伽耶諸国と新羅

 新羅本紀によるとAD211年より、伽耶諸国と新羅の戦いが何度も行われている。伽耶諸国の盟主である金官加耶国王である首露王は、この時現年齢で19歳になっており、戦いを指揮することができる年齢である。どのような成り行きで戦いが行われたのであろうか。推理してみよう。

 新羅と伽耶諸国の戦いの記録

AD209年 脱解王17年 倭人が木出島に侵入し、迎え撃った羽烏が戦死して敗れた。
脱解王18年 百済が辺境を侵したのでこれを防いだ。
AD210年 脱解王19年 百済が蛙山城を落とした。
脱解王20年 蛙山城を奪回した。
AD211年 脱解王21年 阿食吉門が伽耶の軍と黄山津の入江で戦い千余名を捕獲する
AD212年 脱解王23年 脱解王没
婆娑王元年 婆娑、新羅第5代国王に即位
AD213年 婆娑王2年 卑弥呼親征
AD214年 孝元57年 孝元天皇崩御
開化元年 開化天皇即位
AD215年 婆娑王6年 百済が辺境を侵した
AD216年 婆娑王8年 西方の百済、南方の伽耶に対する国防強化を図った。加召城(慶尚南道居昌郡加祚面)・馬頭城(慶尚南道居昌郡馬利面)を築いた。
AD219年 開化10年 天日矛来日 球磨国が反乱をおこす。艮神社(広島県沼隈郡)伝承。
婆娑王15年 伽耶の賊たちが馬頭城を包囲したのでこれを打ち破った
AD220年 婆娑王17年 伽耶人が南の辺境を襲った。王は勇士五千名でこれを破った。捕虜や鹵獲品が甚だ多かった
AD221年 婆娑王18年 伽耶を征伐しようとしたが王が謝罪したので之を許す。
AD223年 婆娑王23年 婆娑尼師今は音汁伐国を討伐し音汁伐国、悉直谷国・押督国(慶尚北道慶山市)は新羅に服属することとなった。
AD225年 婆娑王25年 早くも悉直国は反乱したために討伐し、その遺民を南部へ移住させた。
婆娑王26年 百済が和を乞う
AD226年 婆娑王29年 南方へ大征を行ない、比只国(昌寧郡)・多伐国(大邱広域市)・草八国(陜川郡)を併合した。
AD228年 婆娑王32年 婆娑王没
祇摩王元年 祇摩、第6代新羅王に即位
AD229年 祇摩王2年

使者を新羅に派遣して修交した(百済本紀)

AD230年 祇摩王4年 春2月、伽耶が南の辺境を侵すので、7月に黄山河(洛東江)を渡ったが、伏兵の待ち伏せを受けた。王はこれを突破して退却した。
祇摩王5年 将兵を派遣して伽耶に攻め入らせる。王は一万名の軍を指揮したが、伽耶の守りが堅く引き返した。
AD233年 祇摩王10年 倭人が東辺を侵す。倭女王卑弥呼、新羅を討つ
AD234年 祇摩王12年 倭国と和解

 戦闘開始から35年間にわたる長い戦いである。

 大和朝廷は新羅を警戒していたが、第4代新羅王脱解の努力により友好関係を保つことができた。しかし、204年帯方郡を建設した公孫康は、倭に対しても帯方郡に属すように圧力をかけてきたと思われる。新羅王脱解はそれを受けたのであろう。中国側に倭と韓が帯方郡に属すと記録されたのもこのためと思われる。 脱解としても折角友好関係を結んだ倭との関係をこじらせるのは望まなかったと思われるが、武力を背景にした圧力では領民のことを考えてやむなく承諾したのであろう。

 朝廷としては、勝手に倭の一領域が帯方郡に属すのは認めがたいことであり、新羅にやめる様に交渉したが、新羅は朝廷の指示に従わなかった。

 AD209年、卑弥呼は新羅と交渉しても埒が明かないので新羅を攻めさせた。倭人が木出島(韓国蔚山広域市)に侵入し、迎え撃った羽烏が戦死して敗れた。蔚山は釜山より70km離れており、この時の倭兵は、対馬から金官加耶国を経由し蔚山に侵入したと思われる。金官加耶国王首露王はこの時現年齢で17歳になっており、成人していた。この時、金官加耶国に後の任那日本府の前身のようなものができたのであろう。その指揮者が首露王だったと思われる。この後、首露王が指揮して新羅と戦うようになるのである。

