簸川平野において 遺跡数が急増している。鉄器の導入を計ったのは伊邪那美命の協力を得た素盞嗚尊で,その遺志を継いだ大国主命・猿田彦命・武夷鳥命らが平野の開発を行ったものと 考える。

 一方出雲で素盞嗚尊祭祀を始めた猿田彦命は,佐太大社の地で東倭国を治めた。AD50年頃事代主命に東倭の統治権を譲り、事代主命はAD85年頃,櫛瓊命に統治権を引き渡した。以後穂日命の子孫が出雲国の統治権を受け継ぎ、倭の大乱の後は国造に任じられることとなった。 猿田彦命が出雲の統治権を事代主命に譲った後AD50年頃、饒速日尊が統一できなかった伊勢地方の統一に、伊勢の地へ移動してそこで世を去っていて,その御陵には椿大神社が建てられている。
 穂日命はどうしたのであろうか。神社伝承によると、穂日命は出雲に来ると、神魂神社の地で伊邪那美命を祭り、その後、能義平野のほうへ移動し能義平野を開発し、 安来市の能義神社の丘陵地に葬られたと伝えられている。出雲国譲り後、能義平野を中心として活躍したのであろう。

 国譲り後の出雲は斐伊川河口付近(簸川平野)が出雲国王鳥鳴海命系の人々が、松江市南部地方が素盞嗚尊祭祀者(出雲国造)系の人々が、飯梨川河口付近(能義平野)が 穂日命系の人々が中心となって治めた。その結果、この3地域の近くに四隅突出型墳丘墓群が存在しているのである。

 倭国の実権を握った日向国は,高皇産霊神の協力の下に国家体制を揺るぎないものに変えてゆくのである。

飯石神社 佐太大社


国譲り直後の倭国の領域

 

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