孝安天皇

 日本書紀の記録

孝安天皇関連系図 

西暦 孝昭 孝安 孝霊 干支 半年干支 半島暦 百済本紀 新羅本紀
123 38 39 癸亥 辛巳 壬午
124 40 41 甲子 癸未 甲申
125 42 43 乙丑 乙酉 丙戌
126 44 45 丙寅 丁亥 戊子 天足彦(孝安兄・孝昭45)生誕(ホツマ)
127 46 47 丁卯 己丑 庚寅
128 48 49 1 戊辰 辛卯 壬辰 国押人(孝安天皇)生誕(孝昭49)
129 50 51 2 3 己巳 癸巳 甲午
130 52 53 4 5 庚午 乙未 丙申
131 54 55 6 7 辛未 丁酉 戊戌
132 56 57 8 9 壬申 己亥 庚子 国押人命を皇太子に決定・年20
133 58 59 10 11 癸酉 辛丑 壬寅
134 60 61 12 13 甲戌 癸卯 甲辰
135 62 63 14 15 乙亥 乙巳 丙午
136 64 65 16 17 丙子 丁未 戊申
137 66 67 18 19 丁丑 己酉 庚戌
138 68 69 20 21 戊寅 辛亥 壬子
139 70 71 22 23 己卯 癸丑 甲寅
140 72 73 24 25 庚辰 乙卯 丙辰
141 74 75 26 27 辛巳 丁巳 戊午
142 76 77 28 29 壬午 己未 庚申
143 78 79 30 31 癸未 辛酉 壬戌
144 80 81 32 33 甲申 癸亥 甲子 -58 赫居世即位・新羅建国
145 82 83 34 35 乙酉 乙丑 丙寅 孝昭天皇崩御 -56
146 36 37 丙戌 丁卯 戊辰 孝安天皇即位 -54
147 38 39 丁亥 己巳 庚午 孝昭天皇を埋葬(孝安38) -52
148 40 41 1 2 戊子 辛未 壬申 孝霊天皇生誕 -50 倭人が来襲したが、王に徳があると知り引き返す。
149 42 43 3 4 己丑 癸酉 甲戌 -48
150 44 45 5 6 庚寅 乙亥 丙子 -46
151 46 47 7 8 辛卯 丁丑 戊寅 稲の伝染病が流行 -44
152 48 49 9 10 壬辰 己卯 庚辰 -42
153 50 51 11 12 癸巳 辛巳 壬午 -40 下韓降伏
脱解、多婆那国より漂着
154 52 53 13 14 甲午 癸未 甲申 -38 都を金城と名付ける
155 54 55 15 16 乙未 乙酉 丙戌 -36
156 56 57 17 18 丙申 丁亥 戊子 -34
157 58 59 19 20 丁酉 己丑 庚寅 -32
158 60 61 21 22 戊戌 辛卯 壬辰 兄娘押姫を内宮とする。 -30
159 62 63 23 24 己亥 癸巳 甲午 -28
160 64 65 25 26 庚子 乙未 丙申 太瓊命を皇太子に決定・年26(孝安76) -26
161 66 67 27 28 辛丑 丁酉 戊戌 -24
162 68 69 29 30 壬寅 己亥 庚子 -22
163 70 71 31 32 癸卯 辛丑 壬寅 -20 瓠公馬韓に派遣、馬韓王死去
瓠公(重臣)はもともと倭人で、ひょうたんを腰に下げて海を渡り、新羅にやってきたので、瓠公と称した。
164 72 73 33 34 甲辰 癸卯 甲辰 -18 温祚即位・百済建国
165 74 75 35 36 乙巳 乙巳 丙午 出雲神宝検校(崇神60)? -16 靺鞨が北辺を侵す。急襲
166 76 77 37 38 丙午 丁未 戊申 -14 日食(6年)
167 78 79 39 40 丁未 己酉 庚戌 倭迹迹日百襲姫生誕(孝霊39) -12 靺鞨が攻めてくる
168 80 81 41 42 戊申 辛亥 壬子 九州西北諸島の国賊残党が強い集団となり侵攻、暴挙を繰り返した。九州は全く乱れ事態が最悪となった。天皇は元帥となり、弟の武彦太命と吉備蘇彦命を副将軍として中国・九州の兵を招集し三年七月でやっと悉く制定し凱旋した。(神皇紀孝安80年) -10 靺鞨が北辺を侵す(10年)
169 82 83 43 44 己酉 癸丑 甲寅 -8
170 84 85 45 46 庚戌 乙卯 丙辰 孝霊天皇山陰遠征(孝霊45)日野郡誌
倭迹迹日百襲姫大和出発(孝霊45)
倭迹迹日百襲姫、東讃引田の安戸の浦上陸し、水主神社の地に滞在(孝霊46)。
-6
171 86 87 47 48 辛亥 丁巳 戊午 -4
172 88 89 49 50 壬子 己未 庚申 -2 楽浪が攻めてきた。
靺鞨が攻めてきた(18年)
173 90 91 51 52 癸丑 辛酉 壬戌 孝安天皇崩御 1
174 92 93 53 54 甲寅 癸亥 甲子 孝霊天皇即位
吉備津彦兄弟吉備国派遣(孝霊53)
大吉備諸進命没(孝霊54)
3 第2代南解王即位
楽浪軍来襲
175 94 95 55 56 乙卯 乙丑 丙寅 5
176 96 97 57 58 丙辰 丁卯 戊辰 7 馬韓が弱体化(26年)
177 98 99 59 60 丁巳 己巳 庚午 9 馬韓滅亡(27年)
178 100 101 61 62 戊午 辛未 壬申 月支国(朝鮮)の彦波瓊王多数の軍船を率いて襲来す。特に神の宮鳴動し虚空より自羽の征矢落つるが如く飛びゆき、見るほどに波風荒びて賊船覆没せりと云う。
(孝霊61日御崎神社記録)
11
179 102 63 64 己未 癸酉 甲戌 13 倭人が兵船百艘あまりで海岸地方の民家を略奪した。(14年)