 211年、朝廷は伽耶(任那日本府)に新羅を討つように命じた。これ以降新羅と伽耶の戦いが始まったと考える。

 212年、脱解が没した。次の第5代新羅王は婆娑である。正式には婆娑尼師今(はさにしきん)である。脱解の系統ではなく、赫居世の朴氏の系統である。倭との友好重視で倭人の脱解を王としたが、結局倭との友好関係はこじれてしまい、倭人が王になる意味はないということを、新羅の人々は理解した。

 新羅国独立宣言と卑弥呼新羅親征

 こうなると、新羅国を倭国から独立させようという流れが起こってくる。王家の系統から倭人を排除し、新羅王を朴氏の系統に戻すこととなった。朴氏の系統の第3代新羅王儒理尼師今の長子の逸聖(後、第7代逸聖尼師今として即位)が立てられようとしたが、弟の婆娑のほうが聡明であったため群臣に推挙され、婆娑が第5代新羅王として即位した。新新羅王婆娑は倭国に対して、新羅国の独立を宣言したのであろう。

これに対して倭国も黙ってそれを承認するわけにもいかず、倭女王卑弥呼自身が213年に新羅に対して戦いを挑んだのであろう。これが、日本書紀で神功皇后の三韓征伐として書かれることになった事情と考える。

 日本書紀の神功皇后の条、倭国に服したという新羅王波沙寐錦(はさむきん)は第5代新羅王婆娑のことと思われる。しかし、婆娑は212年~228年の間に在位していた新羅王である。新羅王波沙寐錦を攻めたのは同じ女王でも時代から考えて卑弥呼ということになる。卑弥呼の事績が神功皇后の条に挿入されたものであろう。実際に日本書紀は神功皇后を卑弥呼と考えている。神功皇后が新羅へ出陣した年の干支は辛巳である。卑弥呼の時代で辛巳の年は213年で、まさにこの新羅と倭との争いの最中に重なり、その時の新羅王は婆娑である。しかし、新羅本紀の213年には倭との戦いの記事はない。

 卑弥呼の新羅親征があったのはAD213年、婆娑王2年である。婆娑王は即位直後に独立宣言したために、大和朝廷の強い意向を示そうと卑弥呼自身が親征したものと考えられる。卑弥呼の戦術は相当優れたものであり、婆娑王はたちまち敗れ、独立を撤回したのであろう。卑弥呼47歳の時である。 

 この卑弥呼の親征は成功したようで、以降、AD215年まで戦いの記録がなく、新羅はおとなしくしていたようである。婆娑王はその後着々と次の準備をしていたのである。

 AD216年、加召城(慶尚南道居昌郡加祚面)・馬頭城(慶尚南道居昌郡馬利面)を築き、西方の百済、南方の伽耶に対する国防強化を図った。そして、卑弥呼を動けなくするために、球磨国に手をまわしたのである。

 球磨国反乱

 新羅としても伽耶諸国と百済の背後にいるのは卑弥呼の指揮する大和朝廷であることは分かっていた。卑弥呼に直接出てこられたら、さすがの婆娑王も手が出せなくなるので、大和朝廷の最大の弱点を突くことを考えた。

 日本列島内で球磨国だけは、この時点で、まだ朝廷に所属していなかった。倭の大乱後、伊都国王が幅を利かせていたので、おとなしくしていたようであるが、朝廷に所属しているわけではなかった。度重なる朝廷の圧力には辟易するものを感じており、反乱をおこす機会を狙っていたのである。

 その球磨国に新羅が使者を送り、反乱をおこすように背後から糸を引いたのである。2か所で同時に反乱を起こせば、さすがの卑弥呼も新羅には手を出せないだろうとの考えであった。

