穴師山山頂の様子

 ここが饒速日御陵と思われる山頂部である。おそらく古代においては山頂部に何か墓を意味する構造物があったと思われるが,戦国時代に穴師山城があったようで,残念ながら,山頂部は2-3m程削られて,平坦化していると思われる。

 山頂付近には10~20cm程の大きさの石がちらほらと見える。御陵を形成していた葺石ではないかと思われる。山頂部はこれらの石で石積みをしていたのではないかと推定するも確証はない。

     
 山頂(雄岳)の三角点付近  山頂標識 山頂付近の葺石と思われる石 

 夏至の大平

 山頂の南側に30m×60m程の平坦部がある。ここが穴師兵主神社の上社があったと言われるゲシノオオダイラ(夏至の大平)と呼ばれている場所と思われる。夏至の大平は夏至の日に山頂からの日の出を見ることができる位置関係にある。夏至の大平はかなりの平坦地なので,人工的に造成されたものと思われる。ここに穴師兵主神社の上社があったと思われるが,大神神社では三輪山が本殿で神社の社殿は拝殿とされているが,それと同じく,山頂が本殿で社殿は拝殿だったのではないかと考える。 

     
 夏至の大平先端部 山頂側から夏至の大平全体をみる  夏至の大平から山頂を望む

雌岳

 雄岳山頂から北北東に200m程平坦な道がつながっており,その先に雌岳が存在している。雌岳は周辺よりやや高くなっている程度である。木がなければ雌岳からは雄岳山頂と三輪山が同時に見えるはずである。

   
 雄岳から雌岳への道  雌岳山頂部

 国土地理院の地図は等高線が10m間隔なので,詳細を理解しようと思えば,もっと細かい標高差の等高線が必要となる。穴師山山頂付近で様々な地点をGPS測量し,5m間隔の等高線を割り出した。その結果が下の図である。

 穴師山山頂の三角点の位置を原点とし,東西を水平軸,南北を縦軸として10m間隔の座標平面上に390m以上の等高線を標高5m間隔で表した。この図に加え,箸墓の中心線,穴師山山頂の夏至の日の日の出線,日没線を加えた。その結果,夏至の大平と呼ばれる地から,夏至の日に穴師山山頂を見ると,山頂からの日の出を拝むことが可能であることが分かった。

 

 

 穴師山山頂からの夏至の日の日の出線に沿って穴師山の断面図を描いたのが下の図である。これを見ると,夏至の大平が見事な水平面であることが分かる。あまりに見事な水平面なので,自然の地形というよりも人工的に造成された地形と考えたほうが良いであろう。

 穴師兵主神社の伝承によれば,その昔,穴師兵主神社の上社が夏至の大平に存在したという。穴師兵主神社の兵主神が上社の祭神であるが,この祭神は鏡をシンボルとしている。鏡は饒速日尊のシンボルであるので兵主神=饒速日尊と考えられる。

 この場合,ご神体は穴師山山頂の饒速日御陵と考えられるので,夏至の大平の上社は,拝殿のみだったのではないかと推察される。当時,夏至の日の日の出前に夏至の大平に人々が集まり,日の出の瞬間を祝って盛大に祭礼が行われたことが推察される。その祭礼の地なので,水平になるように造成されたものと考えられる。

 今回は穴師兵主神社の地をスタートとして登山したが,竹藪の直登コースは通常の登山道とは考えにくい。地図をよく見ると,景行天皇陵の近くから登山道があるようで,今回の竹藪の直登後この登山道に合流することができた。おそらく,景行天皇陵から登山すれば距離は伸びるが楽に登れるのではないかと推察する。しかし,この登山道に沿って登山すると,夏至の大平に到着する前に饒速日御陵を通過することになり,当時の登山道としては不自然である。当時は,夏至の大平への最短コースだったと思われる。今回は穴師兵主神社から最も左側の道を選んだが,右側の道を尾根筋に沿って,登ると,夏至の大平に着くことができる。おそらく,この道が当時の登山道だったのであろう。