 孝安天皇の年代

 書紀では即位己丑、崩御庚午となっているが、孝安天皇誕生AD127年前半、崩御AD177年後半の半年干支が一致している。孝昭天皇の埋葬が孝安天皇38年で、孝昭天皇崩御よりもかなり後になるのであるが、孝安天皇生誕からの年数とすれば崩御後すぐの埋葬となる。

 神武天皇即位年を辛酉として、干支を始めた。その後の出来事はこの干支で表されていたと思われるが、綏靖天皇から懿徳天皇が兄弟相続だったのを直系に書き換え、さらに孝昭天皇と孝安天皇は誕生からの年数を即位時からの年数として記録したために、それ以降の干支とのずれが生じることになった。他資料との照合により孝霊天皇以降は史料同士の食い違いがほとんどなく、本来の干支で記録されているようである。

 綏靖天皇から懿徳天皇までの干支のずれは孝昭天皇と孝安天皇で修正する必要がある。日本書紀によると孝霊天皇は孝霊53年に即位しているので、その前年が孝安102年でなければならないが、孝霊52年は、孝安91年で11年のずれがある。

 孝昭天皇に11年の追加も考えられるが、日本書紀の記事の変更を最小限とするには、孝安天皇に11年の追加がなされているとした場合である。ここでは、孝安天皇の在位期間に11年の追加がなされたと仮定しておく。

 孝安天皇の在位期間はAD146年からAD173年までの28年間となる。

 皇后の謎

 古事記・日本書紀共に孝安天皇の皇后は兄の娘(姪)の押姫となっているが、日本書紀の年代が即位からではなく、生誕からの年数だとすると、姪と結婚するのは年代的に厳しくなる。現年齢計算で、孝安天皇は孝昭天皇25歳のときに誕生している。孝安天皇23歳のときに孝霊天皇が誕生しているのである。姪である押姫がこの時15歳だとしても、押姫誕生は孝安天皇8歳の時となり、兄が5歳年上でも13歳のときに押姫が誕生したことになる。絶対にあり得ないことではないが、かなり苦しい計算となる。

 書紀一書に磯城県主主葉江の娘長姫とあるが、同じ娘が安寧天皇や懿徳天皇の皇后になっており年代が合わない。書紀に伝えられている皇后の中で唯一計算が合うのが十市県主五十坂彦の娘五十坂媛である。

推定系図

     ┌天日方奇日方命──豊秋狭太彦──五十坂彦──五十坂媛┐
事代主命─┤                           │
     └姫蹈鞴五十鈴姫┐                   ├──孝霊天皇
             ├─綏靖天皇───孝昭天皇──孝安天皇┘     
         神武天皇┘