 球磨国が反乱を起こしたのは、おそらくAD117年頃であろう。神功皇后の時も新羅と球磨国はつながっていた節がある。この時も新羅と球磨国がつながっていたと思われる。倭の攻撃に手を焼いていた新羅王婆娑は、球磨国に使者を遣わし、反乱を起こすように煽ったと思われる。球磨国はこの時まだ、大和朝廷の支配下に下っていなかったので、同じような境遇にある新羅に同調し、このタイミングで反乱を起こしたのである。

 艮神社(広島県沼隈郡沼隈町下山南1126)伝承
  「孝霊天皇皇子吉備武彦開化天皇10年に熊曽新羅王と戦い給う時、左の眼を射る。熊曽は大隈・薩摩なり、筑紫にては別名を豊武彦之命という。」

 この伝承でも球磨国王は熊曽新羅王と伝承されており、球磨国と新羅国は大変な友好関係にあったことが分かる。球磨国と新羅国は婚姻関係にあったものと考えられる。

 朝廷としてみれば、新羅との戦い以上に熊襲との戦いはまずいものがあった。早速大軍を送ったが簡単に収集しない状態となった。

  阿蘇盆地に入る入口にあたる大分県の大野川上流域・筑後川上流域・熊本市周辺から終末期(三世紀前半)の実践的鉄鏃が多数見つかっている。しかも,そのほとんどが住居跡から見つかっているのである。これは,当時,これらの地が臨戦態勢にあったことを意味している。
 この時期鉄製武器がこれほど集中出土している領域は他には存在しない。この時期の日本列島で戦乱が起こった地域はまずこの地域のほかにはないであろう。魏志倭人伝の邪馬台国と狗奴国の戦いの舞台と思われる。
 大分県の二カ所からは,近畿・瀬戸内系の鉄鏃が,熊本市周辺からは福岡県と同じ配分の鉄鏃が見つかっていることから,大分県の二カ所は大和朝廷の将軍が直接やってきて,熊本市側は伊都国王の派遣した将軍がやってきたのではないかと考える。実際、大野川上流域・筑後川上流域は大和に近い熊本県(球磨国)東北部から球磨国に侵入する通路に当たる位置である。朝廷軍・伊都国軍は阿蘇盆地に三方向より攻め込んだことが想像される。熊曾側の抵抗は,相当,激しかったようであるが,次第に追いつめられ,現在の八代市あたりまで退却したようである。
 艮神社伝承の吉備武彦とは孝霊天皇皇子の稚武彦であり、彼が、熊曽征伐におもむいているということになる。AD160年生誕の稚武彦はこの時59歳と思われる。稚武彦は大分県側から熊曽を攻めた将軍の一人であろう。この伝承は大野川流域・筑後川流域の鉄族の出土時期と重なっている。

弥生終末期(三世紀前半)の鉄鏃集中出
土地域と朝廷軍の予想進路図

 この時の球磨国との戦いがどのように終結したかは伝えられていないので不明であるが、球磨国の主力は八代方面に退却した状態で一時的に和平が成立したのであろう。この後、再び戦いが始まるのである。

 伽耶諸国新羅に降伏

 球磨国が大和朝廷に対して反乱を起こした機会を狙って、新羅国は再び独立を宣言し、領土拡張を図った。伽耶諸国はその後も新羅を攻撃したが、婆娑王の戦略が優れており、AD218年遂に伽耶諸国は新羅に対して降伏した。

 AD223年次のような出来事が起こった。

 音汁伐国(慶尚北道蔚珍郡)と悉直谷国(江原道三陟市)とが境界争いの調停を婆娑尼師今に願い出たので、婆娑尼師今は金官国の首露王を呼び出して審議させた。 首露王の判定で係争地は音汁伐国に帰したが、直後に音汁伐国と不和を生じた。これは、仲裁の審議を行った首露王を歓待しようとして六部に命じて酒席を設けさせ たところ、五部は首長の伊?が饗応したが漢祇部だけが位の低いものが当たったため、首露王は奴僕を用いて漢祇部の首長を殺して帰国し、奴僕は音汁伐国王のもと に逃げ込んだものである。婆娑尼師今は音汁伐国王に奴僕の身柄引渡しを求めたが、音汁伐国王は送らなかったため、婆娑尼師今は音汁伐国を討伐することになった 。この討伐により音汁伐国は投降し、あわせて悉直谷国・押督国(慶尚北道慶山市)も服属することとなった。104年(AD225年前半)7月には早くも悉直国は反乱したために討伐し、 その遺民を南部へ移住させた。こうした新羅の対外戦争の成功状況を見て、105年(AD225年後半)に百済の己婁王は新羅に対して和睦を求めてきた。108年(AD226年)には南方へ大征を行ない、 比只国(昌寧郡)・多伐国(大邱広域市)・草八国(陜川郡)を併合した。

 金官加耶国の首露王は新羅に降伏し、婆娑王の指示の上に動いている様子がうかがわれる。婆娑王は周辺諸国を次々と併合させており、婆娑王の強さは相当なものがあり、さすがの百済も新羅に対して和睦の道を選ばざるを得なかったようである。そして、遂に伽耶諸国の一部も新羅に併合されることになった。

 伽耶諸国・倭国の反撃

 しかし、新羅の天下も長くは続かなかった。AD228年新羅国を指揮してきた聡明な婆娑王が死去した。第6代祇摩王が即位したが、婆娑王程の才覚はなかった。AD229年百済は使者を新羅に派遣して修交したが、この時、祇摩王は婆娑王程の才覚はないことを見抜いた。

 その情報を得た伽耶諸国は早速新羅に対して反乱を起こした。それがAD230年の記事である。祇摩王の才覚では伽耶諸国に勝てないのであった。

 球磨国の反乱をやっとのことで鎮めた大和朝廷は、233年新羅を攻めた。大和朝廷には勝てないと悟った祇摩王は、朝廷の出す条件(帯方郡と手を斬り、毎年朝貢すること)を承諾し、和解が成立した。

◯朴氏の王
       1     2    3    5    6
       赫居世━━━南解━━━儒理━┳━婆娑━━━祇摩
       144     174    184  ┃ 212    228   
                     ┃ 7    8
                     ┗━逸聖━━━阿達羅
                       239    249     
◯昔氏の王
                  4         9          11    14
                  脱解━━━仇鄒━━━伐休━━┳━骨正━┳━助賁━┳━儒礼
                  201         264   ┃    ┃ 287  ┃ 314
                                ┃    ┃ 12  ┃        15
                                 ┃    ┗━沾解 ┗━乞淑━━━━━基臨
                                 ┃      296           321    
                                 ┃      10           16 
                                 ┗━伊買━━━奈解━━━于老━━━━━訖解
                                       270           327
◯金氏の王
                                       13           18
       金閼智━━━勢漢━━━阿道━━━首留━━━都甫━━━━仇道━┳━未鄒━━━大西知━━━━実聖
                                     ┃ 303           402   
                                     ┃      17      19         20    21
                                     ┗━末仇━━━奈勿━━━┳━訥祇━━━━━━━━慈悲━━━炤智
                                            356    ┃ 417         458    479      
                                                 ┃                22
                                                 ┗━末斯━━━━━━━━習宝━━━智証
                                                                  500     
日本
             8    9    10     11       12    13                  17
             孝元━━━開化━━━崇神━━━━垂仁━━━━━━景行━┳━成務               ┏━履中
             186    214    244     278       298  ┃ 325                ┃ 427
                                        ┃      14   15    16  ┃ 18
                                        ┗━日本武尊━仲哀━━応神━━━仁徳━╋━反正
                                               328   367    397  ┃ 433
                                                           ┃ 19
                                                           ┗━允恭
                                                             438
百済
                                         7
                              5      6  ┏━沙伴              15    ┏━阿辛        
                             ┏肖古━━━━仇首━┫ 289            ┏━枕流━━┫ 392
          1    2    3    4   ┃255     279  ┃ 11     13    14   ┃ 384   ┃ 18 
扶余王━━尉仇台━━温祚━━━多婁━━━己婁━━━蓋婁━━┫          ┗━比流━━━照古━━━貴須━┫ 16   ┗━直支  
          163    186    211    236   ┃           324    346    375  ┗━辰斯    405     
                             ┃ 8    9    10    12         385                 
                             ┗━古爾━━━責稽━━━汾西━━━契  
                               289    315    321    345      

 

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