 春日県主であった五十坂彦が孝昭天皇のときに十市県主になったといわれている。

 孝安天皇関連神社

神社名 祭神 住所 由緒
鳴神社 天太玉命(忌部氏の祖)、速秋津彦命、速秋津姫命 和歌山市鳴神1089 孝安天皇の御代、潮動が起こり、平野が冠水、瀛津世襲が速秋津日神を敬齋すれば逃れられるとの託宣を受け、天皇は瀛津世襲命と武角河依命を派遣して祀らせた。
建部神社 大己貴命,日本武尊,事代主命,稲依別命 神崎郡五個荘町伊野部457 孝安天皇ノ御代ニ近江国神崎郡千草嶽ニ大国主大神・事代主大 神ヲ祀リ奉ル。
住吉神社 八十枉津日神,神直日神,大直日神,底津少童命,中津少童命,表津少童命,底筒男命,中筒男命,表筒男命 宮崎市大字塩路3082 孝安天皇の命によって創建され、 全国二千有余社の住吉社の総社。
筑摩神社 御食津神を主祭神に大歳神、倉稲魂神、大市姫神 滋賀県米原市朝妻筑摩1987 孝安天皇、神社を造営し筑摩三所天神と称される。
山田神社 猿田彦大神 誉田別尊 多紀理毘売命 多岐都比売命 市杵嶋比売命 滋賀県彦根市宮田町120 孝安天皇の時猿田彦大神降臨。
穴沢天神社 少彦名命、管神 東京都稲城市矢野口3292 孝安天皇4年3月創建。
鼻節神社 猿田彦命、保食神、大山祇神、菅原道真 宮城県宮城郡七ヶ浜町花渕浜誰道 孝安天皇の御代に、うが崎に鎮座。
石巻神社 大己貴命 愛知県豊橋市石巻町字金割1 第6代孝安天皇の時代の創建とも、33代推古天皇の時代とも言われているが、はっきりとしたところは分からない。
月讀社 月読命 埼玉県さいたま市桜区神田799 第6代孝安天皇20年の創建とされている。
伊古奈比咩命神社 伊古奈比咩命、三嶋大明神、見目、若宮、剣の御子 静岡県下田市白浜2740 孝安天皇の御代創建。
伊勢命神社 伊勢命 島根県隠岐郡隠岐の島町久見字宮川原375 孝安天皇が猿田彦命を祭神として建立されたといわれる。
八幡神社 誉田別命 御所市室1322 第六代、孝安天皇(日本足彦国押人尊)の室秋津宮跡は本社の辺りとされる
舞岡八幡宮 孝安天皇,仁徳天皇,国常立命,誉田別命 横浜市戸塚区舞岡町946
元三島神社 伊佐那岐命,大山祇命,上津姫命,下津姫命,和足彦命,身島姫命 台東区根岸1-7-11 御配祀の和足彦命は後の人皇第六代孝安天皇で、大山祗神社創建の祖となった小千命のご先祖に当たられる。

 孝安天皇が創建した神社の祭神には孝昭天皇が創建した神社と異なり系統がはっきりとしないものが多い。祭神が書き換えられたものが多いと思われ、饒速日尊関連の神社だったのではないかと想像される。

 孝昭天皇までは出雲に気を使う傾向が見られたのであるが、孝安天皇の祭祀した神社からは出雲に気を使う傾向が消えているのである。出雲との関係悪化が伺われ、倭の大乱の前兆が起こっていると考えられる。

 2世紀の降水量変化

 

 2世紀から3世紀にかけ、日本では、干ばつと大雨の時期を数十年ごとに繰り返すなど降水量が大きく変動していたことが明らかになった。  上のグラフは名古屋大学の中塚武教授(地球化学)らが木の年輪を分析して日本古代の降水量の変化を突き止めたものである。 中塚教授らは、長野県で発掘され、紀元前1世紀から紀元3世紀のものと判明している木曽ヒノキについて、年輪一つ一つに含まれる酸素を詳しく調べた。  酸素には、軽い酸素と少し重い酸素があり、軽い酸素を含む水の方が葉から蒸散しやすい。重い酸素が年輪に含まれる割合は、降水量が少なく、乾燥していた年ほど多くなる。これを利用し、1年単位で降水量の変化を再現したものである。

 このグラフによるとAD130年頃から170年頃まで干ばつが続いていたことが分かる。この時期に作物が取れず人心が安定しなくなり、争いがおこりやすかったのであろう。まさにこのような時に新羅が建国されたのである。

 新羅建国

 孝安天皇の時代の144年に、朝鮮半島では赫居世が王位につき、新羅が建国された。

 赫居世誕生直前の140年頃、倭王は第5代孝昭天皇の時代である。大和朝廷が成立して半世紀ほどたって、政治的に安定期に入ったころである。大和朝廷から技術者が派遣され、生活は安定しかけていた。農耕もおこなわれるようになり社会体制が充実しつつあった。しかしながら、このような時に干ばつが起こり、人心が荒廃し方々で争いが起こるようになった。それまで、社会の代表者を話し合いで決めていたのであろうが、争いが起こるようになり、争いが起こらないような代表者を決める必要があった。だれでも納得する人物と言えば、倭の天皇につながる人物である。幸い、AD80年頃までこの地に滞在していた、初代神武天皇の兄稲飯命につながる人物(おそらく孫)がいた。この人物の子供をこの地域の王にしようということで村長たちの意見がまとまった。このようにして生まれたのが初代新羅王赫居世であると考える。

 赫居世は人望もあり、この土地をよく治めたので人心は一つになり、強力な共同体となっていき、次第に国が形成されていった。大和朝廷としても稲飯命につながる人物であることから、この小国を当初は応援していた。梁書、南史に「小国なので自ら通使を派遣することができなかった。」とあるのも、倭国の一領域だったためと考えられる。

 即位したばかりの孝安天皇は新羅建国の情報を受け、その実態を調査しようと、148年調査隊を派遣した。その結果新羅王は王権を持たず、共同体の代表者のような状況で、さらにその王は神武天皇の子孫であり、重臣は瓠公という倭人だということで、調査隊はそのまま帰国することになった。

 脱解の正体

 第4代新羅王脱解に関して次のような伝承がある。

倭国の東北一千里のところにある多婆那国で、その王が女人国(不明)の王女を妻に迎えて王妃とし、妊娠してから7年の後に大きな卵を生んだ。王は王妃に向かって、人でありながら卵を生むというのは不吉であり、卵を捨て去るよう に言った。しかし王妃は卵を捨てることに忍びず、卵を絹に包んで宝物と一緒に箱に入れて海に流した。やがて箱は金官国に流れ着いたが、 その国の人々は怪しんで箱を引き上げようとはしなかった。箱はさらに流れて、阿珍浦(慶州市)の浜辺に打ち上げら れた。そこで老婆の手で箱が開けられ、中から一人の男の子が出てきた。このとき、新羅の赫居世居西干の39年(AD153年)であったという。 老婆がその男の子を育てると、成長するにしたがって風格が優れ、知識が人並みならぬものになった。 <三国史記>
丹波国の系図
天火明━━━┓
      ┣━①天香語山━━②天村雲━┳③天忍人━④天登目━⑤建登米━⑥建宇那比━⑦建諸隅
天道日女━━┛             ┃                         
                    ┗━天忍男━世襲足姫

 脱解は多婆那国(丹波国)の皇子のようである。丹波国は饒速日尊の系統である。生誕直後新羅に漂着しているようなので、孝霊天皇とほぼ同世代と考えられる。⑤建登米命が孝安天皇と同世代と考えられるので、ここでいう丹波国王は建登米命ではあるまいか。

 新羅王は神武天皇の兄稲飯命の子孫と伝わる。この当時大和朝廷は饒速日尊の系統で統一されている。しかし、稲飯命の系統は饒速日尊の系統とは異なるのである。大和朝廷は新羅王に饒速日尊の系統の血を入れようとしたのではあるまいか。

 丹波国は饒速日尊が最初に統一した国で、以降饒速日尊の系統が国を治めているのである。丹波国の王の系統の人物が新羅国王になるということは饒速日尊の系統の血を入れるということを意味しているのである。偶然とも考えられるが、ここでは、故意にそう仕向けたと考えてみよう。

 大和朝廷は、新羅が次第に巨大化するのが気になり、饒速日尊の系統の人物を新羅の王家に入れようとしたのである。丹波国王建登米命の皇子を朝鮮半島に贈ったと考えられる。丹波国王の皇子を直接新羅に送り込んでも、新羅の王家に入り込むことは不可能であろう。おそらく、新羅王の信頼が厚い大臣の瓠公と諮ったのではないかと推定する。

 ホツマツタエの記述

 天鈴三百二十六年正月七日天津日嗣を受け継いで日本足彦国諱押人が高御位につく。大典の華やかさを民に拝ませて、磯城長葉江命の娘長姫を大典(おお)侍(すけ)后(きさき)、十市五坂彦命の娘五坂姫を内侍(うち)后(きさき)とする。長橋で居住して天照大神の定めた典範に従って総数十二の后である。
 即位二年都を室の秋津島宮に定める。
 即位十一年村雲命が稲の伝染病が広まっていると報告があり君は秡ひ風ふの祀りを行った。稲の疫病が収まり豊作となり、豊年万作の祭りをした。
 即位二十六年春二月十四日、春日君の押姫を入れて内宮とした。歳は十三歳であった。
 孝昭天皇死後三十三年八月十四日天皇の亡骸を博多の原に埋葬した。仕えた典侍達に殉死する者もあり一緒に埋葬し、残る三人も皆を追って殉死した。
 天御子が即位して五十一年、后が御子を生んだ。諱根子彦大日本太瓊と申し上げる。
 即位七十六年根子彦尊が世継ぎの御子となる。歳二十六歳である。君の治世も百二年が過ぎる正月九日に罷かられた。御歳は百三十七歳、御子は喪に入り四十八日若宮に居て政治を司った。九月三日玉手丘に送り殉死の五名も共に埋められて神となられた。

 東日流外三郡誌の記録

 孝安天皇即位61年、東日流丸一族は大挙して大和に進駐し天皇の空位を四十一年間も続けさせた。其の結果七代孝靈天皇がやっと即位する事となる。

 神皇紀の記述

 孝安天皇80年(168)九州西北諸島の国賊残党が強い集団となり侵攻、暴挙を繰り返した。九州は全く乱れ事態が最悪となった。天皇は元帥となり、弟の武彦太命と吉備蘇彦命を副将軍として中国・九州の兵を招集し三年七月でやっと悉く制定し凱旋した。

 孝安天皇80年はAD168年である。九州西北地方で反乱が起こったという記述がある。九州西北地方と言えば球磨国が考えられる。球磨国はこの時点で大和朝廷の支配下ではなかったと思われる。降水量の変遷を見てもAD150年代はかなり降水量が少なく、危機的状況にあったことは明らかである。作物が取れず、庶民の生活がかなり苦しかったと思われる。瀬戸内地方でも略奪集団が出没するようになっていた。九州地方でも治安がかなり悪化していたと思われる。

 球磨国は大和朝廷の支配下に入ってはいなかったが、譲位後の綏靖天皇の活躍により、良好な関係は維持していたようであるが、何れ大和朝廷の支配下に下ることになるという危機感を持っていた。球磨国は、大和朝廷の支配を受けていたのでは生活は楽にならないと、周辺諸国を誘惑し、九州に球磨国を盟主とする独立国を作ろうとでも考えたのではないだろうか。

 球磨国に従う諸国を率いて孝安80年(AD168年)に大和朝廷に対して騒乱を起こしたと考えられる。大和朝廷はその鎮圧に孝安83年(AD169年)までかかったのである。翌年の孝安84年(AD170年)には、孝霊天皇を山陰地方に派遣(孝霊45年)している。

 九州西北地方の乱と、孝霊天皇の山陰地方への訪問は連続しているので関係があると考えられる。

 出雲の神宝検校の時、朝廷の使者を出迎えた飯入根が、使者に対して、「兄の振根が筑紫に祭祀の打ち合わせに行っている」と言っている。この当時、筑紫と出雲が繋がりがあったことを意味している。球磨国の本拠地と考えられる方保田遺跡からは山陰系の土器が出土しており、両者がつながっていたことは考古学上からも裏付けられる。

 球磨国と出雲国が連合した可能性が考えられる。元来球磨国と出雲国は立場が異なり、協力することはほとんど考えられない。しかし、不作から来る生活の苦しさが両者を近づけたのかもしれない。

 大和朝廷が両者に同時に対応していないことから考えて、球磨国と出雲国が協力関係になりかけた時に、球磨国連合と大和朝廷との戦いが始まったのであろう。

 球磨国は生活に苦しんでいる周辺諸国に働きかけ、それらの諸国の盟主となり、大和朝廷に対して反乱を起こしたのである。戦いは3年間にも及んだ。体制が不利になりかけた時、大和朝廷も頭が上がらない出雲国に協力を願い出たのでなないだろうか。この当時出雲国も不作で苦しんでおり、球磨国連合と協力関係を結ぶことによってこの難局を乗り切ろうと考えたのかもしれない。

 3年7カ月の戦いの末、大和朝廷は球磨国を降伏に追い込んだ。球磨国の背後に出雲が存在していることを知った孝安天皇は、孝安84年(孝霊45年=AD170年)皇太子楽楽福命に、出雲国の調査に向かわせたのである。

 大和朝廷はこの戦いの後、伊都国王の権限を強化し、九州地方一帯を管轄することになったのであろう。

東日流三郡誌の記録に関して

 東日流三郡誌は孝安61年に孝安天皇が崩御し、孝霊天皇即位まで41年間空位であったことを伝えている。この記録はどう解釈すればよいのであろうか。他の記録は孝安天皇61年以降の孝安天皇の行動を伝えているので、孝安61年に孝安天皇が崩御したというのは真実ではないと思われる。それなら、この記事は全くのでたらめかというとそうでもないようである。

 後漢書東夷伝の記録

 「桓帝と霊帝の間(147年~188年)に倭国は大いに乱れ、互いに攻撃しあって年月をすごし、主たる者がいなかった。」

 この記事は倭国大乱時天皇が空位であったことを意味している可能性がある。東日流三郡誌の記事はちょうど該当するその時期に天皇空位を伝えているのである。

 孝安天皇と孝霊天皇の間は綏靖天皇から懿徳天皇の直系相続化と孝昭・孝安天皇の生誕地からの年数計算の関係で孝霊天皇以降と干支のずれが11年生じている。それを、古代史の復元では孝安天皇の在位期間を11年伸ばすことで修正したと考えているが、このとき、空位があった可能性はある。

 孝霊53年からは、孝霊天皇自身が主体的に行動している伝承が残っているので、孝霊53年には皇位継承をしていたと思われるが、この年以前には孝霊天皇は山陰にいたのである。

 孝安天皇崩御の報を聞いて、皇太子楽楽福命は大和に帰還し、孝霊天皇として即位したと推定しているが、山陰での事情によっては、すぐに帰れなかった事情もあり、その場合、数年間の空位が発生することになる。空位の年数の特定はできないが、空位があった可能性はあるといえる。

 この状況を東日流三郡誌はオーバーな表現をしているのかもしれない。

 神皇紀の孝安80年は孝安天皇が元帥として親征した年を表しており、最悪の状態になるまでに数年かかっていると思われる。天皇自身が元帥となって親征するのは余程のことであり、騒乱事態が発生したのはその数年前であろう。降水量変化のグラフをみると、AD160年頃が干ばつのピークとなっている。この頃より、騒乱が起こっているのではないだろうか。三郡誌にいう孝安61年はAD158年後半であり、干ばつのピークの頃にあたっている。この頃より、九州で騒乱が起こるようになり、球磨国はそれに乗じて、球磨国連合を形成していったのであろう。

 孝安天皇も騒乱初期は使者や将軍を送ることによって、騒乱を収めようとしていたのであろうが、孝安80年には九州全土に広がるような大騒乱に発展したために、孝安天皇自身が親征することになったのではあるまいか。

 後漢書で「桓帝と霊帝の間に倭国は大いに乱れ・・・」とあるので、倭国大乱は桓帝の在位中と考えられる。桓帝は167年まで在位していたので、倭国大乱が勃発したのは167年以前となる。孝安80年が168年なので、それより少し前となり、この乱の勃発年が倭国大乱の勃発年と考えられる。東日流三郡誌の孝安61年はAD158年なので、この大乱勃発の条件を満たしている。

 魏志倭人伝の記事「倭国は元々男王を立てて七、八十年間ほど統治していましたが、その後内乱が起こり・・・」によると、大和朝廷成立後70~80年後に大乱が勃発したことになる。大和朝廷成立がAD83年で、AD158年が大乱勃発年とすると、その間76年でまさにこの条件を満たしているといえる。

 大乱勃発が孝安61年(AD158年)で、孝安80年(AD168年)に孝安天皇親征があり、孝霊45年(AD170年)から出雲との戦いが始まったと考えられる。

 後漢書や東日流三郡誌の記事は都に天皇が不在の状態を指しているのかもしれない。

 東倭の状態

 東倭に所属する瀬戸内海沿岸地方と山陰地方の実態はどうであろうか。この領域は出雲の自治にまかされており,朝廷は技術者を派遣している程度で 祭祀形態にはほとんどかかわっていなかった。

 出雲王朝、出雲国造家、天皇系図の照合 

天皇 出雲王朝 出雲国造家
大国主 天穂日命 饒速日尊
鳥鳴海 天夷鳥命 猿田彦
事代主
神武天皇 国忍富 津狭命
綏靖天皇
安寧天皇
懿徳天皇
佐波夜遅奴美 久志和都命
孝昭天皇 甕主日子 知理命
孝安天皇 多比理岐志麻流美 毛呂須命
孝霊天皇
孝元天皇
美呂浪 出雲振根
飯入根命
開化天皇 布忍富鳥鳴海 鵜濡淳
崇神天皇 天日腹大科度美 襲髄
10 垂仁天皇 遠津山岬多良斯 野見宿禰

 第6代孝安天皇の時代は、出雲国造家では毛呂須命、出雲王朝家では多比理岐志麻流美命であったと思われる。この時代は祭政一致の時代なので、東倭の実質的支配者は出雲国造家であった。東アジアが寒冷期に入ったAD140年頃に毛呂須命から出雲振根が出雲国造家を引き継いだ。

  AD140年頃は、寒冷期に入り作物が取れにくくなった時期である。地方地域は中心となって支配する組織もなくそれぞれのムラが朝廷の技術指導の下緩やかに結合していたと思われる。この時期、鏡などの宝器は共同体の持ち物になっていて墓も副葬品がほとんどない状態であり、そういった地方支配者がいたとは思えない。 通常反乱が起こると、その地方の有力者を襲いその支配権を強奪するというものであるが、その対象となる支配者はいなかったのである。 この場合、あるムラあるいは集団が生活の苦しさに負けて、周辺のムラから食料などを強奪するということが考えられる。 そのような集団は一度そのようなことに手を染めてしまえば、次々とそれを繰り返すことになる。 この地方に存在するさまざまな鬼伝承は、その地方の人々を苦しめているというもので、まさにこれらの略奪集団と重なる。 これらの人々を鬼として言い伝えたものではないかと思う。このようにして、出雲中心域以外の瀬戸内海沿岸地方及び山陰地方で略奪集団(鬼)が出没するようになり、山賊だけではなく海岸沿いに高地性集落が多いことから、桃太郎の鬼ヶ島の鬼退治のように、この鬼たちはどこかの島を根城とした海賊のようなものも含まれるであろう。後の瀬戸内水軍はその子孫かもしれない。

 祭祀の強化

 出雲国造家を継承した出雲振根はこのような状況を改善しようとして、祭礼強化でそれを乗り切ろうと考えたと思われる。神の力が強かったこの時代は祭礼強化することは人心の安定につながったのである。しかも出雲の国は神祖と呼ばれている素盞嗚尊の聖地であり、その祭礼を強化することは人心の安定に 絶大な効果があったのである。

 神宝検校

 神宝検校

日本書紀崇神60年の記事

「天皇が武日照命が天から持ってこられた神宝を出雲大神の宮に納めてあるがこれをみたい」といったので勅使の武諸隅を遣わして奉らせた。出雲振根が神宝をつかさどっていた。出雲振根は筑紫に出かけて いって留守だったので,弟の飯入根が皇命を賜り、弟の甘美韓日狭と子の鵜濡渟とにつけて奉った。(これを知った振根は飯入根を殺した。)
 甘美韓日狭と鵜濡渟は朝廷に参って詳しくその様子を報告した。朝廷は吉備津彦と武渟河別とを遣わして出雲振根を殺させた。
 この後,出雲は出雲大神を祭るのをやめた。しばらく祭礼をおこなわなかったが,丹波の氷上の氷香戸辺という人の子が不思議な歌を歌っているのを聞いて鏡を祭らせた。」

 ここに記録されている出雲大神の神宝とはいったい何であろうか。出雲大神の宮とはどこであろうか。この当時出雲地方最高の聖地は熊野山であり、その宮が熊野大社である。おそらく熊野大社の当時の宮のどこかに保管されていたのであろう。現在熊野大社に熊野銅鐸と呼ばれる銅鐸が伝わっている。この銅鐸はこの記事の神宝の一つかもしれない。

 大己貴命が青銅器をかき集めてそれを出雲地方の何箇所かに保管していた。それが、荒神谷であり加茂岩倉であるが、他にも保管地があったであろう。その中の1つが熊野大社であったと思われる。熊野大社のどこかに多量の青銅器が保管されており、天皇はそれを確認しようとしたのであろう。

 神宝検校の時期

 この記事は崇神天皇60年の記事であるが登場人物がばらばらの年代の人物と推定される。

 武諸隅・・・この人物は孝霊天皇と同世代の人物である。

 三島田神社 (京都府京丹後市久美浜町金谷)由緒
人皇七代孝靈天皇の御宇、武諸隅命(海部直の祖)生嶋に大山祇命・上津綿津見命・表筒男命を祀りて三嶋神社と稱し奉り武漁嶋に中津綿津見命・中筒男命を祀りて矢田神社と稱し奉り、田村庄矢の谷丸田山に下津綿津見命・底筒男命を祀りて丸田神社と稱し奉る。

海部氏系図 

                      ┏━天忍人━━━━天登目━━━━建登米━━━建宇那比━━━建諸隅━━━━倭得魂彦
素盞嗚尊━━天火明┓      ┏━天村雲━┫   
   (饒速日尊)┣━天香語山━┫     ┗━天忍男┓     
高皇産霊神━天道媛┛      ┗━高倉下      ┃
                           ┣━━世襲足姫┓
大山祇命━━鴨建角身━玉依彦━━━━剣根命━賀奈良知姫┛      ┣━━孝安天皇━━━孝霊天皇
                                  ┃
                 神武天皇━━綏靖天皇━━━孝昭天皇┛

 吉備津彦・・・吉備津彦には複数の人物が該当するが、倭の大乱時に出雲に侵入した吉備津彦と思われ、この人物は孝霊天皇の兄の子である。

 出雲振根・・・日本書紀では崇神天皇と同世代になっているが神社伝承では孝霊天皇と同世代である。

 武渟河別・・・四道将軍の一人で開化天皇の兄弟の大彦の子であり、崇神天皇と同世代である。

 このようにこの伝承に登場する人物は武渟河別以外はすべて孝霊天皇と同時代に生存した人物と考えられる。倭の大乱の原因となったものと考えられ、孝霊天皇は倭の大乱の後半の人物なので、この神宝検校を行った天皇は孝安天皇と考えられる。

 孝昭天皇までは出雲系の神社の創建を行ったり、出雲の人々を関東地方に派遣するなど、出雲を重視した施策が見られたが、孝安天皇の時代になって、そういった施策は影を潜め饒速日尊系の神社の創建ばかりとなってきた。こういった点に出雲国の人々の反発もあったが孝安天皇はその意見を無視していたのであろう。そういった点もあり、孝安天皇は出雲国の行動を大和への反抗の準備と考えたとしても不思議はない。

 津軽外三郡誌や神皇紀では、孝安天皇の時代に騒乱が起こっていることを伝えている。この騒乱と出雲との関係が考えられる。騒乱の相手は西九州と伝えられているのでおそらく狗奴国(球磨国)であろう。狗奴国の本拠地と考えられる山鹿地方に遺跡にはこの時期の山陰系の遺物の出土が見られ、狗奴国と出雲国とのつながりが考えられる。

 孝安天皇は狗奴国との戦いの中で、狗奴国が出雲国とのつながっていることを知り、出雲国の調査をすることになったのではあるまいか。出雲国を調査すると、出雲に多量に保管されていると思われる青銅器を使った大々的な祭祀を祭祀を計画していることを知り、これはまずいと思ったと考えられる。

  素盞嗚尊によって統一された旧倭国地域が,出雲を盟主としてまとまり,朝廷に対して反逆することが考えられるのである。特に九州系の素盞嗚系祭器を使うということは九州地方の豪族とのつながりが深くなり、朝廷の祭祀が九州方面でできなくなる。さらには九州が出雲について日本国から独立する可能性が考えられた。九州系の素盞嗚系祭器を使うのは極めてまずいと思った第6代孝安天皇は,出雲が九州系の素盞嗚系祭祀を強化するのに,深い危惧を持った。そして,なんとしても,この祭礼をやめさせようと,勅使を派遣し祭器を没収しようとした。これが日本書紀崇神60年の記事であろう。

 神宝検校は崇神60年の記事となっているが、登場人物から推察して、倭の大乱直前の時期と考えられる。では、一体いつのことであろうか。孝安80年に孝安天皇が九州の騒乱を平定している。この戦いは神皇紀によると3年7カ月かかっているので孝安77年に勃発していることになる。神宝検校はその直前と考えられるので、孝安75年(AD165年)頃と推定する。

 勅使を迎えた出雲は,その時,祭主の振根が祭祀の打ち合わせに筑紫へ赴いて留守であった。
 勅使は祭器を没収するといっても素盞嗚神が絡んでいるために出雲が素直に随うとは思えないので、 「天皇が祭器を見たいと言っているから見せるように」と言うことにした。
弟の飯入根に
「孝安帝が祭器を見たいというので見せるように」と言った。
飯入根は「ただ今、振根は留守にしているので、またにしてください。」
すると勅使は「孝安帝はその祭器をすぐに見たいといっておられる。すぐに見せるように」
飯入根には朝廷が祭器を没収に来たということは分かっていた。しかし、彼は朝廷と揉め事を起こすのは東倭の将来のために良くないと考えて、 祭器を渡してしまった。筑紫から戻ってきた振根は「なぜ渡したんだ。朝廷が祭器を没収する意図を持っていることに気づかなかったのか。」 と怒った。振根はこの時期頻発していた鬼の出没に対してあくまで祭礼強化で望もうとし、素盞嗚尊の武力なしでの国家統一事業に習い鬼の平定に武力を使おうとはしなかった。

 孝安天皇は祭器を没収したことと、出雲振根が大和に対して敵愾心を持っていないという説明に対して納得し、以降大和朝廷の出雲に対する圧力は止まった。

 孝安天皇の危惧

 孝安天皇はそれまでの天皇と違い出雲関連の神社の創祀を行っていないのは、孝安天皇の即位したころより、出雲が新羅に接近していったために、孝安天皇の気持ちが出雲から離れていったのであろう。それが、出雲をますます朝廷から離れさせたのである。

 出雲は当時の東倭領域の盟主国である。この当時の東倭の領域は現在の中国地方と北四国地方である。出雲国が祭祀を強めるとこれらの国々が出雲を中心としてまとまるだけではなく、素盞嗚尊信仰の強い北九州地方まで東倭に取り込まれるようになると朝廷としては取り返しのつかないこととなるのである。

 東倭連合国の心の支えとなっているのが素盞嗚尊信仰である。東倭連合をさせないためには素盞嗚尊信仰を弱体化させなければならない。素盞嗚尊祭祀を弱体化させるためには、出雲にある神宝の没収はどうしても必要だったのである。

 そこで、AD165年頃孝安天皇はこの神宝を没収する目的で、使者を派遣した。これが日本書紀崇神60年の記事である。

 

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